つぎの日の夕方、良太と忠之は沢田につれられて、講演会の会場に入った。会場はほぼ満員になっており、聴衆のほとんどが学生だった。
 定刻ちょうどに講師が現れた。白い夏用の士官服に身を包んだ海軍士官を、学生たちは大きな拍手をもって迎えた。
 講師は自己紹介を終えるとすぐに、南太平洋の戦況について語ったが、その多くは公表されていることだった。良太が不満を覚えていると、講師は学徒の在り方について語り始めた。
 海軍士官が学生の役割を論じるにおよんで、良太はその講演会の目的を理解した。軍はいよいよ学生を対象に何かを始めるらしい。
講師は語った。我々に大和魂があるように、米国人には米国魂が、支那人には支那魂があることを忘れてはならない。ここまで戦ってきて、米軍の戦意がきわめて高いことがわかった。その米軍の中核をなすのは、軍に志願した学生である。彼等は祖国のために挺身し、祖国の名誉のために戦うことに、無上の誇りを抱いていることがわかった。現今の戦争を主導するのは航空機だから、彼等はとくに空軍に志願し、米国空軍において中核的な役割を担っている。そのような米国の学徒に比して、はるかに勝る大和魂を持つ諸君は、皇国の興廃がかかるこの戦争において、自らの役割を自覚しなければならない。諸君は愛国心と大和魂を自らに問わなければならない。
 講師は演台から一冊の冊子を取りあげた。講師によれば、それは先ごろ刊行された学徒出陣なる定価30銭の冊子であり、日本の学徒が読むべきものである、ということであった。
講演を聞き終えた学生たちは、緊張した面持ちで会場をあとにした。良太たち3人は、互いに感想を述べながら夜の街を歩いた。
「あの将校は、アメリカの学生を誉めながら、俺たちに奮起を促したんだから」と良太は言った。「もしかすると、俺たちに志願をせまる前触れかも知れないな」
「学徒出陣とか言ったな、あの本の名前。良太が言うように、俺たちも出征することになるかも知れんぞ」
 下宿に帰るための別れ道にきたが、良太は忠之たちといっしょに浅井家に向かった。
 夜の本郷は、東京の街とは思えないほど暗かった。夜風にざわつく庭木の音が聞こえるほどに、人影の少ない街は静寂だった。見あげると、きれいな星空だった。千鶴と交わした約束が思い出された。千鶴といっしょに出雲の星空を眺めたい。その日が訪れるのはいつのことだろう。
 浅井家に着いたとき、時刻はすでに8時を回っていたけれども、千鶴に請われるままに良太は書斎に入り、いつものように並んで腰をおろした。
 良太は講演会の感想を語った。
「戦争が長く続いたら、良太さんも出征することになるのかしら」と千鶴が言った。「怖いわ、私。いつまで続くのかしら、この戦争」
「心配することはないよ、たとえ出征するようなことになっても、絶対に死なずに還ってくるよ。けがひとつしないで」と良太は言った。
 良太は思った、学生に出征命令がくだされる日も遠くはないという気がする。たとえそうなったとしても、俺は戦死することなく、千鶴のそばに還って来なければならない。俺は千鶴とともに人生を歩まねばならないのだ。
 良太は言った。「千鶴と約束したんだからな、いっしょに人生を送ると。出征することになったとしても、俺は絶対に千鶴のところに帰ってくるよ」
 千鶴が良太をのぞきこむようにして言った。「嬉しい、良太さん。そのほうが好き、千鶴と呼んでもらうほうが」
 千鶴がこれほど喜ぶのなら、もっと早くから千鶴と呼んでやればよかった、と良太は思った。俺にとっても、そのほうがずっと好ましい。
「千鶴だよ」良太は千鶴の髪に手をふれた。「これからは千鶴と呼ぶことにする」
 千鶴が「良太さん」と呟くようにして言った。
「何だい、千鶴」
「呼んでみたかっただけなの」と千鶴が答えた。
 良太が千鶴に腕をまわすと、千鶴は首をまわして眼を閉じた。良太は千鶴を抱きよせて顔を近づけた。
第3章 昭和18年秋

 良太はパン屋の仕事を終えると、通いなれた道を浅井家に向かった。
 浅井家につくと、千鶴だけでなく母親がいっしょに出迎えた。ふたりの表情がこわばっていた。
 良太は急かされるようにして口を開いた。「どうしたんだ千鶴。何があったんだ」
「大変なことになったわ、森山さん」千鶴の母親が良太を見すえて言った。「ラジオで放送があったのよ、学生さんも出征するんですって」
 講演会で学徒出陣という言葉を聞き、その日が来ることを予期していたものの、良太は強いショックを受けた。
 良太は言った。「いきなりだからびっくりしたけど、ほんとは、驚くほどのことじゃないと思いますよ。学生だけがのうのうとしていられる時じゃないですからね」
