良太はその午後も遅くなってから浅井家を訪れ、忠之の部屋で千鶴や沢田をまじえて語りあった。そのあと、浅井家で用意された夕食をとり、入浴してから下宿に帰った。
 早朝に起床して始まった一日が終わった。日記をつけさえすれば、あとは寝るだけだった。
 良太はノートを持って寝床に入り、腹ばいになってペンをにぎった。
〈前日の20日に浅井家にて壮行会をしていただく。忠之や沢田と共に馳走にあずかり、ご家族を交えて歓談す。なごやかな宴のごとき壮行会だった。そのまま浅井家に泊めてもらう。浅井家の御厚意に深く感謝す。
 今日は明治神宮外苑競技場で文部省などの主催になる壮行会。雨の中を千鶴を含めた4人で千駄ケ谷へ。
 スタンドを埋め尽くした数万人の気持を受けつつ雨の中を行進。あの数万人の気持は、国民すべての願望に通じている。戦局の前途容易ならざるとき、自分は如何ほどにその期待に応えることができるだろうか。今はただ我らの出征に意義あれかしと願うのみ。〉
 日記をそこで終えることにした。ノートを閉じてふとんの上に仰向けになると、千鶴のことが想われた。千鶴は何をしているのだろうか。握り飯を作る用事があったから、そのぶん千鶴は早く起きたはず。もう寝床に入っているのかも知れない。濡れた制服を冷たく感じながらの食事だったが、あの握り飯はうまかった。
 まもなく良太は眠りにおちた。
 その夜、千鶴は疲れをおして書斎に入り、机の上に日記用のノートを置いた。
〈神宮外苑競技場での出陣学徒壮行会。雨の中を良太さんと岡さんに純ちゃんと私の4人で千駄ケ谷に向かった。雨のためか式は少し遅れて開始。
 先頭の集団が現われたとたんに全身が震えるほどの感動におそわれた。声をかぎりに良太さんたちに声援を送った。総理大臣や文部大臣が演説したが、私はほとんど聞かずに整列している良太さんたちだけを見ていた。
 良太さんは午後遅くに来てくださった。見なれた制服姿ではなく毛糸のシャツを着ておいでだった。岡さんの部屋に4人で集まって話し合った。
 良太さんの感想。雨の中を行進していると、スタンドから呼びかけているこの人たちのために、日本に生まれ育った者のために、自分たちは出征して征くのだという気持ちが沸きあがってきた。それを聞いて、私は良太さんたちに感謝しなければならないと思った。私たちは感謝しながら、出陣される良太さんたちの無事を祈らなければならない。
 岡さんの感想。良太さんたちが出征されるのだから、理科の学生も何らかの形で戦争に参加しなければならない。岡さんはそのために何ができるか考えているとのこと。
 良太さんは徴兵検査を受けるために故郷へお帰りになる。しばらく会えないけれど、十日ほど待てばまた会える。良太さんを送って玄関を出たとき、あちこちから虫の声が聞こえた。虫の声を聞きながら、良太さんとしばらく立ち話をした。こんな戦争をしているときでも、虫の世界は平和なとき変わっていないはず。人間はどうして戦争などをするのだろうか。
 大学を休学した純ちゃんが明日には横浜の家に帰り、出雲から帰ってきた良太さんが代わりに入られる予定。しばらくの間とはいえ、良太さんはここでお暮らしになる。良太さんのためにできるだけのことをしてあげたいと思う。〉
 今このとき、良太さんは下宿で何をしておいでだろうか。お疲れのはずだから、もしかしたらすでにお休みになっているのかも知れない。昨日の夜、岡さんが冗談に良太さんの寝相のことを口になさった。良太さんの寝顔を見たい気がするけれど、いつになったら見ることができるだろうか。
 千鶴はノートを引き出しに入れ、机の前をはなれた。
 次の日、良太は浅井家に引っ越すための準備をした。家具がないので部屋をかたづけるのは容易だったが、ふだんの掃除をきちんとしていなかったことを思い、道具を借りて大掃除をした。そのあとで、出雲までの切符を買いにでかけた。徴兵検査のための帰省ということで、入手が難しくなっている長距離切符とはいえ、すぐに買うことができた。
 その翌日、良太は下宿で借りたリヤカーを引いて浅井家に向かった。ふとんと代用机の他に荷物と呼べるものはないので、途中に長い坂があっても苦にはならなかった。
 それまで沢田が暮らしていた部屋は、書斎に隣接する8畳の畳部屋だった。下宿の3畳半にくらべると、8畳の部屋はずいぶん広かった。
 浅井家で用意された昼食をすませてから、良太は庭の畑で麦の種蒔をした。麦畑と呼ぶには狭かったけれども、浅井家に貴重な食糧をもたらすはずだった。
 種蒔きを終えるとすぐに、良太は千鶴といっしょに書斎に入った。机の花瓶には菊の花が活けられていた。
「いいじゃないか、この菊。俺は好きだな、この色あいも花の形も」
「庭に咲く菊ではこれが一番好きなの。良かったわ、良太さんにも気にいってもらえて」
 良太は椅子に腰をおろすと、ほとんど言葉を交わすことなく千鶴を抱きよせた。
