魔女の使い魔はパティシエです。

 そよそよと肌を撫でる夜風が心地よい。日中もこのくらいの気温ならいいのに。
『ヨシノ、今日は私の主人がNotaを訪れたようだね。主人が貴女のことを話していたよ』
 その言葉に、彼女は申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「そうなんです…あの、アルバさん怒ってませんでしたか?すごく失礼なことをしてしまって…」
 それに、リウムはおかしそうに笑った。
『気にしなくてもいいんだよ。あの方はそんなことで怒るような魔法使いじゃないから。むしろ、貴女のことを気に入っていたよ。面白い子だと』
「そ、そうですか…?」
 なんだか褒められているのかわからない言葉に、佳乃はどう反応すればいいか困惑した。
『大丈夫、気に入られていることには変わりないから』
 それもそうか。ならば前向きに考えよう。
 そして、佳乃は首をかしげる。
「そういえば、今日リウムさんはアルバさんと一緒にはいなかったですよね。何かご用でもあったんですか?」
 リウムはうなずき、いつもは飛ばない方向へと体を向けた。
『今から貴女に見せたいものがあるんだ。少し遅くなるかもしれないけど、大丈夫?』
 案じる声音に、彼女はうなずく。
「大丈夫です。うちは特に門限とかはないので」
『ならよかった。少しスピードを上げるから、しっかりつかまっていてね』
 言う通りに痛くない程度に羽毛をしっかりと掴む。それを感覚的に確認して、リウムは徐々にスピードを上げていく。少しだけ息苦しさを感じた。
 それから少しして、いつものゆったりとしたスピードに戻った。乾くのを防ぐために目を閉じていた佳乃は、そっと開ける。
『ヨシノ、下を見てご覧』
 下を見下ろしてみると、鬱蒼とした森林の中に、いくつもの赤い光が灯っている。
「わぁ…なんですか?あれ」
『あれはルチアという昆虫だ。半月の日はああやって赤く光るんだよ。人間の間では知られていない、こちら側の昆虫なんだ』
「虫、なんですか」
 日本でいうところの蛍のようなものだろうか。
「半月の日は、ってことは、月の満ち欠けによって光る色が違うんですか?」
 リウムは森の中へと少しずつ降下していき、彼女に負担のないようにそっと地面に着地した。体勢を低くし、降りるように促す。
『そうだね。あまり細かくは分かれていないけど、満月の日は銀色に。新月の日は、金色に変わる。どの色も見事だよ。また今度見せてあげよう』
「ありがとうございます!」
 地面に降りて、改めて周りの木々を見渡す。灯の数からして、かなりの数がいることがわかる。
 なんの鳴き声も物音もしないが、たしかに存在していることだけはわかった。本当に、世の中にはまだまだ知らないことがたくさんある。
 上を見上げれば、煌々と輝く半月が浮かんでいる。すぐ近くには、赤い光を放つ昆虫が。
「…そうだ。どうせ仲直りしてもらうなら、ずっと印象に残るようなものがいい」
「仲直り?誰かと喧嘩したの?」
 不意にすぐ後ろから低く穏やかな声が聞こえてきた。それに、彼女は反射的に応える。
「あ、いえ…私ではなくて…って、え?」
 これは、すでに聴き慣れてきたリアムの声とは異なるものだ。慌てて後ろを振り向くと、そこには黒い服にゆったりとした深緑のマントを肩にかけたアルバの姿があった。
「こんばんは」
 びっくりしすぎて固まっている佳乃に、彼はにっこりと微笑みかけた。
「こ、こんばんは…」
 なんとか挨拶だけを返して、佳乃は困惑する。なぜここにアルバがいるのだろう。というか、いつからいたのか。
『アルバ様、なぜここに?』
 リウムもこの場に自分の主人がいることに驚いているようで、瞳をパチパチと瞬かせる。
「うん、たまたまホウキで上を通りかかってね。何してたの?」
 やはり、魔女や魔法使いたちはホウキで空を飛ぶのか。
 呑気に考えているうちに、リウムが羽で赤く灯る木々を差した。
『ヨシノにルチアを見せていたんです。人間には珍しいかと。今日、貴方からのお使いの帰り道に見つけまして』
 それにふむと一つうなずいて、アルバは後ろポケットから杖をすっと取り出す。
「Lucia, vel repandi lilii: facti sunt」
 ふわりと波のように杖を振ると、先端から銀色の光の粒が出た。それは、そのままルチアたちの元へと飛んでいく。
 そして、徐々に集まってくると彼らは空中で一つの百合の花となった。
「す、すごい…!今の魔法ですよね?何したんですか!?」
 目の前に咲き誇る赤く光る百合の花に、佳乃は大興奮する。なにせ、こんなものを見るのは初めてだ。
「あはは、今のは魔法というよりルチアたちにお願いをしたんだよ。集まって、百合の花を作ってください、って」
「へぇ〜…そんなこともできるんですね」
 感心して何度もうなずく佳乃に、彼は満足げに微笑んだ。
「いやぁ、君は反応がいいから魔法の使い甲斐があるね。ちなみに、今朝ノエルがリボンにかけた魔法も、これと少し似ているんだ。あれの場合、お願いではなくて命令だけどね」
 杖をしまいながらそう説明してくれたアルバに、彼女はなるほどとうなずく。魔法にもいろいろな種類があるのだ。
「ノエルさんやアリスさんは杖を使ってませんでしたけど、杖なしでも魔法は使えるんですね」
 2人の魔法を使っている時を思い出し、佳乃は不思議そうに首をかしげる。それに、彼はうなずいた。
「そうだね。簡単な魔法や、小規模なものなら杖を使わずに魔法をかけることができるんだ。今のは少し規模が大きかったから、杖を使ったんだよ」
 本当に、御伽噺の中に入り込んでしまった気分である。
 すでに元いた場所に戻りつつあるルチアたちに、佳乃はなんとなく頭を下げる。
「わざわざ集まってくれてありがとう!」
 それに応えるように、ルチアたちはくるりと一周彼女の体の周りを飛んで戻っていく。
「そうだ、リウムさん」
 名前を呼ばれ、それまで黙ってその様子を見守っていたリウムが首をこてんと傾ける。
『なんだい?ヨシノ』
「今更なんですけど、使い魔ってどんな存在なんですか?」
 それに、リウムは目を瞬かせる。アルバは、面白そうに口元に笑みを浮かべた。
『そうだね…簡単に言えば、主人である魔女や魔法使いのサポート役、といったところかな。もちろん、主人によってやる内容とかも変わってくるけど、私の場合、アルバ様にはよく軽いお使いなどを頼まれるよ。今日もそれをこなしてきたんだ』
「アリスの場合は、本来ならノエルがやらなければならないことをやっていることが多いよね。彼女はズボラな性格をしているから、仕方のないことかもしれないけど」
 うなずいていいのかわからないので、そこには何も触れずに曖昧に笑う。
「まぁでも、ノエルはやるときはやる魔女だ。信頼できるよ」
 柔らかく笑うアルバに、そういえば彼とノエルは友人だと、アリスが以前話していたのを思い出す。
「アルバさんは、ノエルさんと仲がよろしいんですよね。やっぱり、小さい頃から一緒だったりするんですか?」
 それには、意外にもアルバは首を横に振った。
「友人であることは認めるけど、彼女と仲良くなったのはつい二百年くらい前だよ」
「つい、百年くらい前…」
 当然だが、人間である佳乃と、生粋の魔法使いであるアルバたちとでは、流れる時間が大きく違う。見た目は若く見えても、彼らは何百年も生きているのだ。
「そ、それで…どうやって仲良くなったんですか?」
 あまり深く考えないようにして、気を取り直すように話を元に戻す。
「うぅん…これ、僕が勝手に話していいのかわからないから、ノエルに聞いたほうがいいかもしれない。あとで怒られても嫌だからね」
 苦笑して、アルバは肩を竦める。
「あ、確かにそうですよね。じゃあ、明日聞いてみます」
「うん、そうしな。さて、もうそろそろ家に帰ったほうがいい。人の子が夜遅くに出歩いていては危ないよ」
 そう言われてみれば、すでに結構な時間が経っていることに気づく。流石にそろそろ帰らねば紗和が心配するだろう。
『では、ヨシノ。私の背に…』
 乗りやすいように体を低くしてくれたリウムの背に乗ろうとしたところで、アルバが首をかしげる。
「僕が君の家まで飛ばそうか?」
「と、飛ばす…??」
 その言葉の意味を図りかねて、今度は佳乃が首をかしげた。
 一方でリウムが、主人の提案にうなずいている。
『それは妙案です。そのほうが断然早い』
「え、あの、飛ばすって…?」
「大丈夫、決して危険じゃないから。少し触れるよ?」
 戸惑いながらも、それにうなずく。アルバはそっと彼女の肩に手を添えた。
「自分の家を思い浮かべて。なるべくしっかりと」
 言われた通りに、彼女は目を閉じて自宅を思い浮かべる。
『また会おう、ヨシノ。おやすみ』
「お、おやすみなさい!」
「Salire ad locum quo haec mens fit」
 それを最後に、頭の中になにかが走り抜ける。意識が一瞬、途切れた。

 
 目を開けると、目の前にはよく見慣れた自宅が。
 佳乃は、なにが起こったのかさっぱり理解できずに、ただひたすらに首をかしげた。



 翌朝。軽く息を弾ませてNotaにやってきた佳乃を見て、アリスは不思議そうに首をかしげた。
「おはよう、佳乃。どうしたの?そんなに焦った様子で…」
「あ、あ、あの!実は昨日…」
 後半覚めぬ様子で、一気に昨日の出来事を話していく佳乃に、アリスは時折うなずきながら自分の目が据わっていくのを感じた。
 本当に、あの魔法使いは自由気ままで困る。
「もう、本当に。昨日はとにかく驚きました!ある程度摩訶不思議な現象やらなんやらになれてきたかな、って思っていた自分が恥ずかしいです」
 そう言い切って、佳乃は満足したのかふぅと息をつく。
「ごめんなさいね。まさかアルバさんがそんなことをするとは思ってなかったわ。あの方はとても自由な魔法使いだから、なにをするのかわからないのよ」
 呆れたように嘆息するアリスに、彼女は苦笑する。確かに、少し自由すぎるくらいの魔法使いではあった。けど、お蔭で一瞬で家に帰れたのだからかえってよかったのかもしれない。
 そこまで考えて、昨夜考えた案を思い出し、佳乃はポンと手を打った。
「アリスさんに提案があるんですけど…例の、高木様のご注文について」
「あら、何かいい案でも浮かんだの?」
 薄く微笑して小首をかしげるアリスに、彼女はうなずいた。


 約束の、注文をしてから3日後。高木は恋人と共にNotaを訪れていた。
 といっても、彼らの間には気まずい空気が流れている。喧嘩はまだ続いているのだ。
 お互い無言で顔を合わせないまま、扉を開ける。彼らか間を漂う重い空気とは裏腹に、ドアベルが軽快に鳴った。
「いらっしゃいませ」
 佳乃がショーケースの内側から笑顔で挨拶をする。高木が軽く会釈をすると、佳乃はうなずく。
「ご予約の高木様ですね。お待ちしておりました。ただ今ご注文の品を持って参りますので、おかけになってお待ち下さい」
 丁寧に腰を折ってから厨房へと姿を消した佳乃に、彼らは無言で顔を見合わせ言われた通りにイートインスペースの椅子に向かい合い座る。
 やはり無言だ。
「ここ、素敵なお店だね」
 声をかけてきたのは恋人である玲那の方だった。それに驚きつつも、高木は何度もうなずく。彼女と話すのは久しぶりだ。
「そうなんだ。たまたま見つけんだけど、君が好きそうなお店だと思って」
 緊張しているのが声に出ている。玲那はそんな恋人に少し呆れたように笑った。
「緊張してるの丸わかり。今日は喧嘩、するつもりないよ」
 その言葉に、彼はほっと胸を撫で下ろす。
 と、あの軽快なドアベルが店内に鳴り響いた。どうやら新たな来店者が来たらしい。
 入ってきたのは蒼だった。店内を見渡し、首をかしげる。
「…あの子、すごくかっこいいね。あんな子本当にいるんだ」
 目を丸くして言う玲那の言葉通り、確かに整った顔立ちをしている。
 高木は、少し迷った末に話しかけてみることにした。
「あの、店員さんなら今少し奥に行っているよ。もう少しで戻ってくると思う」
 周囲に誰もいないことにより、自分が話しかけられていることを知った蒼は、慌てて軽く頭を下げた。
「わざわざ教えてくださりありがとうございます。少し待ってます」
 やはりただ単に洋菓子を買いに来ただけではなさそうだ。先ほどの少女の彼氏だろうか。
 それからほんの少ししてから、佳乃がトレーを持って戻ってきた。
「お待たせいたしました…って、え…?」
 彼女は蒼の姿を見ると、目を丸くして固まった。そんな佳乃に、彼はにっこりと笑う。
「こんにちは。今日は洋菓子を買いに来たんだけど、そっちの仕事が終わったらおすすめのお菓子を紹介してもらえるかな」
「こ、こんにちは…もちろんです。少々お待ちください」
 それにうなずいて、蒼はもう一つの椅子に腰掛ける。
 少し緊張している様子の佳乃に、高木と玲那はなんとなくこの2人の関係性を悟ってしまった。少し見るだけでわかってしまうくらい、自分たちが大人になったと言うことなのか、はたまた、彼女がわかりやすいのかは定かではない。
 気を取り直して、佳乃は高木たちへと向き直る。
「失礼します。こちら、ご注文の品のレモンタルトでございます」
 カチャカチャと耳障りでない程度の食器同士が擦れる音を立てて置かれたそれに、高木は首をかしげる。
 真っ白の皿の上に乗せられていたのは、双方半分しかない、金色のレモンタルトと赤いレモンタルトだった。
 玲那の皿に赤いレモンタルト。高木の皿には金色のレモンタルトが、半分ずつ乗せられている。
「あの、これは一体…?」
 自分は「月をモチーフにした」と言ったはずだ。指定はしていないが、普通なら満月を思い浮かべ、丸いタルトを作るだろう。
「えっと、それは…」
「それは、月もそうですが、お二人をイメージしてお作りさせていただいたタルトになっています」
 言いながら、アリスがトレーに水を乗せて、蒼へと運んでいく。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 水を置き終えると、彼女は高木たちの元へと移動して、タルトに手を添える。
「どちらかがないと、完全な円形にはならない。まるでお二人の関係のようではありませんか?」
 にっこりと微笑むアリスに、2人は顔を見合わせる。その隣で佳乃が、少し緊張しながらも口を開いた。
「お連れ様は高木様が仕事で忙しく、あまり相手をしてくれないことへの不満が溜まりお怒りになりました。一方で、高木様はそんなお連れ様の気持ちを知り、深く反省していて謝りたい。まるで一度は欠けてしまった半月が、時間をかけてゆっくりと丸い満月になっていくように思いませんか?このレモンタルトは、そうなることを願って、店長が作ったものなんです」
 玲那が、ゆっくりと添えられたフォークとナイフを手に取り、自分の分のレモンタルトをそっと恋人の皿に移し、円形を作る。
「本当だ。色は違うけど、綺麗な満月。私たちみたいだね」
 柔らかく笑う玲那に、高木も大きくうなずく。
「…この前は、ごめん。せっかく誘ってくれたのに、断っちゃって。考えてみれば、少しくらい仕事を後回ししたっていいんだよな」
「こっちこそごめん。あなたが仕事を精一杯していることを知っているのに、ついきつい言い方をしちゃって。反省してるよ」
 さらさらと述べられていくお互いの謝罪の言葉に、なんだかおかしくなってきたようで、2人は同時に吹き出した。
「ふふっ、本当私たちバカみたい。なんであんなことで喧嘩しちゃったんだろう」
「そうだよな。今考えてみると、本当にくだらないよ」 
 クスクスと笑い合う玲那に気づかれないように、アリスがそっと高木に赤いリボンで括った数本の百合の花束を手渡した。
 高木はその意図を読み取り、僅かにうなずいてからそれを受け取った。
「玲那」
「なぁに」
 急に真剣な面差しに変わった恋人に、彼女は首をかしげる。
 高木は、震える両手で百合の花束を玲那に突き出した。
「俺は不甲斐ないし、君の気持ちを蔑ろにしてしまうことがこれからもあるかもしれない。けど、君のことがとても好きなんだ。愛してる。これからも、ずっと俺と一緒にいてくれないかな」
 それに、玲那は目を丸めて固まる。
 一拍置いて、彼女は満面の笑みでそれを受け取った。
「もちろん。あなたみたいな人と一緒に入れる人なんて、私くらいだよ。こちらこそよろしくお願いします」
 可愛らしく輝くような笑顔を浮かべてそう言った玲那に、彼は立ち上がり、その手を握った。
「ありがとう、玲那!」
「ふふっ…」
 幸せそうに笑い合う2人に、アリスと佳乃はそっと目を合わせ、嬉しそうに笑った。