「大事な放送だと予告されていたから、岡さんと純ちゃんにも報せていっしょに聞いたのよ。森山さんも聞ければ良かったのに」
「千鶴、書斎で話さないか」と良太は言った。
「そうしなさい、千鶴」と母親が言った。「お願いね、森山さん」
 良太はいそいで靴をぬぎ、千鶴を追って階段に向かった。
 良太は書斎に入るとすぐに、机の上の花に気づいた。花瓶の形と色が、コスモスの楚々とした姿をひきたてていた。
「いいじゃないかコスモス。この花瓶もいいけど」
「この花瓶、お父さんが亡くなってからは使ったことがなかったの。お父さんがこの部屋を使っていた頃は、私がお花を活けたのよ、いつもこの花瓶に」
「この花瓶も本棚から出されて、なんだか生き返ったみたいに見えるよ」
「庭のコスモスを見ていて思いついたの。良太さんに喜んでもらえるような気がして」
「ありがとう、千鶴。ここに花があるのもいいけど、花瓶も喜んでいるみたいだ」
「良太さんに喜んでもらうつもりだったのに、今日はこんな日になってしまって」
「学生の出征が決まった日を記念する花だな、このコスモスは。いい花じゃないか」
「ごめんなさいね、良太さん。もっと早くにお花を活けてあげればよかったのに」
「今までは花など無くてもよかったけど、こんなふうに花があるのもいいと思うよ。千鶴がそうしたければ」
 いつものように、良太と千鶴は並んで腰をおろした。良太の腕はしぜんにのびて、千鶴の肩を抱きよせていた。
「ここで話し合うようになってから、もうすぐ1年になるわね」
「大学に入学して間もない頃だったな、初めてここで話し合ったのは」
「私は、もっとずっと前からだったような気がするのよね。どうしてかしら」
「そういえば、俺もそんなふうに感じるよ。この1年の間に新しいことをたくさん経験したから、同じ1年が何年分にも感じられるのかも知れないな」
「子供の頃の1年がとても長く感じられるのも、そういうことかも知れないわね」
「これからの1年も長くなるかも知れないな。いろんなことが起こりそうだから」
「ほんとに良太さんが出征することになったら、どうなるのかしら、私たち」
「大丈夫だよ、千鶴。どんなことがあっても、俺は死なずに帰って来るよ、千鶴のところへ」
 千鶴が良太の胸に頬をおしあてた。
 千鶴の髪をなでていると、いつものように微かな匂いがした。千鶴の髪から放たれるのか、それとも千鶴の肌から匂いたつのか、いずれにしてもその匂いに、良太は千鶴の身と心をともに感じた。いきなり、千鶴と結婚したい、という気持ちが沸き起こった。出征することになるのであれば、その前に千鶴と結婚したい。
 良太は千鶴を抱きしめた。強く抱き締めたまま、良太は千鶴の唇をもとめた。
 情動にけしかけられるまま、良太は千鶴にキスを続けた。千鶴があえぎ声をあげたが、良太は千鶴の唇をむさぼり、千鶴の舌をもとめた。
 椅子からずり落ちそうになってようやく、良太は千鶴から唇をはなした。千鶴が良太にしがみついていた。良太は千鶴を膝のうえに抱きあげた。
 千鶴の背中をなでながら、その細い首すじに顔を近づけると、千鶴の匂いが先ほどよりも強まっていた。
良太は千鶴を抱きながら思った。出征してどこで戦うことになろうと、俺は無事に還って、千鶴と共に幸せな人生を送らねばならない。この千鶴を悲しませてはならない。
 良太は夜が更けてから浅井家をでた。下宿への道すがら、良太は日本の現状と先き行を想った。さまざまな想いが頭をよぎったけれども、暗い未来しか思い描けなかった。
 良太はふと思った。千鶴はいま何をしているのだろうか。こんな日だから、まだあの書斎に残って、日記をつけているのかも知れない。
良太は日記をつけようと思った。俺には出征に備えた心構えがまったくできていない。日記をつけることを通して、多少なりとも思索を深めることができるのではないか。
 下宿の部屋に帰りつくなり、良太は机代りの板の上にノートをおいた。10月からの2年次で使う予定のノートが、東京でくらすようになって以来はじめての日記帳になった。
〈昭和18年9月22日
 理工系を除く学生に対する徴兵猶予の停止措置が発表される。パン屋からの帰りに立寄った浅井家にてそのことを知る。
 眼の前に軍人への道が開けたことに、不安とともに安堵感に似た気持を覚える。出征している幼なじみ達に対する負い目をもはや抱かずにすむ。