 ふたりは互いに舌を求めた。九月の夜に成りゆきでそれを経験して以来、その口付がふたりの習慣になっていた。
 良太は姿勢を変えて千鶴をささえた。まだ喘いでいる千鶴のほてった身体を抱きしめたまま、良太は千鶴の匂いを求めて首すじに顔を近づけた。
 その夕方、良太は夜行列車で出雲に向かった。
 混雑する列車内の通路で、良太は本をかざすようにしながら読んだ。眼を休めるために顔をまわすと、少し離れた先に学生服姿があった。良太は思った。徴兵検査のために帰郷する学生だろうが、俺と違って東京に戻らないまま出征することだろう。俺は千鶴と俺自身のために一旦は東京に戻らねばならない。それからの限られた日々を、可能なかぎり有意義に過ごさねばならない。千鶴と一緒にどこかに出かけるのも良さそうだ。千鶴や忠之とのあいだに貴重な思い出を残したい。ふたりとも喜んで賛成してくれるに違いない。
 良太は読書を続けることにして、本を眼の前にかざした。

 帰郷してまもなく良太は徴兵検査を受けて、その日のうちに結果を言いわたされた。予想通りに甲種合格だった。
 合格を告げられた時点で、良太は徴兵官に対して、海軍志望の意志を表明しておいた。
 友人たちとの間では、陸軍兵営内での陰湿なしきたりがしばしば話題になった。そのような陸軍に対して、今でも軍隊内で英語が使われているという海軍には、多少なりとも知的な雰囲気がありそうに思われた。
 良太が海軍を志望することに対して、両親はむしろ反対だった。龍一の戦死が海軍の危険性を強く印象づけていた。それでもなお、良太は自分の意志を通して海軍を志望した。アッツ島などでの玉砕を思えば、陸軍の方が海軍よりも安全だとは思えなかった。陸軍であろうと海軍であろうと、生還を期すことはできない状況にあった。
 徴兵検査が終わってからも、良太は家族と生活を共にしながら、親戚や旧友さらには恩師を訪ねて語りあった。その間に千鶴と忠之には手紙を書いて、徴兵検査の結果と海軍を志望したことを知らせた。
 生還できない場合のことを考えて、不要と思えるものはすべて処分した。龍一の遺書のことが思い出されたが、戦場にでてゆくまでには日数がありそうだったので、遺書を書くのは先送りにした。
 11月に入ってまもなく、良太はみやげの米を持って東京へ向かった。
 混雑している列車の中で、良太は東京での生活を想った。わずかな期間とはいえ、千鶴と同じ屋根の下で暮らす日々が始まろうとしていた。
 浅井家に着いてみると、千鶴と忠之はまだ帰宅していなかった。
 良太は畑の手入れをすることにして庭に出た。芽を出したばかりの麦を眺めていると、畑をつくった頃のことが思い出された。良太は願った。この畑が浅井家に少しでも多くの恵をもたらしてほしい。
 うしろの方で千鶴の声がした。「おかえりなさい、良太さん」
 良太はふり返り、千鶴の笑顔に向かって手をあげた。
 千鶴は歩みよるなり、「書斎で話さない?」と言った。
「こんな時間だと、千恵ちゃんが入ってきたりしないかな」
「大丈夫よ、入室禁止のはり紙をしとけば」
「お母さんが心配するぞ、千鶴たちは書斎で何をやってるんだろうって」
「冗談よ、良太さん。千恵は絶対に入ってこないわ。あのこ、案外おませさんだから」
「それじゃ、書斎で話そうか」と良太は言った。「先に行ってるよ」
 書斎で新渡戸稲造の〈武士道〉を読んでいると千鶴がきて、「岡さんが帰られたわ。出雲でのことを聞きたいって。どうします?」と言った。
 千鶴との語らいを夕食後にまわして、良太は書物を置いて書斎を出た。階段をおりると、忠之は千鶴の祖父と縁側に並んで庭を見ていた。
「やっぱり甲種だったな、良太」と忠之が言った。
「お前と違って俺は眼がいいからな」
「それで、うまいぐあいに海軍の方に決まりそうか」
「俺が決めるわけじゃないからな、どうなるか、まだわからんよ」
「決まるのはいつ頃だ」
「もうすぐのはずだよ。家のほうから電報で報せてくることになっている」
「たのんだよ、森山君。帝国海軍を頼りにしてるんだからな」と千鶴の祖父が言った。
「がんばりますよ、まかせてください」
「それにしても、連合艦隊はどうしてるんだろうな。どこで何をやっとるのか、近ごろは新聞を見てもさっぱりわからん」
「大きい声では言えないことですが」と忠之が言った。「アメリカの電探は性能がいいので、連合艦隊も苦労してるみたいですよ」
 良太はそのことを忠之からすでに聞かされていた。電探すなわちレーダーの技術に遅れをとったことが、日本のとくに海軍を苦況に追い込んでいた。
「わしの友達もそんなことを話していたんだが、岡君も研究しているのかな、電探を」
「まだ無理ですよ、大学に入って1年ですから」と忠之が言った。「そういった方面の工場で働けば、少しは役に立てそうな気はしていますが」
「忠之、お前、やっぱり工場へ行くことにしたのか」
