くわえていた指をはなして千鶴が言った。「それなら私は神様にお願いするわ。どんなことがあっても、良太さんを無事に私のところへ還してくださいって」
「大丈夫だよ、おれは運がいいから」
「約束して」
「約束する。還ってこなければ、他の約束もはたせなくなるからな」
「必ず生きて還ること。私と幸せに暮らすこと。良太さんの故郷を見せてくれること。いっしょに出雲の星空を見ること。ほんとね、いっぱい約束してくれたわね、良太さん」
「出雲の星空か……」
「良太さんと眺めること、楽しみにしてるの」
 千鶴が机の引き出しをあけ、ノートを出してせわしなくめくった。
「この日は映画の姿三四郎を見た日よ。帰り道で話したこと、覚えてるでしょ」
「もちろん覚えてるよ」
 ノートをめくった千鶴が、日付をさして笑顔をむけた。
「この日のこと、覚えてます?」
 良太は千鶴に軽くキスをしてから言った。「覚えているよ、もちろん。はじめてパイナップルを食った日だ」
 千鶴が含み笑いした。
「そうよ、そのこと、ここに書いてあります。今日はじめて良太さんと……」
「そのあとに書いてあるんだろ、出雲の星を見る約束をしたこと」
「やっぱり良太さん、よく覚えてるじゃない」
「なんと言ったって、初めてパイナップルを食った日だからな」と良太は言った。「あのことも書いたんだろ、この間のパイナップルのこと」
 千鶴がにこやかな笑顔を見せた。
 良太は千鶴の顔をのぞき込むようにして言った。「なあ、千鶴」
「なあに、良太さん」千鶴が甘えた声で応じた。
 良太は千鶴を抱きよせた。
「これからはパイナップルだよ、これは」
 良太は千鶴に顔を近づけた。良太はすぐに唇をはなすつもりだったが、千鶴がそれを許さなかった。
 書斎でのひとときが過ぎ、良太が自分の部屋に引きあげてから、千鶴は日記をつけるためにノートをひらいた。
 千鶴は日付を記しただけでペンをおき、何から書きはじめようかと考えた。まず書くべきは、千鶴の故郷を見て廻る計画のことだったが、良太の提案も面白いと思った。これからは、口付のことをパイナップルと呼ぶことになった。良太さんと書斎に入れば口付をしないではいられない。それがすっかり習慣になったが、鎌倉を訪れた日の夜の、あの口付は特別だった。
 千鶴は鎌倉を訪ねた日の日記を開いた。そのページを開いただけで、その夜のことが思いだされた。口付をしているうちに、甘美な感覚が全身に拡がるように感じられ、むしろ不安をおぼえて思わず唇をはなした。気がつくと、私を抱いている良太さんの手が、シャツの内側で私にふれていた。恥ずかしいとは思わなかったし、不安もまったく感じなかった。良太さんを見ているだけで安心できた。
 静かな夜だった。良太と忠之いずれの部屋からも、物音は聞こえなかった。千鶴はペンをにぎった。
 千鶴は日記を書きおえて書斎をでると、音をたてないようにドアを閉め、把手に手をかけたまま耳をすました。すぐ目の前が良太の部屋だった。中からは何も聞こえなかった。千鶴は静かな足取りで階段に向かった。
 階段を降りたところで千鶴の足がとまった。あと戻りして良太さんの部屋に入ってみたい。もしもそんなことをしたなら、どんなことになるのだろうか。
 そのとき部屋の戸があく音がして、忠之の声が聞こえた。「おい良太、ちょっと話したいことがあるけど、いいかな」
 忠之の呼びかけに応える良太の声が聞こえた。千鶴は思った、私にしかできないことがあるように、岡さんが良太さんのためにしてあげられることがある。岡さんがいてくださってほんとうに良かった。
 木曜日の午後、大学から帰ってみると、忠之の父親から手紙がきていた。自分の部屋に入るとすぐに良太は手紙をあけた。
〈………徴兵検査の結果を知らせに来てくれたとき、君は私への恩返しをしないままに出征する不安を口にした。私はそのようなことを気にする必要は全くない旨伝えたはずだが、忠之からの手紙で君がその不安を抱き続けていることを知り、この手紙を送ることにした次第。
 君にそのような不安を抱かせていたことを、私はまずはじめに謝らねばならない。君はすでに私に対して充分に恩返しをしてくれているのだから。
 私は村の小学校に転任して君の学級の担任になった。私の見るところ、君には純真なところと共に内向的なところがあった。内向的なる言葉には内向きで非発展的な響きがあるが、私はそうは思わない。そのような人は自らを返り見つつ、自らの生きる道を切り開いてゆく力を備えていると思う。その頃の君には目立つところはなかったのだが、学業成績は良いほうだった。忠之はといえば学科によって成績に極端な差があった。そこで私は君に助力を乞うことにした。そのために私がいかなる手立を講じたのか、賢明な君にはこれ以上の説明を要しないはず。私は忠之のために君を利用したわけだが、忠之のためだけでなく、君のことをも充分に考えていたことをもって御容赦願いたい。
