ここで、初めてルイは笑う。
 しかし、氷のように冷たい微笑である。
 
 そして、何かまた話をするようだ。

「これは取引きだ。無論、ただとは言わぬ。お前がツェツィリアに二度と会わないと約束すれば……」

「…………」

「殺さないのは勿論、お前には優れた力と美しい結婚相手、そして高い身分を与えよう」

「え?」

 まさに!
 ルイはまさに、(むち)と飴《あめ》を使い分けていた。
 アルセーヌへ対し、散々死への恐怖をちらつかせながら……
 今度は、とても甘い果実を与えると言うのだ。

 心が翻弄されるアルセーヌは、どんどんルイに言いくるめられて行く……
 まるで、見えない蜘蛛の糸にまかれた、身動きのとれない獲物のように……

「まずは力だが……結構な魔力はあるのに、ろくに魔法が使えないお前へ……上級魔法使いの力を与える」

「じょ、上級魔法使い…………」

「そうだ。お前を……様々な攻防の魔法が使える、複数属性魔法使用者《マルチプル》にする。水、火、風、地のうち、どれでも好きな属性をふたつ選ぶが良い」

「俺が複数属性魔法使用者(マルチプル)、……す、凄い」

「ふむ! 更に結婚相手も与えよう。美貌を誇る、さる王国の王女だ。お前はその王女と結婚し、高い身分も得る。……父王の腹心たる王宮魔法使いの地位だ。要領良く立ち回れば次期国王も夢ではない」

 美しい王女と結婚、王宮魔法使い、次期国王……
 ルイの言葉は、まるで夢の世界へ行くような誘いに聞こえた。
 当然、アルセーヌには信じられない。

「ま、まさか! そんな事!」

「まさかではない、可能だ。私にとってみれば全く容易(たやす)い事なのだ」

「…………」

「アルセーヌ、お前にとっても悪い話ではあるまい」

 ルイは自信たっぷりに言い切った。
 
 無理もない。
 ルイが告げた内容がもしも実現するならば、悪い話どころではない。
 さえない無名のいち冒険者に過ぎぬアルセーヌにとっては、最高の条件と言っても良い。