 その後レモンタルトを仲良く食べ終えた2人は、手をしっかりと握って帰っていった。きっと、また喧嘩をしたとしてもすぐに仲直りすることができるだろう。
「よかったですね、あのお二人。ちゃんと仲直りできて」
「そうね。元から謝る気持ちがあったからあまり心配はしていなかったけれど、うまくいってよかったことには変わらないわ。それにしても、よくあんなこと思いついたわね」
 そう。レモンタルトをわざと半分にして出そうと提案したのは、ほかでもない佳乃だったのだ。
「えへへ、といってもきっと、私だけじゃあの考えには至りませんでしたよ。リウムさんとアルバさん、それにルチアたちのおかげです」
 照れたようにほおを染める佳乃に、それまで水を飲んでいた蒼が微笑んだ。
「でも、きっかけがあったとはいえ三鷹さんがあの案を思いついたのならすごいと思うよ。僕には考えられなかっただろうし」
「あ、ありがとうございます。というか、おすすめのお菓子でしたよね!今ご紹介します」
 そう言って、ショーケースの中身をじっくりと見つめ始める佳乃を、彼は面白そうに眺める。アリスが、水のグラスを片すためにトレーを片手に席まで歩いていく。
「あまりうちの子をからかわないでくださいね。あなた、あの子の気持ちに気づいているでしょう」
 片しながらそう言うアリスに、蒼は肩を竦める。
「バレました?あれだけわかりやすい反応をされれば、誰でもわかりますよ」
「まぁ、それはそうかもしれませんが。なら、尚更ああいう思わせぶりな態度は取らないほうがよろしいと思いますよ。失礼ですが、あなたのように顔立ちが整っていれば、女性関連でトラブルもあるのではないでしょうか。それにあの子を巻き込むのはあまり好ましいとはおもいません」
 普段とは違い、ピリピリとした空気を放つアリスに、彼は苦笑する。
「大丈夫ですよ。そんなに心配しなくても。告白をされたら、しっかりと振るので」
 ちらりと佳乃の様子を確認すると、彼女はまだぶつぶつと何かを呟きながらショーケースの中身を吟味している。一体いつまで悩んでいるつもりだろうか。
 おかしそうに笑う蒼に、アリスは呆れたようにため息をつく。先ほどの冷たい言葉とは裏腹に、彼はずいぶん楽しそうに佳乃を見つめている。本人も気付いていないのか、もしくは、気付かないようにしているのか。
 別に、佳乃の恋を反対するつもりは毛頭ない。ただ、失礼だとは思うがこの青年は少々面倒そうだ。初恋の相手がこの人では、彼女はきっと苦労するだろう。
「…簡単に報われる恋なんて恋じゃない、のかしらね」
 いまだに真剣にショーケースの中身を吟味している佳乃と、それを面白そうに眺める青年に、アリスはため息をついた。

 
 

 


 
 無事におすすめのお菓子を紹介して、佳乃は彼の分のレジを済ませる。ちなみに、散々迷った結果彼女が選んだものはシフォンケーキだった。
「僕、ここのお店のお菓子はまだ食べたことがないから楽しみなんだ。選んで方ありがとう」
 にっこりと笑う蒼に、彼女はぱっと顔を輝かせる。
「いえ。じゃあ期待しててくださいね!」
 一瞬何に期待すればいいのか分からずに、蒼は首をかしげる。それに、佳乃はあ、と声を出す。
「すみません、このお店のお菓子に、ってことです。主語がありませんでしたね」
 申し訳なさそうに眉を寄せる彼女に、彼はなるほどとうなずく。
「うん。期待してるね」
「はい。倉木さんは、甘いものがお好きなんですか?」
 自分へのお礼もお菓子だったことや、わざわざ自分の足で洋菓子店にやってくるあたり、よほど好きなのだろうか。
 首をかしげる佳乃に、彼は少し考えた末にうなずいた。
「そうだね。好きか嫌いかと聞かれれば好きって答えるよ。甘すぎるものは得意じゃないけど」
「あ、それわかります。私も基本的に甘いものは大好きなんですけど、あんまり甘すぎちゃうと胃が疲れちゃうっていうか…」
 その言葉に、蒼はおかしそうに笑った。
「ふふっ、胃が疲れちゃう、か。面白い表現をするね」
「え、変でしたか…?」
 虚をつかれたような顔をする佳乃に、尚も彼は笑い続ける。どうやらツボに入ったようだ。なんだか少しショックを受けて、佳乃はレジを済ませながらもしゅんとする。そんなに笑わなくてもいいのに。
 そんな中、アリスが厨房から戻ってきた。その異様な光景に、首をかしげる。
「なにがあったの、これは」
 佳乃が少し不服そうに口を尖らせながら、アリスにそっと近づく。
「私が少し変なことを言っちゃったらしくて、倉木さんがすごい笑うんです。そんなに笑わなくてもいいのに…」
「あら。それはひどいわね」
 まるで小動物に懐かれた気分になって、アリスは気分良さげに微笑んだ。心なしか、彼女の笑顔が勝ち誇ったもののように見えてくる。それに、今度は蒼がぴくりと柳眉を動かした。
「ごめんね?もう笑ったりしないからこっちにおいで」
 手招きしてくる蒼に、佳乃は警戒心マックスの猫状態でゆっくりと近づいていく。
「わぁ、その反応は少し傷つくな」
 思わず苦笑して、彼はちらりとアリスを見る。目が合うと、彼女はやはり、勝ち誇ったように笑った。
「…店長さん、いい性格してますよね」
「お褒めに預かり光栄です」
 アルバに対してした挨拶と同じようにして、アリスは優雅に礼をする。
 バチバチといつかのようにお互いの間で火花を散らす2人に、佳乃は困ったように眉を寄せる。どうにもこの2人は仲が良くないらしい。一番初めはこんな風ではなかった気がするのだが。
 不仲の原因が自分にあるとは思わずに、彼女はなぜ2人の仲が悪くなっているのかを考え始める。
 そんな時、いつものように軽快にドアベルが鳴った。
「あ、いらっしゃいませ…アルバさん」
 白いTシャツにジーンズ姿といった、昨日とは違いラフな格好で来店したアルバに、佳乃は内心でほっとした。この空気の中で1人は流石に辛い。
「こんにちは。昨日はなにも説明せずに飛ばしちゃってごめんね。ノエルに昨日の話をしたら怒られちゃった」
 にこにこと呑気そうに笑うアルバは、まったくもって怒られた人の態度ではない。
 苦笑していると、再びドアベルが鳴った。次に入ってきたのは話に出ていたノエルだった。
「あ、こんにちはノエルさん」
「こんにちは、佳乃ちゃん。昨日はこのバカがごめんね。びっくりしたでしょ」
 このバカ、というところでアルバを指差すノエルに、佳乃は緩く首を振る。
「大丈夫です。お蔭ですぐに家に帰ることができたので、むしろ助かりました」
「そう言ってもらえるとありがたいなぁ。ほら、本人がそう言ってるんだからいいじゃん。いつまでも怒っていても仕方ないよ」
 にこにこと朗らかに笑うアルバは、まったくもって反省していないように見える。
「やっぱりこの魔法使い、話が通じないや…」
 文字通り頭を抱えるノエルに、佳乃は乾いた笑い声をあげた。
 そして、笑顔で、しかしその実まったく笑っていないアリスと蒼を見て、ノエルは首をかしげる。
「どうしたの?この2人」
「それがよく分からないんですよね。特に明確な喧嘩の原因はなかったように思うんですけど…」
「アリスがこんな風に他人とバチバチやってるのは珍しいよね。あ、もしかして昨日ヨシノが言っていた仲直りって、このこと?」
「あ、いえ。それはもう解決しました」
「ならよかった」
 まるでこちらの会話が聞こえていないかのようにずっとお互い同じ表情保っている2人を、3人は不思議そうに眺める。
「佳乃ちゃん、こうなるまでの経緯を簡単に教えてくれる?」
「あ、はい。えっと…」
 記憶を辿るようにぎゅっと目を閉じながら、先ほどの出来事を話していく。
 話を聞いているうちに、徐々にノエルとアルバの口元には笑みが浮かんでいき、話が終わる頃には笑いを必死に堪えているようだった。
「ど、どうしたんですか?」
 目を丸くして言う佳乃に、2人はなおも笑い続ける。
 先ほどよりもさらにカオスな状態になってしまって、佳乃は笑顔の2人と違う意味での笑顔の2人とで視線を彷徨わせる。
「ど、どうすれば…」
 ふと、アリスが一ど目を閉じた。そして、ノエルたちを見て首をかしげる。
「あら、きていたの」
「あ、うん」
 地味にひどい扱いを受けてショックを受けたのか、ノエルはそれまで爆笑していたのをピタリとやめた。それにより、尚更アルバが笑いを深める。
 そんな彼の脇腹に一発拳を入れて、ノエルは何事もなかったかのように爽やかに笑う。隣では、アルバが悶絶していた。
「ところで、佳乃ちゃんそろそろ夏休みは終わりだよね?シフトのことを相談しようと思ってきたの」
 まぁ、基本的な相談はアリスとして欲しいけど、と付け加えるノエルに、佳乃は悶絶するアルバを心配そうに見つめながらも考える。
「そうですね…」
 もう夏休みが終わってしまうのか。そう考えると少し寂しい気がする。
 干渉に浸っていると、ノエルが首をかしげる。
「佳乃ちゃん、部活は何かやってる?」
「あ、私サッカー部のマネージャーをしてるんです。あまりすることはありませんけど、一応サッカー部のある日は基本的に参加してます。けど普通にこっちを優先できますよ」
「へぇ、マネージャーなんだ」
 蒼がそっと近寄り、話に入ってきた。途端に佳乃の表情が硬いものに変わる。
「は、はい」
「近づきすぎでは?」
 アリスがにっこりと笑って、佳乃と蒼の間にさりげなく入る。彼は、佳乃に微笑みかけた。
「そんなことないよね?」
「えぇっと…?」
「はいはい、佳乃ちゃん困ってるから。アリスもあまりムキになっちゃだめだよ」
 ノエルがポンと手を一つ打つ。アリスは、ふぅとため息をついた。
「それもそうね。それじゃあ、話を戻すけど」
 一拍置いて、アリスは佳乃に首をかしげる。
「サッカー部の活動日はいつなの?」
「基本的に月〜水曜日の三日間を中心的なやってます。大会とかが近づくと毎日になりますけど…あ」
 何かを思い出したように声を上げた佳乃に、4人は首をかしげた。
「そういえば、うちの学校10月の初旬に文化祭があるんです。もしかしたら、それの準備で帰りが遅くなったりするかもしれません」
 それに、アリスはうなずく。
「わかったわ。じゃあ、来月は毎週土曜日曜にお店に来てもらえればそれで十分よ。バイトよりも、学生としての行事を優先した方がいいと思うから」
「ありがとうございます。じゃあ、それでお願いします」
「決まったみたいだね」
 よかったよかったと満足げにうなずくノエルに、アリスが肩を竦める。
「結局、シフトを決めるとか言っておいてあなたはなにも口を挟んでないじゃない」
「そこはほら、あんまりお気になさらずに」
 気まずそうにそっと目線を外して、あらぬ方を見上げる主人に呆れたようにため息をついて、彼女は蒼へと視線を投げる。
「倉木様、またのお越しをお待ちしております」
 丁寧に腰を折られ、彼は苦笑した。言外に、もう帰れと言われているようなものだ。ずいぶんと嫌われてしまった。
 ここで粘っても意味はないので、素直に従いドアへと足を向ける。
「あ、ありがとうございました!」
 慌てて頭を下げる佳乃におかしそうに笑って、蒼は店を後にした。
 彼がいなくなった後、じっとドアを見つめる佳乃に、アルバが面白そうに笑う。
「ヨシノは彼のことが好きなんだね」
「え、あ、はい」
 もう今更隠せる気がしないので、素直にうなずく。そんなに自分はわかりやすいだろうか。
「こう見えて、僕は結構色恋沙汰には詳しいんだよ?何か困ったときは、いつでも相談してね」
 自慢げに胸を張るアルバを、失礼とは思いながらも胡散臭そうに眺めてしまう。それに、ノエルはひどくおかしそうに笑った。
「大丈夫、今のは本当だよ。どうしてかアルバに恋愛相談をした子たちは、全員それが成就するの。何かの呪いがかかっているみたいにね」
 佳乃にそんな目線を向けられて少しショックを受けた様子のアルバだったが、友人の言葉により立ち直る。
「ほら、稀代の大魔女ノエルのお墨付きだ。安心して相談できるでしょ?」
「はい。じゃあ、お言葉に甘えて何かあればご相談させて下さいね」
「任せてよ」
 綺麗なウインクを一つするお茶目な魔法使いに、彼女はおかしそうに笑った。


 佳乃にとってとても不思議で、とても楽しかった夏休みが終わり、9月になった。
 学校に行って、始業式やらが終われば、やはりクラスメイトたちは文化祭の話で持ちきりだ。一年生の時を思い出してみても、飲食店ができなかったので、仕方なく佳乃のクラスはお化け屋敷を午前中だけやって午後は自由、というような日程だった。二年生からは飲食店の経営が解禁されるので、みんなその話題で盛り上がっている。
 もちろん、佳乃自身も楽しみな行事であることに変わりはない。
 どんな店になるのか、楽しみだ。
「三鷹、久しぶり」
 座席でホームルームの時間までの間わくわくと胸を躍らせていると、クラスメイトである岬悠斗|《みさきはると》がたまたま空いていた佳乃の前の席に座る。
 悠斗はアルバや蒼たちには及ばないものの、顔立ちが整っており、その上クラスの人気者で、常に明るく場を盛り上げるのが得意な人だ。佳乃自身普段はあまり話さないタイプだったので、一年生の時までは部活で会う時以外、あまり接点がなかったのだが、クラスが同じになって出席番号的に席が前後になったことがきっかけで、仲が良くなったのだ。席替えを行なって席が離れてしまっても、こうやって悠斗のほうからよく遊びに来る。
 相変わらずの人懐っこい笑みに、佳乃は懐かしさを覚えながらもうなずいた。
「久しぶり。7月の部活以来だね。なんか、岬くん少し焼けたね」
 じっと見つめて首をかしげる佳乃に、彼は少し照れたように笑った。
「そうか?三鷹はあんま変わんねぇな。さては、ずっと家に引きこもってたな〜?俺はちゃんと部活がない日でも近所の子供らとサッカーしてたからな!」
 その様子を思い浮かべて、佳乃はおかしそうに笑った。
「すごい。簡単に想像できちゃう」
「だろ〜?俺、誰にでも好かれちゃうからさ」
 パチンとウインクをしてみせる悠斗に、彼女は笑いながらもうなずく。彼が誰にでも好かれているのは事実だ。
「あ、そうそう。私、別に家に引きこもってたわけじゃないよ?いろいろあってバイトを始めたの」
「え、三鷹がバイト?」
 驚いたように切れ長の目を丸くする悠斗に、佳乃は不満そうに眉を寄せる。
「なに、その反応。私がバイトを始めたことがそんなに意外?」
「うーん、意外というか、なんというか。普通に驚いただけだって。そんなに怒るなよ」
 じっとりと目をすがめる佳乃に、彼は苦笑する。そして、椅子の背もたれに肘をおき、頬杖をついた。
「どんなバイトしてんの?」
「洋菓子店だよ。お店の名前はNota Western CUPPEDIAEっていうの。難しいからNotaって呼んじゃってるけど」
「へぇ〜かっこいい名前だな。何語?」
「ラテン語」
 かっけぇ!と、目を輝かせる悠斗に、佳乃は嬉しそうに笑う。
「でしょ?すっごく素敵なお店なの。土日なら私いるから、今度遊びにおいでよ」
 言いながら、学校から店までの地図を紙に描いていく。
「おぉ、意外にも地図を書くの上手いな、お前」
 さらさらと描かれていく地図を覗き込み、悠斗はさらりと失礼なことを言ってのけた。
「岬くんって、たまにすごぉく失礼だよね。そういうところ直したほうがいいと思う」
 描き終えた地図を渡しながら、声を低くして言う佳乃に、彼は乾いた笑い声をあげる。
「悪い悪い。ん?でも、こんなところに洋菓子店なんてあったか?」
 地図を見て、記憶を辿る様に彼は腕を組む。
「最近できたお店だから、まだあんまり知られてないんだよ。でも、結構お客さん来るんだよ。朝とかなら空いてるから、よかったら、というか絶対来てね!」
 お客様を増やすのは決して悪いことではないはずだ。しっかりと宣伝しておかねば。
「おぉ、商売魂だな。わかった。今度行ってみるよ。妹が甘いもん好きだし、何か買って行ったら喜ぶだろうし」
「え、岬くん妹いるの?可愛い?」
 わくわくと目を輝かせる佳乃に、彼は大きくうなずく。
「可愛い。でも、今中学二年生で、反抗期でなぁ…話しかけても無視されるんだよ。あと少しで誕生日だから、それで挽回できればいいなと目論んでる」
 キリッと真剣な顔をして顎に手を添える悠斗に、彼女はなるほどとうなずく。
「でも、きっと妹さんも岬くんが選んでくれたものならなんでも嬉しいんじゃないかな。別に、ただ素直になれないだけで嫌ってはいないと思うよ」
「そう思うか〜?俺、結構本気で妹に嫌われたらショックなんだよ」
 しゅんと項垂れる悠斗に、佳乃は苦笑する。もしも彼に耳や尻尾がついていたなら、それは垂れ下がっていただろう。
「岬くん、結構シスコンだね」
「ぐっ…!」
 その言葉が胸に刺さったのか、悠斗が辛そうに顔を歪める。
「お前、結構容赦ないよな…」
 恨めしげに睨んでくる相手に、彼女は慌てて手を振る。
「あ、褒めてるんだよ?妹想いでいい人だな、って」
「ならいちけど。シスコンってあんまり褒め言葉でないから、ほかの奴には言うなよ〜?」
「はーい」
 呑気そうな返事に、悠斗は本当にわかっているのかと不安になる。
「でも、もし悩むようなら私にできることなら言ってね!協力するよ」
 ぽんと手のひらを合わせ、笑う佳乃に、彼はうなずいた。
「おう。そん時は頼むわ」
 その時、ちょうど担任教師が教室に入ってきた。悠斗が席を戻し、佳乃に向けて軽く手を振る。
「んじゃまたな〜」
「うん。またね」
 手を振り返して、教卓の上に立つ先生に意識を集中させる。
 どんな文化祭になるのか、楽しみだ。