 千鶴と書斎で語り合ったあと、忠之の部屋に立ち寄り、沢田をまじえて今後のことなど話し合った。出征時期は不明なれども遠くないはず。残された時間を千鶴と如何に向き合い如何に過ごすか。悠長に構えてはいられない。出征までの残された時間を寸刻たりとも無駄にしてはならない。出征への準備をこの日記をもって開始する。〉
 良太は書き終えたノートを見て、こんな大きな文字で走り書きをしたなら、ノートのむだ遣いになると思った。書き方に注意して、ノートを長持ちさせなければならない。
 その夜、千鶴も日記をつけた。
〈今日になって突然に、良太さんたち学生に対する徴兵猶予が停止になった。良太さんが出征しなくてすむように、今すぐ戦争を終わりにしてほしい。
 夜になって来訪された良太さんと書斎で話し合ったが、戦争のことや将来のことはあまり話さなかった。飾っておいたコスモスの花を気に入ってもらえて嬉しい。
 いつものように良太さんと口付したのだけれど、今日はいつもとまるで違った。舌を通して良太さんの想いが伝わってくるような感じがしているうちに、身体がしびれるような不思議な感覚におそわれ、気がついたときには良太さんにしがみついていた。びっくりはしたけど、とても幸せな気持ちで良太さんに抱かれていた。良太さんが出征されたらこの幸せはどうなるだろう。良太さんは自分は運が良いから心配するなと言ってくださる。良太さんの幸運を信じよう。良太さんの幸運が続くように祈ろう。〉
 日記をつけおえて椅子から立ちあがると、コスモスの花がかすかに揺れた。なぜか良太とのキスが思いだされて、千鶴は思わず口に手をあてた。
 書斎のドアを開けると、忠之の部屋から話し声が聞こえた。忠之と沢田の議論はまだ続いていた。その声を耳にしながら、千鶴は階段の降り口に向かった。

 休学して故郷に帰る友人もいたが、良太はしばらく東京に留まることにした。出征する身を自覚しつつ千鶴と向きあい、その間に出征に向けた心構えを確立しなければならない。良太は両親に手紙を書いて、出征が決まったことに対する心境と、出征までの計画を伝えた。
 忠之の父親は良太の恩師であって、学資の援助者でもあった。良太にとって、恩師の期待に応え、その恩に報いることは重要な義務であったが、出征して戦死するようなことになったら、報恩どころか、学資の返済すらもままならないはずだった。
 良太は恩師に手紙を書いた。恩情と恩顧に対する感謝の言葉とともに、残された時間を有意義なものとすべく、勉学に全力を尽くしたいとの心情を記した。書かねばならぬと思いながらも、生還が叶わなかった場合のことには触れ得なかった。記すべき言葉がまだ見つからず、そのことは先送りするしかなかった。
 10月2日、在学徴集延期臨時特令が公布されるとともに、学生を対象とした徴兵検査の実施計画が公表された。10月の下旬に行なわれる徴兵検査を受けるため、良太は期日までに出雲に帰らねばならなかった。
 軍に身を投ずることになった学生に対して、文部省主催になる壮行会が行われることになった。10月21日のその壮行会は、首都圏に住む出陣学徒を対象に挙行され、女子学生や出陣予定にない男子学生に対しては、送る側としての参加が求められた。会場は明治神宮外苑競技場だった。
 送られる側の良太や沢田には、前日のうちに大学から歩兵銃が渡された。教練や野外演習で扱いなれた三八式歩兵銃だった。
 国による壮行会が行なわれる日の前夜に、浅井家は良太と沢田のための壮行会を行うことにしていた。千鶴の祖父にとっては孫にあたる沢田が、休学して横浜の家族のもとに帰ることになったからである。
浅井家での壮行会が行われる日の夕方、良太は翌日の国による壮行会に必要な歩兵銃などを持って浅井家に向かった。その夜は浅井家に泊めてもらい、翌日の国による壮行会には、千鶴や忠之たちとともに出発することになっていた。
 その夜、良太は沢田や忠之とともに浅井家の食卓についた。にぎやかな、そしてなごやかな宴会のような壮行会だった。食卓には収穫したばかりのサツマイモも載っていた。
 良太と忠之があとかたづけを手伝っていると、千鶴が近づいて、「良太さんのおふとんは岡さんの部屋に運びましたから」と言った。
 その夜、良太は忠之の部屋で寝ることになっていた。
「良太よ、少しくらい寝相が悪くてもかんべんしてやるからな、安心して熟睡しろよ」と忠之が言った。
つぎの朝、千鶴を交えた4人はいっしょに家を出て、千駄ケ谷の競技場に向かった。雨が降っていたが傘を持つ者はなかった。それぞれの腰には千鶴と母親が作った握り飯の弁当があった。
 競技場の周辺にはおびただしい学生が集まっていた。良太と沢田はそれぞれの隊に配属されて、雨の中で分列行進の開始を待った。千鶴と忠之もそれぞれ指定された場所に向かった。
