その夜、千鶴は書斎で日記をつけた。
〈………良太さんは少し痩せられたらしいが、元気そうに見えたとのことだから心配はなさそう。良太さんは楽しそうに戦闘機のことを話されたとのこと。良太さんはどんな気持ちでがんばっておいでだろうか。
良太さんは沈丁花の造花を持ってゆかれた。とても嬉しいけれど、帽子の内側につけることができるだろうか。〉
千鶴は棚の造花に眼をやりながら、それを作ったときを思いかえした。友だちに作り方を教えてもらい、最初にバラを作った。バラがうまくできたので、沈丁花と芍薬も作ることにした。沈丁花と芍薬はよく知っているけれども、できるだけ上手に作りたいので、学校の図書室から植物図鑑を借りた。あの沈丁花は、自分でも驚くほどにうまく作れた。その一本が、いまは良太さんの帽子におさまっている。
忠之が帰ってきたらしく、戸が閉まる音が聞こえた。書斎に時計はなかったが、時刻はすでに十時に近いはずだった。
千鶴は忠之あての置き手紙を持って、暗い廊下を忠之の部屋へ向かった。窓から見えるどの家も、空襲に備えた灯火管制を守っており、明かりはひとつも見えなかった。
千鶴は忠之に手紙をわたすとすぐに書斎にもどり、ノートに日記のつづきを書いた。
〈良太さんが岡さんに書き残された手紙を、帰られたばかりの岡さんに渡した。今日も岡さんは帰りが遅かった。あんなにしてまで働いて岡さんは大丈夫だろうか。私は丈夫なほうだと思っていたのに、一日中忙しく働いているととても疲れる。今日は良太さんがこの椅子で手紙を書いてくださったのだから、今夜はいい夢を見ることができそうな気がする。良太さんにもいい夢を見てもらいたい。〉
千鶴は書斎を出ると庭を見おろした。良太が見たはずのサザンカは闇にまぎれて、白い花すらほとんど見えなかった。
ガソリンの欠乏が良太たちの訓練を滞らせて、操縦技術の修得は進まなかったが、昭和19年の12月25日に、良太たちは海軍少尉に任官された。職業軍人ではないために、海軍予備少尉と呼ばれる階級だった。少尉に任官されたとはいえ、良太たちはまだ訓練を受ける身であり、それ以降は飛行特習学生と称されることになった。
まだ小学生だった頃の良太は、大将や大佐などの高級軍人に対して敬意をおぼえ、憧れに似た感情を抱いていた。そのような感情を抱くように仕向ける社会環境のもとでは、むしろそれが当然であったが、中学校で数年を過ごすうちに、そのような感情はすっかり消えた。性格が軍人に向いているとは思えなかったし、何よりも軍人という職業に興味を抱けなかった。
そのような良太ではあったが、少尉になれたことを素直に喜べた。喜んでくれる者たちの顔がうかんだ。外出に際しては、何も惧れることなく浅井家を訪れ、千鶴に会うことができるようになった。
良太は温習時間を利用して、家族などにあてた数枚のはがきを書いた。千鶴へのはがきをしめくくる言葉は、〈できれば今すぐチーズとパイナップルを味わいたい〉となった。それを読んでいる千鶴を想像すると、思わず微笑がこぼれた。
「森山、森山少尉」向い側の席から佐山が声をかけてきた。「そのはがきの相手はメッチェンだろう。貴様の顔を見ればわかるぞ」
良太はあわてて答えた。「メッチェンといっても、いとこなんだ。心配をかけていたから、任官したことを報せようと思ってな」
「うらやましいぞ、森山、そんな相手がいるとはな」佐山が笑顔で言った。「俺にもそんないとこがほしいもんだよ」
任官についての感想を記そうと思い、良太はノートをとりだした。
最初に開いたノートは土浦で買ったものであり、良太が戦死するような事態となれば、家族に遺すことになる日記であった。
良太は思うところを記しおえると、布袋から別のノートをとりだした。舞鶴海兵団に入ってから使い続けている日記帳であり、表紙裏には千鶴が記してくれた言葉があった。任官されての所感はそのノートにも記したかった。
B29による空襲は続いた。浅井家の様子が気がかりではあったが、良太にはどうすることもできず、ただその安全を祈ることしかできなかった。