 君の御両親も私たち夫婦も見合い結婚であったが、申し分のない家庭を築くことができている。それと同じように私がいくらか手助けをしたとはいえ、それまで互いに遊ぶことも少なかった君と忠之が、期待した通りに親密になってくれ、君は忠之にとって貴重な存在になってくれた。君には忠之と共に中学へ進んでもらいたいと考え、御両親に学資の援助を申し出た。そのようにして、結局のところ君には忠之と共に大学まで進んでもらうことになり、十年前に私が願った以上の結果がもたらされた。私は君に感謝しなければならない立場にあるわけだが、このことを君と忠之には報せず、君には私にたいする恩義を強く意識させ続けたことになる。出征を前にした君への配慮が至らなかったこと、どうか許してもらいたい。
 君には私に対してさらなる恩返をすべき義務はない、ということを伝えるための手紙だが、このことは忠之にも報せたほうが良いという気がするので、君さえかまわなければ、この手紙を忠之にも見せてやってはくれまいか。その判断は君にまかせます。
 君には親しくしている娘さんがいるらしい。忠之が婚約するよう勧めたところ、今の状況で出征すれば生還を期し難いゆえ、自分には婚約する資格がないと答えたとのこと。私は君にはその人と婚約する充分なる資格があると考えるが、相手の人の将来に対して責任を全うできなくなる虞れがあることも確かだ。君自身が虞れるのもその点にあると思いつつ、私の考えを記させてもらう。………〉
 読み終えた最後の便箋を手にしたまま、良太は想いの底に沈んでいった。恩師に対する深い感謝の念に加えて、大きな安堵感があった。恩師が良太を利用していたにしろ、良太は迷惑を受けなかったし、受けた厚意がむしろ勝っていた。その手紙を読んで、報恩をさらに強く願う気持になったけれども、それを負担に思う気持は重くなかった。その負担を苦にすることは、恩師の恩情にそむくことでもあった。返事を兼ねた礼状をすぐに書こうと思った。
 良太は部屋をでて廊下の窓から庭を見おろした。まだ小さな麦の芽が幾つもの列をなしている。庭のはずれのサザンカが花をつけている。晩秋の夕日を浴びて、サザンカの花が自ら光を放っているように見える。赤いサザンカは赤い光を放ち、白いサザンカは白く輝いて、寂しくなった庭を飾っている。
 良太はサザンカを眺めながら思った。忠之は父親への手紙に、どういうつもりで千鶴のことを書いたのだろうか。いずれにしても、そのために先生からは貴重な言葉をもらうことになった。たしかに、俺には千鶴と婚約する資格がある。千鶴の将来に責任を負えないことを意識しつつ、残り少ない日々を千鶴のために過ごさねばならない。
 出征を直前にしながら勉学に励んできたのは、岡先生への義理立のためだけでなく、俺自身のためにもそれが必要だったからだ。死に直面する事態に備えて、人生の何たるかを理解しておきたいし、海軍に身を置くための心構えも確立したい。そのために多くの書物に眼を通したが、満足すべき結果を得るには至らなかった。
 東京で過ごせる日数も少なくなったからには、これ以上の読書を重ねるよりも、日常を充実したものとすべく努めたほうが良さそうだ。今日は大学に休学届けを出したが、もっと早くに出しておけば良かったという気がする。
 陽射しのなかに千鶴があらわれた。千鶴は畑のわきを通ってサザンカに近づき、ぽつねんとたたずんで花を見ている。どの花を選んだらよいのか迷っているみたいだ。夕日をあびた千鶴のうしろ姿が孤独に見える。俺がここを去ってから、千鶴はどのような日々を過ごすだろうか。もしも俺が戦死するようなことになったら、千鶴はどうなるだろう。俺は絶対に生きて還らなければならない。千鶴を悲しませるようなことをしてはならない。
 千鶴はサザンカをはなれて、菊の花に近づいてゆく。花瓶には菊を活けることにしたようだ。
 千鶴が菊をえらび終えるのを見とどけてから、良太は自分の部屋に入った。恩師への返書をすぐにも書きたかった。
忠之が外出先から帰ったらしく、隣の部屋の戸が閉まる音が聞こえた。良太は恩師からの手紙を持って忠之の部屋に向かった。
 忠之は受けとった手紙を机におくと、「県人会の者たちと、お前らの壮行会をやることになったんだ。せっかくだから出席しろよ。いい思い出になると思うぞ」と言った。
 良太は県人会にはめったに顔を出さなかったから、壮行会への出席はためらわれた。
