良太は日記をつけようと思った。俺には出征に備えた心構えがまったくできていない。日記をつけることを通して、多少なりとも思索を深めることができるのではないか。
下宿の部屋に帰りつくなり、良太は机代りの板の上にノートをおいた。10月からの2年次で使う予定のノートが、東京でくらすようになって以来はじめての日記帳になった。
〈昭和18年9月22日
理工系を除く学生に対する徴兵猶予の停止措置が発表される。パン屋からの帰りに立寄った浅井家にてそのことを知る。
眼の前に軍人への道が開けたことに、不安とともに安堵感に似た気持を覚える。出征している幼なじみ達に対する負い目をもはや抱かずにすむ。
千鶴と書斎で語り合ったあと、忠之の部屋に立ち寄り、沢田をまじえて今後のことなど話し合った。出征時期は不明なれども遠くないはず。残された時間を千鶴と如何に向き合い如何に過ごすか。悠長に構えてはいられない。出征までの残された時間を寸刻たりとも無駄にしてはならない。出征への準備をこの日記をもって開始する。〉
良太は書き終えたノートを見て、こんな大きな文字で走り書きをしたなら、ノートのむだ遣いになると思った。書き方に注意して、ノートを長持ちさせなければならない。
その夜、千鶴も日記をつけた。
〈今日になって突然に、良太さんたち学生に対する徴兵猶予が停止になった。良太さんが出征しなくてすむように、今すぐ戦争を終わりにしてほしい。
夜になって来訪された良太さんと書斎で話し合ったが、戦争のことや将来のことはあまり話さなかった。飾っておいたコスモスの花を気に入ってもらえて嬉しい。
いつものように良太さんと口付したのだけれど、今日はいつもとまるで違った。舌を通して良太さんの想いが伝わってくるような感じがしているうちに、身体がしびれるような不思議な感覚におそわれ、気がついたときには良太さんにしがみついていた。びっくりはしたけど、とても幸せな気持ちで良太さんに抱かれていた。良太さんが出征されたらこの幸せはどうなるだろう。良太さんは自分は運が良いから心配するなと言ってくださる。良太さんの幸運を信じよう。良太さんの幸運が続くように祈ろう。〉
日記をつけおえて椅子から立ちあがると、コスモスの花がかすかに揺れた。なぜか良太とのキスが思いだされて、千鶴は思わず口に手をあてた。
書斎のドアを開けると、忠之の部屋から話し声が聞こえた。忠之と沢田の議論はまだ続いていた。その声を耳にしながら、千鶴は階段の降り口に向かった。
休学して故郷に帰る友人もいたが、良太はしばらく東京に留まることにした。出征する身を自覚しつつ千鶴と向きあい、その間に出征に向けた心構えを確立しなければならない。良太は両親に手紙を書いて、出征が決まったことに対する心境と、出征までの計画を伝えた。
忠之の父親は良太の恩師であって、学資の援助者でもあった。良太にとって、恩師の期待に応え、その恩に報いることは重要な義務であったが、出征して戦死するようなことになったら、報恩どころか、学資の返済すらもままならないはずだった。
良太は恩師に手紙を書いた。恩情と恩顧に対する感謝の言葉とともに、残された時間を有意義なものとすべく、勉学に全力を尽くしたいとの心情を記した。書かねばならぬと思いながらも、生還が叶わなかった場合のことには触れ得なかった。記すべき言葉がまだ見つからず、そのことは先送りするしかなかった。
下宿の部屋に帰りつくなり、良太は机代りの板の上にノートをおいた。10月からの2年次で使う予定のノートが、東京でくらすようになって以来はじめての日記帳になった。
〈昭和18年9月22日
理工系を除く学生に対する徴兵猶予の停止措置が発表される。パン屋からの帰りに立寄った浅井家にてそのことを知る。
眼の前に軍人への道が開けたことに、不安とともに安堵感に似た気持を覚える。出征している幼なじみ達に対する負い目をもはや抱かずにすむ。
千鶴と書斎で語り合ったあと、忠之の部屋に立ち寄り、沢田をまじえて今後のことなど話し合った。出征時期は不明なれども遠くないはず。残された時間を千鶴と如何に向き合い如何に過ごすか。悠長に構えてはいられない。出征までの残された時間を寸刻たりとも無駄にしてはならない。出征への準備をこの日記をもって開始する。〉
良太は書き終えたノートを見て、こんな大きな文字で走り書きをしたなら、ノートのむだ遣いになると思った。書き方に注意して、ノートを長持ちさせなければならない。
その夜、千鶴も日記をつけた。
〈今日になって突然に、良太さんたち学生に対する徴兵猶予が停止になった。良太さんが出征しなくてすむように、今すぐ戦争を終わりにしてほしい。
夜になって来訪された良太さんと書斎で話し合ったが、戦争のことや将来のことはあまり話さなかった。飾っておいたコスモスの花を気に入ってもらえて嬉しい。
いつものように良太さんと口付したのだけれど、今日はいつもとまるで違った。舌を通して良太さんの想いが伝わってくるような感じがしているうちに、身体がしびれるような不思議な感覚におそわれ、気がついたときには良太さんにしがみついていた。びっくりはしたけど、とても幸せな気持ちで良太さんに抱かれていた。良太さんが出征されたらこの幸せはどうなるだろう。良太さんは自分は運が良いから心配するなと言ってくださる。良太さんの幸運を信じよう。良太さんの幸運が続くように祈ろう。〉
日記をつけおえて椅子から立ちあがると、コスモスの花がかすかに揺れた。なぜか良太とのキスが思いだされて、千鶴は思わず口に手をあてた。
書斎のドアを開けると、忠之の部屋から話し声が聞こえた。忠之と沢田の議論はまだ続いていた。その声を耳にしながら、千鶴は階段の降り口に向かった。
休学して故郷に帰る友人もいたが、良太はしばらく東京に留まることにした。出征する身を自覚しつつ千鶴と向きあい、その間に出征に向けた心構えを確立しなければならない。良太は両親に手紙を書いて、出征が決まったことに対する心境と、出征までの計画を伝えた。
忠之の父親は良太の恩師であって、学資の援助者でもあった。良太にとって、恩師の期待に応え、その恩に報いることは重要な義務であったが、出征して戦死するようなことになったら、報恩どころか、学資の返済すらもままならないはずだった。
良太は恩師に手紙を書いた。恩情と恩顧に対する感謝の言葉とともに、残された時間を有意義なものとすべく、勉学に全力を尽くしたいとの心情を記した。書かねばならぬと思いながらも、生還が叶わなかった場合のことには触れ得なかった。記すべき言葉がまだ見つからず、そのことは先送りするしかなかった。