 かなりの時間を雨の中で待機させられてから、ようやくにして分列行進がはじまった。800人が一つの隊をなし、軍楽隊の演奏に合わせて8列縦隊で進んだ。
 先頭を行く校旗がゲートをくぐりぬけると、あたりを圧するどよめきが沸きおこった。良太は銃を肩にして、前を進んでゆく校旗を見つめ、泥水をはね返しつつ進んだ。
 良太はスタンドに眼を向けた。右前方の台に立っているのは文部大臣だろう。胸に勲章をつけた軍服姿は東条総理大臣だ。
 バックスタンドに向かう頃になって、女学生たちが並んでいる場所が見えてきた。良太はまっすぐ前をむいたまま、女学生たちが集っている場所をながめた。あそこから千鶴は必死で俺に呼びかけているのだ。千鶴は今どんな気持でいることだろう。
 千鶴はスタンドの一角から、良太の姿をさがしもとめた。誰もが同じ制服と制帽をつけている。良太を見わけることなどできなかったが、それでも千鶴は良太の姿をもとめ、濡れた制服の腕をふりながら、良太に届けとばかりに叫びつづけた。
 行進をおえて整列した学徒を前に、総理大臣たちの訓示がつづき、出陣学徒の代表が答辞を読むときがきた。代表者が進みでてゆく。
 答辞を読む声が静寂の中にひびいた。千鶴は思った、良太さんは答辞の声をどんな気持で聞いておいでだろうか。良太さんはあそこに立って何を考えておいでだろうか。
 壮行会が終わろうとしている。〈海行かば〉の歌声が競技場をおしつつむ。千鶴は整列している学生たちを見つめつつ、精一杯の声で歌った。
 万歳の奉唱をもって壮行会が終わった。出陣学徒が行進をはじめた。宮城を遥拝するために退場してゆく。千鶴は思わず隊列の方へと歩きだしていた。周りの女学生たちもいっせいに学生たちに向かって動きだした。満場に漲る想いが重なりあって、感動が感動をよび、その感動に突き動かされて、女学生たちは叫びながら涙を流し、泣きながら手に持つ小旗やハンカチをうち振った。千鶴もまたひたすらに旗を振り、涙を流しながら叫びつづけた。
 良太はその午後も遅くなってから浅井家を訪れ、忠之の部屋で千鶴や沢田をまじえて語りあった。そのあと、浅井家で用意された夕食をとり、入浴してから下宿に帰った。
 早朝に起床して始まった一日が終わった。日記をつけさえすれば、あとは寝るだけだった。
 良太はノートを持って寝床に入り、腹ばいになってペンをにぎった。
〈前日の20日に浅井家にて壮行会をしていただく。忠之や沢田と共に馳走にあずかり、ご家族を交えて歓談す。なごやかな宴のごとき壮行会だった。そのまま浅井家に泊めてもらう。浅井家の御厚意に深く感謝す。
 今日は明治神宮外苑競技場で文部省などの主催になる壮行会。雨の中を千鶴を含めた4人で千駄ケ谷へ。
 スタンドを埋め尽くした数万人の気持を受けつつ雨の中を行進。あの数万人の気持は、国民すべての願望に通じている。戦局の前途容易ならざるとき、自分は如何ほどにその期待に応えることができるだろうか。今はただ我らの出征に意義あれかしと願うのみ。〉
 日記をそこで終えることにした。ノートを閉じてふとんの上に仰向けになると、千鶴のことが想われた。千鶴は何をしているのだろうか。握り飯を作る用事があったから、そのぶん千鶴は早く起きたはず。もう寝床に入っているのかも知れない。濡れた制服を冷たく感じながらの食事だったが、あの握り飯はうまかった。
 まもなく良太は眠りにおちた。
 その夜、千鶴は疲れをおして書斎に入り、机の上に日記用のノートを置いた。
〈神宮外苑競技場での出陣学徒壮行会。雨の中を良太さんと岡さんに純ちゃんと私の4人で千駄ケ谷に向かった。雨のためか式は少し遅れて開始。
 先頭の集団が現われたとたんに全身が震えるほどの感動におそわれた。声をかぎりに良太さんたちに声援を送った。総理大臣や文部大臣が演説したが、私はほとんど聞かずに整列している良太さんたちだけを見ていた。
 良太さんは午後遅くに来てくださった。見なれた制服姿ではなく毛糸のシャツを着ておいでだった。岡さんの部屋に4人で集まって話し合った。
 良太さんの感想。雨の中を行進していると、スタンドから呼びかけているこの人たちのために、日本に生まれ育った者のために、自分たちは出征して征くのだという気持ちが沸きあがってきた。それを聞いて、私は良太さんたちに感謝しなければならないと思った。私たちは感謝しながら、出陣される良太さんたちの無事を祈らなければならない。
 岡さんの感想。良太さんたちが出征されるのだから、理科の学生も何らかの形で戦争に参加しなければならない。岡さんはそのために何ができるか考えているとのこと。