「いつなんだ、その壮行会は」
「火曜日の夜だ、来週の。お前みたいに先月の壮行会に出られなかった者がいるから、もう一度やることになったんだ」
「そういうことなら、できたら出席することにするよ」と良太は言った。
 良太が自分の部屋に帰り、恩師への返事を書いていると、忠之が手紙を返しにきた。
「読んだぞ、この手紙」と忠之が言った。「気に障るところがあるかも知れないが、許してやろうぜ。俺にはいい親父だし、お前にはいい教師のはずだから」
「俺にとっては最高の先生だし、お前には最高の親父さんだよ、岡先生は」
「そうか………親父に返事を出してやってくれないか」
「ああ、お前の分も書いとくぞ」と良太は言った。
 その夜、千鶴は書斎の机でアルバムを見ていた。良太のための椅子はすでに横に並べてあった。
 入ってきた良太が椅子に腰をおろすと、千鶴は良太の前にアルバムを押しやった。
「私の大事な写真。千恵も持ってるのよ、同じようにして」
「子供の頃の千鶴に会えそうだな」
「見たいでしょう、私の子供の頃の写真」
 千鶴は腕をのばしてアルバムをめくった。
「これは七五三のとき。私も子供の頃にはかわいかったでしょ」
「その頃ここに下宿していれば、こんな千鶴に会えたのにな」
「そうよ、もっと早く来てくれたらよかったのに」
 その写真の並びには、千鶴が両親とともに写っている写真があった。
「眼鏡をかけてたんだな、千鶴のお父さんは」
「お母さんに言わせるとね、本を読み過ぎたからだって。この本棚の本をみんな読んだんだから仕方ないわよね」
「忠之が近眼になったのはなぜだか分かるか」
「どうしてかしら」
「俺よりも一冊だけ多く読んだからだよ」
 千鶴は声を抑えて笑い、「それなら、私はあと何冊ほど読めるかしら、近眼の心配をしないで」と言った。
「千鶴の眼がいいのは神様のおかげなんだよ」
「だったら、安心して勉強してもいいわよね」
「きっと、いい薬剤師になれるよ、千鶴は」
「うれしい、良太さんにそう言われると」と千鶴は言った。
 千鶴はアルバムをめくった。
「小学校一年生のわたしよ。入学式の日に玄関でお父さんが写してくださった写真。日曜日には、私が通った小学校にも行ってみましょうね」
「そうだな、千鶴のお転婆時代の学校は見ておきたいよ」
「いやだな、もしもそんな証拠が学校に残っていたら」
「そんなにお転婆だったのか、千鶴は」
「いやだわ、良太さん、もちろん冗談よ」
 父親がカメラを買ったので、千鶴には小学生時代の写真がたくさんあった。
「これは湯島天神で写した写真。日曜日にはここにも行ってみましょうか」
 千鶴はさらに次の写真を見せて言った。「小学校の運動会。千恵は走るのが速かったけど、私はあんまり得意じゃなかったわね」
 何枚かめくったところで千鶴は一枚の写真をさした。
「これは植物園でお父さんに撮ってもらった写真。私が女学校に入学した頃よ」
「千鶴がますます可愛くなった」
「はいはい、わかりました。それではもっとかわいいのをご覧にいれましょうか」
 千鶴は別のアルバムを引き寄せて中ほどを開いた。そこには同じ写真が二枚はさんであり、まだ貼りつけてなかった。祖父が写してくれたその写真には、良太と千鶴が並んで写っている。夏休みに帰省する良太に、文庫本にはさんで渡した写真と同じものだった。千鶴はその一枚を良太に渡した。
「とうとう世界で一番かわいくなった」
「へただわね、良太さんは。もうちょっとだけ遠慮した言い方をしなくちゃ」
「いいじゃないか、俺にとってはほんとにそうなんだから」
「うれしい」千鶴は良太に体をおしつけた。
「千鶴が俺の子供の頃を知りたいと思ったみたいに、俺も千鶴の子供の頃のことを知りたくなった。楽しみにしてるよ、小学校や幼稚園の見物」
「日曜日は昼前に出かけましょうね、お弁当をもって」と千鶴は言った。
 それから間もなく良太は書斎を出ていった。千鶴は書斎に残り、終えたばかりのキスの余韻にひたりながら日記をつけた。
 千鶴は日記をつけ終えると、花瓶を引きよせて菊の花をながめた。今日はサザンカをとりに出たのに、命の盛りを謳歌しているようなあの花を見たら、切りとることができなくなった。不吉なことでも起こりそうな気がして菊に代えたが、サザンカを選んでおいたなら、良太さんにもっと喜んでもらえたような気がする。
千鶴は書斎を出ると、足音をしのばせて階段の降り口に向かった。ふたつ並んでいる部屋はいずれも、いつものように静まりかえっていた。
 良太は書斎を引き上げたあと、読みさしの書物を代用机の上で開いた。その日のうちに読み終えるつもりだったが、眼に疲れをおぼえたので、あお向けになって休むことにした。