 
 Notaにて。夏休みが終わったことにより、学生の来店者がいなくなった分、アリスは暇を持て余していた。
「暇ね…」
 今日の来店者はまだ2組のみだ。ケーキや焼き菓子を補充する必要もない。
 こんな時に限ってノエルやアルバはやってこない。話し相手もいないので、退屈で仕方がない。
「やっぱり、この時間はどうしてもお客様がいらっしゃらないわね」
 ちらりと壁にかけてある時計に目を向け、彼女はショーケースに頬杖をつきながら、小さなため息をつく。
「…そうだわ。少しの間だけ、佳乃の高校を覗きに行ってみましょう」
 誰に聞かせるわけでもなく、アリスは1人独り言ちる。一度店の奥へいって「close」の看板をかけにいく。
 店内に戻ってきて、ポフンッという軽い音を立てて、彼女は本来の猫の姿へと戻る。
「では、行きましょう」
 気分良さげに、アリスは裏口から外へ出た。


大学の講義を書き終え、カフェテリアの窓辺に座ってアイスコーヒーを飲んでいた蒼は、後ろから軽い衝撃を受け危うくコーヒーをこぼしかけた。
 さすがに腹が立って不満そうに眉を寄せながら振り向くと、高校時代からの友人である瀬野裕也|《せのゆうや》が、まるで悪びれていないような笑みで立っていた。
「よっ!」
「よっ!じゃないよ。危うくコーヒーこぼしかけたんだけど」
 そう言われて、蒼の手元に視線を投げる。そして、ごく自然に隣に座った。
「あちゃー、ごめんな。知らなかったんだよ。にしても、相変わらずお前見つけやすくて助かるわー。大体女子が群がってるところ、もしくは女子の視線が集まっている場所にいるもんだから」
 ケラケラと面白そうに笑う裕也に、彼はうんざりと顔を歪める。
「僕としては嬉しくはないんだけどね。ずっと視線が付き纏ってて、鬱陶しい」
 深いため息をつく友人に、彼は苦笑した。相変わらずのめんどくさがり屋だ。
「そう言うなよ。ほかの男からすれば、お前のその悩みは羨望の極みだぞ」
「じゃあ交換してみる?運が良ければストーカーとかにもあうけど」
 にっこりと爽やかに笑う蒼に、今度は裕也が顔を歪める。
「それは遠慮するわ」
「薄情な奴。でも君のそう言うところが好きだよ」
 呆れたように肩を竦める蒼に、だろ?と裕也は返す。
「どうだった?夏休みは。なんか変わったこととかあったか?」
 それに、少し考えた末に蒼は小さくうなずいた。その反応に、裕也は面白そうに目を輝かせる。
「お、なになに?」
「うん。面白い子に会ったんだ。表情がすごく豊かで、コロコロと変わる。素直で、礼儀正しいんだよ」
 その口ぶりに、彼は驚いたように目を瞬かせる。
「え、それってもしや女子?」
「うん、そうだね」
 これは驚いた。高校時代「女なんてめんどくさい、所詮は自分の顔目当てに言い寄ってくる存在だ」と言い張っていた蒼が。
「お前も成長したなぁ…」
 まるで久々に会った親戚の年寄りかの言い方に、彼は目をすがめる。
「君は一体、僕の何なんだよ。真剣に聞く気がないなら、もう話さないけど」
「あ、それは勘弁。ちゃんと聞かせていただきます」
 わざとらしく耳に手を当ててくる裕也に呆れながら、彼は再び口を開く。
「…用事があって出かけてる途中で、その子が熱中症で目の前で倒れたんだよ」
 少しずつポツポツと始めた蒼の話を、今度こそ裕也は静かに聞く。
 話し終えたところで、彼は蒼の肩にぽんと手を置いた。当然、葵は不思議そうに首をかしげる。
「なに?」
「いや、うん。まず、オレはお前が用事があるというのに他人を助けたことにびっくりしている」
 初っ端からとても失礼なことを言ってのけた友人に、彼はにっこりと笑った。
「今までありがとう。君という貴重なの友人を失うことになって、僕は悲しいよ」
 そう言って立ち上がりそのまま立ち去っていこうとした蒼を、裕也は慌てて引き止める。
「いやいやいや、待て待て。というか、その言い方じゃ全く悲しそうじゃなさそうだぞ?オレの方が悲しいくらいだわ。って、そうじゃなくて。いったん話を聞けよ」
 1人でノリツッコミを終えて、彼は深呼吸をする。蒼は、仕方なくもう一度席についた。
「言っておくけど、いくら僕でも目の前で人が倒れたら普通に助けるからね?そこまで冷酷な人間じゃないよ。心外だな」
 ひどく不満そうに眉根を寄せる蒼に、たしかにと裕也はうなずく。もしも彼がそこまで冷たい人間だったなら、自分はすでに彼と共にいない。
「よし、悪かった。さっきの言葉は撤回しよう」
「当然」
 気を取り直すように、裕也は咳払いを一つした。
「蒼、その子といると楽しいんだよな?」
「楽しいというか、面白い、かな」
 ふむふむとうなずき、どこからともなく取り出した紙とペンにそれをさらさらと書いていく。
 それからいくつかの質疑応答を終えて、裕也は自信満々に、人差し指をピンと立てる。
「ずばり、それはお前がその子のことが気になっているということだ」
 それに、蒼は呆れたようにため息をこぼす。
「だから、そういうのじゃないって言ってるでしょ。あくまでも面白い子だな、って思ってるだけ」
「でも、お前今までそんなふうに思うような子いなかったろ?気になってることは違いない」
「ああいえばこういう」
「でも、事実だろ?」
 それに、彼は押し黙る。たしかに、今まで異性に対してこんな風に感じることはなかったことは事実だ。
 そのまま沈黙する蒼に、彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「そこを踏まえてよく考えてみるんだな。きっとその子はお前を変える運命の相手に違いない」
 なぜそんな根拠のないことを断言できるのか。
 甚だ疑問に思って、想像力豊かな友人にため息をついた。
 

  佳乃の通う高校まで無事にたどり着いた猫姿のアリスは、フェンス越しに学校を見上げる。
(なるほど。ここが佳乃が通っている高校ね)
 流石にこんな場所でこの姿のままで声を出すのはリスクが高いので、心の中で呟く。
 周りを見渡してみると、ちょうど教室がのぞけそうな木が生えていたので、助走をつけてそれに飛び乗る。
(佳乃はいるかしら)
 木の上から見える範囲だけで、佳乃のいる教室を探していく。
 少しして、佳乃らしき人物を見つけた。教師の話をきちんと背筋を伸ばして聞いている。
(ふふ、あの子は真面目ね。ほかの同じクラスの子たちはあまり聴いていないようなのに)
 彼女以外の人々を見てみても、大きく分けて机に突っ伏しているか、机の下で端末をいじっているかの二手に分かれている。
 やがて、学校全体からチャイムが鳴った。音が大きくて思わずびくりと体を震わせる。猫は耳がいいのだ。
 再び佳乃のいる教室へと意識を戻すと、担任に礼をして帰り支度をしていた。そういえば、今日は学校再開初日なので半日で済むと言っていた。だが、サッカー部の軽いミーティングがあるらしい。それが終わったら店に顔を出すと言っていたので、佳乃はこれからサッカー部だ。
(そうだわ。どうせならあの子の部活も覗いていきましょう)
 どうせまだ店が混む時間には余裕がある。それくらいなら平気だろう。
 そう考えて、アリスは音を立てずに静かに地面に着地した。


 ホームルームを終えた佳乃は、荷物を持って隣の教室へと足を運んだ。
「友紀ちゃん〜」
「はぁい〜」
 のんびりと返事をするのは、中学からの友人である浅黄友紀だ。おっとりとした性格をしていて、佳乃の一番仲の良い友人である。彼女も同じサッカー部のマネージャーをしているので、事前にこれから向かうサッカー部のミーティングに一緒に行こうと話していたのだ。
「お待たせ。行こ〜」
 にこにこと朗らかに笑う友紀うなずいて、2人はサッカー部の部室に向かった。


 ミーティングを終えた佳乃は、途中まで一緒に帰っていた友紀と別れ店への道のりを歩いていく。
 その途中で、何だか見覚えのある艶やかな黒猫が、木の上から降りてきた。
「わ!」
「にゃー」
 まさかと思いつつも、佳乃はその場でしゃがみ込み、自分を見上げる青い目をした黒猫に視線を合わせる。
「アリスさん、ですよね?」
 それに、やはり黒猫は返事をする様に一鳴きした。
 聞きたいことはいくつかあるが、この場で話していてはおかしな人に思われてしまう。ひとまずアリスのことをそっと腕に抱いて、店への足を早めた。


 店に着いた瞬間に、アリスを下ろし、佳乃は首をかしげる。
「アリスさん、外に出ている間お店はどうしたんですか?」
 ノエルが店番をしているのかと思っていたら、誰もいない。一番気になったのはそこだった。
「closeの看板をかけておいたわ。さっき入ってくる時見えなかった?」
 言われてみれば、かけてあったような気もしなくもない。
「今の時間、夏休みも終わってしまって学生のお客様もいなくなってしまって、暇なのよ」
 軽くため息をつくアリスに、佳乃は苦笑する。だからといってまさか猫の姿になって外を出歩いているとは思ってもみなかった。
「そうそう。あなたの学校にも遊びに行って、教室での姿も見学させれもらったわ。なかなか新鮮だったわよ」
 楽しげな声音に、きっと今人間の姿になったなら面白そうに笑っているのだろうなと呑気に考える。
「え、いやちょっと待ってください。アリスさんうちの学校までわざわざ来たんですか?その姿で?」
「ええ」
 こくりとうなずくアリスは可愛らしい。先ほど抱いた時も、肌触りがとても柔らかくもふもふとしていた。リウムといい、使い魔の毛並みは皆良いものなのだろうか。
「それで、どうでした?学校」
「楽しかったわ。今気づいたのだけど、私人間の学校に行ったのは初めてだったのよ。あんな風に人の子がたくさんいて、休み時間には騒いでいる様子を見れて私も少し若返った気分よ」
 なんともおばさんくさいことを言ったアリスに、彼女は苦笑する。
「そうだ。アリスさんに報告したいことがあったんです」
 ぽんと手を合わせて、佳乃が嬉しそうに笑う。それに、アリスはまばたきを一つして人の姿に戻る。
「どうぞ」
 促すように優しく笑うアリスにうなずいて、佳乃は口を開く。
「文化祭、私のクラス喫茶店をやることになったんです。それで、私は調理担当になりました」
 ちなみに、佳乃を調理担当に推薦したのは悠斗だった。調理担当はやはり、飲食店でバイトをしている人がいいとのことだ。
「あら、すごいじゃない」
 よかったわね、と付け加えるアリスに、佳乃はうなずく。
「はい!クッキー作りなら自信があります。他のは少し不安ですけど…それで、以前倉木さんに作ったクッキーと同じものを、そのお店で出そうと思ってるんです。大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。ついでにお店の宣伝もしてくれれば嬉しいわ」
「あ、そこは任せてください!ばっちりやっときます」
 ぐっと親指を立てる佳乃に、アリスはおかしそうに笑った。
「よろしくね。文化祭には私も行けるのかしら」
「あ、はい。二日間あって、一日目は内部公開なんですけど、二日目は外部の人たちもたくさんくるんです。詳しい日程とかが決まったら知らせますね」
 それにうなずいてから、彼女は首をかしげる。
「倉木様は誘うの?」
「え」
 硬直する佳乃に、アリスはきっとそのことは考えていなかったのね、と確信する。
 しばらくフリーズする佳乃の顔の前で、ひらひらと手を振ってみる。
 なんの反応もないので、アリスは肩を竦めて店の外に出る。「close」の看板を外し、再び店の中に戻った。
「はっ…!」
 ドアベルが鳴ったことでようやく反応した佳乃は「close」の看板を手にしたアリスを見て申し訳なさそうに眉を寄せる。
「すみません、今意識がどこかに行ってました」
 それに、アリスは苦笑する。
「でしょうね。それで、決めた?」
「えぇっと…」
 まだ決めていいらしい。言い淀む佳乃に、アリスは柔らかく笑う。
「まぁ、焦らなくてもいいんじゃない?彼が店に来たときに、試しに来たいかどうかだけでも聞いてみれば?」
「そ、そうですね」
 硬い動きでうなずいた佳乃に、アリスはおかしそうに笑った。

魔法界にて、ノエルは長老たちに呼び出されていた。
 正直面倒くさくて仕方なかったので、すっぽかそうと思っていたのだがアルバに「逃げていても仕方ないんじゃないかな?」と朗らかな笑みで言われてしまい、それもそうなので大人しくそれに従うことにしたのだ。
 しかめっ面をする目の前の数人の長老たちに、自分は絶対にこうはならないぞ、と心の中で決める。
 ノエルが目の前でそんな失礼なことを考えているとは思わずに、一番年嵩に見える長老が厳かに口を開いた。
「ノエルよ」
「はい」
「そなたの使い魔、アリスが経営している洋菓子店に、人間の娘が働いているらしいな」
「そうですね」
 肯定したことにより、周りの長老たちがひそひそと話し始める。予想通りの反応に、彼女はそっとため息をつく。
「何か問題でも?人間と私たちの共存について任せたのはあなた方です。私の好きにさせてもらいますよ」
 ううむ、と、長く立派な白い髭を撫でつけ、低く唸る。
「それはそうなのだが。その娘は信頼に値する人間か?」
「もちろん。とてもいい子ですよ」
 当然のように大きくうなずくノエルに、再び長老は唸り上げる。
 それに、彼女は若干の苛立ちを感じる。勝手に自分を判断役に任命して、あげく、それに文句をつけるとはどういう了見だろうか。
 流石に腹が立ってきて、ノエルは目を吊り上げる。
「そんなにご心配なら、ご自身で会ってみればよろしかと思います。それなら文句はないでしょう」
 それに一際ざわめきが広がる。
「ノエル、大長老に対してなんて口の聞き方だ。流石に見過ごせぬぞ」
 一人が言うと、周囲の長老たちも文句を言い始める。
 嫌気がさして、杖を取り出しかけたところで、大長老が口を開く。
「静まれ」
 さして大きな声でもないのに、その一言でしんと静まり返る。
「…ノエルの言うことも一理ある。ワシがその娘を試させてもらおう。異論はないな?」
「はい」
 うなずきながら、ノエルは心の中で佳乃に謝る。
(ごめんね、佳乃ちゃん)
 そうして、その場はお開きとなった。
 