 良太さんは徴兵検査を受けるために故郷へお帰りになる。しばらく会えないけれど、十日ほど待てばまた会える。良太さんを送って玄関を出たとき、あちこちから虫の声が聞こえた。虫の声を聞きながら、良太さんとしばらく立ち話をした。こんな戦争をしているときでも、虫の世界は平和なとき変わっていないはず。人間はどうして戦争などをするのだろうか。
 大学を休学した純ちゃんが明日には横浜の家に帰り、出雲から帰ってきた良太さんが代わりに入られる予定。しばらくの間とはいえ、良太さんはここでお暮らしになる。良太さんのためにできるだけのことをしてあげたいと思う。〉
 今このとき、良太さんは下宿で何をしておいでだろうか。お疲れのはずだから、もしかしたらすでにお休みになっているのかも知れない。昨日の夜、岡さんが冗談に良太さんの寝相のことを口になさった。良太さんの寝顔を見たい気がするけれど、いつになったら見ることができるだろうか。
 千鶴はノートを引き出しに入れ、机の前をはなれた。
 次の日、良太は浅井家に引っ越すための準備をした。家具がないので部屋をかたづけるのは容易だったが、ふだんの掃除をきちんとしていなかったことを思い、道具を借りて大掃除をした。そのあとで、出雲までの切符を買いにでかけた。徴兵検査のための帰省ということで、入手が難しくなっている長距離切符とはいえ、すぐに買うことができた。
 その翌日、良太は下宿で借りたリヤカーを引いて浅井家に向かった。ふとんと代用机の他に荷物と呼べるものはないので、途中に長い坂があっても苦にはならなかった。
 それまで沢田が暮らしていた部屋は、書斎に隣接する8畳の畳部屋だった。下宿の3畳半にくらべると、8畳の部屋はずいぶん広かった。
 浅井家で用意された昼食をすませてから、良太は庭の畑で麦の種蒔をした。麦畑と呼ぶには狭かったけれども、浅井家に貴重な食糧をもたらすはずだった。
 種蒔きを終えるとすぐに、良太は千鶴といっしょに書斎に入った。机の花瓶には菊の花が活けられていた。
「いいじゃないか、この菊。俺は好きだな、この色あいも花の形も」
「庭に咲く菊ではこれが一番好きなの。良かったわ、良太さんにも気にいってもらえて」
 良太は椅子に腰をおろすと、ほとんど言葉を交わすことなく千鶴を抱きよせた。
 ふたりは互いに舌を求めた。九月の夜に成りゆきでそれを経験して以来、その口付がふたりの習慣になっていた。
 良太は姿勢を変えて千鶴をささえた。まだ喘いでいる千鶴のほてった身体を抱きしめたまま、良太は千鶴の匂いを求めて首すじに顔を近づけた。
 その夕方、良太は夜行列車で出雲に向かった。
 混雑する列車内の通路で、良太は本をかざすようにしながら読んだ。眼を休めるために顔をまわすと、少し離れた先に学生服姿があった。良太は思った。徴兵検査のために帰郷する学生だろうが、俺と違って東京に戻らないまま出征することだろう。俺は千鶴と俺自身のために一旦は東京に戻らねばならない。それからの限られた日々を、可能なかぎり有意義に過ごさねばならない。千鶴と一緒にどこかに出かけるのも良さそうだ。千鶴や忠之とのあいだに貴重な思い出を残したい。ふたりとも喜んで賛成してくれるに違いない。
 良太は読書を続けることにして、本を眼の前にかざした。

 帰郷してまもなく良太は徴兵検査を受けて、その日のうちに結果を言いわたされた。予想通りに甲種合格だった。
 合格を告げられた時点で、良太は徴兵官に対して、海軍志望の意志を表明しておいた。
 友人たちとの間では、陸軍兵営内での陰湿なしきたりがしばしば話題になった。そのような陸軍に対して、今でも軍隊内で英語が使われているという海軍には、多少なりとも知的な雰囲気がありそうに思われた。
 良太が海軍を志望することに対して、両親はむしろ反対だった。龍一の戦死が海軍の危険性を強く印象づけていた。それでもなお、良太は自分の意志を通して海軍を志望した。アッツ島などでの玉砕を思えば、陸軍の方が海軍よりも安全だとは思えなかった。陸軍であろうと海軍であろうと、生還を期すことはできない状況にあった。
 徴兵検査が終わってからも、良太は家族と生活を共にしながら、親戚や旧友さらには恩師を訪ねて語りあった。その間に千鶴と忠之には手紙を書いて、徴兵検査の結果と海軍を志望したことを知らせた。
 生還できない場合のことを考えて、不要と思えるものはすべて処分した。龍一の遺書のことが思い出されたが、戦場にでてゆくまでには日数がありそうだったので、遺書を書くのは先送りにした。