「残る俺たちは工場へ行くことになったんだ。飛行機や兵器の方へ行きたがる者もいるけど、俺は電探を作る会社で働きたいと思ってるんだ。今月中には行き先が決まることになっている」
「お前なら立派な電探が作れるだろうな。たのむぞ、忠之」と良太は言った。
 千鶴の祖母の声が聞こえた。「あの椎の樹、やっぱり切るしかないのかしら」
「もったいないが、枝を切り詰めることにしたよ」
「畑の日当たりは良くなるけど、庭がもっと淋しくなるわね」と千鶴の母親が言った。
 それから間もなく、良太は忠之といっしょに2階の部屋に移った。
「そうか、こっちにいるのはあと2週間ほどか」と忠之が言った。「講義なんか、もう受けなくてもいいだろうに」
「受けたい講義がまだあるんだ。今のうちに読んでおきたい本もあるから、これからの学生生活も案外と忙しくなりそうだよ」
「お前自身のために時間を使ったらどうなんだ。もうすぐ出征するんだぞ」
「もうすぐ出征するから本を読むんだ。今のうちに読んでおきたいものがあるからな」
 良太は書物の名前をいくつか挙げた。
「こんな雑談で時間を使わせちゃわるいみたいだな」
「お前と話すのは無駄だとは思わん。これまで通りにしてくれ」
「それよりもな、千鶴さんのことを考えろ。書斎で話し合うのもいいだろうが、ときにはいっしょに出かけろよ。あさっての日曜日は丁度いい機会じゃないか」
「じつはな、おれも考えていたんだ。どうだ、お前もいっしょに出かけないか」
「俺がいっしょでどうするんだよ。千鶴さんと二人で行け」
「千鶴とは14日の日曜日に出かけようと思ってる。千鶴にはまだ話していないけど」
「そうか、それなら千鶴さん、喜ぶぞ。だけど、あさってはどうして3人なんだ。千鶴さんと二人の方がいいだろうに」
「いいから付き合えよ。もしも俺が死んだら、千鶴とふたりで俺の思い出話ができるんだぞ。良太がまだ生きていた頃に3人であそこを訪ねたことがあったな」
「わかった、わかった。付き合うよ。それで、どこへ行くんだ」
「まだ決めていないから、いっしょに考えてくれ」
「そういうことは、こっちに詳しい千鶴さんに相談した方がいいと思うな」
「もちろん、千鶴にも相談するつもりだ」と良太は言った。
 夕食を終えてから、良太は書斎で〈武士道〉を読みながら千鶴を待った。目の前の花瓶にはサザンカが活けられており、かなり膨らんだ蕾が幾つもついていた。
 千鶴がノックをしないまま入ってきて、良太の横に腰をおろした。
「やっと二人だけになれたわね」と千鶴が言った。
 良太は千鶴の肩に腕をまわした。
「14日の日曜日に、どこかに遊びに行かないか」
「ほんとに?良太さん」千鶴がうわずった声をだした。「いいわあ、二人で遊びに行けるなんて」
「あさっての日曜日には、忠之もいっしょに出かけたいけど、千鶴はどう思う」
「岡さんもいっしょに?」
「そうだよ、忠之もいっしょに。あさっての日曜日、千鶴には何か予定があるのか」
「予定なんかないわ。良太さんの帰りを待ってたんだもの」
「だったら、出かけよう。山でも海でも千鶴が行きたい所ならどこでもいいんだけど、良さそうな所を知らないか」
「そうねえ……山や海といっても、日帰りできるとこだから、鎌倉か房総の海とか……山の方なら奥多摩や高尾山などかしら」
「たくさん知ってるんだな」
「友達や親戚のひとと行ったことがある所なの。探せばもっと見つかるでしょうけど」
「鎌倉が良さそうだな。歴史的にも興味がある所だけど、俺は行ったことがないんだ」
「だったら行ってみましょうか、鎌倉に。私は純ちゃんの家の人たちと行ったことがあるのよ。女学校の頃だったけど」
「千鶴のおかげで、あさっての楽しみができたよ」
「良太さんのおかげで、私もあさってが楽しみ。私たちのいい思い出になるわね」
「14日の日曜日には、ふたりだけで出かけような」
「なんだか夢のよう。こんなこと、ついさっきまで予想もしていなかったのに」
「あさっての鎌倉、晴れるといいな」
「だいじょうぶ、きっと晴れるわよ。だって、良太さんは運がいい人なんでしょ」と千鶴が言った。「早起きしておにぎりのお弁当を作るわね。水筒もあった方がいいかしら」
「おれか忠之が雑嚢を持ってゆくから、弁当も水筒もみんな入るよ」
 千鶴が身をよせると、良太の肩に頭をつけた。「良太さんが帰ってこられただけでも嬉しいのに、こんな素敵なことまで考えてもらえるなんて」
 良太は千鶴に腕をまわして、膝のうえに抱きあげた。

 日曜日に、良太たちは鎌倉へ向かった。忠之が肩にかけている雑嚢の中には、3人分の弁当や水筒が入っていた。
 鎌倉に着いた3人は、街を散策しながら鶴岡八幡宮をめざした。
「なあ良太」と忠之が言った。「お前も俺も宗教心というものを持ち合わせていないようだが、村の祭は待ち遠しかったよな、出店でおもちゃを買う楽しみがあったから」
