千鶴が世話になっているとはどういう意味だろうかと、良太はあわただしく考えた。千鶴の祖父はその言葉によって、自分と千鶴の仲を祝福してくれたのだ。俺はこの家で千鶴と出会う幸運に恵まれ、千鶴との仲をこうして祝福されている。この幸運に俺は感謝しなければならない。
 8時を過ぎた頃、良太は歓待を謝して浅井家をでた。いっしょに玄関をでた千鶴が、門のところまでついてきた。
 千鶴が声をあげた。「良太さん、天の川。灯火管制で街が暗くなると、こんなによく見えるのね」
 出雲では夜道を歩いていると星空に眼が向いたが、東京では夜空への関心が失われていた。良太は千鶴と並んで空を見あげた。久しぶりに眺めるきれいな星空だった。
「出雲は田舎だから、星がたくさん見えるんだ。天の川もよく見えるよ」
「戦争が終わったら、出雲でいっしょに星を見たいな。満天の星と天の川」
「わかった、約束するよ。いっしょに出雲で星を見よう。俺は斐伊川の堤防を歩きながら、夏の夜空を見るのが好きなんだ」と良太は言った。
 その夜、千鶴は日記をつけ終えてから、良太とのキスを記したところを読み返した。
 〈……良太さんからいきなり口付された。その寸前に予感がしたのだけれど、それでもちょっと驚いたし、なによりも嬉しかった。冷静ではいられなかったけれど、とても幸せだった。この書斎が良太さんと私にとって特別な場所になった。……〉
 良太さんは今、何をしておいでだろうか。こんな時刻だから、出雲に帰るための準備は終わったかも知れない。戦争が終わったならば、ふたりで出雲を訪ねようとの約束をしたけど、いつになったら実現することだろう。良太さんに渡したあの写真を見て、良太さんの御家族は、私のことをどう思われるだろうか。
 庭を畑にする作業をした日に、祖父は古い乾板式の写真機で庭を撮り、ついでに千鶴と良太がならんでいる写真を撮った。千鶴はできたばかりのその写真を文庫本にはさんで、下宿に帰ろうとしていた良太に渡したのだった。
千鶴はペンをとって文章を加えた。
 〈今日は良太さんと約束をした。戦争が終わったら良太さんといっしょに出雲へ行き、良太さんの故郷を案内してもらうこと。出雲でいっしょに星を見ること。良太さんと口付したうえにすばらしい約束をしたのだから、今日は誕生日よりももっと大切な日になったような気がする。〉
 良太との約束が実現する日を想いつつ、千鶴は日記のノートを引き出しに納めた。
 机の上にうちわがあった。うちわを取ってあおぐと、良太が送っくれた風が思い出された。幸福な想いが千鶴の胸をみたした。

 出雲で良太を待っていたのは、龍一の戦死を悲しむ者たちだった。龍一の家族はもとより、良太の祖父母も深い悲しみに沈んでいた。
 龍一は出征に際して、自分の家族と良太の家族にあてた遺書をしたため、その保管を家族に依頼していた。筆無精でふだんは手紙さえもめったに書かなかった龍一が、かなりの時間を費やして書きあげたものにちがいなかった。良太は龍一の遺書を読み、それを記したときの龍一の心情を想った。
 龍一は高等小学校を卒業して、松江の海産物会社で働いていたが、満20歳で生ずる兵役義務に先立って、昭和17年の3月に志願して海軍に入った。まだ18歳だった。
 アメリカに戦争をしかけて間もないその頃、日本人の多くが緒戦の戦果に浮かれ、日本の勝利を疑わなかった。少年を含む少なからぬ若者たちが、皇軍に身を投じて一気にアメリカを降さねばならぬと意を固め、軍に志願した。彼等にそのような想いを抱かせたのは、学校を通して教えられた思想と、新聞や雑誌を飾る皇軍賛美の様々な記事、そして、それらに煽られた国民感情だった。それらが互いに重なり合って国民に覆いかぶさり、大衆を押し流した。龍一はその流れに乗って海軍に志願し、そして戦死した。
 良太は思った。龍一は19歳での自分の戦死を、ほんとうに意義あるものとして受け入れたのだろうか。自らの意志で志願したのだから、龍一には悔がなかったとしても、残された者たちは、癒されようのない悲しみにくれているのだ。