 軽快な音が店内に響く。Notaの制服に着替えた佳乃は、いつものようににっこりと笑った。
「いらっしゃいませ」
 入ってきたのは大柄な男性…いや、人間じゃない、いわゆる獣人と呼ばれる存在だろうか。だった。
 耳と尻尾を見る限り、狼だろうか。
 少し荒い茶色の毛並みを持つ耳と尻尾に、鋭い黄色がかった瞳をしている。
 初めて会う獣人に、佳乃はこくりと唾を飲み込む。
「…何かお探しでしょうか?」
「……ガトーショコラを、食べたい」
 思ってもみなかった単語が出てきて、佳乃は目を瞬かせる。
「ガトーショコラ、ですか」
「あぁ」
 しばらく無言で、お互いに見つめ合う。
「…おかしいだろうか。俺のような者が、甘いものを欲することは」
 何も言わない佳乃に不安に思ったのか、獣人が耳と尻尾を下げる。それに、佳乃は慌てて首を横に振った。
「そんなことはありません!ただ、どうしてガトーショコラなのかな、と」
 店内には他にも様々な洋菓子があるのに、なぜわざわざガトーショコラに限定するのか。
 もっともな疑問に、今度は獣人の方が目を瞬かせた。
「仲間が、言ってたんだ。人間が作る菓子の中で、ガトーショコラというチョコレート菓子が絶品だと。それを聞いて、この店なら気軽に買いに来れるかと思って…やってきた」
 少しだけ気恥ずかしそうに目を逸らしながら話す獣人に、彼女は思わずおかしそうに笑うを
「なるほど。では、少々お待ちください。店長に確認して参ります」
 それにうなずいて、彼は物珍しそうに店内を見渡し始める。佳乃は、そんな獣人を微笑ましく思いながら厨房へと足を向けた。
 

 獣人が来たとの知らせを聞いたアリスは、目を丸くした。
「珍しいわね。あの種族がこんなところまで来るなんて」
「あ、やっぱり珍しいんですね。当たり前なのかもしれないけど、私も初めて会いました」
 それにうなずいてから、アリスはノートを取り出す。
「きっと、その獣人が言っているのはこのクラシックガトーショコラのことだと思うわ。少し話を聞いてみましょう」
 そう言って、アリスは厨房を後にする。佳乃もまた、それに続いた。

 店内の焼き菓子コーナーを観察していた獣人は、二人の足音にぴくりと耳を動かす。その様子に、佳乃はやはり耳がいいんだな、と呑気に考える。
「お客様がご所望の品はこちらでしょうか?」
 すっとイラストを見せる。獣人はそれを覗き込むと、こくりとうなずいた。
「たぶん、そうだと思う」
「では、今からお作りしますので小一時間ほどお待ちいただけますか?ちょうど今の時間帯なら空いてますので、すぐにご用意できます」
「…じゃあ、待つ」
 少し考えた末にそう答えた獣人に、アリスはにっこりと笑う。
「承りました」
 そうして、ガトーショコラ作りが始まった。
 
 アリスのガトーショコラ作りを見学しようと思ったのだが、それよりも獣人への好奇心の方が勝っていたので佳乃はその場に残ることにした。
「…お前は人間なのか?」
 お互いに向かい合う形になって座って数秒。獣人の方が話しかけてきた。
「はい。人間ですよ。獣人さんのお名前、なんていうんですか?」
「ラウラだ」
「私は佳乃です。ラウラさんは、お仲間さんと一緒に暮らしてるんですよね。皆さん、仲が良いんですね」
 それに、彼は緩く首を振る。
「そういうわけではない。力関係が均一になるように簡単に振り分けられてるだけだ。喧嘩もよくする」
「喧嘩、ですか?」
「いわゆる殴り合いだ。勝った方が自分の意見を通すことができる」
 なるほどと佳乃はうなずく。たしかにラウラの体はとても逞しい。
「じゃあ、ラウラさんのその体は強い証拠になるますね!」
 ラウラは少し驚いたように目を丸め、首をかしげた。
「てっきり、人間はこういう話を嫌うと思っていた」
 それに、佳乃は目を瞬かせる。そして、うーん、と小さく唸りをあげた。
「そうですねぇ…たしかに、暴力での喧嘩はあんまり良いとは言えませんけど、ラウラさんたちのそれは自分の意思を貫き通したい、とか、生きることに必要なことなんですよね?」
 暴力での解決を好ましいとは思わない。けど、その考え方は偏見だし、実際に弱肉強食というような言葉もあるくらいだ。別に過剰に苛まれることではないだろう。
 佳乃の問いかけに、彼はうなずく。
「でしたら、いいと思うんです。それに、私がそれを否定する権利なんてありませんからね」
 にっこりと笑う佳乃に、ラウラはなるほどとうなずいた。彼女の言っていることはもっともだ。
「ヨシノはまだ若いのに、考え方が達観しているな」
「そうですか?ありがとうございます」
 少し照れたように笑う佳乃に、彼もまた口元に笑みを浮かべる。
「お前のような人間が増えれば、俺たちのような者たちも生きやすくなるのにな。現実は厳しい」
 そういえばこの店は、魔女と人間が本当に共存できるのかを試すために存在しているのだ。今のところ問題は起きていないが、もしも何か事件でもあったらどうなってしまうのだろう。
 急に押し黙った佳乃に、ラウラは不思議そうに首をかしげた。
「ヨシノ?」
「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事してました」
「そうか。さっきの話だが、俺はお前のような人間に会えてよかったと思っている。人間への考え方が変わった」
 ぎこちなく笑うラウラに、佳乃は嬉しそうに笑う。
「そう言ったもらえると私も嬉しいです!ガトーショコラを食べても、いつでもいらっしゃってくださいね。ここのお菓子は全部美味しいんですよ」
「ああ、そうさせてもらう。お前に会うのも楽しみだ」
「私ももっとラウラさんとお話ししたいです!」
 その時、ちょうどアリスが厨房からトレーを持ってきた。
「楽しそうで何より。こちらがガトーショコラになります」
 にっこりと笑って、彼女はそっとラウラの前にガトーショコラとフォークを置く。
「一応、佳乃の分も用意したのだけど食べる?」
「もちろん!あ、でもいいんですか?」
 一応まだ勤務中であるので、少しためらいがある。
「大丈夫よ。気にしないで」
 言いながら、彼女は佳乃の前にもガトーショコラを置く。少し申し訳なく思いながらも、欲望には抗えずにいただきますと言ってからフォークを握る。
 一口大に切って、口元へと運んだ。
「美味しい…」
 程よい甘さとほろ苦さに、佳乃はうっとりと頰に手を添える。
「それは良かった。お客様もどうぞ?」
 まだ手をつけずにじっとガトーショコラを見つめているラウラに、アリスは不思議そうに首をかしげながらも促す。
「…ああ、ではいただこう」
 妙緊張感を漂わせて、ラウラはフォークでガトーショコラを切り、ゆっくりと口の中入れる。
 一口目を飲み込み終えたかと思えば、すでに切ってあったガトーショコラをもう一口だべる。それを繰り返し、無言で食べ続けるラウラに、アリスと佳乃は顔を見合わせおかしそうに笑った。
 佳乃もまた、負けじとガトーショコラを次々に食べていく。
 それからはもう無言で食べ始めた二人を前に、アリスは苦笑した。

 あっという間に食べ終えた二人は、満足げにため息をひとつつく。
「…とてもうまかった。仲間の言う通りだ。今度は仲間も連れてきてもいいだろうか?きっとこのガトーショコラを気にいると思う」
「もちろんです。お待ちしておりますね」
 嬉しそうに笑って答えるアリスに、ラウラはうなずく。
「本当に美味しかったです。ラウラさんのおかげで私も得しました」
 にこにこと笑う佳乃に、ラウラはおかしそうに笑った。
「それはよかった。店主、このガトーショコラを持ち帰ることはできるか?」
「できますよ」
 トレーにカラになった皿やフォークをかたしながら、アリスはうなずく。
「では、二つ頼む。母と妹にも食べさせてやりたい」
「ラウラさん、妹さんいるんですね!いいなぁ」
「近々結婚するんだ。その祝いに何か食べさせてやろうと思っている。妹は人間の食べるものなど食べたことがないだろうから、物珍しさも相まって気にいるだろう」
 その話に、佳乃はぱっと顔を輝かせる。
「わぁ、おめでとうございます!」
「ありがとう、妹にも伝えておく」
 薄く笑うラウラにうなずいて、はたと今日久しぶりに会った悠斗の話を思い出す。彼もまた、妹の誕生日に何かを贈りたいと言っていた。
「あの、アリスさん。相談があるんですけど…」
 申し訳なさそうに切り出した佳乃に、アリスは首をかしげた。


 翌朝。学校についた佳乃は、悠斗が登校してくるのを今か今かと待ちわびていた。
 見るからにそわそわとしているので、遊びに来ていた友紀が不思議そうに首をかしげる。
「なんか、今日佳乃ちゃん会ってからずっとそわそわしてるよね。何かあるの?」
 その問いかけに、彼女はまってましたと言わんばかりにきらきらと目を輝かせる。
 佳乃ちゃんはいつも元気で可愛いな、などと呑気に考えていると、佳乃はぽんと軽い音を立てて手を合わせる。
「あのね、岬くんの妹さんが後少しでお誕生日なんだって。それで、昨日何をプレゼントしたらいいかわからないって言ってたから、私も考えてみたの。そしたらね、昨日バイト先で思いついたんだけど、岬くんの手作りお菓子をプレゼントしたらどうかな、って思うんだ。それで、昨日店長さんにお店で作ってもいいか聞いてみたら、おっけいしてもらったの!あとは岬くん本人に聞いてみるだけ!」
 意気込む佳乃に、パチパチと友紀は拍手を送る。
「すごい。頑張ってね〜」
 にこにこと朗らかに笑う友紀の視線の先には、口元に人差し指を立ていたずらっぽく微笑む悠斗の姿が。
「俺が何だって?」
「うわぁ!!」
 急に後ろからちょうど話に出ていた張本人の声が聞こえてきて、佳乃は驚きの声をあげる。
「岬くん!いつからそこに」
 予想通りの反応におかしそうに笑いながら、悠斗は答える。
「つい今し方。ちゃんと挨拶しながら教室入ったんだけど、お前気づかねぇからさ。試しに脅かしてみようと思って」
 いたずらが成功したと、友紀と目を合わせくすくすと笑う悠斗に、佳乃はショックを受ける。
「ひ、ひどい…岬くんだけでなく友紀ちゃんまで…!」
「あはは、ごめんねぇ。佳乃ちゃん、いつ気づくのかな?ってつい気になっちゃって」
 好奇心には勝てないものだ。
 しばらくじとっと二人を見つめていたが、彼女は諦めたようにため息をつく。そのタイミングを見計らって、悠斗がにかりと笑った。
「そんで?俺が何だって?」
「あ、そうそう。昨日、岬くん妹さんへのお誕生日プレゼント、何を贈ればいいかわからないって言ってたでしょ?それで、私も考えてみて、提案があるんだけど。私のバイト先で、一緒に何かお菓子を作ってあげようよ!きっと喜ぶよ」
 それに、彼は虚をつかれたような顔をし、次に眉を寄せる。
「それはありがたい話だけど、いいのか?流石に迷惑だろ」
「私も最初はそう思ってたんだけど、試しに店長さんに相談してみたら、全然おっけいだって。むしろ手伝ってくれるそうです」
 心優しいアリスの顔を思い浮かべ、彼女は心の中でアリスに対して合掌する。本当に彼女には感謝の気持ちしかない。
「うーん…」
 佳乃の言葉に、悠斗は考えこむように唸りをあげる。そして、ちらりと彼女をみた。
「じゃあ、そうさせてもらうか。せっかく三鷹が考えてくれたし、妹も喜びそうだ」
「決まりだね!岬くん、土曜日暇?」
「残念ながら、俺はいつでも暇だよ」
 堂々と言ってのけた悠斗に、佳乃はおかしそうに笑った。土曜日が楽しみだ。
 土曜日。佳乃は朝からご機嫌だった。今日の夕方、悠斗と共に彼の妹の誕生日プレゼントを作るのだ。何を作るかは、悠斗が決めることになっている。
 まだ昼過ぎなのに、早く夕方にならないかと定期的に時計に目をやる佳乃に、アリスは苦笑し、お茶をしにきていたアルバはおかしそうに笑った。
「佳乃、少し落ち着いたら?今朝からそわそわしすぎよ」
「分かってはいるんですけど…友達とお菓子を作るのなんて、初めてなので。しかも、それを誰かにプレゼントするなんて、わくわくしちゃいますよ」
 きらきらと目を輝かせる佳乃に、アルバが紅茶を一口飲んで言う。
「ヨシノはとてもいい子だね。見ていて和んでくるよ」
 にこにこと笑って、再び紅茶を飲むアルバに、佳乃ははにかむ。やはり直球に褒められると、照れてしまう。
「でも、私も楽しみだわ。佳乃の友達は、一体どんなお菓子を作りたいと言うのかしら」
 アリスの呟きに、佳乃はやはり職業柄そこが一番気になるのだな、と考える。着目点がパティシエールだ。
「そうですね…私もそこら辺は何も聞いてないので、わかりません」
 今思えば、悠斗に妹がいること自体をつい最近知ったのだ。果たして彼の妹は、見ず知らずの人物も手伝ったお菓子を食べてくれるのだろうか。
 あまり深く考えていなかったので、その考えに至った佳乃はさぁっと血の気が引くのを感じた。
 急に顔色を悪くした佳乃に、アリスが心配そうに覗き込む。
「どうかしたの?顔色が悪いわよ」
「いえ、大丈夫です。ちょっと悪いこと考えちゃって。体調が悪いとかじゃないので、心配なさらず」
 そんな時、ドアベルが店内に響く。
「いらっしゃいませ」
 いつものように来店者を出迎える挨拶を口にして、佳乃は入ってきた人物に目を丸くする。
「こんにちは…ん?」
 入ってきたのは蒼だった。彼は、いつものように佳乃に挨拶をすると、彼女の顔色を見て首をかしげた。
「三鷹さん、体調悪い?大丈夫?」
 あっという間に距離を縮めて心配そうに瞳を覗き込まれて、佳乃は先ほどとは真逆に、顔を赤くする。
「え、あ、はい!大丈夫です。体調が悪いわけじゃなくて、ちょっと嫌なこと考えちゃっただけなので!!」
 慌ててささっと後ろに身を引いた佳乃に、蒼はそっかとうなずく。たしかに体調が悪いわけではないようだ。
「…迷惑じゃなければ、話してくれないかな?」
 大抵の女性なら、優しく笑って小首をかしげてしまえばすぐにその悩みを話し始めるのだが。
 佳乃は大きく首を横に振った。
「大丈夫です。自分で解決してみせますよ!倉木さんだって、何か悩みがあるでしょうし、私の話聞いていただく義理もありません」
 彼女の返答に、蒼はおかしそうに笑い始める。
 ほら、やっぱりこの子は面白い。今まで出会ってきたつまらない、自分の顔しかみない女たちとは違うのだ。
「えぇ…私、また何かおかしなこと言いました?」
 以前と同じように目の前で笑い続ける蒼に、困惑して佳乃はそれを静観していたアリスとアルバに問いかける。
「あはは、彼にもいろいろあるんだよ、きっと」
「変わったツボをしているんだと思って、少しの間放っておきなさい。大丈夫よ」
 アルバはともかく、しれっと仮にも客に対して失礼なことを言い放ったアリスに、佳乃はさらに困惑した。そうは言われても、本当に放っておいていいのだろうか。
「あ、あの、倉木さん」
 笑いすぎて出てきた涙を拭いながら、蒼は佳乃へと目を向ける。
「もしお時間があるなら、イートインスペースで何か食べて行きませんか?ちょうど今なら空いてますし」
「うん、そうさせてもらうよ。そうだ、君に伝えようと思ってたんだけど、おすすめしてくれたシフォンケーキ、すごく美味しかったよ。できれば、今日もおすすめを教えて欲しいな」
 それに、彼女は嬉しそうに笑った。
「それならよかったです!はい、では少し待っていてくださいね。あ、先に先におかけになっててください」
 慌ただしく厨房へとお冷をとりに行った佳乃を微笑ましく思いながら、蒼は彼女が戻るまで素直に先に座った。