 11月に入ってまもなく、良太はみやげの米を持って東京へ向かった。
 混雑している列車の中で、良太は東京での生活を想った。わずかな期間とはいえ、千鶴と同じ屋根の下で暮らす日々が始まろうとしていた。
 浅井家に着いてみると、千鶴と忠之はまだ帰宅していなかった。
 良太は畑の手入れをすることにして庭に出た。芽を出したばかりの麦を眺めていると、畑をつくった頃のことが思い出された。良太は願った。この畑が浅井家に少しでも多くの恵をもたらしてほしい。
 うしろの方で千鶴の声がした。「おかえりなさい、良太さん」
 良太はふり返り、千鶴の笑顔に向かって手をあげた。
 千鶴は歩みよるなり、「書斎で話さない?」と言った。
「こんな時間だと、千恵ちゃんが入ってきたりしないかな」
「大丈夫よ、入室禁止のはり紙をしとけば」
「お母さんが心配するぞ、千鶴たちは書斎で何をやってるんだろうって」
「冗談よ、良太さん。千恵は絶対に入ってこないわ。あのこ、案外おませさんだから」
「それじゃ、書斎で話そうか」と良太は言った。「先に行ってるよ」
 書斎で新渡戸稲造の〈武士道〉を読んでいると千鶴がきて、「岡さんが帰られたわ。出雲でのことを聞きたいって。どうします?」と言った。
 千鶴との語らいを夕食後にまわして、良太は書物を置いて書斎を出た。階段をおりると、忠之は千鶴の祖父と縁側に並んで庭を見ていた。
「やっぱり甲種だったな、良太」と忠之が言った。
「お前と違って俺は眼がいいからな」
「それで、うまいぐあいに海軍の方に決まりそうか」
「俺が決めるわけじゃないからな、どうなるか、まだわからんよ」
「決まるのはいつ頃だ」
「もうすぐのはずだよ。家のほうから電報で報せてくることになっている」
「たのんだよ、森山君。帝国海軍を頼りにしてるんだからな」と千鶴の祖父が言った。
「がんばりますよ、まかせてください」
「それにしても、連合艦隊はどうしてるんだろうな。どこで何をやっとるのか、近ごろは新聞を見てもさっぱりわからん」
「大きい声では言えないことですが」と忠之が言った。「アメリカの電探は性能がいいので、連合艦隊も苦労してるみたいですよ」
 良太はそのことを忠之からすでに聞かされていた。電探すなわちレーダーの技術に遅れをとったことが、日本のとくに海軍を苦況に追い込んでいた。
「わしの友達もそんなことを話していたんだが、岡君も研究しているのかな、電探を」
「まだ無理ですよ、大学に入って1年ですから」と忠之が言った。「そういった方面の工場で働けば、少しは役に立てそうな気はしていますが」
「忠之、お前、やっぱり工場へ行くことにしたのか」
「残る俺たちは工場へ行くことになったんだ。飛行機や兵器の方へ行きたがる者もいるけど、俺は電探を作る会社で働きたいと思ってるんだ。今月中には行き先が決まることになっている」
「お前なら立派な電探が作れるだろうな。たのむぞ、忠之」と良太は言った。
 千鶴の祖母の声が聞こえた。「あの椎の樹、やっぱり切るしかないのかしら」
「もったいないが、枝を切り詰めることにしたよ」
「畑の日当たりは良くなるけど、庭がもっと淋しくなるわね」と千鶴の母親が言った。
 それから間もなく、良太は忠之といっしょに2階の部屋に移った。
「そうか、こっちにいるのはあと2週間ほどか」と忠之が言った。「講義なんか、もう受けなくてもいいだろうに」
「受けたい講義がまだあるんだ。今のうちに読んでおきたい本もあるから、これからの学生生活も案外と忙しくなりそうだよ」
「お前自身のために時間を使ったらどうなんだ。もうすぐ出征するんだぞ」
「もうすぐ出征するから本を読むんだ。今のうちに読んでおきたいものがあるからな」
 良太は書物の名前をいくつか挙げた。
「こんな雑談で時間を使わせちゃわるいみたいだな」
「お前と話すのは無駄だとは思わん。これまで通りにしてくれ」
「それよりもな、千鶴さんのことを考えろ。書斎で話し合うのもいいだろうが、ときにはいっしょに出かけろよ。あさっての日曜日は丁度いい機会じゃないか」
「じつはな、おれも考えていたんだ。どうだ、お前もいっしょに出かけないか」
「俺がいっしょでどうするんだよ。千鶴さんと二人で行け」
「千鶴とは14日の日曜日に出かけようと思ってる。千鶴にはまだ話していないけど」
「そうか、それなら千鶴さん、喜ぶぞ。だけど、あさってはどうして3人なんだ。千鶴さんと二人の方がいいだろうに」
「いいから付き合えよ。もしも俺が死んだら、千鶴とふたりで俺の思い出話ができるんだぞ。良太がまだ生きていた頃に3人であそこを訪ねたことがあったな」
