第3章 昭和18年秋

 良太はパン屋の仕事を終えると、通いなれた道を浅井家に向かった。
 浅井家につくと、千鶴だけでなく母親がいっしょに出迎えた。ふたりの表情がこわばっていた。
 良太は急かされるようにして口を開いた。「どうしたんだ千鶴。何があったんだ」
「大変なことになったわ、森山さん」千鶴の母親が良太を見すえて言った。「ラジオで放送があったのよ、学生さんも出征するんですって」
 講演会で学徒出陣という言葉を聞き、その日が来ることを予期していたものの、良太は強いショックを受けた。
 良太は言った。「いきなりだからびっくりしたけど、ほんとは、驚くほどのことじゃないと思いますよ。学生だけがのうのうとしていられる時じゃないですからね」
「大事な放送だと予告されていたから、岡さんと純ちゃんにも報せていっしょに聞いたのよ。森山さんも聞ければ良かったのに」
「千鶴、書斎で話さないか」と良太は言った。
「そうしなさい、千鶴」と母親が言った。「お願いね、森山さん」
 良太はいそいで靴をぬぎ、千鶴を追って階段に向かった。
 良太は書斎に入るとすぐに、机の上の花に気づいた。花瓶の形と色が、コスモスの楚々とした姿をひきたてていた。
「いいじゃないかコスモス。この花瓶もいいけど」
「この花瓶、お父さんが亡くなってからは使ったことがなかったの。お父さんがこの部屋を使っていた頃は、私がお花を活けたのよ、いつもこの花瓶に」
「この花瓶も本棚から出されて、なんだか生き返ったみたいに見えるよ」
「庭のコスモスを見ていて思いついたの。良太さんに喜んでもらえるような気がして」
「ありがとう、千鶴。ここに花があるのもいいけど、花瓶も喜んでいるみたいだ」
「良太さんに喜んでもらうつもりだったのに、今日はこんな日になってしまって」
「学生の出征が決まった日を記念する花だな、このコスモスは。いい花じゃないか」
「ごめんなさいね、良太さん。もっと早くにお花を活けてあげればよかったのに」
「今までは花など無くてもよかったけど、こんなふうに花があるのもいいと思うよ。千鶴がそうしたければ」
 いつものように、良太と千鶴は並んで腰をおろした。良太の腕はしぜんにのびて、千鶴の肩を抱きよせていた。
「ここで話し合うようになってから、もうすぐ1年になるわね」
「大学に入学して間もない頃だったな、初めてここで話し合ったのは」
「私は、もっとずっと前からだったような気がするのよね。どうしてかしら」
「そういえば、俺もそんなふうに感じるよ。この1年の間に新しいことをたくさん経験したから、同じ1年が何年分にも感じられるのかも知れないな」
「子供の頃の1年がとても長く感じられるのも、そういうことかも知れないわね」
「これからの1年も長くなるかも知れないな。いろんなことが起こりそうだから」
「ほんとに良太さんが出征することになったら、どうなるのかしら、私たち」
「大丈夫だよ、千鶴。どんなことがあっても、俺は死なずに帰って来るよ、千鶴のところへ」
 千鶴が良太の胸に頬をおしあてた。
 千鶴の髪をなでていると、いつものように微かな匂いがした。千鶴の髪から放たれるのか、それとも千鶴の肌から匂いたつのか、いずれにしてもその匂いに、良太は千鶴の身と心をともに感じた。いきなり、千鶴と結婚したい、という気持ちが沸き起こった。出征することになるのであれば、その前に千鶴と結婚したい。
 良太は千鶴を抱きしめた。強く抱き締めたまま、良太は千鶴の唇をもとめた。
 情動にけしかけられるまま、良太は千鶴にキスを続けた。千鶴があえぎ声をあげたが、良太は千鶴の唇をむさぼり、千鶴の舌をもとめた。
 椅子からずり落ちそうになってようやく、良太は千鶴から唇をはなした。千鶴が良太にしがみついていた。良太は千鶴を膝のうえに抱きあげた。
 千鶴の背中をなでながら、その細い首すじに顔を近づけると、千鶴の匂いが先ほどよりも強まっていた。
良太は千鶴を抱きながら思った。出征してどこで戦うことになろうと、俺は無事に還って、千鶴と共に幸せな人生を送らねばならない。この千鶴を悲しませてはならない。
 良太は夜が更けてから浅井家をでた。下宿への道すがら、良太は日本の現状と先き行を想った。さまざまな想いが頭をよぎったけれども、暗い未来しか思い描けなかった。
 良太はふと思った。千鶴はいま何をしているのだろうか。こんな日だから、まだあの書斎に残って、日記をつけているのかも知れない。