「あのころから十年たって、おれ達は鶴が岡八幡宮に参詣しようとしているわけだ」
「お前が出陣する前に参拝する八幡宮だ、今日はまじめに拝もうぜ」
「私は必死にお願いするわ、良太さんを絶対に無事に還してくださいって」
「ありがとうな。お前らがしっかり拝んでくれるから、武運長久は疑いなしだよ」
 参拝をおえた3人は石段に腰をおろして、良太が手にしている紙片を見ながら話しあった。何かの資料をもとにして千鶴が用意したその紙片には、鎌倉の略図に名所や旧跡が記入してあった。
「先に建長寺や円覚寺へ行くと、海からだんだん離れてしまうわね」
「千鶴が海の近くに行きたいのなら、おれもそっちでいいよ」
「それなら、あちこち見ながら海の方へ行ってみようか」
「まだ早いけど、今のうちに昼飯にしないか。ここなら場所もいいし」
 腰をおろしている石段は、ならんで握飯を食うには好適な場所であったが、通りすぎる参詣者からは訝しそうな眼を向けられた。
「ときどき私たちを変な眼つきで見る人がいるわね。何だかこわいわ、私」
「もしもだよ、巡査に何か言われたときには、どうする、良太」
「出征するので八幡宮にお参りにきたんだ」
「どうして女をつれている」
「その場合には……」
「いっしょに祈願するために、婚約者をつれて来ました、と言えばいいんだよ」
 思わず千鶴に顔を向けた良太は、千鶴と顔を合わせることになった。
「なんだなんだ、まだ婚約していないのか、お前らは」
「わかったよ。巡査に聞かれたときには、そんなふうに答える」
「それでよし、それが一番いい答え方だ」と忠之が言った。
 食事をおえた3人は稲村ケ崎をめざした。時間に充分ゆとりがあったので、途中で長谷の大仏に立ちより、極楽寺にもより道をした。ようやく海辺に着いた3人の前には、穏やかな相模の海が拡がっていた。
 良太は辺りを見まわした。三浦半島や伊豆半島の山並も、七里ヶ浜のかなたにそびえている富士山の姿も、戦争が始まる前と変わらないはずだった。景色に戦争のかげりは見られなくても、この穏やかな海のかなたで熾烈な戦争が戦われている。このまま戦争が長びいたなら、山河が姿をとどめようとも、日本の姿は大きく変わるかもしれない。
 感慨にふけっていると千鶴の笑い声が聞こえた。日本が敗けるようなことになったら、日本人は喜びを失い、千鶴も笑い声を忘れるかも知れない。俺が出征してゆくのは、千鶴を、子供たちを、この国に住む人すべてを護るためだが、そのために俺には何ができるというのだろうか。
「どうかしたのか、良太。また考えこんでるな」と忠之が言った。
「鎌倉に来てよかったよ。八幡宮などにも参拝できたし、こんな景色も眺められるし」
「よかったわ、喜んでもらえて」
「よかったな、良太。千鶴さんのお陰でいい一日になったじゃないか」
「鎌倉は俺たちが訪ねるのに一番いい場所だったという気がする。ありがとう。今ここでお前たちにお礼を言わせてもらうよ」と良太は言った。
その夜、読書をしていると壁がたたかれた。良太は書物をおいて立ちあがり、となりの書斎に向かった。
 千鶴の横に腰をおろすと、千鶴の前にはノートが置かれたままになっていた。
「疲れただろう。今日は随分と歩かせてしまったからな」
「大丈夫よ、私は。子供の頃から坂道を歩いているもの。学校へ通うのだって帰りには坂を登るわけだし」
「子供の頃の千鶴は、俺よりも身体を鍛えていたのかも知れないな。俺の故郷には坂道がないんだ。斐伊川の近くで田圃ばかりが拡がってるんだよ」
「早く行って見たいな、良太さんの故郷」
「戦争が終ったらすぐに行こうな」と良太は言った。「日記は終わったんだろ」
「ちょうど書き終わったとこなの。どんなことを書いたと思います?」
「今日の鎌倉のことだろ」
「そうよ、鎌倉のこと。鶴が岡八幡宮でのことも書いたわ」千鶴が笑顔を向けた。「良太さんには見せてあげてもいいけど、どうかしら」
 鶴岡八幡宮でのこととは、良太と千鶴の婚約のことに違いなかった。
 良太と千鶴はすでに婚約しているような間柄であったが、そのことが良太の負担になりつつあった。厳しい戦況を思えば、生還を期待することはできない。婚約などしていようものなら、千鶴を幸せにできるどころか、むしろ悲しい思いをさせる結果になるような気がした。千鶴と婚約する資格があるとは思えなかった。
 実質的には婚約していようと、言葉による明確な婚約は避けたい。そう思いながらも、良太は千鶴との結婚をしばしば夢想した。それだけでなく、ときおり良太は妄想にとらわれた。妄想の世界で良太は千鶴と裸で抱きあった。書斎で抱きよせる千鶴の体が、妄想の世界に良太を引き入れることもあったし、ときには、千鶴が同じ屋根の下に居ることを意識するだけでも、良太は妄想の世界に引きよせられた。妄想からぬけだしたあとでは、気恥ずかしさとうしろめたさに似た感情を抱くことになったが、千鶴の明るい笑顔を眼にすると、気持のかげりはたちまちにして消え、千鶴の笑顔に対して笑顔をもって応えることになった。良太は夢想と妄想の世界で千鶴を抱き、現実の世界で千鶴と語りあい、そしてキスを交わしていた。