 待ちに待った夕方、なはずだった。先ほどまでは蒼やアルバと談笑していたおかげで気が紛れていたが、いざもう少しで悠斗が来るとなると、少し気まずいのだ。
 といっても、先ほどの考えは本人に言われたわけでも何でもなく、ただ勝手に佳乃が考えているだけのものに過ぎないのだが。
 早鐘を打つ心臓を必死に押さえつけながら俯いている佳乃に、アリスが声をかけようとしたところでドアベルが鳴ってしまう。
「こんちは…」
 入ってきたのは案の定悠斗だった。既に店のドアには「close」の看板がかけてあるのだから、当たり前なのだが。
「こんにちは。あなたが佳乃のお友達?」
 ひとまず悠斗の挨拶に答えて、アリスは念のため確認する。それにうなずいてから、佳乃へと視線を移した。
「あの、三鷹どうしたんですか?ずっと俯いてるんですけど…」
 心配そうに佳乃を見つめる悠斗に、アリスは困ったように眉を寄せる。
「それが私にもわからないのよ。体調が悪いのか聞いても、大丈夫です、の一点張りで」
 頰に手を添え、同じように心配そうに佳乃を見つめるアリスに、悠斗は一つうなずいて考えるように目を伏せた後、彼女に近づいていった。
「三鷹、なんか気にしてることがあるんだろ?言ってみ?」
 下から覗き込み、目をじっと見つめてくる悠斗に、彼女は少し逡巡したあと小さくうなずいた。
「えっと…すごい今更なんだけど、妹さん、知らない人が作るのを手伝ったお菓子なんて、食べたくないんじゃないかなって思って。せっかくの誕生日なのに、不快な気分にしちゃったらダメでしょ?」
 考えてもみなかった観点からの指摘に、思わずアリスと悠斗は顔を見合わせる。
 悠斗は、佳乃に対して呆れたような顔をした。
「あのな、お前気にしすぎだって。俺の妹、そんなに神経質な奴じゃねぇよ。それに、それ言っちゃったら、世の中のお菓子好きの人たちはみんな、『知らない人』が作ったもんを食べるんだから、キリないぞ?」
 彼の言っていることを、ゆっくりと頭の中で解いていく。
 よく考えてみれば、たしかに自分でも知らない人が作ったお菓子を平然と食べている。そもそも最近では、それを作ったのは人ですらなく、機械というケースも多い。
「た、たしかに…頭いいね、岬くん」
 ひどく納得したようにうんうんとうなずく佳乃に、彼は苦笑する。
「えぇ…こんなことで褒められてもあんま嬉しくないんだが」
 それもそうかもしれない。なんだか急にそれまでの考えがおかしく思えてきて、佳乃は笑った。悠斗の言う通り、気にしすぎだったようだ。
 ようやく笑顔を見せた佳乃に、彼はほっとしたように胸を撫で下ろす。
「解決したようでよかったわ。それじゃあ、本来の目的に移りましょうか」
 二人のやりとりを見守っていたアリスが、にっこりと笑う。それに、二人はうなずいた。

 アリスは変わらずコックコート、佳乃は普段どうりアリスから渡されているエプロン、悠斗は持参した青いエプロンを身につけて、準備は万端だ。
「それで、岬くんは何を作ろうと思ってるの?」
「ティラミスを、作りたいと思ってる。妹が一番好きなんだ」
 ちらりとアリスを見る。
「俺、菓子作りなんてしたことないんです。ティラミスなんて難しそうなやつは、やっぱり無理ですかね」
 苦笑する悠斗に、彼女は緩く首を振った。
「そんなことはないわ。ティラミスって、一見作るのが難しそうに感じられるかもしれないけど、案外簡単なのよ」
 言いながら、アリスは次々にティラミスに必要な材料を台の上に用意していく。
 道具まで全て用意して、彼女はにっこりと笑う。
「では、始めましょうか」
 それにうなずいてから、佳乃はとても重要なことを思い出した。
 アリスは、ことお菓子作りになると、途端にスパルタになるということを。


「「うぅ…」」
 アリスのスパルタにより、佳乃と悠斗はイートインスペースの座席で突っ伏していた。
「お疲れ様」
 ことりとおかれた冷水を、二人は一気に飲み干す。今は穏やかな笑みを浮かべているが、先ほどまではその笑顔に有無を言わさない圧があった。
 作り終えたティラミスは、冷蔵庫に入れてある。悠斗が帰るときに持ち帰る予定だ。
 ちなみに、佳乃もちゃっかり自分の分を作っていたので、後で家族と共に食べるつもりだ。
「…にしても、まさか本当に自分でティラミスが作れるとは思ってなかったよ。きっかけを作ってくれてありがとな、三鷹」
 頰付けをついて言う悠斗に、佳乃は緩く首を振る。
「どういたしまして。でも、私もこんな機会なかったらティラミスなんて作らなかったろうし、逆によかったよ」
 ほぅと完全に脱力している佳乃の頭に、悠斗はごく自然な流れで手を置いた。
「疲れたな〜。よしよし」
 きっと、彼としては無意識の行動なのだろう。だが、佳乃としては少し、いや、かなり恥ずかしい。
「…わぁ」
 なんとも言えない声をあげて、徐々に顔に熱が集まっていくのを感じながら、佳乃は振り払えぬままされるがままになる。
 これは、どうするのが正しいのだろうか。
 アリスに助けを求めようにも、彼女は今、厨房で先ほど自分たちが作ったティラミスをラッピングしてくれている。
 このまま一定のリズムでぽすぽすと頭を撫でられ(?)続けるのは、いろんな意味で辛い。
「あ、あの、岬くん」
「ん?」
 少し言いづらそうに口を開いた佳乃に、彼は不思議そうに首をかしげる。
「頭…私は、妹さんじゃないよ?」
 言われて数秒、悠斗は硬直した。そして、そっと手を下ろす。
「あー…悪い。つい癖で」
 今度は彼が顔を赤くしている。相当恥ずかしいのだろう。
「ううん、大丈夫。気にしてないよ。結構心地よかったしね」
 苦笑混じりにフォローをされ、悠斗はとても複雑そうに顔を歪めた。
「少しは気にして欲しいんだが。うん、まぁいいか」
 と、目の前に綺麗に包装されたケーキ用の箱が置かれた。
「はい、さっき二人が作ったティラミスよ。手作りだから、なるべく早く食べてね」
 今のやりとりを見られていたのかいなかったのか、なんとも微妙なタイミングでやってきたアリスに、二人は顔を見合わせ複雑そうな顔をする。
「アリスさん、いつからそこに…?」
「さぁ、いつからでしょうね」
 しれっとしらばくれた様子のアリスに、佳乃は見られていたことを確信する。穴があったら入りたいくらいだ。だがそれは隣にいる悠斗も同じ気持ちなはずなので、我慢しよう。
「さて、二人ともそろそろ帰りなさい。もう7時過ぎよ」
「え」
 驚いて時計に目をやると、たしかに夜の7時を過ぎていた。夕方から始めたはずなのに、ずいぶんな時間が経っていたようだ。
「こりゃまずいな。三鷹、送ってくよ」
「あ、うん。ありがとう」
 立ち上がり、お互いに身支度を済ませていく。
 終わってから、悠斗がアリスに頭を下げた。
「今日はわざわざありがとうございました。今度、妹連れてまたきますね」
「ええ、楽しみにしてるわ。気をつけて」
 柔らかく笑うアリスに、佳乃も軽く頭を下げる。
「ありがとうございました。また明日、アリスさん」
「また明日」
 ひらひらと手を振るアリスに見送られて、二人は店を後にした。


 佳乃の自宅までの道のりを軽く談笑しながら歩いていると、悠斗が何かを思い出したようにおかしそうに笑った。
「にしても、あの店長さん見かけによらずめっちゃスパルタだったよな。人を見かけに判断しちゃダメって言う言葉が、よぉく身に染みたよ」
 それにつられて佳乃も笑う。
「ふふっ、私もこの前クッキーを作ったときとか、すごい大変だったんだよ。あの時は比較的時間があったから、何回もやり直しして、やっとおっけいもらえたの」
 身振り手振りをつけて一生懸命その時の苦労を伝えようとする佳乃に、悠斗はさらにおかしそうに笑った。
「そりゃ大変だったな。いやぁ、美人の笑顔の圧力はおっかないことがわかったわ」
「うんうん。やっぱり、顔立ちが整ってる分怒ったりすると怖いんだろうねぇ。あれ、でも岬くんアリスさんのこと見ても、あんまり驚かなかったよね」
 彼が入店してきた時のことを思い出し、彼女は不思議そうに首をかしげる。それに、悠斗は微妙な顔をした。
「あー…まぁもちろん、美人だなぁとは思ったけど」
 と、佳乃をじっと見つめる。
「好みじゃなかったというか?あんまり気にすんな」
 苦笑した悠斗に、さらに深く首をかしげてから、佳乃はうなずいた。
 あの美貌でさえも好みじゃないのか。
「岬くんってすごい面食い?なんだね」
「ぶっ…!」
 予想外の言葉が佳乃の口から飛び出してきて、彼は吹き出した。
「おま、面食いって…それは違うだろ。というか、今わかって言ってんの?それ」
「うーん…たぶん」
 曖昧な返答に、彼は呆れたように笑った。
「お前はそのままでいてくれ。もうそれが一番いい気がしてくる」
 ぐっと親指を立ててくる相手に、彼女は再び首をかしげる。どういう意味だろう。
「あ、そういやその作ったクッキーってのは誰かにあげたのか?浅黄とか」
 何気なく書かれたその問いかけに、彼女はぴしりと音を立てて固まる。その反応に、今度は悠斗が首をかしげた。
「三鷹?」
「えっと…その、好きな人に」
「え…?」
 悠斗もまた、同じようにして固まる。
「お前、好きな人いたの…?」
 なぜかひどく緊張した声音に、佳乃は不思議に思いながらもうなずく。
「夏休みに倒れたところを助けられて…初恋、かな」
「へ、へぇ…」
 そして少し考え込んでから、覚悟を決めたように目を細める。
「やっぱ前言撤回だわ。お前もうちょっと危機感とか持ったほうがいいかも」
「えぇ…」
 その言葉の意味がわからずに、佳乃は困惑の声を上げる。悠斗はそれに、苦笑した。
「ごめんな」
 どうして謝るのだろう。謝罪の意味がわからずに、佳乃は首をかしげる。それにはなんの反応も示さずに、彼は空を見上げた。
 星のない空に真ん中に、丸い満月が煌々と輝いていた。
 

 
 翌朝。日曜なのでNotaにやってきた佳乃を、いつかのときのようにノエルが出迎えた。
「おはようございます、ノエルさん」
「おはよう、佳乃ちゃん。アリスは今、倉庫に行ってるから先に着替えてきちゃいな」
 その言葉にうなずいて、佳乃はいつもの着替え部屋へと入りかけたところで、思い出したようにあ、と声をあげた。
「ん?どうかした?」
「はい。あの、後でノエルさんに渡したいものがあるので少し待っててもらえますか?」
「うん、大丈夫だよ。今日は午前中ずっとここにいる予定だから」
 それにうなずいて、今度こそ着替え部屋に入って行った佳乃の後ろ姿を見届けて、彼女は軽くため息をついた。
 佳乃には、大長老の件を話すつもりはない。変に身構えてしまって彼女の良さが発揮されなくなってしまったら、大変だからだ。一応、アリスには伝えておいてあるので、もしもこの店で何かあれば対処してくれるだろう。
「ごめんね、佳乃ちゃん」
 完全にこちら側の世界のことに巻き込んでしまったことへの申し訳なさで、改めてノエルは佳乃のいる部屋へ謝罪の言葉を述べる。
「大丈夫よ、佳乃なら。きっと大長老様も認めてくださるわ」
 タイミングを図ったかのように戻ってきた自分の使い魔に、彼女は微笑む。
「そうだね。私たちは、佳乃ちゃんを信じてあげよう」
 それにうなずいて、アリスはそっと、厨房へと姿を消した。


 着替え終え、部屋を出るとノエルがイートインスペースでコーヒーを飲んでいた。そして先ほどから用意しておいたものを手に、佳乃はノエルにそっと近づく。
「これ、文化祭のチケットです。私のクラスは喫茶店をやるので、これたらぜひ遊びに来てください」
 どうしてか二枚手渡されたそれに、彼女は首をかしげる。
「どうして二枚なの?」
「あ、もう一枚はアルバさんに渡していただければ嬉しいです」
 その言葉に、なるほどとうなずいてから少し不服そうに眉を寄せる。
「別にわざわざ呼んだりしなくていいんだよ?」
「あはは、そういうわけにはいきませんよ。昨日お店に来たとき、誘ってねと言われたので」
 それに、ノエルはうんざりとした顔をした。
「佳乃ちゃんから懐柔していくとは、姑息な手を使ったな。後であったら懲らしめなきゃ」
 物騒な物言いに、佳乃は苦笑する。冗談だとはわかっているが、ノエルなら本当にやりそうで少し怖い。
「あ、でも本当に十月の初めの方にやるんだね。そろそろ準備も忙しくなってくるんじゃない?」
 チケットに記載されてある日付を読んで言うノエルの言葉に、彼女はうなずく。
「なので、来週からあんまりこっちのほうに来れないと思うんです。すみません」
「大丈夫だよ。高校の学校行事は人生に何回もあるわけじゃないんだから、しっかり楽しまなきゃね!」
 ぐっと親指を立てて爽やかな笑みを浮かべるノエルに、佳乃は大きくうなずく。
「はい!全力で楽しみます!!」
「ふふ、気合が入っているわね。水を刺すようで悪いのだけど、そろそろ開店するわよ。準備はいい?」
 それに、彼女は慌てて最終的な身嗜みをチェックしてから、店内を見渡す。確認を終え、大きくうなずいた。
 今日もまた、忙しい一日が始まる。


 夕方。もう後少しで閉店という時間に、アルバがやってきた。
「こんばんは、ヨシノ」
 朗らかに笑うアルバに、佳乃も笑顔を返す。
「こんばんは。どうしたんですか?こんな時間に来るのは、珍しいですね」
 アルバが普段訪れるのは、大抵まだ明るい時間帯の間が多い。今日のように空が赤く染まりかけている時間帯に来るのは、珍しかった。
 彼女の問いかけに、彼は一つうなずいた。
「うん。ヨシノ、今日はこれから何か用はある?」
「いえ、ありませんけど…」
 今日はもう、家に帰るだけだ。
 不思議そうに首をかしげる佳乃に、彼はにっこりと笑った。
「じゃあ、ちょっと付き合ってもらえる?連れて行きたい場所があるんだ」
 にこにこと、なんだかとても楽しそうなアルバに、佳乃はうなずいた。


 閉店し、着替えを済ませアリスに挨拶をしてから店の外に出ると、アルバがホウキを片手に立っていた。
「ホウキで飛んでいくんですか?」
 てっきり以前のように飛ばされるのかと思っていたので、きらきらと目を輝かせる佳乃に、アルバはおかしそうに笑いながらうなずく。
「君はリウムの背中に乗って空を食べるくらいには、高いところが平気らしいからね。それに、その方が楽しめるでしょ?飛ばされる方がいいならそうするけど」
 それに、佳乃はぶんぶんと首を横に振る。飛ばされるのが怖いとかではないのだが、あの謎の体験はできればもうしたくない。それに、ホウキで空を飛ぶことは、全国の少女の憧れでもあるのだ。
「ホウキでお願いします!」
「あはは、必死だなぁ。冗談なのに」
「アルバさんが言うと、どうしてか冗談に聞こえないんです…」
 苦笑する佳乃を面白そうに笑ってから、アルバはホウキを寝かせ、そこに横向きに座るようにする。
「Curabitur」
 小さくつぶやくと、彼の体とホウキがふわりと浮かんだ。
「わぁ、すごい!」
「うーん、いい反応」
 嬉しそうに笑って、佳乃へと指をくるりと回し、先ほどと同じ呪文を呟いた。
 すると、彼女の体もふわりと浮く。アルバは、少し離れた場所にいた佳乃の手を掴み、軽々と体を持ち上げてホウキの上に乗せる。細身の体からは想像もつかないほどの力だ。目を瞬かせていると、アルバが微笑みかけてきた。
「しっかりつかまっててね」
 佳乃がこくりとうなずくのを認めて、彼はホウキを徐々に上昇させていく。
 あっという間に遠のいて行った地面を見下ろして、佳乃は本当に自分がホウキで空を飛んでいることを実感した。
「ヨシノ、大丈夫?」
 ふわりふわりと風を受けてそよぐ黒髪を耳にかけて、アルバは佳乃を見る。それに、彼女は笑顔でうなずいた。
「はい!」
「ならよかった」
 そう言って笑うアルバの赤い瞳が、ちょうどその後ろにある茜色の夕日により、宝石のように輝いて見える。佳乃は綺麗だなと目を細めた。
 アリスやノエルも含めて、みんな自分たちとは違う容姿、瞳の色をしている。そこを改めて感じると、やはり種族が違うんだなと実感させられるのだ。けれど、その種族の違いがあっても、自分はこうして彼らと深い関わりを持てている。ふと、昔祖母に言われた言葉を思い出す。
『佳乃。人と人とのつながりというのは、運命の巡り合わせでもあり、また、とても大切な縁なのよ。それは時に、悪いことも招いてしまうこともあるかもしれないけれど、決して逃げないで、きちんと受け止めるの。そうすれば、きっとあなたのためになるわ』
 祖母は、まるで自分がそうだったかのように穏やかな笑顔で佳乃に教えた。あの時は祖母の言っている意味がきちんと理解できずに返事をしてしまったが、今ならよくわかる。
 この出会いは、きっと祖母の言う「縁」というものなのだろう。
 だったら、とても素敵な縁だと、佳乃はそっと嬉しそうに笑った。


