夕食を終えてから、良太は書斎で〈武士道〉を読みながら千鶴を待った。目の前の花瓶にはサザンカが活けられており、かなり膨らんだ蕾が幾つもついていた。
 千鶴がノックをしないまま入ってきて、良太の横に腰をおろした。
「やっと二人だけになれたわね」と千鶴が言った。
 良太は千鶴の肩に腕をまわした。
「14日の日曜日に、どこかに遊びに行かないか」
「ほんとに?良太さん」千鶴がうわずった声をだした。「いいわあ、二人で遊びに行けるなんて」
「あさっての日曜日には、忠之もいっしょに出かけたいけど、千鶴はどう思う」
「岡さんもいっしょに?」
「そうだよ、忠之もいっしょに。あさっての日曜日、千鶴には何か予定があるのか」
「予定なんかないわ。良太さんの帰りを待ってたんだもの」
「だったら、出かけよう。山でも海でも千鶴が行きたい所ならどこでもいいんだけど、良さそうな所を知らないか」
「そうねえ……山や海といっても、日帰りできるとこだから、鎌倉か房総の海とか……山の方なら奥多摩や高尾山などかしら」
「たくさん知ってるんだな」
「友達や親戚のひとと行ったことがある所なの。探せばもっと見つかるでしょうけど」
「鎌倉が良さそうだな。歴史的にも興味がある所だけど、俺は行ったことがないんだ」
「だったら行ってみましょうか、鎌倉に。私は純ちゃんの家の人たちと行ったことがあるのよ。女学校の頃だったけど」
「千鶴のおかげで、あさっての楽しみができたよ」
「良太さんのおかげで、私もあさってが楽しみ。私たちのいい思い出になるわね」
「14日の日曜日には、ふたりだけで出かけような」
「なんだか夢のよう。こんなこと、ついさっきまで予想もしていなかったのに」
「あさっての鎌倉、晴れるといいな」
「だいじょうぶ、きっと晴れるわよ。だって、良太さんは運がいい人なんでしょ」と千鶴が言った。「早起きしておにぎりのお弁当を作るわね。水筒もあった方がいいかしら」
「おれか忠之が雑嚢を持ってゆくから、弁当も水筒もみんな入るよ」
 千鶴が身をよせると、良太の肩に頭をつけた。「良太さんが帰ってこられただけでも嬉しいのに、こんな素敵なことまで考えてもらえるなんて」
 良太は千鶴に腕をまわして、膝のうえに抱きあげた。

 日曜日に、良太たちは鎌倉へ向かった。忠之が肩にかけている雑嚢の中には、3人分の弁当や水筒が入っていた。
 鎌倉に着いた3人は、街を散策しながら鶴岡八幡宮をめざした。
「なあ良太」と忠之が言った。「お前も俺も宗教心というものを持ち合わせていないようだが、村の祭は待ち遠しかったよな、出店でおもちゃを買う楽しみがあったから」
「あのころから十年たって、おれ達は鶴が岡八幡宮に参詣しようとしているわけだ」
「お前が出陣する前に参拝する八幡宮だ、今日はまじめに拝もうぜ」
「私は必死にお願いするわ、良太さんを絶対に無事に還してくださいって」
「ありがとうな。お前らがしっかり拝んでくれるから、武運長久は疑いなしだよ」
 参拝をおえた3人は石段に腰をおろして、良太が手にしている紙片を見ながら話しあった。何かの資料をもとにして千鶴が用意したその紙片には、鎌倉の略図に名所や旧跡が記入してあった。
「先に建長寺や円覚寺へ行くと、海からだんだん離れてしまうわね」
「千鶴が海の近くに行きたいのなら、おれもそっちでいいよ」
「それなら、あちこち見ながら海の方へ行ってみようか」
「まだ早いけど、今のうちに昼飯にしないか。ここなら場所もいいし」
 腰をおろしている石段は、ならんで握飯を食うには好適な場所であったが、通りすぎる参詣者からは訝しそうな眼を向けられた。
「ときどき私たちを変な眼つきで見る人がいるわね。何だかこわいわ、私」
「もしもだよ、巡査に何か言われたときには、どうする、良太」
「出征するので八幡宮にお参りにきたんだ」
「どうして女をつれている」
「その場合には……」
「いっしょに祈願するために、婚約者をつれて来ました、と言えばいいんだよ」
 思わず千鶴に顔を向けた良太は、千鶴と顔を合わせることになった。
「なんだなんだ、まだ婚約していないのか、お前らは」
「わかったよ。巡査に聞かれたときには、そんなふうに答える」
「それでよし、それが一番いい答え方だ」と忠之が言った。