「…………」

「アルセーヌ、お前はツェツィリアの過去を彼女から聞き、同情したのだろう?」

「…………」

「確かに、ツェツィリアは不幸だ。しかしお前に何の関係がある?」

「…………」

「所詮、縁もゆかりもない女。赤の他人、それも今日初めて会った女だ」

「…………」

「それどころか……人間のお前とは違い、怖ろしい夢魔だ」

「…………」

 黙り込んだアルセーヌの心に、ツェツィリアの笑顔が浮かぶ。
 美しいが……
 とても寂しそうな笑顔である。
 
 もっと……もっと……
 楽しそうに、嬉しそうに、ツェツィリアには笑って欲しい……
 アルセーヌは、そう思った。

 ルイが、先ほど告げた言葉も甦る。
 「お前が原因で、完全な夢魔になりきれない」と。

 突如!
 何かが弾ける。
 アルセーヌの、固く閉じられた心の扉が勢いよく開いた音だ。

 ツェツィリアの真摯な気持ちが、深い想いが……
 アルセーヌは遂に分かったのだ。
  
 親に見捨てられた、同じ境遇のアルセーヌを……
 日々人間でなくなって行く、夢魔のツェツィリアが……
 『心の支え』にしたという意味が、はっきりと理解出来たのだ。

 そんなアルセーヌへ、更にルイの言葉が聞こえて来る。

「縁もゆかりもない見ず知らずの女と、もう会わない……たったそれだけを約束すれば、お前は最高の幸福を手に入れられる。……素晴らしいとは思わないか?」

 ルイが、アルセーヌへ同意を求めた時。
 
 不思議な事に……
 アルセーヌの心の中に、先ほどのツェツィリアの笑顔とは全く違う、鮮明な映像が浮かび上がって来た。

 シルバープラチナの髪を持つ、幼い女の子がたったひとり、暗い森に置き去りにされ……悲しみと恐怖で泣き叫んでいた。
 
 そして、すぐにシーンは変わった……

 同じ幼い女の子が……
 先ほどの、エデンと言われる異界で……
 これまた、ひとりきりで水晶球に見入っていた。
 ずっとずっと熱心に……食い入るように……

 どうやら……
 ツェツィリアの幼い頃の記憶が、アルセーヌへ流れこんで来たらしい。
 何故なのか、理由は分からないが……

 心に映る女の子を、見守るアルセーヌの目には……
 いつの間にか、大粒の涙が浮かんでいた。
 
 だがツェツィリアの過去を見ずとも、アルセーヌの『答え』は最初から決まっている。

「…………思わない!」

 断言したアルセーヌは、今迄の卑屈さが消え、堂々とルイを見据える。

「なに?」

 ルイは驚いた声を出すが、冷たい表情は変わっていない。
 平然としていた。
 刺すような視線が、アルセーヌを鋭く射抜く。

 だが!
 アルセーヌは臆さず、首を横に振った。
 そして、きっぱりと言い放つ。

「全然、素晴らしいなんて思わない! 力、結婚相手、身分が何だ! ルイ、貴方の提案など断るっ!」

「ほう、せっかく出した私の提案を断るのか……アルセーヌよ、理由を言え」

「ああ、言うさ! 俺はな、親に見捨てられ、周囲から散々馬鹿にされ、踏みつけられて生きて来た。さっきだって迷宮の奥で死のうと思っていた……」

「…………」

「だけど! こんな俺を励みにして、あの子は! ツェツィリアは! 人としての心を捨てずに、ずっとずっと生きていてくれた」

「…………」

 今度は、ルイが黙り込んだ。
 しかし、怒りもせず、不思議な事に『慈父』のような表情を浮かべていた。
 アルセーヌは更に言う。

「そして! 俺に初めて生きる気力をくれた」

「…………」

「さっきだってそうだ! 頑張って、信じてるって、俺を励ましてくれたんだ」

「…………」

「ルイ、あんたのくれるものは……素晴らしいものかもしれない」

「…………」

「美しい王女と結婚、王宮魔法使い、次期国王。最高の幸福か……(はた)から見れば確かにそうだ。冒険者の俺には一生縁がないものばかりだろう!」

「…………」

「しかし……今の俺にとっては偽りの幸福に過ぎない」

「…………」

「……はっきりと分かったのさ。あの子の、ツェツィリアの俺への気持ちは……本物なんだって!」

「…………」

「俺はあの子を、これからも助けてあげたい。彼女の支えになれるのなら、絶対になってあげたい」

「…………」

「だから! 俺は、彼女の他には何も要らない。あの子さえ、ツェツィリアさえ傍に居てくれれば良い!」

「…………」

「俺はもっともっと、ツェツィリアの笑顔を見たいんだあっ!!!」

 アルセーヌが大きく叫んだ瞬間!

 ぱあああああん!!!

 凄まじい音を立てて、真っ白な世界が砕け散った。

「あ!?」

 気が付けば……
 アルセーヌは、最初に来た異界、エデンに立っていた。
 そして、目の前には……
 大粒の涙を浮かべた、ツェツィリアが立っていたのである。
 
「あ、ありがとう……アルセーヌ……わ、私でいいの? 人間ではない夢魔の……こ、こんな私で……」

 声を絞り出すように、ツェツィリアは言う。
 どうやら……アルセーヌとルイのやりとりを聞いていたようだ……

 アルセーヌも即座に、ツェツィリアへ言葉を返す。
 心の底から、強い意思を籠めて。

「そうさ! 君が良い! 俺にはツェツィリアが絶対に必要なんだ!」

「アルセーヌ!!!」

「ツ、ツェツィリア!!!」

 名を呼び合ったふたりは駆け寄り、固く抱き合った。
 しっかり抱き合った。

 もう二度と!
 離れない!
 とでもいうように……

 先ほどのおそるおそるした、身体だけの抱擁とは全く違う。
 アルセーヌとツェツィリアはお互いを想い、心と心でも抱き合っていたのである。