 良太は千鶴の笑顔に向かって答えた。「千鶴の日記も見せてもらいたいけど、今はちょっと相談したいことがあるんだ」
「相談って、どんなこと?」
「つぎの日曜日のことだよ」
「もう決めたの?行き先」千鶴が声をはずませた。
「まだだけど、今のうちに決めておいた方がいいからな、相談しようと思って」
「鎌倉も良かったけど、この次はもっと楽しみましょうね。良太さんとふたりだけで」
「千鶴のおかげで、きょうは楽しかったよ。ありがとうな」
「鶴が岡八幡宮ではびっくりしたわね。岡さんにいきなり言われたんだもの、お前等はまだ婚約していないのかって」と千鶴が言った。「私の同級生が結婚したのよ。相手の人は学徒出陣する人ですって。私たちも結婚できないかしら、良太さんが出征するまでに」
 良太は思った。できるものなら今すぐにでも千鶴と結婚したい。千鶴と結婚できればどんなにいいだろう。とはいえ俺は出征する身だ。戦死するようなことになったら、千鶴を悲しませるだけでなく、千鶴に厳しくてつらい人生を強いることにもなりかねない。生還を期待できない俺には千鶴と結婚する資格はない。
「この戦争はそんなに長くは続かないと思う。戦争が終わったらすぐに結婚しよう」と良太は言った。
「戦争が終わってからというのは、なんだか漠然とした感じがするのよね、私には」
「戦争は1年か2年の内に終わるよ。そうなれば結婚できるんだよ、俺たちも」
「私たちはもう婚約してるわね。もっともっと幸せになろうって約束してるんだもの。戦争が終われば結婚するんですもの」
 良太はその問いかけには答えないまま、千鶴を抱きよせてその首筋に唇をつけた。いきなり千鶴が体をよじり、唇を押しつけてきた。
 千鶴のもとめに応え、舌をたがいに求めあっていると、良太はいつしか妄想の世界に入っていた。良太はキスをしながら千鶴のシャツを引きあげ、その内側に手をさしこんだ。
 千鶴がいきなり唇をはなした。良太が我に返ると、千鶴が半眼のまま、焦点の合わないまなざしを向けてきた。一瞬うろたえた良太は、千鶴の肌から手をはなし、その体を抱きなおした。
 千鶴が無言のままに体をおこして、良太の胸に頬を押しあてた。キスを終えてからのそのしぐさは、いつもと少しも変わらなかった。
 良太は千鶴の首筋に顔を近づけた。たしかな千鶴の匂いがした。

 良太は講義を選んで出席し、講義を受けない時間は図書館で過ごした。パン屋の仕事はすでに10月にやめていたので、浅井家での読書にも多くの時間を使うことができた。そのようにして、良太は学生時代にくぎりをつけるための勉学にはげんだ。
 月曜日の午後、良太は図書館の閲覧室にいた。次の講義が始まるまでにはまだ時間があった。眼を休めるために閲覧室のはずれにある時計をながめていると、前夜のことが思い出された。手のひらが千鶴の感触をおぼえていた。
 その朝、良太が階段をおりると、それを待っていたかのように千鶴があらわれ、明るい笑顔で声をかけてきた。千鶴のその声と笑顔が、良太には、自分のすべてを千鶴が受け入れてくれ、そして信頼してくれている証しのように思われた。
窓の外に眼を転じると、色づく前の木々の葉が午後の日に照らされていた。良太はふと思った。もしも俺が戦死したなら、千鶴はどうなるだろう。出会ってから1年あまりしか経っていないが、俺に対する想いと記憶が、千鶴にはしっかり張り付いているはずだ。
 良太は慄然とした。千鶴との間に思い出を残すことすら、千鶴にとっては残酷なことかも知れない。俺が戦死してからいくばくかの歳月が過ぎ、千鶴は新しい人生の伴侶を見つけだす。そのためには、俺との楽しい思い出などはむしろ無いほうが良さそうだ。鎌倉には行かないほうが良かったのかも知れない。次の日曜日をふたりで楽しむことも、取りやめにすべきではないのか。それどころか、今のうちに千鶴との仲を疎遠にしておくべきではないか。
 良太は堪え難いほどの寂寥感におそわれた。いまの俺には千鶴を楽しませ、喜びを与える資格すらないのだろうか。千鶴を愛する資格がないということであろうか。俺には千鶴から愛される資格すらないのかも知れない。俺が生きて還れる可能性は微々たるものに過ぎない。そのような俺には愛される資格などあろうはずがないのだ。
 気がつくと、次の講義がとうに始まっていた。机の上には読みさしの書物が開いたままになっていたが、読書にたいする意欲は失われていた。
胸の奥に寂寥感を抱いたまま、良太はふたたび想いの底に沈んでいった。