「わかった、わかった。付き合うよ。それで、どこへ行くんだ」
「まだ決めていないから、いっしょに考えてくれ」
「そういうことは、こっちに詳しい千鶴さんに相談した方がいいと思うな」
「もちろん、千鶴にも相談するつもりだ」と良太は言った。
 夕食を終えてから、良太は書斎で〈武士道〉を読みながら千鶴を待った。目の前の花瓶にはサザンカが活けられており、かなり膨らんだ蕾が幾つもついていた。
 千鶴がノックをしないまま入ってきて、良太の横に腰をおろした。
「やっと二人だけになれたわね」と千鶴が言った。
 良太は千鶴の肩に腕をまわした。
「14日の日曜日に、どこかに遊びに行かないか」
「ほんとに?良太さん」千鶴がうわずった声をだした。「いいわあ、二人で遊びに行けるなんて」
「あさっての日曜日には、忠之もいっしょに出かけたいけど、千鶴はどう思う」
「岡さんもいっしょに?」
「そうだよ、忠之もいっしょに。あさっての日曜日、千鶴には何か予定があるのか」
「予定なんかないわ。良太さんの帰りを待ってたんだもの」
「だったら、出かけよう。山でも海でも千鶴が行きたい所ならどこでもいいんだけど、良さそうな所を知らないか」
「そうねえ……山や海といっても、日帰りできるとこだから、鎌倉か房総の海とか……山の方なら奥多摩や高尾山などかしら」
「たくさん知ってるんだな」
「友達や親戚のひとと行ったことがある所なの。探せばもっと見つかるでしょうけど」
「鎌倉が良さそうだな。歴史的にも興味がある所だけど、俺は行ったことがないんだ」
「だったら行ってみましょうか、鎌倉に。私は純ちゃんの家の人たちと行ったことがあるのよ。女学校の頃だったけど」
「千鶴のおかげで、あさっての楽しみができたよ」
「良太さんのおかげで、私もあさってが楽しみ。私たちのいい思い出になるわね」
「14日の日曜日には、ふたりだけで出かけような」
「なんだか夢のよう。こんなこと、ついさっきまで予想もしていなかったのに」
「あさっての鎌倉、晴れるといいな」
「だいじょうぶ、きっと晴れるわよ。だって、良太さんは運がいい人なんでしょ」と千鶴が言った。「早起きしておにぎりのお弁当を作るわね。水筒もあった方がいいかしら」
「おれか忠之が雑嚢を持ってゆくから、弁当も水筒もみんな入るよ」
 千鶴が身をよせると、良太の肩に頭をつけた。「良太さんが帰ってこられただけでも嬉しいのに、こんな素敵なことまで考えてもらえるなんて」
 良太は千鶴に腕をまわして、膝のうえに抱きあげた。

 日曜日に、良太たちは鎌倉へ向かった。忠之が肩にかけている雑嚢の中には、3人分の弁当や水筒が入っていた。
 鎌倉に着いた3人は、街を散策しながら鶴岡八幡宮をめざした。
「なあ良太」と忠之が言った。「お前も俺も宗教心というものを持ち合わせていないようだが、村の祭は待ち遠しかったよな、出店でおもちゃを買う楽しみがあったから」
「あのころから十年たって、おれ達は鶴が岡八幡宮に参詣しようとしているわけだ」
「お前が出陣する前に参拝する八幡宮だ、今日はまじめに拝もうぜ」
「私は必死にお願いするわ、良太さんを絶対に無事に還してくださいって」
「ありがとうな。お前らがしっかり拝んでくれるから、武運長久は疑いなしだよ」
 参拝をおえた3人は石段に腰をおろして、良太が手にしている紙片を見ながら話しあった。何かの資料をもとにして千鶴が用意したその紙片には、鎌倉の略図に名所や旧跡が記入してあった。
「先に建長寺や円覚寺へ行くと、海からだんだん離れてしまうわね」
「千鶴が海の近くに行きたいのなら、おれもそっちでいいよ」
「それなら、あちこち見ながら海の方へ行ってみようか」
「まだ早いけど、今のうちに昼飯にしないか。ここなら場所もいいし」
 腰をおろしている石段は、ならんで握飯を食うには好適な場所であったが、通りすぎる参詣者からは訝しそうな眼を向けられた。
「ときどき私たちを変な眼つきで見る人がいるわね。何だかこわいわ、私」
「もしもだよ、巡査に何か言われたときには、どうする、良太」
「出征するので八幡宮にお参りにきたんだ」
「どうして女をつれている」
「その場合には……」
「いっしょに祈願するために、婚約者をつれて来ました、と言えばいいんだよ」
 思わず千鶴に顔を向けた良太は、千鶴と顔を合わせることになった。
「なんだなんだ、まだ婚約していないのか、お前らは」
「わかったよ。巡査に聞かれたときには、そんなふうに答える」
「それでよし、それが一番いい答え方だ」と忠之が言った。
