それから間もなく良太は書斎を出ていった。千鶴は書斎に残り、終えたばかりのキスの余韻にひたりながら日記をつけた。
 千鶴は日記をつけ終えると、花瓶を引きよせて菊の花をながめた。今日はサザンカをとりに出たのに、命の盛りを謳歌しているようなあの花を見たら、切りとることができなくなった。不吉なことでも起こりそうな気がして菊に代えたが、サザンカを選んでおいたなら、良太さんにもっと喜んでもらえたような気がする。
千鶴は書斎を出ると、足音をしのばせて階段の降り口に向かった。ふたつ並んでいる部屋はいずれも、いつものように静まりかえっていた。
 良太は書斎を引き上げたあと、読みさしの書物を代用机の上で開いた。その日のうちに読み終えるつもりだったが、眼に疲れをおぼえたので、あお向けになって休むことにした。
 畳に寝そべって天井をながめていると、いきなり眼前に見たことのない風景がひろがってきた。夢を見ているわけでもないのに、どうしたことだろうと思いながら、良太は学校の校庭らしい風景に眼をこらした。校庭の外れに滑り台やぶらんこがある。ふたつで一組のぶらんこがふた組ほどならんでいる。いつのまにか、良太はぶらんこのそばに近づいていた。ぶらんこはいずれも、頑丈な木材の支柱に取りつけられている。ひと組みのぶらんこの上には桜が枝を伸ばしている。
 気がつくと、良太は畳のうえであお向けになっていた。俺は夢を見ていたのか。そんなはずはない。眠ってもいないのに夢を見ているようだと、不思議に思つつあの光景を眺めていたではないか。こんな夢があるはずはない。それにしても、あの光景はその場にいるように鮮明だった。
 良太は思った。俺はやはり夢を見ていたのだ。この夢がこれほど気にかかるのは、見た光景があまりにも鮮明で、目覚めてからもはっきりと覚えているからだろう。

 11月14日の日曜日、良太と千鶴は10時過ぎに家をでて、晩秋の穏やかな陽射しのなかを東京大学に向かった。
大学をひと通り見てから、ふたりは湯島天神に向かった。
「ねえ、良太さん」と千鶴が言った。「帝大で私がいちばん興味があったのはどこだと思います?」
「図書館、講義室、古い建物。どこだろう」
「良太さんが講義を受けた教室。教室で黒板を見ている良太さんを想像してみたの」
「そういえば、あそこで千鶴は聞いたよな、俺がどこに座って講義を受けるのかって」
「良太さんを見習って、私もなるべく前の方の席で授業を受けるわ」
「そうだよ、千鶴は立派な薬剤師になるんだからな」と良太は言った。
 湯島天神につづいて幼稚園を見たあと、ふたりは千鶴が学んだ小学校を目指した。その道すがら、千鶴が学校の思い出を語った。
ふいに良太は奇妙な想いにとらわれた。数日前の夢に現れた学校は、これから訪ねようとしている千鶴の母校にちがいない。
 良太は言った。「なあ、千鶴。ちょっと聞いてほしいんだ」
 千鶴が笑顔を向けた。「なあに、良太さん」
 良太は数日前に見た不思議な夢について語った。校舎の形や付属している建物の配置、さらには校庭の雰囲気やぶらんこのこと。夢に見たその光景が、これから訪ねようとしている、千鶴の母校のそれと似ているような気がすること。
「もしかしたら、学校を見ることにしていたからじゃない?、そんな夢を見たのは。建物の形や校庭の様子はその夢に似てるけど、ぶらんこの柱は鉄でできてるのよね、木ではなくて」
「学校なんてみんな似ているんだから、夢で見た学校が千鶴の学校に似ていても、別に不思議なことじゃないよ。夢を気にするなんて、俺もどうかしてるよな」
 そのうちに、良太の予感は確信に変わった。あの夢で見たのは千鶴の母校の校庭であって、もうすぐ目の前にあの光景が現われるのだ。良太は奇妙なその感覚を千鶴に告げずにはいられなかった。
 学校の前につき、校庭に入ったところで良太の足がとまった。全身に鳥肌がたった。
「ここだよ、千鶴……俺は夢の中でここに来たんだ。似ているんじゃなくて同じだ。ほんとだよ、千鶴」
「どうしたのかしら、良太さんは。そんなことって、あるかしら」
「あるはずがないだろ、こんなこと。はじめて訪ねる場所を前もって見るなんてこと、できるわけがない。しかも俺がそのときに居たのは2階のあの部屋だぜ」
「あの辺りまで行ってみましょうよ。もしかすると、夢とちがうところが見つかるかも知れないから」
 良太は校庭のはずれに見えるぶらんこを確かめたいと思った。ふたりは校庭を横ぎってぶらんこに近づいた。
 もはや疑うべくもなかった。ぶらんこの形と色、ぶらんこの近くにある滑り台の形とその配置、さらには近くに見える砂場まで、夢で眺めた光景と変わらなかった。ぶらんこのうえに伸び出している桜の枝も、夢で見た形でひろがっていた。