千鶴を愛する資格もなければ、愛される資格もないのではないかと不安を覚えたのは、生還の可能性がほとんど無いと思える自分の立場を思い、俺が戦死した場合の千鶴の将来を考えたからだが、千鶴自身はどう思っているのだろうか。俺が戦死した場合のことを、千鶴は考えたことがあるのだろうか。出征することになってから、千鶴はむしろ積極的に働きかけてくるようになった。千鶴はすぐにも俺と結婚したいと言う。俺に戦死のおそれがあることが、俺にたいする千鶴の気持を強めたのだろうか。千鶴の気持は嬉しいのだが、これから先の千鶴のことを思えば、安易に応えてやることはできない。俺が戦死するようなことになっても、千鶴には生きてゆくべき長い人生がある。
 もしも俺が戦死したなら、家族は深い悲しみに沈んだまま、容易にはそこから抜け出せないことになる。千鶴もまた、俺の家族と同様に、大きな悲嘆を味わうことになる。俺の戦死が家族にもたらす悲しみを軽減したいがために、あらかじめ家族との絆を断ち切っておくことなどできないが、今となっては千鶴に対しても同じことが言えるのだ。
 机の上に日がさしてきた。隣の建物が夕日をあびて、窓ガラスがまぶしく光っていた。良太は椅子から立ちあがり、書籍を返却するために書架にむかった。良太は歩きながら思った。たしかに、俺と千鶴はすでに強い絆で結ばれているのだ。戦死するような場合にそなえるためであろうと、千鶴を遠ざけることなどしてはならない。とにもかくにも今の俺がなすべきことは、生還を期し得ない自分の立場を意識しつつも、千鶴の気持ちに可能な限り応えてやることだ。そうすることが、今の俺と千鶴にとって最も価値があり、意義のあることだという気がする。
 火曜日に良太は父親からの手紙をうけとった。海軍への入団が決まったことはすでに電報で報されていたが、その日の手紙によって入団までの詳細な日程がわかった。良太は12月9日に舞鶴海兵団へ出頭することになった。残されている日数はひと月だった。
 その夜、良太が書斎に入ると、千鶴の横にはすでに椅子がならべてあった。
「千鶴、日曜日の行き先、良さそうな場所があったよ」と良太は言った。
 良太は千鶴の横に腰をおろすと、千恵から借りた地図をひらいた。
 良太が選んだのは霞ケ浦だった。故郷に似ていそうな田園地帯で一日をすごせば、千鶴にも喜んでもらえるだろうとの期待があった。
「霞ヶ浦に行ったことはないけど、俺の故郷に良く似ていそうな気がするんだ。田圃が遠くまで拡がっていて、その先には広い湖があるんだよ」
「良太さんの故郷にはとても興味があるし、すぐにも行ってみたいけど」
 千鶴の沈んだ声に良太は不安をおぼえた。
「どうしたんだ、千鶴。霞ケ浦には興味がないのか」
「霞ヶ浦の景色がどんなに良太さんの故郷に似ていても、景色を眺めて良太さんの故郷を想像するだけだったら、私はなんだか悲しくなりそうな気がするけど」
 千鶴の言う通りだ、と良太は思った。俺はなんと浅はかな知恵を働かせたことだろう。
「わるかったな千鶴。千鶴の言う通りだ。もっといい所をさがそう」と良太は言った。
「出雲に行くのはずっと先になるかも知れないけど、それでもいいの、楽しみにして待っているから」
「わかった。戦争が終わったら、約束通りにつれて行く」
 千鶴が机の上から地図をとり、東京市の部分を開いて、本郷の位置を指しながら言った。「ここが私の故郷。東京市から東京都に名前が変わったから、ここは東京都の本郷」
 良太は黙って千鶴がつづけるのを待った。
「どうかしら、今度の日曜日には、私の故郷を良太さんに見てもらうというのは」
「千鶴の故郷を見るって、本郷を見物して歩こうというのか」
「良太さんは見てみたいと思わない?、私が生まれて育ったところ」
「もちろん興味はあるんだけど……」
 良太が言葉を探していると千鶴が言った。「見てもらいたいものがいっぱいあるの。私が通っていた幼稚園や小学校。私がけがをした小学校のぶらんこ。亡くなったお父さんに連れていってもらった植物園もあるし。案外あるでしょ、いろいろと」
 いきなり良太は強く思った。千鶴の人生にまつわるものを見てみたい。
 良太は千鶴を抱きよせて、「そうだよ、千鶴、見たいよ、そういうのを。ぜひ見せて欲しいな、千鶴の故郷を」と言った。
「それからね、良太さん」千鶴の声がはずんだ。「私の故郷にあるのに、私がほとんど知らない所があるのよ。どこだと思います?」
「そう言われても見当がつかんよ。俺は東京のことをろくに知らないからな」
「私よりもずっと良太さんが知ってる所、さてどこでしょう」
「帝大のことか?」
「あたりました」と千鶴が言った。「帝大は近いから友達と構内を歩いたことは何度もあるけど、歩いただけって感じなの。どこにどんな建物があるのか知っているけど、それが何をするための建物か分からないのよね、そんなこと当たり前だけど」
「わかったよ、千鶴。帝大の中を案内してやる。明日でもいいよ」
「だったら、日曜日にしない?お弁当を持って。私の故郷を良太さんにゆっくり見てもらえるし、ついでに良太さんに帝大を案内してもらえるから」