 食事をおえた3人は稲村ケ崎をめざした。時間に充分ゆとりがあったので、途中で長谷の大仏に立ちより、極楽寺にもより道をした。ようやく海辺に着いた3人の前には、穏やかな相模の海が拡がっていた。
 良太は辺りを見まわした。三浦半島や伊豆半島の山並も、七里ヶ浜のかなたにそびえている富士山の姿も、戦争が始まる前と変わらないはずだった。景色に戦争のかげりは見られなくても、この穏やかな海のかなたで熾烈な戦争が戦われている。このまま戦争が長びいたなら、山河が姿をとどめようとも、日本の姿は大きく変わるかもしれない。
 感慨にふけっていると千鶴の笑い声が聞こえた。日本が敗けるようなことになったら、日本人は喜びを失い、千鶴も笑い声を忘れるかも知れない。俺が出征してゆくのは、千鶴を、子供たちを、この国に住む人すべてを護るためだが、そのために俺には何ができるというのだろうか。
「どうかしたのか、良太。また考えこんでるな」と忠之が言った。
「鎌倉に来てよかったよ。八幡宮などにも参拝できたし、こんな景色も眺められるし」
「よかったわ、喜んでもらえて」
「よかったな、良太。千鶴さんのお陰でいい一日になったじゃないか」
「鎌倉は俺たちが訪ねるのに一番いい場所だったという気がする。ありがとう。今ここでお前たちにお礼を言わせてもらうよ」と良太は言った。
その夜、読書をしていると壁がたたかれた。良太は書物をおいて立ちあがり、となりの書斎に向かった。
 千鶴の横に腰をおろすと、千鶴の前にはノートが置かれたままになっていた。
「疲れただろう。今日は随分と歩かせてしまったからな」
「大丈夫よ、私は。子供の頃から坂道を歩いているもの。学校へ通うのだって帰りには坂を登るわけだし」
「子供の頃の千鶴は、俺よりも身体を鍛えていたのかも知れないな。俺の故郷には坂道がないんだ。斐伊川の近くで田圃ばかりが拡がってるんだよ」
「早く行って見たいな、良太さんの故郷」
「戦争が終ったらすぐに行こうな」と良太は言った。「日記は終わったんだろ」
「ちょうど書き終わったとこなの。どんなことを書いたと思います?」
「今日の鎌倉のことだろ」
「そうよ、鎌倉のこと。鶴が岡八幡宮でのことも書いたわ」千鶴が笑顔を向けた。「良太さんには見せてあげてもいいけど、どうかしら」
 鶴岡八幡宮でのこととは、良太と千鶴の婚約のことに違いなかった。
 良太と千鶴はすでに婚約しているような間柄であったが、そのことが良太の負担になりつつあった。厳しい戦況を思えば、生還を期待することはできない。婚約などしていようものなら、千鶴を幸せにできるどころか、むしろ悲しい思いをさせる結果になるような気がした。千鶴と婚約する資格があるとは思えなかった。
 実質的には婚約していようと、言葉による明確な婚約は避けたい。そう思いながらも、良太は千鶴との結婚をしばしば夢想した。それだけでなく、ときおり良太は妄想にとらわれた。妄想の世界で良太は千鶴と裸で抱きあった。書斎で抱きよせる千鶴の体が、妄想の世界に良太を引き入れることもあったし、ときには、千鶴が同じ屋根の下に居ることを意識するだけでも、良太は妄想の世界に引きよせられた。妄想からぬけだしたあとでは、気恥ずかしさとうしろめたさに似た感情を抱くことになったが、千鶴の明るい笑顔を眼にすると、気持のかげりはたちまちにして消え、千鶴の笑顔に対して笑顔をもって応えることになった。良太は夢想と妄想の世界で千鶴を抱き、現実の世界で千鶴と語りあい、そしてキスを交わしていた。
 良太は千鶴の笑顔に向かって答えた。「千鶴の日記も見せてもらいたいけど、今はちょっと相談したいことがあるんだ」
「相談って、どんなこと?」
「つぎの日曜日のことだよ」
「もう決めたの?行き先」千鶴が声をはずませた。
「まだだけど、今のうちに決めておいた方がいいからな、相談しようと思って」
「鎌倉も良かったけど、この次はもっと楽しみましょうね。良太さんとふたりだけで」
「千鶴のおかげで、きょうは楽しかったよ。ありがとうな」
「鶴が岡八幡宮ではびっくりしたわね。岡さんにいきなり言われたんだもの、お前等はまだ婚約していないのかって」と千鶴が言った。「私の同級生が結婚したのよ。相手の人は学徒出陣する人ですって。私たちも結婚できないかしら、良太さんが出征するまでに」
 良太は思った。できるものなら今すぐにでも千鶴と結婚したい。千鶴と結婚できればどんなにいいだろう。とはいえ俺は出征する身だ。戦死するようなことになったら、千鶴を悲しませるだけでなく、千鶴に厳しくてつらい人生を強いることにもなりかねない。生還を期待できない俺には千鶴と結婚する資格はない。