 畳に寝そべって天井をながめていると、いきなり眼前に見たことのない風景がひろがってきた。夢を見ているわけでもないのに、どうしたことだろうと思いながら、良太は学校の校庭らしい風景に眼をこらした。校庭の外れに滑り台やぶらんこがある。ふたつで一組のぶらんこがふた組ほどならんでいる。いつのまにか、良太はぶらんこのそばに近づいていた。ぶらんこはいずれも、頑丈な木材の支柱に取りつけられている。ひと組みのぶらんこの上には桜が枝を伸ばしている。
 気がつくと、良太は畳のうえであお向けになっていた。俺は夢を見ていたのか。そんなはずはない。眠ってもいないのに夢を見ているようだと、不思議に思つつあの光景を眺めていたではないか。こんな夢があるはずはない。それにしても、あの光景はその場にいるように鮮明だった。
 良太は思った。俺はやはり夢を見ていたのだ。この夢がこれほど気にかかるのは、見た光景があまりにも鮮明で、目覚めてからもはっきりと覚えているからだろう。

 11月14日の日曜日、良太と千鶴は10時過ぎに家をでて、晩秋の穏やかな陽射しのなかを東京大学に向かった。
大学をひと通り見てから、ふたりは湯島天神に向かった。
「ねえ、良太さん」と千鶴が言った。「帝大で私がいちばん興味があったのはどこだと思います?」
「図書館、講義室、古い建物。どこだろう」
「良太さんが講義を受けた教室。教室で黒板を見ている良太さんを想像してみたの」
「そういえば、あそこで千鶴は聞いたよな、俺がどこに座って講義を受けるのかって」
「良太さんを見習って、私もなるべく前の方の席で授業を受けるわ」
「そうだよ、千鶴は立派な薬剤師になるんだからな」と良太は言った。
 湯島天神につづいて幼稚園を見たあと、ふたりは千鶴が学んだ小学校を目指した。その道すがら、千鶴が学校の思い出を語った。
ふいに良太は奇妙な想いにとらわれた。数日前の夢に現れた学校は、これから訪ねようとしている千鶴の母校にちがいない。
 良太は言った。「なあ、千鶴。ちょっと聞いてほしいんだ」
 千鶴が笑顔を向けた。「なあに、良太さん」
 良太は数日前に見た不思議な夢について語った。校舎の形や付属している建物の配置、さらには校庭の雰囲気やぶらんこのこと。夢に見たその光景が、これから訪ねようとしている、千鶴の母校のそれと似ているような気がすること。
「もしかしたら、学校を見ることにしていたからじゃない?、そんな夢を見たのは。建物の形や校庭の様子はその夢に似てるけど、ぶらんこの柱は鉄でできてるのよね、木ではなくて」
「学校なんてみんな似ているんだから、夢で見た学校が千鶴の学校に似ていても、別に不思議なことじゃないよ。夢を気にするなんて、俺もどうかしてるよな」
 そのうちに、良太の予感は確信に変わった。あの夢で見たのは千鶴の母校の校庭であって、もうすぐ目の前にあの光景が現われるのだ。良太は奇妙なその感覚を千鶴に告げずにはいられなかった。
 学校の前につき、校庭に入ったところで良太の足がとまった。全身に鳥肌がたった。
「ここだよ、千鶴……俺は夢の中でここに来たんだ。似ているんじゃなくて同じだ。ほんとだよ、千鶴」
「どうしたのかしら、良太さんは。そんなことって、あるかしら」
「あるはずがないだろ、こんなこと。はじめて訪ねる場所を前もって見るなんてこと、できるわけがない。しかも俺がそのときに居たのは2階のあの部屋だぜ」
「あの辺りまで行ってみましょうよ。もしかすると、夢とちがうところが見つかるかも知れないから」
 良太は校庭のはずれに見えるぶらんこを確かめたいと思った。ふたりは校庭を横ぎってぶらんこに近づいた。
 もはや疑うべくもなかった。ぶらんこの形と色、ぶらんこの近くにある滑り台の形とその配置、さらには近くに見える砂場まで、夢で眺めた光景と変わらなかった。ぶらんこのうえに伸び出している桜の枝も、夢で見た形でひろがっていた。
 千鶴がぶらんこの柱にふれて、「さっき良太さんが話していた通りだわ。柱が木に変わってる。場所は昔のままだけど、私が知っているぶらんこの柱は鉄だったのよ」と言った。
 夢とそっくり同じ光景を眼前にしながら、良太は驚愕と混乱のなかにいた。このようなことが真実であるわけがない。科学的にはあり得ないことだ。それでは、あの夢と完全に一致する場所に立っているこの現実を、どのように説明したらよいのだ。俺はいま、人類にはまだ未知の、不可思議な世界の入口に立たされているような気がする。