「じゃあ、そういうことにしよう。よかったよ、千鶴がこんなにいい考を出してくれて。ごめんな、千鶴の気持を考えないで霞ヶ浦なんかを選んで」
「ほんとはね、私はもっとわるいの。だってね、今まで何も考えないでいて、この考を思いついたのは、たった今なんだもの」
「もしかしたら神様のお陰かも知れないぞ。我が愛する千鶴よ、汝に良き知恵を授ける。それで突然に千鶴は思いつく」
「神様だなんて」千鶴が笑顔をむけた。「神様に愛される資格があるのかしら、私に」
「世界で一番愛されているのが千鶴で、二番目は俺だよ。その証拠に、俺たちはこんなふうになれたじゃないか」
 良太が千鶴の唇に中指でふれると、千鶴はその指をかるくくわえた。
 くわえていた指をはなして千鶴が言った。「それなら私は神様にお願いするわ。どんなことがあっても、良太さんを無事に私のところへ還してくださいって」
「大丈夫だよ、おれは運がいいから」
「約束して」
「約束する。還ってこなければ、他の約束もはたせなくなるからな」
「必ず生きて還ること。私と幸せに暮らすこと。良太さんの故郷を見せてくれること。いっしょに出雲の星空を見ること。ほんとね、いっぱい約束してくれたわね、良太さん」
「出雲の星空か……」
「良太さんと眺めること、楽しみにしてるの」
 千鶴が机の引き出しをあけ、ノートを出してせわしなくめくった。
「この日は映画の姿三四郎を見た日よ。帰り道で話したこと、覚えてるでしょ」
「もちろん覚えてるよ」
 ノートをめくった千鶴が、日付をさして笑顔をむけた。
「この日のこと、覚えてます?」
 良太は千鶴に軽くキスをしてから言った。「覚えているよ、もちろん。はじめてパイナップルを食った日だ」
 千鶴が含み笑いした。
「そうよ、そのこと、ここに書いてあります。今日はじめて良太さんと……」
「そのあとに書いてあるんだろ、出雲の星を見る約束をしたこと」
「やっぱり良太さん、よく覚えてるじゃない」
「なんと言ったって、初めてパイナップルを食った日だからな」と良太は言った。「あのことも書いたんだろ、この間のパイナップルのこと」
 千鶴がにこやかな笑顔を見せた。
 良太は千鶴の顔をのぞき込むようにして言った。「なあ、千鶴」
「なあに、良太さん」千鶴が甘えた声で応じた。
 良太は千鶴を抱きよせた。
「これからはパイナップルだよ、これは」
 良太は千鶴に顔を近づけた。良太はすぐに唇をはなすつもりだったが、千鶴がそれを許さなかった。
 書斎でのひとときが過ぎ、良太が自分の部屋に引きあげてから、千鶴は日記をつけるためにノートをひらいた。
 千鶴は日付を記しただけでペンをおき、何から書きはじめようかと考えた。まず書くべきは、千鶴の故郷を見て廻る計画のことだったが、良太の提案も面白いと思った。これからは、口付のことをパイナップルと呼ぶことになった。良太さんと書斎に入れば口付をしないではいられない。それがすっかり習慣になったが、鎌倉を訪れた日の夜の、あの口付は特別だった。
 千鶴は鎌倉を訪ねた日の日記を開いた。そのページを開いただけで、その夜のことが思いだされた。口付をしているうちに、甘美な感覚が全身に拡がるように感じられ、むしろ不安をおぼえて思わず唇をはなした。気がつくと、私を抱いている良太さんの手が、シャツの内側で私にふれていた。恥ずかしいとは思わなかったし、不安もまったく感じなかった。良太さんを見ているだけで安心できた。
 静かな夜だった。良太と忠之いずれの部屋からも、物音は聞こえなかった。千鶴はペンをにぎった。
 千鶴は日記を書きおえて書斎をでると、音をたてないようにドアを閉め、把手に手をかけたまま耳をすました。すぐ目の前が良太の部屋だった。中からは何も聞こえなかった。千鶴は静かな足取りで階段に向かった。
 階段を降りたところで千鶴の足がとまった。あと戻りして良太さんの部屋に入ってみたい。もしもそんなことをしたなら、どんなことになるのだろうか。
 そのとき部屋の戸があく音がして、忠之の声が聞こえた。「おい良太、ちょっと話したいことがあるけど、いいかな」
 忠之の呼びかけに応える良太の声が聞こえた。千鶴は思った、私にしかできないことがあるように、岡さんが良太さんのためにしてあげられることがある。岡さんがいてくださってほんとうに良かった。
 木曜日の午後、大学から帰ってみると、忠之の父親から手紙がきていた。自分の部屋に入るとすぐに良太は手紙をあけた。
〈………徴兵検査の結果を知らせに来てくれたとき、君は私への恩返しをしないままに出征する不安を口にした。私はそのようなことを気にする必要は全くない旨伝えたはずだが、忠之からの手紙で君がその不安を抱き続けていることを知り、この手紙を送ることにした次第。
 君にそのような不安を抱かせていたことを、私はまずはじめに謝らねばならない。君はすでに私に対して充分に恩返しをしてくれているのだから。