 日が落ちてきて、うっすらと暗くなってきた頃。アルバは徐々に下降していく。どうやら目的地に到着したようだ。
 無事に地面に着地すると、アルバが佳乃に向かってくるりと指を回した。
「Revertere」
 ふっと、力が抜ける感覚がしたと思ったら体が浮いていない。
「すごいですね」
 感心したように何度もうなずいている佳乃に、彼はおかしそうに笑った。
「あはは、まぁこれは本当に初歩的な魔法だけどね」
「へぇ…」
 うなずいて、彼女は周りを見渡す。何の変哲もない、普通の町並みだ。最初は以前のように森に連れて行かれるのかと思っていたのだが、そうではなかったらしい。
「あの、ここって…?」
 いまだホウキから降りていないアルバに、不思議そうに首をかしげる佳乃に、彼ははにっこりと笑う。
「ヨシノ、ここから自宅までの道のりはわかる?」
「え、あ、はい」
 質問を質問で返されてしまった。戸惑いながらも、彼女はうなずく。
「じゃあ大丈夫だね。それじゃあ、僕はここで。また明日、ヨシノ」
「え」
 流石にそれは予想していなかったため、目を丸くする佳乃には反応せずに、彼は徐々に上昇していく。
「気をつけてね」
 最後にひらひらと手を振って、本当に飛んでいってしまったアルバに、佳乃は唖然と口を開ける。
「えぇ…」
 流石にこれはひどくないか。何のためにここに自分を置いていくのだろう。
「と、とりあえず…帰ろう」
 この道は一応何度か通ったことがあるので、帰り道はわかっている。
 歩き出そうとしたところで、後ろから聴き慣れた声が後ろから響いた。
「三鷹さん…?」
 それに、佳乃は驚きのあまり固まった。まさか、この場に彼がいるとは思っていなかった。
 まるで壊れたブリキのおもちゃのように鈍い音を立てて、佳乃は振り返る。予想通り、そこには目を丸くする蒼が立っていた。
「どうしたの?こんなところで」
「えっと…」
 流石に今までのことを素直に話すわけにもいかないので、必死に視線を彷徨わせる。
「ち、ちょっとここら辺に用事があって、それが終わったので帰ってる途中なんです」
 なぜ嘘をつくことはこんなに心苦しいのだろう。
 彼は、いかにも挙動不審な佳乃に怪訝そうに首をかしげる。
「そうなんだ?僕はバイト帰りなんだ。女の子一人じゃ危ないから、送っていくよ」
「え、いえ、大丈夫です!」
 蒼だってバイト帰りということは少なからず疲れているはずだ。わざわざ送ってもらう理由はない。
「うーん、そんなに全力で断られると傷つくな。僕と一緒にいたくない?」
 ぶんぶんと首を横に振る佳乃に、蒼は苦笑する。佳乃はさらに勢いをつけて首を横に振った。
「そういうわけじゃありません!!」
「ふふっ、なら送らせてよ。僕の名誉のためにも、ね?」
 それに、少しの間微妙な顔をして考えこむと、佳乃はほんのわずかにうなずいた。ここまでいってくれているのに断るのは、かえって失礼だ。
「よろしくお願いします…」
「お願いされました」
 満足げに笑って、蒼はうなずいた。
 二人並んで道のりを歩いていく。
「…倉木さん、お家はここから近いんですか?」
 ずっと無言のままでは少し気まずいので、佳乃が問いかける。蒼は少し考えた末、うなずいた。
「近いと言えば近いかな。ここから歩いて十分くらい。三鷹さんの家は?」
「私の家も同じくらいです。やっぱり、こっちは少しだけ道並が違いますね」
 周囲を見渡す佳乃に、蒼はへぇとうなずく。
「そういえば、三鷹さんの高校もう少しで文化祭なんだよね。懐かしいなぁ。準備はどう?進んでる?」
「とりあえず、今は何をやるかと必要なものをリストアップし終えた段階です。うちのクラスは喫茶店をやる予定なんですよ」
 楽しそうに胸の前で手を合わせて話す佳乃に、彼は目を細める。
「それは楽しそうだね…僕のことは、誘ってくれないの?」
 その言葉に、佳乃はぴたりと歩みを止める。蒼もそれに合わせて、歩くのを止めた。彼女の返事を、じっと待つ。
 佳乃は、鞄の中からそっと文化祭のチケットを取り出す。
「ど、どうぞ…」
 うつむきがちに手渡されたそれを、彼は嬉しそうに笑って受け取る。
「ありがとう。絶対に行くね」
 顔を上げずに、佳乃はこくりとうなずく。
 きっと、アルバはこの道をこの時間帯に蒼が通ることを知っていたのだろう。だからこそ、敢えてこの場に自分を置いて行ったのだ。
 なかなかの策略に、佳乃は心の中でアルバに対して軽く非難の声をあげる。
(それならそうと言ってくれればよかったのに。心の準備が…!)
 バクバクと早鐘を打つ心臓を感じながら、佳乃は柔らかく笑う目の前の初恋の相手を見る。
「当日、もし良ければなんですけど…」
「うん?」
 ぎゅっと、佳乃は一度目を瞑る。そして、決心したように開いた。
「私の休憩時間になったら、一緒に回りませんか?案内します!」
 頰を染め、緊張した面持ちの佳乃に、蒼は息を呑む。
(だから、わかりやすすぎるよ、三鷹さん)
 心の中でそう呟いて、彼は嬉しそうに笑った。
「もちろん、僕で良ければ」
 その答えに、佳乃はほっと胸を撫で下ろす。
「楽しみにしててくださいね」
「うん」
 ふにゃりと笑う佳乃に、蒼は柔らかく笑った。


 佳乃と別れたアルバは、再びNotaを訪れていた。
 店内に入ってきたアルバに、アリスは目を丸くする。
「どうしたんですか?佳乃とどこかに行ったんじゃ…」
 首をかしげるアリスに一つうなずいて、アルバは微笑んだ。
「ヨシノをあの初恋の男の子に引き合わせるために、彼が普段この時間帯に通ってる場所に置いてきたんだ」
「え?」
 予想していなかった返答に、アリスは珍しく眉間にシワを寄せる。
「もう外は薄暗いのに?もし倉木様に合わなかったら、どうするんですか」
 非難の色をにじませる問いかけに、アルバは朗らかに笑った。
「大丈夫だよ。念のためこっそり保護魔法をかけておいたから。それに、今日の彼には寄り道する気持ちは一切ないことも確認済みだよ」
 抜かりのないその返答に、彼女は呆れたようにため息をつく。
「全く。あなたはいつも急ですね。佳乃に説明はしたんですか?」
 それに、彼は首を横に振る。もう一度、アリスはため息をついた。
「あの子にも心の準備というものがあるでしょうに。今度同じようなことをする時は、ちゃんと事前に伝えてあげてくださいね」
「わかったよ。でも、僕は良かれと思ってやったんだから、そんな顔をしないでほしいな。ヨシノ、まだ文化祭のチケットを彼に渡せていなかったんでしょ?」
 そう言われて、彼女はうなずく。佳乃は今日蒼が店に来たら渡すつもりでいたのだが、残念ながら彼は店に来なかったのだ。閉店時に、少し落ち込んでいたのを思い出す。
「きっと今頃渡せていると思うよ」
「だといいですけど…とにかく、あまり勝手なことはしないでください」
 嘆息まじりに言われ、アルバはあまり反省していなそうな顔でうなずいた。
 良くも悪くも、彼はマイペースなのだ。
 もう何を言っても無駄な気がして、アリスはアルバのために紅茶を入れ始めた。
 
 
 翌日。佳乃が学校に登校してくると、すでにクラスメイトたちは躍起になって文化祭の準備を始めていた。
「あ、おはよー、佳乃ちゃん」
 クラスの友人に挨拶され、それにかえしながら、佳乃も荷物をロッカーにおいて準備に取り掛かる。
 段ボールに色を塗っていると、クラスの委員長である花崎が紙を見ながら声を張り上げた。
「誰か買い出しに行ってくれる人いるー?ペンキと画用紙なんだけど…一人じゃ大変だから、二人!!」
 ちょうど手が空いたところなので、佳乃が手を上げた。
「私今手空いたから行くよ」
「お、サンキュー。んじゃあと一人…」
「俺も手空いたからいく」
 なぜか慌てたように手を上げたのは、悠斗だった。
「よし、じゃあこれ買い物リストな。領収書もらってきてくれればいいから。んじゃ、気をつけて行ってこいよ〜」
 ひらひらと手を振る花崎にうなずいて、二人は教室を後にした。


 一限目の講義を終え、次の講義まで小一時間あるためそれまで何をしようかと頭を悩ませていた蒼の肩を、後ろから叩いた人物がいた。まぁ、それが誰なのかは予想はついているのだが。
「よっ、蒼。お前今から暇だよな?」
 まるで次の講義まで時間があることを知っているかのような口ぶりに、彼はうんざりと顔をしかめる。
「なんで知ってるの。君は僕のストーカーか何か?」
「否定しないってことは合ってるんだよな。じゃあさ…」
 見事に嫌味をスルーして、裕也はにっこりと笑う。
「オレと一緒にこの近くの喫茶店行こーぜ。そこの店のコーヒー、めっちゃ好評なんだよ。お前コーヒー好きだろ?」
「まぁ、好きだけど」
 もはや諦めたようにため息をつきながら、蒼はうなずく。
「じゃあもちろんいくよな?」
「一人で行けば?」
 当然のように言う裕也に、蒼は素気無く返す。それに、彼はショックを受けたように顔を歪ませる。
「ひっどいなー!少しは迷えよ!」
「なんで君に気を使わなきゃならないのさ。行きたいなら一人で行けばいい」
 騒々しそうに顔をしかめる蒼に、裕也はパッと顔を輝かせる。
「そうかそうか。オレには気をつかなくてもいいからに気を許してくれてるんだな!オレもお前のこと好きだぜ、蒼!」
 なぜそうなるのだろう。ここまでポジティブな思考をされると、いっそ尊敬できる。
 このままずっと断っていたとしても時間の無駄なので、蒼は仕方なさそうにため息をついた。
「わかったよ、行けばいいんでしょ行けば。ただし裕也の奢りね」
「えぇ…まじか」
 だが、せっかく誘いになってくれたのだ。無下にするわけにはいかない。
「わかった!任せとけ」
 自信満々に自分の胸を叩いて見せた裕也に、蒼は軽く嘆息した。


 花崎に手渡された買い物リストとすでに購入したものを確認して、佳乃と悠斗はうなずいた。
「よし、あとは赤のペンキだけだな」
 他の色のペンキと画用紙は近くのホームセンターで揃っていたのだが、赤だけ売れ切れていたのだ。
「惜しかったよね。売れ切れなら仕方ないけど、赤のペンキって人気なんだね」
「そうだなぁ。ここら辺の高校はみんな文化祭近いから、たぶんそれで売れ切れたんだろ。俺、安くて品揃え良い店知ってるからそこ行こうぜ」
 購入したものを肩にかけて言う悠斗に、佳乃は片手を出す。
「半分もつよ。全部持ってもらったら私いる意味ないし」
「んじゃ、お前はこっちな」
 すっと画用紙の入っている袋を手渡され、佳乃は不服そうに口を尖らせる。これでは悠斗だけが重い荷物を持つことになってしまう。
「岬くん、気を使わなくて良いよ。私もペンキ持つよ?」
 もう一度手を出してくる佳乃に、彼は苦笑した。
「流石にその言い分は聞けねぇな。いいから、早く行くぞ。昼過ぎになったら大変だ」
 さっさと前を歩いて行ってしまう悠斗を、釈然としないまま佳乃は追いかけた。


 無事に赤いペンキを購入し終えて、佳乃は今度こそ自分でそれを持つ。
 意地でもそれを渡そうとしたない彼女に、彼は呆れたように笑った。
「意外と頑固だなぁ」
「そっちもでしょ。ずっと重い方持ってるんだもん。申し訳ないよ」
「気にしなくて良いのに。俺、お前が思ってるより力あるよ?」
 肩を竦める悠斗をじとりと見つめて、佳乃はため息をつく。
「そういう問題じゃないの。とにかく、これは私が持つからね」
「はいはい。あ、そうだ。三鷹、コーヒー好きか?」
 思い出したように言う悠斗に、彼女は戸惑いながらもうなずく。
「じゃあ、ここの近くにすげぇコーヒーのうまい喫茶店があるんだよ。土曜のお礼に、奢らせてくんない?」
 それに、彼女は申し訳なさそうに眉を寄せる。
「え、いいよそんなの。気持ちだけで」
「いいから。俺が勝手に奢りたいだけ。だめ?」
 こてんと可愛らしく首をかしげ、上目遣いに見てくる悠斗に、佳乃は仕方なくうなずいた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「っしゃ、行こ行こ!」
 嬉しそうにぱっと表情を明るくさせて手を引く悠斗に、佳乃はおかしそうに笑った。


 本当に大学から近くにあった裕也一推しの喫茶店のコーヒーは、たしかに美味しかった。
 すっきりとした後味に芳醇なコーヒーの香り。蒼は、無言で飲み進めていく。
 そんな友人に満足げに笑って、裕也もまたコーヒーを飲む。うん、うまい。ちなみに、時間に余裕がある上に比較的空いていたので、二人は現在イートインスペースで座ってコーヒーを楽しんでいる。
 と、店内に男女の高校生が入ってきた。それに、裕也は首をかしげる。今は平日の午前中だ。制服を着ているのを見ると、サボりだろうか。
「やぁ、今時の高校生は堂々としたもんだな。平日の真昼間からサボってデートとは」
 けらけらと面白そうに笑ったことを、裕也は蒼の顔を見てすぐに後悔する。
 コーヒーを飲むのをやめ、その二人の高校生を見る蒼の表情が、とても硬いものだったのだ。
「蒼…?」
 彼のそんな表情を初めて見る。ひどく驚いたような、悲しいような顔をしていた。
「どうした?」
 何も言わずにじっと二人の男女を見つめる蒼の肩を、裕也は掴む。
 それに、彼ははっと我に帰ったように目を瞬かせる。
「…あぁ、ごめん。ちょっとびっくりして」
 そう言って力なく笑う蒼の顔色が悪い。もともと白かった肌が、さらに白く見えてくる。
「体調悪いなら、戻るか?」
 案じる裕也に、彼は緩く首を振る。
「大丈夫。体調は平気だよ」
 言いながらも、彼の目線は二人の男女へと向いている。それに、裕也は何かを察したようにはっとした。
「…もしかして、あの子がこの前お前が言ってた女の子か?」
 蒼は押し黙る。それが答えだった。
「なるほど…悪い、オレが連れてきたばっかりに嫌なもん見せたな」
 申し訳なさそうに項垂れる裕也に、彼は苦笑した。
「裕也のせいじゃないよ。運が悪かっただけだ。それに、まだあの二人が付き合っているとは限らないしね」
 そうは言うが、どこからどう見てもあの二人は仲睦まじい恋人同士だ。だが、思っていてもそれを言ってはいけない。
「そうだな」
 うなずいてくれる優しい友人に、蒼はうなずきかえしながらも暗い気持ちが晴れないままでいた。
(三鷹さん、僕のことが好きじゃなかったのかな…)
 昨晩の佳乃の言葉と笑顔を思い出して、彼は胸の痛みを感じた。
『楽しみにしててくださいね』
 そう言ってふにゃりと笑った佳乃に、嘘はなかったはずだ。
 コーヒーを一口啜ってみる。先ほどまではあんなに美味しく感じたコーヒーが、今はとても苦く感じた。