「なあ、千鶴」と良太は言った。「自分で体験したことなのに信じられないよ、こんなこと。同じ指紋を持つ人間はいないと言うけど、もしかすると、同じ指紋を持つ人間が何人も集まるという、考えられないような出来事もあり得るんじゃないかな。おれが見た夢とこの校庭が何からなにまでそっくりなのも、そんな出来事のひとつかも知れないな」
「良太さんは、ここに来る途中でわかったんでしょ、もうすぐ夢で見たのとそっくりな所に行くんだって。どうしてわかったのかしら」
「それも不思議だけど、俺には感じられたんだよ、あの夢の景色をもうすぐ見ることになるって。予感というより、絶対にそうなるんだという気がしたんだ」
「神様かしら、良太さんに教えてくれたのは」
「神様ならば、もっと意味のあるものを見せてくれそうな気がするけどな」
 良太には全身に鳥肌が立つほどのできごとであったが、そのことに拘って時間を費やすわけにはいかなかった。良太と千鶴はぶらんこの傍をはなれて校舎へと向かった。校舎や講堂の周囲を歩きながら、千鶴は良太にその学校での思い出を語った。
 見学を終えてふたたび校庭にもどると、前方に先ほどのぶらんこが見えた。
「あのぶらんこでけがをしたのよ、2年生のとき。すりむいたところから血がいっぱい出たので、泣きながら家に帰ったわ。そんなことでも、なんだか懐かしいわね」
「千鶴が2年生のときには俺は5年生だったんだ。たった10年ほど前のことなのに、俺にも小学校のことが懐かしく感じられるよ」
「いつか話し合ったわね、子供の頃には時間が長く感じられたこと。小学校の頃がなんだか昔のことみたい」
「この学校、千鶴が通った頃と変わっていないだろ。建物や花壇や遊び道具など」
「ぶらんこの柱が木になったのと、名前が国民学校になったことね、変わったのは」
「大事な日用品の鉄やアルミまで、軍艦や飛行機のために供出させられるんだから、ぶらんこの柱なんかは真っ先に木に変えられたんだろうな」と良太は言った。
 ぶらんこの近くにベンチがあった。ふたりはそこで昼食をとることにした。
 ふたりは良太が見た不思議な夢を話題にしながら、千鶴が作った握り飯を昼食にした。
「夢で見た景色はこことそっくり同じだから、あれが普通の夢だったとは思えないし、心が体を抜け出してここに来たと仮定しても、見たのは昼間の景色だったから、これも否定するしかないわけだよ。そもそも、心が抜け出すことなどあり得ないしな」
「もしかしたら、予言者って、良太さんみたいにして未来のことを知るのかしら」
「今はわけがわからなくても、科学で説明できる日がくるかも知れないよ、何百年も何千年も先になるかも知れないけどな」と良太は言った。
 つぎに訪ねるのは小石川植物園だった。つれだって歩きながら、千鶴は女学校での思い出を語った。良太に聞いてもらえることが嬉しくて、千鶴は夢中になって語り続けた。
 好天に恵まれた日曜日だったが、戦時の植物園にはわずかな人影しかなかった。
 園内をめぐりながら千鶴は語り続けた。少女時代のできごと。家族との思い出の数々。千鶴は思い出話を夢中で語り、良太はひたすらに聞き役をつとめた。
 植物園の出口に向かう頃になってようやく、千鶴はしゃべり過ぎたような気がした。
「ごめんなさいね。なんだか私、随分おしゃべりになったみたい」
「それでいいんだよ。今日は俺が千鶴のことを知るための日じゃないか。千鶴のこと、もっと知りたいくらいだよ」と良太が言った。
 浅井家を出てからの数時間を、ふたりはほとんど歩きづめだった。千鶴の故郷をめぐる小さな旅を終えることにして、ふたりは植物園をあとにした。
 その一日を良太に満足してもらえたことが嬉しく、千鶴は帰り道でも饒舌だった。話しながら千鶴は良太に笑顔をむけた。良太の笑顔が千鶴をさらに喜ばせた。

付記
 良太が体験した予知夢は、作者自身の2度にわたる予知夢体験を参考にしたものです。予知夢を体験した者にとっては真実であろうと、未体験者には絵空事と思えることでしょう。時間の概念が覆るできごとであり、いかに科学が発展しても、その解明は難しそうに思えます。
 科学で説明できないことを体験した科学者たちが、その体験を書物に著しており(電子工学に関わる人が多い。例:坂本政道、天外伺朗(本名土井利忠)、森田健、 矢作直樹)、図書館の多くで蔵書になっております。
 その日曜日、東京駅で知人を見送ってきた忠之が、浅井家に帰りつくなり良太の部屋にやってきた。
「話には聞いていたけど、東京駅の辺りはすごいことになってるぞ。あちこちで出陣する仲間を励ましているんだが、校歌や軍歌で励ますだけじゃなくて、最期には胴上をするんだ。出雲へ発つときにはお前もやってもらえよ、いい思い出になるから」
「俺はいやだな、そういうのは。お前と千鶴に見送ってもらうだけで充分だよ」