 私は村の小学校に転任して君の学級の担任になった。私の見るところ、君には純真なところと共に内向的なところがあった。内向的なる言葉には内向きで非発展的な響きがあるが、私はそうは思わない。そのような人は自らを返り見つつ、自らの生きる道を切り開いてゆく力を備えていると思う。その頃の君には目立つところはなかったのだが、学業成績は良いほうだった。忠之はといえば学科によって成績に極端な差があった。そこで私は君に助力を乞うことにした。そのために私がいかなる手立を講じたのか、賢明な君にはこれ以上の説明を要しないはず。私は忠之のために君を利用したわけだが、忠之のためだけでなく、君のことをも充分に考えていたことをもって御容赦願いたい。
 君の御両親も私たち夫婦も見合い結婚であったが、申し分のない家庭を築くことができている。それと同じように私がいくらか手助けをしたとはいえ、それまで互いに遊ぶことも少なかった君と忠之が、期待した通りに親密になってくれ、君は忠之にとって貴重な存在になってくれた。君には忠之と共に中学へ進んでもらいたいと考え、御両親に学資の援助を申し出た。そのようにして、結局のところ君には忠之と共に大学まで進んでもらうことになり、十年前に私が願った以上の結果がもたらされた。私は君に感謝しなければならない立場にあるわけだが、このことを君と忠之には報せず、君には私にたいする恩義を強く意識させ続けたことになる。出征を前にした君への配慮が至らなかったこと、どうか許してもらいたい。
 君には私に対してさらなる恩返をすべき義務はない、ということを伝えるための手紙だが、このことは忠之にも報せたほうが良いという気がするので、君さえかまわなければ、この手紙を忠之にも見せてやってはくれまいか。その判断は君にまかせます。
 君には親しくしている娘さんがいるらしい。忠之が婚約するよう勧めたところ、今の状況で出征すれば生還を期し難いゆえ、自分には婚約する資格がないと答えたとのこと。私は君にはその人と婚約する充分なる資格があると考えるが、相手の人の将来に対して責任を全うできなくなる虞れがあることも確かだ。君自身が虞れるのもその点にあると思いつつ、私の考えを記させてもらう。………〉
 読み終えた最後の便箋を手にしたまま、良太は想いの底に沈んでいった。恩師に対する深い感謝の念に加えて、大きな安堵感があった。恩師が良太を利用していたにしろ、良太は迷惑を受けなかったし、受けた厚意がむしろ勝っていた。その手紙を読んで、報恩をさらに強く願う気持になったけれども、それを負担に思う気持は重くなかった。その負担を苦にすることは、恩師の恩情にそむくことでもあった。返事を兼ねた礼状をすぐに書こうと思った。
 良太は部屋をでて廊下の窓から庭を見おろした。まだ小さな麦の芽が幾つもの列をなしている。庭のはずれのサザンカが花をつけている。晩秋の夕日を浴びて、サザンカの花が自ら光を放っているように見える。赤いサザンカは赤い光を放ち、白いサザンカは白く輝いて、寂しくなった庭を飾っている。
 良太はサザンカを眺めながら思った。忠之は父親への手紙に、どういうつもりで千鶴のことを書いたのだろうか。いずれにしても、そのために先生からは貴重な言葉をもらうことになった。たしかに、俺には千鶴と婚約する資格がある。千鶴の将来に責任を負えないことを意識しつつ、残り少ない日々を千鶴のために過ごさねばならない。
 出征を直前にしながら勉学に励んできたのは、岡先生への義理立のためだけでなく、俺自身のためにもそれが必要だったからだ。死に直面する事態に備えて、人生の何たるかを理解しておきたいし、海軍に身を置くための心構えも確立したい。そのために多くの書物に眼を通したが、満足すべき結果を得るには至らなかった。
 東京で過ごせる日数も少なくなったからには、これ以上の読書を重ねるよりも、日常を充実したものとすべく努めたほうが良さそうだ。今日は大学に休学届けを出したが、もっと早くに出しておけば良かったという気がする。
 陽射しのなかに千鶴があらわれた。千鶴は畑のわきを通ってサザンカに近づき、ぽつねんとたたずんで花を見ている。どの花を選んだらよいのか迷っているみたいだ。夕日をあびた千鶴のうしろ姿が孤独に見える。俺がここを去ってから、千鶴はどのような日々を過ごすだろうか。もしも俺が戦死するようなことになったら、千鶴はどうなるだろう。俺は絶対に生きて還らなければならない。千鶴を悲しませるようなことをしてはならない。
 千鶴はサザンカをはなれて、菊の花に近づいてゆく。花瓶には菊を活けることにしたようだ。
 千鶴が菊をえらび終えるのを見とどけてから、良太は自分の部屋に入った。恩師への返書をすぐにも書きたかった。
忠之が外出先から帰ったらしく、隣の部屋の戸が閉まる音が聞こえた。良太は恩師からの手紙を持って忠之の部屋に向かった。