 学校への道のりを歩きながら悠斗に奢ってもらったコーヒーを飲んだ佳乃は、ぱっと目を輝かせる。
「これ、すごい美味しい!」
「だろ?」
 満面の笑みで飲み続ける佳乃に、彼は満足げに笑って自分も飲み始める。
「この前たまたまここら辺通った時にあの店を見つけてさ。試しにコーヒー頼んで飲んでみたら、びっくりするくらい美味かったから。誰かに共有したかったんだよなー」
「そうなんだ。まさに運命の出会い、だね」
 にこにこと笑ってコーヒーを飲む佳乃に、悠斗はおかしそうに笑う。
「三鷹はたまに、面白い表現をするよな」
 くすくすと笑う悠斗に、なんだか最近こういう風に笑われるのが多いなと佳乃は思った。
「そうかなぁ…」
 むむ、と複雑そうに眉を寄せる佳乃にうなずいて、彼はあ、と声を上げる。
「そうだ。ティラミス、妹にめっちゃ喜んでもらえたよ。『美味しい!本当にこれお兄が作ったの!?』って」
 とても嬉しそうに笑って話す悠斗に、佳乃も嬉しそうに笑う。
「ならよかった。私も家族で食べて、すごい褒められたの。また一緒に作りたいな」
「だな〜。店長さんに教わるのは勘弁だけど」
 苦笑して言う悠斗に、彼女もうなずく。できればもうあのスパルタレッスンにはお世話になりたくない。
「あ、そうそう。アリスさんに聞いたんだけどね。ティラミスって、直訳すると『私を引きあげて』っていう意味らしいよ。なんか素敵だよね」
 それに、彼は目を丸くする。
「へぇ、面白いな。当たり前なのかもしれないけど、ちゃんと意味があるんだ」
「私も初めて知ったの。だから、落ち込んでる人に意味を教えて渡すと良いのよ、って言ってたよ」
 人差し指をぴんと立てて自慢げに言う佳乃に、悠斗はなるほどとうなずく。
「お菓子で元気付けるってのはすごいロマンティックだな。ちょっと照れくさいけど」
「ふふ、たしかに少し勇気がいるよね」
 それを想像すると、結構ハードルが高いことがわかる。まぁ、きっとそのような状況にはならないだろう。
 そう結論づけて、佳乃は腕時計に目をやる。次に目を丸くした。
「み、岬くん時間もう十二時になっちゃう!早く戻らなきゃ!!」
 その言葉に、彼は慌ててコーヒーを一気に飲み干す。佳乃も同じように飲み干して、ちょうど近くにあったゴミ箱にからになったそれを放り投げる。
「急ごう!」
「うん!」
 二人は、慌ただしく学校への道のりを走って行った。


 その日の夕方。閉店間近に蒼がNotaを訪れた。出迎えたアリスは、暗い表情の彼に不思議そうに首をかしげる。
「いらっしゃいませ…あいにく、今は佳乃はいませんが、何かあったのなら話をお伺いしましょうか?ちょうど、もう閉店でお客様もいらっしゃらないはずなので」
 それに、少し逡巡してから彼はうなずいた。彼女はさらに首をかたむける。一体何があったのだろう。
 ひとまず彼をイートインスペースに座らせ、アリスは店の外に「close」の看板をかけてくる。
 一度厨房に行き、指を鳴らして黒いワンピース姿に着替えた。
 店内に戻り、蒼の前に座る。
「それで、何かあったんですか?」
 柔らかく微笑むアリスに、彼はゆっくりと口を開いた。

 今日あった出来事を話し終え、蒼は一つ息をついた。
 アリスは無言ですっかり冷めてしまった紅茶を飲む。
「…なるほど。佳乃が同じ高校の男の子と二人で喫茶店を訪れていたと。あなたはそれに、傷ついたんですね?」
 確認するように言うアリスに、彼はうなずいた。
「でも、どうして傷ついたのかがわからないんです。彼女が僕のことを好きでないことが、そんなにショックなんでしょうか。だとしたら、僕はとても自分勝手ですよね」
 自嘲じみた笑みを浮かべる蒼に、彼女は呆れたように目をすがめる。
「まだ気づかないんですか。あなたはもう少し聡い方だと思っていたのですが」
 ここに来て馬鹿にされたので、むっと彼は眉を寄せる。どういう意味だろうか。
「倉木さん」
 いつも、客としてくる時は様をつけていたのに、今はさん付けだ。きっと、彼女は今自分と「店長と客」という立場でなく、知り合いとして話を聞いてくれているのだと気づいた。
「あなたはきっと、今まで人を好きになったことはないんでしょうね」
 その言葉に、彼はうなずく。もちろん、人から告白をされたことは多々ある。だが、自分が人に恋愛感情を持ったことはなかった。
「だからこそ、あなたは自分の気持ちに気づかなかった。あなたは、佳乃のことが好きなんですよ」
「三鷹さんが、好き…」
 一瞬、以前裕也に言われた言葉を思い出す。
『きっとその子はお前を変える運命の相手に違いない』
 その言葉とアリスの言葉を、頭の中で響かせる。
 目を閉じて、彼は佳乃のくるくると変わる表情を思い出す。
 再び目を開けたときには、彼の瞳に静かな決意がにじんでいた。
 アリスは、そっと笑って立ち上がり、紅茶を片したはじめる。
「…あの、ありがとうございました。おかげで自分の気持ちに気づけました」
「どういたしまして。頑張ってくださいね」
 穏やかに笑うアリスにうなずいて、彼は苦笑する。
「僕、てっきりあなたに嫌われているんだと思ってましたよ」
「あら。それは心外ですね」
 つい最近言外にさっさと帰れ、と言っていた女性とは思えないくらいに優しく笑うアリスに、蒼は肩を竦める。
 おそらく、この女性には一生敵わないのだろうなと、彼は諦めたように嘆息した。
 
 

 
 土曜日。Notaを訪れる途中で、佳乃は座り込む老人に出会い、慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか!?どこかお怪我を?」
 そっと体に手を添え、血相を抱えて顔を覗き込んでくる佳乃に、老人はゆっくりと手をあげる。
「あぁ、大丈夫だよ。ありがとう」
 立ち上がろうとする老人の手と背中を支え、ゆっくりと力を入れていく。
 しっかりと立ち上がったのを確認して、地面に転がっていた杖を拾い、それを手渡した。
「ありがとう、お嬢さんは親切じゃな」
「いいえ、とんでもない。困っている人には優しくするのは当たり前です」
 にっこりと笑って言う佳乃に、老人は好々爺と笑う。
「いいご両親をお持ちのようじゃな。よきかなよきかな」
 うんうんと長い髭を撫で付ける老人に、彼女ははにかみ、首をかしげる。
「お爺さん、どこかへお出かけですか?」
 それに、彼はうなずく。
「ワシはコーヒーが好きでな。最近ここらでコーヒーの美味いと評判の店へ行こうとしているんだが、道に迷ってしまってのぅ。疲れて少し休んでいたところじゃ」
 その話に、もしかしてと佳乃は思い、その店の場所を伝える。それにうなずいたので、佳乃はぽんと手のひらを合わせた。
「そこなら私、最近行ったばかりなんです。よろしければ案内しましょうか?」
 柔らかく笑う佳乃に、老人は申し訳なさそうにしながらもうなずいた。
「すまんのぅ。そうしてくれると助かるわい」
「はい!任せてください。あ、でも少しお待ちいただけますか?」
 それにうなずいたのを認めて、佳乃は少し離れた場所でNotaへと電話をかける。
 アリスに少し遅れる旨を伝えると、快く承諾してくれたので礼を言って電話を切った。
「お待たせしました。行きましょう」
 そっと手を差し出す佳乃に、老人は無言でうなずいた。


 佳乃から電話があった後、アリスはそれをちょうど遊びに来ていたノエルに伝えると彼女は難しい顔をした。
「きっと大長老様ね。佳乃ちゃんは今、試されているんだ」
「えぇ、私たちはここであの子の帰りを待っていましょう」
 顔を見合わせうなずき、二人は佳乃の訪問を待ち望んだ。


「お嬢さん、すまんがさっき座り込んだところで財布を落としてしまったようじゃ。取りに行ってくれないかのぅ」
 不意に鞄の中身を探って、申し訳なさそうに言う老人に、佳乃は躊躇いもせずにうなずいた。
「大丈夫ですよ!少し待っていてくださいね」
 笑顔で返事をして来た道を引き返す佳乃の背中を見送って、大長老は若干の罪悪感を覚える。まさか、ここまで親切な人間の娘だとは思っていなかったのだ。
 ここに来るまでも結構無茶な要望を言って来たりしたというのに、彼女は嫌な顔一つせずに全ての要望に答えてくれた。自分は魔法界では最も高い地位についているが、ここまでの好待遇はなかなかなかった。そもそも、彼らが自分に対してそのように良く対応してくれるのは少なからずの下心がある者たちがほとんどだ。佳乃のように、何の見返りも求めずにただ純粋に何かをしてくれるという者は、一部を除いてはいなかった。
 ちなみに、その一部というのはノエルとアルバである。あの二人の場合、才能がある分欲しいものなどがあったとしても、他力本願ではなく自力でどうにかしてしまうのだ。というか、まず他人をあまり頼ろうとしない。
「若者は末恐ろしいのぅ」
 照りつける太陽に、彼は眩しそうに目を細める。9月に入ったとはいえ、まだ日差しは強いままだ。
 果たして、本当に再び人間と共存できるような生活がくるのだろうか。
 Notaの評判は魔法界にも及んでいる。多くの魔女や魔法使い、その使い魔たち。他にも様々な種族の者たちが、Notaに訪れ甘い菓子に癒されている。また、少なからず人間との交流も生まれているので、一石二鳥というわけだ。
「ノエルも考えたな」
 あの魔女は多少性格に難があるものの、とても腕が立ち頭の回転も早い。本気で争えば、どちらが勝つわからないくらいくらいには、彼女の腕を認めている。
 物思いにふけっていると、そこに小さな女の子がやってきた。
「おじーちゃん!」
 元気に声をかけてきた少女に、大長老はなんじゃと答える。
「お外は暑いから、このお水あげる!ねっちゅうしょうになっちゃうんだよ!」
 自信満々に言ってペットボトルに入った水を差し出してくる少女に、彼は好々爺と笑う。
「ありがとう。お嬢ちゃんは優しいのぅ」
「えへへ〜」
 嬉しそうに笑ってから、少女は元気に手を振って離れて行く。そういえば、昔ノエルがまだ少女だった頃に、一度だけ「お願い」をされたことがあった。果たして彼女は覚えているだろうか。
 今やすっかり生意気で、あまり褒められた性格ではなくなってしまったが。
 この前呼び出した時のことを思い出して、彼は苦笑する。ずいぶんと嫌われてしまったようだ。昔はよく後ろをついて回ってくれていたのに。
「おじいさん、お財布ってこれですか?」
 昔の思い出に浸っていると、佳乃が財布を持って戻ってきた。
 うっすらと汗をかいているのを見ると、走ってきたのだろう。
「おぉ、それじゃ。ありがとう」
 手渡されたそれを受け取って、大長老はそれをそっと撫でる。ちりんと、透明の鈴が鳴った。
「それ、綺麗ですよね」
「あぁ、そうだろう」
 これは昔、ノエルとアルバがくれたものだ。魔法界にある氷の森で採れた永久氷石という素材を使って、二人で作ったものらしい。
 もらった時、驚いた気持ちもあったが、それ以上に嬉しい気持ちが勝っていたのをよく覚えている。
「昔、孫のような存在の子たちがワシのために作ってくれてなぁ。嬉しかった」
 目を細める大長老に、佳乃はにっこりと微笑む。
「大切な人たちなんですね」
「ふふ、そうじゃな。手のかかる子ほど、可愛く思えるとはよく言ったものじゃ。さてと、では行くとするか」
 ゆっくりと歩き始める大長老に、佳乃はうなずいた。


 ようやくコーヒー店についた二人は、レジまでに続く長い列に目を丸くした。
「この前来たときは結構空いてたのに…」
 今思えば、あの時は平日の、しかも午前中という時間帯だったから空いていたのだ。人気の喫茶店がいつもあんなに空いていたら、逆に驚きだろう。
 この列を老人に並ばせるわけにはいかないので、佳乃は空いている席がないかと周りを見渡す。
 と、ちょうどコーヒーを飲み終えたらしき女性が席を立った。
「おじいさん、あそこ席空いたので待っていてください。私が買っておきます。冷たいコーヒーか、温かいコーヒーどっちがいいですか?」
「悪いのぅ。冷たいコーヒーが飲みたい」
「わかりました」
 うなずいて、佳乃は早速列に並び始める。大長老は、言われた通りに空いた席に座った。

 列も短くなってきて、あと少しで買えるとなったところで、レジの脇に様々な種類のコーヒー豆が売っていた。値段も手頃なものとなっている。
(そうだ。アリスさんとノエルさんに、今日のお詫びとしてここのコーヒー豆を買って帰ろう)
 普段からとてもお世話になっているので、何かプレゼントしたいと思っていたのだ。ノエルはコーヒーが好きだし、アリスは好きかどうかはさておき、お菓子に使えるので無駄にはならないだろう。
 そう思って、アイスコーヒーとともに、いくつかのコーヒー豆も購入した。
 それにしても、悠斗とともにこの店を訪れていて良かった。もしもそれがなかったら、この店の存在自体を知らずに、あの老人を案内することなどできなかっただろう。やはり、昔祖母の言っていた言葉は当たっている。
 無事に購入し終え、彼女は老人の座る席へとアイスコーヒーを運んだ。
「おぉ、ありがとう」
 手渡すと礼を言って、彼はゆっくりとした動作で、コーヒーを一口飲んだ。
 佳乃も、席に座って自分の分のコーヒーを飲む。うん、やっぱり美味しい。
「…ほぅ、噂に違わぬ美味さよの。良い香りじゃ」
 ほっと息をついた大長老に、佳乃はにこにこと笑う。
「本当に美味しいですよね。私、コーヒー豆が売っていたので買っちゃいました。バイト先の店長さんとオーナーに、お土産として」
「ほほぅ。それは喜ぶだろうな」
 うんうんとうなずく大長老に、彼女は嬉しそうに笑う。
「そうだと嬉しいです。いつもとてもお世話になったいるので、ずっと何かお返しをしたいと考えていたんですよ」
「そうか…だが、お嬢さんのようないい娘が働いてくれているのなら、その者たちはそれで十分なのではないかな」
 ノエルは、佳乃のことをあまりよく思わないような発言をした自分や周りの長老たちに、躊躇いもなく杖を向けようとした。彼女は、それほどまでには佳乃のことを大切にしているということだ。
 だが、佳乃は緩く首を振る。
「それは確かにそうかもしれません。他の人たちはとても優しい人たちです。ですが、それじゃ私の気が済まないんです。そもそも、今のお店でバイトすることになったきっかけが、助けてもらったお礼なんです」
 力説し始めた佳乃に、大長老は面白く思ってその話に耳をかたむける。自分の知らないノエルやアリス、アルバたちのことを聞けるのなら嬉しいことだ。


「ってことがあったんです。もう、みなさん優しすぎますよね?」
 憤然と言い切り、疲れたようにコーヒーを一口飲んだ佳乃に、大長老はおかしそうにふぉっふぉっと笑い声を上げた。
「そうじゃのぅ。確かに優しい者たちだ。そうか、ノエルやアルバは他人に優しく育っているか」
 うんうんと嬉しそうにうなずく大長老に、佳乃はうなずきかけてん?と首をかしげる。
「私、名前出して話してましたか…?」
「…お嬢さん、今からバイト先まで案内してくれないかのぅ。これがワシの、最後のわがままじゃ」
 質問には答えずに、目を細めて言う大長老に、彼女は不思議そうに首をかしげながらもうなずいた。