〈………良太さんは少し痩せられたらしいが、元気そうに見えたとのことだから心配はなさそう。良太さんは楽しそうに戦闘機のことを話されたとのこと。良太さんはどんな気持ちでがんばっておいでだろうか。
良太さんは沈丁花の造花を持ってゆかれた。とても嬉しいけれど、帽子の内側につけることができるだろうか。〉
千鶴は棚の造花に眼をやりながら、それを作ったときを思いかえした。友だちに作り方を教えてもらい、最初にバラを作った。バラがうまくできたので、沈丁花と芍薬も作ることにした。沈丁花と芍薬はよく知っているけれども、できるだけ上手に作りたいので、学校の図書室から植物図鑑を借りた。あの沈丁花は、自分でも驚くほどにうまく作れた。その一本が、いまは良太さんの帽子におさまっている。
忠之が帰ってきたらしく、戸が閉まる音が聞こえた。書斎に時計はなかったが、時刻はすでに十時に近いはずだった。
千鶴は忠之あての置き手紙を持って、暗い廊下を忠之の部屋へ向かった。窓から見えるどの家も、空襲に備えた灯火管制を守っており、明かりはひとつも見えなかった。
千鶴は忠之に手紙をわたすとすぐに書斎にもどり、ノートに日記のつづきを書いた。
〈良太さんが岡さんに書き残された手紙を、帰られたばかりの岡さんに渡した。今日も岡さんは帰りが遅かった。あんなにしてまで働いて岡さんは大丈夫だろうか。私は丈夫なほうだと思っていたのに、一日中忙しく働いているととても疲れる。今日は良太さんがこの椅子で手紙を書いてくださったのだから、今夜はいい夢を見ることができそうな気がする。良太さんにもいい夢を見てもらいたい。〉
千鶴は書斎を出ると庭を見おろした。良太が見たはずのサザンカは闇にまぎれて、白い花すらほとんど見えなかった。
ガソリンの欠乏が良太たちの訓練を滞らせて、操縦技術の修得は進まなかったが、昭和19年の12月25日に、良太たちは海軍少尉に任官された。職業軍人ではないために、海軍予備少尉と呼ばれる階級だった。少尉に任官されたとはいえ、良太たちはまだ訓練を受ける身であり、それ以降は飛行特習学生と称されることになった。
まだ小学生だった頃の良太は、大将や大佐などの高級軍人に対して敬意をおぼえ、憧れに似た感情を抱いていた。そのような感情を抱くように仕向ける社会環境のもとでは、むしろそれが当然であったが、中学校で数年を過ごすうちに、そのような感情はすっかり消えた。性格が軍人に向いているとは思えなかったし、何よりも軍人という職業に興味を抱けなかった。
そのような良太ではあったが、少尉になれたことを素直に喜べた。喜んでくれる者たちの顔がうかんだ。外出に際しては、何も惧れることなく浅井家を訪れ、千鶴に会うことができるようになった。
良太は温習時間を利用して、家族などにあてた数枚のはがきを書いた。千鶴へのはがきをしめくくる言葉は、〈できれば今すぐチーズとパイナップルを味わいたい〉となった。それを読んでいる千鶴を想像すると、思わず微笑がこぼれた。
「森山、森山少尉」向い側の席から佐山が声をかけてきた。「そのはがきの相手はメッチェンだろう。貴様の顔を見ればわかるぞ」
良太はあわてて答えた。「メッチェンといっても、いとこなんだ。心配をかけていたから、任官したことを報せようと思ってな」
「うらやましいぞ、森山、そんな相手がいるとはな」佐山が笑顔で言った。「俺にもそんないとこがほしいもんだよ」
任官についての感想を記そうと思い、良太はノートをとりだした。
最初に開いたノートは土浦で買ったものであり、良太が戦死するような事態となれば、家族に遺すことになる日記であった。
良太は思うところを記しおえると、布袋から別のノートをとりだした。舞鶴海兵団に入ってから使い続けている日記帳であり、表紙裏には千鶴が記してくれた言葉があった。任官されての所感はそのノートにも記したかった。
B29による空襲は続いた。浅井家の様子が気がかりではあったが、良太にはどうすることもできず、ただその安全を祈ることしかできなかった。