「そうか、お前がそう思うなら、その方がいいだろう。いい思い出になると思うんだけどな」と忠之が言った。「ところで、県人会での壮行会はどうする。せっかくだから、出席してみたらどうだ」
「この家でもう一度壮行会をやってくれるというんだよ、次の土曜日に。俺にはそれで充分だけど、せっかくだから出席させてもらおうかな、県人会のほうにも。県人会にはほとんど出席しなかったけどな」と良太は言った。
 その夜、良太が書斎に入って腰をおろすと、千鶴が二冊の書物をさしだした。島崎藤村の詩集と与謝野晶子の歌集だった。
「この詩集を良太さんにあげようと思って」
「藤村の詩集か」良太は詩集を手にして言った。「ありがたくもらって行くよ。海軍でも本は読めるらしいから」
「良太さんの誕生日のページを開いてみて。4月7日だから47ページよ」
 47ページを開くと、余白にはインクで文字が記されていた。
〈良太さんお誕生日おめでとうございます。書斎の机の上に花を飾ってお祝いをしています。飾ってあるお花は沈丁花です。良太さんが与謝野晶子歌集の47ページに書いてくださった言葉を読んでいます。良太さんの口付が思い出されます。良太さんどうか元気でがんばってください。千鶴は良太さんのお帰りを待っております。〉
 良太は千鶴に腕をまわした。
「いいことを考えてくれたな。来年の誕生日に俺はどこに居るかわからないけど、千鶴とこの部屋に居るつもりになってこれを読むことにするよ」
「良太さんの誕生日に飾るお花、沈丁花でいいかしら。4月の初めに咲いてる花で庭にあるのは沈丁花と雪柳だけど」
「沈丁花がいいな。俺は好きだよ、沈丁花の匂い」と良太は言った。
「よかったわ、気に入ってもらえて」と千鶴が言った。「つぎは私の誕生日の62ページよ」
「千鶴の誕生日は6月2日だったな」
 62ページの余白にも文字が記されていた。
〈今日は千鶴の誕生日です。私は良太さんが与謝野晶子の歌集に書いてくださった言葉を読んでいます。机の上には芍薬があります。良太さんは見えないけれど、良太さんは私の肩に腕をまわしています。良太さんと誕生日の口付をします。良太さんに誕生日を祝っていただいて私は本当に幸せです〉
「千鶴の誕生日には必ずこれを読むからな、千鶴がこの部屋に居ると想いながら」と良太は言った。
 千鶴が与謝野晶子の歌集を取りあげて、その47ページを開いた。
「ここに何か書いてちょうだい。良太さんの誕生日には、私はこの椅子に腰かけて、良太さんが書いてくださった言葉を読むの」
「想像しただけでも嬉しいよ、そんなふうにして千鶴が誕生日を祝ってくれると思うと」
 良太はしばらく考えてから、千鶴のペンを使って言葉を記入した。
〈今日は良太の誕生日。この書斎で千鶴に誕生日を祝ってもらえてとても嬉しい。いつもの花瓶に沈丁花があり、いつものように隣の椅子には千鶴が居る。いつものように千鶴と口付を交わした。抱き合っていると千鶴の匂いがする。千鶴よ誕生日を祝ってくれてありがとう〉
 千鶴が良太の横から文字を読み、「私って、そんなに匂いがあるのかしら」と言った。
 良太は千鶴の首すじに顔をよせ、「おれは千鶴の匂いが好きなんだ。かすかな匂いだけど」と言った。
 良太は歌集の62ページを開き、千鶴の誕生日を祝う言葉を書きいれた。
〈誕生日おめでとう。千鶴の誕生日を祝うことができて本当に嬉しい。机の上の芍薬がとてもきれいだ。今日は千鶴の誕生日だから特別の口付をしよう。これまでに交わしたどんな口付よりもすばらしい口付を。良太はいつも千鶴の幸を祈っている。〉
 千鶴はその言葉を声にして読み、「私たちの誕生日のための宝物だわ、この歌集」と言った。
「千鶴のおかげで俺にも宝物の詩集ができたけど」良太は千鶴を抱きよせた。「一番大事な宝物は千鶴だよ」
 良太は千鶴を膝に乗せ、その穏やかな笑顔に顔を近づけた。
 県人会による壮行会は、神田の小さな料理屋でおこなわれた。
 送られる側は良太の他にひとりだけであり、送る側の6人は、満二十歳以下の学生と忠之のような理科系の学生だった。良太は県人会に1回しか出席していなかったので、忠之のほかに憶えている学生はふたりだけだった。
 幹事役の学生が自慢げに予告していただけあって、料理はかなりぜいたくであり、酒も多かった。
 良太はいつになく深く酔い、仲間たちと共に放歌高吟し、酔いにまかせて出陣の抱負を声高に語った。ときおり忠之が声をかけた。「良太、飲みすぎるなよ」
 宴会がおわる頃になって忠之が言った。「あのな良太、俺はあいつ等の寮へ寄ってから帰ることにした。奥さんか千鶴さんに伝えてくれ、帰りが遅くなるって」
