「この戦争はそんなに長くは続かないと思う。戦争が終わったらすぐに結婚しよう」と良太は言った。
「戦争が終わってからというのは、なんだか漠然とした感じがするのよね、私には」
「戦争は1年か2年の内に終わるよ。そうなれば結婚できるんだよ、俺たちも」
「私たちはもう婚約してるわね。もっともっと幸せになろうって約束してるんだもの。戦争が終われば結婚するんですもの」
 良太はその問いかけには答えないまま、千鶴を抱きよせてその首筋に唇をつけた。いきなり千鶴が体をよじり、唇を押しつけてきた。
 千鶴のもとめに応え、舌をたがいに求めあっていると、良太はいつしか妄想の世界に入っていた。良太はキスをしながら千鶴のシャツを引きあげ、その内側に手をさしこんだ。
 千鶴がいきなり唇をはなした。良太が我に返ると、千鶴が半眼のまま、焦点の合わないまなざしを向けてきた。一瞬うろたえた良太は、千鶴の肌から手をはなし、その体を抱きなおした。
 千鶴が無言のままに体をおこして、良太の胸に頬を押しあてた。キスを終えてからのそのしぐさは、いつもと少しも変わらなかった。
 良太は千鶴の首筋に顔を近づけた。たしかな千鶴の匂いがした。

 良太は講義を選んで出席し、講義を受けない時間は図書館で過ごした。パン屋の仕事はすでに10月にやめていたので、浅井家での読書にも多くの時間を使うことができた。そのようにして、良太は学生時代にくぎりをつけるための勉学にはげんだ。
 月曜日の午後、良太は図書館の閲覧室にいた。次の講義が始まるまでにはまだ時間があった。眼を休めるために閲覧室のはずれにある時計をながめていると、前夜のことが思い出された。手のひらが千鶴の感触をおぼえていた。
 その朝、良太が階段をおりると、それを待っていたかのように千鶴があらわれ、明るい笑顔で声をかけてきた。千鶴のその声と笑顔が、良太には、自分のすべてを千鶴が受け入れてくれ、そして信頼してくれている証しのように思われた。
窓の外に眼を転じると、色づく前の木々の葉が午後の日に照らされていた。良太はふと思った。もしも俺が戦死したなら、千鶴はどうなるだろう。出会ってから1年あまりしか経っていないが、俺に対する想いと記憶が、千鶴にはしっかり張り付いているはずだ。
 良太は慄然とした。千鶴との間に思い出を残すことすら、千鶴にとっては残酷なことかも知れない。俺が戦死してからいくばくかの歳月が過ぎ、千鶴は新しい人生の伴侶を見つけだす。そのためには、俺との楽しい思い出などはむしろ無いほうが良さそうだ。鎌倉には行かないほうが良かったのかも知れない。次の日曜日をふたりで楽しむことも、取りやめにすべきではないのか。それどころか、今のうちに千鶴との仲を疎遠にしておくべきではないか。
 良太は堪え難いほどの寂寥感におそわれた。いまの俺には千鶴を楽しませ、喜びを与える資格すらないのだろうか。千鶴を愛する資格がないということであろうか。俺には千鶴から愛される資格すらないのかも知れない。俺が生きて還れる可能性は微々たるものに過ぎない。そのような俺には愛される資格などあろうはずがないのだ。
 気がつくと、次の講義がとうに始まっていた。机の上には読みさしの書物が開いたままになっていたが、読書にたいする意欲は失われていた。
胸の奥に寂寥感を抱いたまま、良太はふたたび想いの底に沈んでいった。
千鶴を愛する資格もなければ、愛される資格もないのではないかと不安を覚えたのは、生還の可能性がほとんど無いと思える自分の立場を思い、俺が戦死した場合の千鶴の将来を考えたからだが、千鶴自身はどう思っているのだろうか。俺が戦死した場合のことを、千鶴は考えたことがあるのだろうか。出征することになってから、千鶴はむしろ積極的に働きかけてくるようになった。千鶴はすぐにも俺と結婚したいと言う。俺に戦死のおそれがあることが、俺にたいする千鶴の気持を強めたのだろうか。千鶴の気持は嬉しいのだが、これから先の千鶴のことを思えば、安易に応えてやることはできない。俺が戦死するようなことになっても、千鶴には生きてゆくべき長い人生がある。
 もしも俺が戦死したなら、家族は深い悲しみに沈んだまま、容易にはそこから抜け出せないことになる。千鶴もまた、俺の家族と同様に、大きな悲嘆を味わうことになる。俺の戦死が家族にもたらす悲しみを軽減したいがために、あらかじめ家族との絆を断ち切っておくことなどできないが、今となっては千鶴に対しても同じことが言えるのだ。
 机の上に日がさしてきた。隣の建物が夕日をあびて、窓ガラスがまぶしく光っていた。良太は椅子から立ちあがり、書籍を返却するために書架にむかった。良太は歩きながら思った。たしかに、俺と千鶴はすでに強い絆で結ばれているのだ。戦死するような場合にそなえるためであろうと、千鶴を遠ざけることなどしてはならない。とにもかくにも今の俺がなすべきことは、生還を期し得ない自分の立場を意識しつつも、千鶴の気持ちに可能な限り応えてやることだ。そうすることが、今の俺と千鶴にとって最も価値があり、意義のあることだという気がする。