 2時間ほどの壮行会で良太はすっかり酔ったけれども、浅井家まで歩いて帰ることはできそうだった。
 壮行会が終わったあと、良太はひとりで浅井家へ向かった。途中の坂道をのぼっていると、酔った頭にさまざまな想いが去来した。この1年の間に、この道をどれだけ往復したことだろう。千鶴に会いたくなれば、雨の日であろうと浅井家に向かったものだが、今ではあの2階でくらし、いつでも千鶴と会い、語り合うことができる。学生生活の最期を、幸運なことにあの家でくらすことになった。
 良太は浅井家に帰りつくと、玄関に出てきた千鶴に、忠之の帰着が遅くなることを伝えた。2階への階段をのぼりかけると、千鶴の声が追いかけてきた。
「良太さん、だいぶ酔ってるみたいだけど、今夜も書斎で話します?」
「こんなに飲んだのは久しぶりだけど、大丈夫だよ」と良太は言った。「あとで書斎にきてくれないか」
 良太はすぐにふとんを敷いたが、まだ寝るわけにはいかなかった。酔っていようと、書斎での千鶴とのひと時を欠かしたくなかった。
 良太が書斎へ向かおうとしたところへ、千鶴が千人針の布を持ってきた。
「これが良太さんの千人針。私があと一針縫うだけでできあがるの」と千鶴が言った。
 良太は縫い付けられた赤い糸をなでながら、「俺を千鶴のところへ無事につれ戻してくれる千人針だな」と言った。
「もちろんよ。こんなふうにして」と言って千鶴は未完成の千人針を良太の体に巻きつけた。「この千人針が良太さんを守ってくれるのよ」
「そうやって巻きつけたままで縫ってくれないか、千鶴が縫ってくれる最後のひと針」
 千鶴が良太を見つめ、こくんとうなづいた。
「そうよね、私もそんなふうにして縫いたい」
 良太は布を腰に巻いてふとんに横たわり、頬杖をついて千鶴をながめた。千鶴は膝のうえにかがみこむようにして、針に赤い糸を通そうとしている。千鶴がはいているスカートは、いつもの地味なものから花柄模様に変わっている。灯火管制用の遮光幕でかこわれた電灯の光が、スポットライトのように花柄を照らしている。千鶴が糸を通しおえて身をずらすと、光のなかに膝頭が見えた。
 千鶴は良太におおいかぶさるようにして、白い布に赤い糸を縫いつけた。
 針やハサミを裁縫箱におさめた千鶴が、「できたわよ、良太さんの千人針」と言いながら、千人針の布のうえから良太をなでた。
「ありがとうな千鶴。この千人針があれば、俺の無事生還はまちがいなしだ」
「神様に祈りながら縫ったのよ、どうか良太さんをお守りくださいって。かならず元気でかえってきてね」
 千鶴のふるえる声にひかれて身をおこすと、いきなり千鶴が抱きついてきた。良太は千鶴にキスをした。千鶴がいとおしかった。良太は千鶴の舌をもとめた。千鶴がこたえる。千鶴の舌がからみついてくる。千鶴がしがみついている。俺の千鶴。いとおしい千鶴。
 千鶴にしっかり抱きしめられとき、いきなり良太を衝動がおそった。その力にけしかけられるまま、良太は千鶴のスカートに手をかけた。
 耳元で声がした。「こわい、良太さん。こわい」
 良太は我に返った。千鶴がぼうぜんとした眼をむけている。良太はあわてて千鶴の体から手をひいた。
 良太は言葉を失ったまま、千鶴の頭を両手でつつんだ。
「ごめんな、千鶴」と良太は言った。「ごめんな、驚かせて」
「びっくりしただけなの」と千鶴が言った。「私はいいから」
 千鶴の穏やかな声にほっとしながら、良太は千鶴の頭をなでた。
「私はいいの」と千鶴が低い声で言った。
 良太は酔った頭で考えた。いまの言葉はどういう意味だろう。
 千鶴の声が聞こえた。「さっきはごめんなさい。ほんとに、私はあのままでいいの」
 その言葉が意味するものを、良太はようやくにして理解した。
 良太は千鶴をしっかり抱きしめた。
「友達が学徒出陣するひとと結婚したんだもの、私たちだって結婚できると思うけど」
「できなくはないけど」と良太は答えた。「戦争が終わってからのほうがいいよ。楽しみにとっておこうよな、千鶴」
 千鶴は無言のまま、良太の頭を両手で包むようにした。
 千鶴に髪を撫でられながら、良太は千鶴の胸に顔をうずめた。深く酔っているためなのか、求めても千鶴の匂いはわからなかった。

 筆無精のために欠礼しがちだったことを反省しつつ、良太は親戚や友人たちに手紙を書いた。そんな良太のために千鶴がお茶や菓子をはこんだ。千鶴は少しでも長く良太のそばで過ごせるようにと、木曜日から学校と勤労動員を休んでいた。
 ふたりは良太の部屋で語り合い、そしてキスを交わした。そのたびにあの妄想の世界へと引きこまれそうになりながらも、良太はどうにか踏み留まっていた。良太は自らに言って聞かせた。千鶴の将来に責任を負うことができない以上、たとえ千鶴がそれを望んでいても、俺は耐えなければならない。
 土曜日の夜、浅井家は良太のために二度目の壮行会をおこなった。その壮行会には沢田もよばれ、良太とともに宴についた。沢田も海軍への入団が決まっており、12月9日に横須賀の海兵団に入ることになっていた。
 なごやかな壮行会が終わると、良太が浅井家で過ごす最期の夜も、すでに9時に近かった。残された貴重な時間を、良太と千鶴は書斎で語り合うことにしていた。
 良太は書斎に移ることにして、千鶴の家族に感謝の言葉をつたえた。
千鶴の母親が言った。「森山さんのおかげで、この1年の間に千鶴はずいぶん変わったわ。ほんとに、ありがとうございました」
「僕のほうこそ、千鶴さんと出会えたことに感謝していますよ」
「そんなふうに言っていただけて、ほんとに嬉しいわね、千鶴。森山さんと話したいことがあるんでしょ。早く書斎に行きなさい」と母親が言った。
 ふたりは書斎に入り、いつものように並んで腰かけた。花瓶の花はサザンカだった。
「この書斎のなかでも輝いているみたいだな、このサザンカ」
「お願いしたんだもの、サザンカに」
「お願いって、何を」
「ずっとお日さまを浴びて咲いていたから、今日からは書斎でもきれいに咲いてちょうだいねって。この前はつれてこれなかったけど、今日はサザンカがここに来たがってるみたいに見えたの」
「4月7日には沈丁花、6月2日には芍薬があるんだよな、この花瓶には」
「4月7日と6月2日には、私がここで与謝野晶子の歌集を開いて、どこかで良太さんは藤村の詩集を開くのよ。夜なんでしょ、良太さんが本を読むのは」
「消灯前に自由な時間があるらしいけど、読めるのは8時か9時頃じゃないかな」
「だったら、私は8時から9時頃までこの椅子で読むことにするわね、誕生日には」
「それじゃ千鶴がかわいそうだよ。俺たちの誕生日ごとに歌集を1時間も読むなんて」
「良太さんに書いてもらった文字を読んだり、写真を見たりしていれば、1時間くらい平気よ。この部屋には良太さんとの思い出がいっぱいあるんだもの」と千鶴が言った。
良太は気にかかっていたことを口にした。「そういえば、さっきお母さんが言ったな、千鶴は1年前とはずいぶん変わったって」
「私って自分に自信がなかったのよね。容姿にだって自信がないし、それに………」
 良太は千鶴が続けるのを待った。
「私には小学校時代にあだ名があったの」
「いいあだ名だろ、千鶴のあだ名だから」
「南洋」と千鶴が言った。「色が黒かったから南洋人というわけ。いまだって黒いほうだけど、小学校の頃はすごく日に焼けてたの。いつも外で遊んでいたから」
「そうか、それで、千鶴はそのあだ名がいやだったんだ」
「いやに決まってるわよ。仲良しの友達でさえも私の気持に気づいてくれなかったわ」
「小学校を卒業したら消えたんだろ、そんなあだ名は」
「それなのに、女学生になっても自信を持てなかったのよね、私は」
「今の千鶴は、そんなふうには見えないけどな」
「どうかしら、よくわからないけど。もしかしたら、良太さんのおかげで、少しは自信を持てるようになったのかな」
「千鶴は俺の宝物だよ。これからは、千鶴のそばに居ないけど、俺がそう思ってるんだから、自信を持ってほしいな」
「ありがとう、良太さん。そんなふうに言われると、ほんとに自信を持てそうな気がするわ。遠く離れていても良太さんが居てくださるだけで、安心していることもできるし」
 気がつくと、時刻はすでに10時半を過ぎていたが、少し離れた忠之の部屋でも会話が続いているらしく、ときおり沢田の笑い声が聞こえた。
「良太さんの千人針だけど、お渡しするのは明日の朝でいいでしょ。今夜も抱いて寝たいから」と千鶴が言った。
「抱いて寝るって、千人針をか?」
「そうなの。抱いて寝るのよ、しっかり良太さんを守ってくださいって祈りながら。だってね」千鶴が声をおさえた。「良太さんは、私の匂いが好きなんでしょ」
「ありがとう、いいことを考えてくれたな」良太は千鶴を抱きよせた。「俺は好きだよ、この匂いが」
 良太は千鶴の首すじに唇をはわせた。良太は千鶴の匂いをむさぼりながら、首すじから顎へと唇を移した。良太は千鶴をしっかり抱いてその唇をもとめた。
 ようやくにして良太は唇をはなした。千鶴は口を半ばひらいたまま、薄く眼をあけて良太の顔を見ていた。焦点の合わないその瞳が、左右にゆっくり動いていた。気がつくと、いつものように千鶴は膝のうえだった。千鶴がいとおしかった。そのままいつまでも千鶴を抱いていたかった。