 Notaに着き、ドアを開けるといつもの軽快な音が鳴り響く。
「いらっしゃいませ…あら、佳乃」
「こんにちは。ごめんなさい、遅れちゃって」
 申し訳なさそうに合わせた手のひらを顔の前に持ってくる佳乃に、アリスは緩く首を振る。
「大丈夫よ」
 そして、次にノエルと見つめ合う大長老へと目を向け、以前アルバにしたものよりも深く、丁寧なものをした。
「お久しぶりです、大長老様。人間界への長旅、お疲れ様でございます」
「え」
 たおやかに腰を折るアリスに、大長老は重々しくうなずく。ノエルは軽く嘆息し、立ち上がった。
 そして、同じようにして腰を折る。
「この場所であなたと会えたことを、光栄に思いますわ」
「ふむ。そうは言うがノエル、表情があっておらんぞ」
「まぁ、それは気のせいですよ」
 わざとらしく目線を逸らすノエルにため息をついて、頭の上に疑問符を大量に浮かべている様子の佳乃に、大長老は笑いかけた。杖を一度、カツンと音を立てて地面に打ち付けると、一瞬で魔法使いらしい黒い大きな布を纏う。
「改めて、ワシが魔法界の大長老、アダム。今日一日、そなたを試させてもらった」
 言われた言葉の意味が理解できず、頭の中でゆっくりと整理して行く。
 今日助けた老人が、大長老。つまりは、ノエルたちが住む世界の、最も偉い魔法使いということだ。
「え、えぇ…!?」
 これまでの人生の中で一番驚いたことかも知れない。
 今の今まで、なんの疑いもせず普通の人間の老人にするような態度をとってしまった。
 佳乃は、慌ててアリスと同じような礼を取ろうとスカートを裾を持ち上げる。いざという時に、以前空いた時間にアリスに教わっておいてよかった。
「三鷹佳乃といいます。気づかず失礼な態度をとってしまっていたら大変申し訳ありません!」
 青ざめる佳乃に、彼は好々爺と笑った。
「大丈夫。ヨシノはとてもよくやってくれた。ワシは、そなたのような人間の娘なら、この店で働くことを許可できると思ったよ」
 その言葉に、彼女はぱっと表情を明るくさせる。
「本当ですか!?私、まだここで働いて、いいんですか??」
「あぁ。むしろ、ワシの方から頼みたいくらいだ。これかも、こちらとあちらのつながりを、保つ架け橋としてこの店に働き続けて欲しい。ノエルを頼むぞ、ヨシノ」
「ありがとうございます!」
 アリスとノエルは、そっと目を合わせ安心したように笑う。佳乃を信じていなかったわけでは決してない。けれど、万が一もある。必要な時は、アルバやリウムも巻き込んで、全力で抵抗するつもりだったのだが、その必要はなさそうだ。
(よかったわ、これで大方問題が解決したわね)
(うん。これでとりあえず一安心かな。本当、大長老様にはいつもハラハラさせられるんだから)
 魔女と使い魔という特別な関係にしか使えない特有のテレパシーを使って、二人は会話する。
 と、佳乃が思い出したように自分のカバンの中をあさり始める。
「アリスさんたちにお土産があるんです。これ」
 そう言って手渡されたのは、コーヒー豆だった。アダムが自分の髭を撫でつけながら、うなずく。
「そのコーヒーは実に美味だった。そなたたちもきっと気にいるだろう」
 その言葉に、二人は嬉しそうに笑う。
「それは楽しみね。早速いただいてみましょう。ちょうどお昼休憩にしようとしていたところよ」
「あ、じゃあ私も手伝いますね!着替えてきます」
 慌てて着替え部屋へと入って行った佳乃を見送って、ノエルはアダムに首をかしげる。
「大長老様も、よろしければもう少しゆっくりしていけばどうですか?すぐには戻れないでしょう」
 彼女の提案に、彼は少し驚いたように目を丸める。
「そなたがそのように言うとは珍しい。では、遠慮なく邪魔させてもらおうか」
 ゆっくりとイートインスペースの椅子に座ったアダムに、ノエルはため息をついた。先はどの言葉はどういう意味だろうか。さすがにさっさと帰れなどと冷たい言葉を吐くつもりはない。
 少し複雑な気持ちになって、ノエルは椅子の背もたれに頬杖をつき、佳乃とアリスが戻ってくるのを待つことにした。
 
 着替えを済ませ、店のドアに一旦「close」の看板をかけてきてから、アリスとともに四人分の昼食を作っているとお腹が鳴った。
 途端に恥ずかしくなり頰を赤く染める佳乃に、アリスはくすくすとおかしそうに笑った。
「何もそんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。あなたは大長老様に認めてもらうくらいには働いたのでしょうから、お腹が空いても仕方ないでしょう」
「うぅ、そう言ってもらえると嬉しいです。ありがとうございます」
 縮こまる佳乃をもう一度笑って、アリスは冷蔵庫の中から一つのフィナンシェを取り出した。それを、佳乃に手渡す。
「え…?いいんですか?」
「ええ。あなた、一番最初にこの店に来たときのことを覚えてる?」
 それに、彼女は当然のようにうなずく。初めてリウムと出会った日のことだ。
「その時、このフィナンシェを見て美味しそう、って瞳をきらきらと輝かせていたから。いつか食べてもらいたいと思っていたの。それで、今朝お店に並べるようなもののなかから一つ、とっておいたのよ。遠慮なく食べて」
 その言葉に、佳乃はこくりと生唾を飲み込む。手のひらに乗るフィナンシェは、その名の意味の通り金塊のように輝いて見える。空腹も相まって、とても美味しそうだ。
 一口、食べてみる。途端に口の中に広がるバターの風味に、佳乃は一瞬で幸せ色に染まった。
 とても幸せそうに食べる佳乃に、アリスは満足そうに笑い、昼食作りに戻る。
 それからの佳乃は、無言でフィナンシェを食べきり、しばらく放心状態だった。
 昼食を作り終え、少ししてからもどこかへ意識を飛ばしている佳乃に、流石に心配になったアリスがその肩を叩く。
「佳乃、佳乃。お昼ができたわよ。そろそろ戻ってきて」
 一拍置いて、吉野の意識が戻ってきた。
「あっ、すみません。つい」
「あなた、本当にお菓子が好きよね。たまに心配になるわ」
 もしとても美味しいお菓子があるよと知らない人物に言われたら、簡単について行ってしまいそうだ。
「大丈夫ですよ」
 苦笑する佳乃に、アリスはそれもそうね、とうなずく。あまり心配していても仕方ないだろう。
「さぁ、二人が待ってるわ。早く持っていきましょう」
 台の上に置かれた四皿のミートパスタを前に、彼女は笑う。それに、佳乃は大きくうなずいた。

 昼食を食べ終えてから「close」の看板を外していると、後ろから声をかけられた。
「ヨシノ」
 振り向くと、そこには肩にリウムを乗せたアルバが立っていた。
「こんにちは。リウムさん、アルバさん」
 にっこり笑って、彼女は二人のためにドアを開ける。
「ありがとう」
 礼を言ってから店内に入ると、アルバは目を瞬かせる。
「あれ、アダム様。どうしてここに?」
 流石に予想していなかった同族がいて、彼は首をかしげる。
『アルバ様、それよりも先に挨拶を。お久しぶりでございます、アダム様』
 リウムが軽く窘めてから、アルバの肩から飛んだ。そのまま空いている椅子の背もたれに留まり、優雅に羽を折って体を前にかたむける。
 アルバは、右足を引き、右手を体に添え、左手を横方向へ水平に差し出す。
「お元気そうで何よりです。人間界への長旅、ご苦労様です」
 男性の礼を、初めて見た。というか、アルバがこのようにかしこまった態度をとること自体、初めて見る。
「かっこいいですね、アルバさん」
 彼らよりも少し後から入ってきた佳乃は、素直な感想を言う。彼は、少し気恥ずかしそうに笑った。
「あはは、ありがとう。あまりこういうかしこまった礼はしないから、慣れてないんだけどね」
 それに、ノエルが面白そうに笑う。
「本当にね。アルバがその礼をするのって、それこそ大長老様相手か、精霊王相手くらいだから。私も貴重なものを見れて得した気分だよ」
「うるさいなぁ。ノエルだって同じようなものじゃないか」
 不服そうに眉を寄せるアルバに、ノエルは肩を竦める。
「私はいいのよ」
「理不尽な…」
 そんな二人のやりとりに、アダムは呆れたように嘆息する。
「まったくお前たちは…せめて、他の長老たちに対して、上部だけでもいいから敬意を払え」
 それもそれでひどいような気もしなくもないが、いいのだろうか。
 佳乃は口を挟んでいいのかわからないので、三人の話を黙って聞くことにする。
 アダムの言葉に、二人は顔を見合わせ同時にうなずく。どうやら、今の一瞬で何か意思疎通をしたようだ。本当にこの二人は仲がいいな、と呑気に思っていると、ノエルが爽やかな笑みを浮かべた。
「だって、自分よりも弱い魔法使いたちに敬意を払えませんよ。せめて、何か一つでも私たちよりも勝ってくれてなければ」
「そうです。僕たちは、年を食っただけの魔法使いを一人前とは呼べません」
「わぁ」
 予想以上にひどい言い草に、黙っていようと決めていた佳乃が思わず声を漏らす。
 いつのまにか食器の片づけから戻ってきていたアリスと、巻き込まれるのを避けてそのまま椅子の背もたれに留まっているリウムが顔を見合わせ、ため息をつく。まったく、困った主人たちだ。
『お互い苦労するな、アリス』
「ええ、本当に」
 アダムは二人の返答に、周りの声が聞こえているのかいないのかはさておき、深く嘆息して文字通り頭を抱える。
 一方で、まったく悪びれていない様子のノエルとアルバは、そんなアダムを不思議そうに見つめる。
「あ」
 そんな中、佳乃が並んだノエルとアルバを見て、何かを思い出したように手をぽんと打つ。
「どしたの?佳乃」
 アリスが不思議そうに首をかしげると、佳乃が目を輝かせる。
「アルバさん、この前どうしてノエルさんと仲良くなったのか、ノエルさんに聞いて、って言ってましたよね!今ならお二人ともいるので、聞いてもいいですか?」
 ずっと気になっていたのだが、なかなか聞く機会がなくとてもうずうずしていたのだ。聞くなら今がベストだろう。
「あー…」
 アルバが少し気まずそうに隣のノエルをちらりと見る。彼女は、仕方なさそうに肩を竦める。
「まぁ、いいよ。どうせそのうちバレるだろうし、ちょうどいいから大長老様にも聞いてもらおう」
 なんだが嫌な予感がして、アダムはそっと立ち上がる。
「で、では、ワシはそろそろお暇させてもら…」
 言いかけたところで、流さないと言わんばかりアルバが微笑む。
「movens subsisto」
 急にその体制で動かなくなった自分の体に、アダムは焦りの声を上げる。
「な、何をする…」
「まぁまぁ、そう焦って帰ろうとしなくてもいいじゃないですか。聞いて行ってくださいよ、アダム様」
 悪魔のように微笑むアルバに、アダムは助けを求めるようにリウムへと視線なげる。無情にも、リウムの首は横に振られた。
『こうなった以上、諦めてくださいませ。私でもアルバ様を止めることなどできませんので』
 それに、隣にいたアリスは気の毒そうな視線をアダムに向ける。そして、アリスは店のドアに「close」の看板をかけなおす。
「これでもうお客様はいらっしゃらないわ。私も気になっていたから、聞かせてちょうだい」
「気が利くね。ありがとう。じゃあ…始めるね」
 抵抗虚しく、果てしなく嫌な予感がする昔話が始まってしまったことに、アダムは諦めたように肩を落とした。



 およそ二百年前。魔法学校を卒業してから、アルバは使い魔を選ぶため、一人旅をしていた。
 本来なら魔法学校に在籍中に自分の使い魔を見つけるのが通常なのだが、彼の場合自分と相性のよく気にいる使い魔と出会うことができなかったのだ。
 かれこれ卒業から結構な年数が経ってしまっているので、そろそろ見つけなければ色々支障が出てきてしまう。そうなると面倒だ。
 紺碧の空に丸い金色の月が浮かんでいる。魔法界は、常にそうだ。人間界では月は満ち欠けを起こしているらしい。使い魔探しが終わったら、行ってみてもいいかもしれない。
 などと呑気に考えていると、枯れた一本の木に一羽のフクロウが溜まった。美しい銀の羽が、月の光に反射して光り輝いている。
 試しに近づいてみても逃げようとしなかったので、話しかけてみることにする。
『ねぇ、そこのフクロウさん。今お話しできる?』
 すると、フクロウはそれまで閉じていた瞼を開いた。現れたのはまさに空に浮かぶ金色の月と相違ない瞳で、アルバはとても嬉しそうに笑った。
『とても綺麗な瞳をしているね』
 先ほどの返答がなかったことを気にもとめず、彼はさらに話しかける。すると、呆れたようにフクロウは胸を膨らませた。
『…あなたは魔法使いだろう。それも相当力の強い。なぜこのような寂れた場所に一人でいる?使い魔は?』
 それに、アルバは困ったように笑う。
『残念ながら、まだ使い魔はいないんだ。それを見つけるために、一人旅をしている』
『そうか。難儀なものだな』
 興味のなさそうに答えるフクロウを、彼はじっと見つめる。
 結構長い間見つめ続けられ、流石に居心地の悪さを感じたのかフクロウは身をよじる。
『何か用か?あまりみられると視線が痛い』
『ねぇ、君が僕の使い魔になってよ』
『は…?』
 なぜそうなるのだろう。
 驚きに目を瞬かせるアルバに、彼はにこにこと笑う。
『うん、それがいい。いいよね?君も、主人がいるわけじゃないんだろ?』
 悪びれもせずにっこりと笑って言うアルバに、フクロウは押し黙る。なんで自由な魔法使いだろうか。彼に使い魔がいない理由がなんとなく分かった気がする。だが、呆れる気持ちと共に、フクロウは彼を面白いとも思った。
『ほら、おいで?』
 腕を広げて飛んでくるのを待つアルバに、フクロウは少しの間考えこむように目を閉じる。やがてそっと開いた。
『では、私が気にいる名前をつけてくれたなら、あなたの使い魔になろう』
 その言葉に、今度はアルバが目を瞬かせる。そして、面白そうに笑った。
『いいね、それ』
 そのまま、彼はじっとフクロウの金の瞳を見つめ続ける。
 しばらくして、ようやくアルバが口を開いた。
『リウム…オウクリウム。金の瞳という意味だ。どうかな?』
『オウクリウム…気に入った。いいだろう、あなたの使い魔になる』
『やった。じゃあ、今度こそこちらにおいで?』
 正式な使い魔にするためには、お互いに契りを交わさなければならない。
 バサバサと羽を羽ばたかせて、リウムはアルザの腕の中にすっぽりと収まる。
『ふふっ、予想以上にふわふわだ。これはいい癒しになるね』
 ぎゅっと抱きしめるアルバにされるがままになりながら、リウムは呆れたようにため息をつく。
『いいから、早く契りを交わそう』
『あぁ、ごめんごめん。じゃあ、いくよ』
 リウムを腕に乗せて、もう片方の手のひらをかざす。
『我が名はアルバ。契約するもの、オウクリウム。これより、両者は主従の関係となることを、ここに誓う』
 二人の体が金色に輝く。
『これで君は僕の使い魔だ。これからよろしくね、リウム』
『よろしくお願いします、アルバ様』
 こうして、二人は晴れて主人と使い魔という関係性になったのだった。

 時を同じくして、ノエルもまた使い魔をさがして一人旅をしていた。といっても、彼女の場合は魔法学校に在籍していなかったので、ただ単に使い魔になるような生き物と出会う機会があまりなかったという点が一番な理由だ。
『どこかにいい子はいないかなぁ…』
 そろそろ一人旅も飽きてきたので、話し相手が欲しいのだ。
 ぼうっと空を見上げていると、上空に青い蝶がひらひらと舞っている。
『わぁ、綺麗だな… turn circum』
 試しにその蝶に魔法をかけてみる。蝶は、くるりくるりとその場を回った。
 それを満足げに眺めていると、後ろから声が響いた。
『素敵な魔法ね』
『え?』
 振り向くと、そこには綺麗な青い目をした艶やかな黒猫が座っていた。
『今私に話しかけたの、あなた?』
 目を瞬かせるノエルに、猫は小さくうなずいた。
『そうよ。あなた、魔女?』
『そうだよ。使い魔をさがしてるんだけど、なかなか見つからなくて困ってるの…あなた、私の使い魔になってみない?』
 半分ほどダメ元で聞いてみる。と、猫は意外にもすんなりとうなずいた。
『え、本当にいいの?』
 一度使い魔の契約をしてしまえば、それは一生どちらかが死ぬまで続く。だからこそ、簡単には決められないのだ。
 思わず確認してくるノエルに、猫はおかしそうに笑い声をあげる。
『構わないわ。あなたの魔法、好きだもの。素敵な名前をつけてね』
 それに、彼女はうなずき、猫の瞳をじっと見つめる。
『アリス、っていうのはどう?人間界の御伽噺の中の主人公の名前なの。可愛いでしょう?』
 柔らかく笑うノエルに、猫は一つうなずく。
『えぇ、とても素敵な名前だわ。では、契約を結びましょう』
 アリスはそっとノエルのそばに座った。彼女はアリスに手をかざす。
『我が名はノエル。契約するもの、アリス。これより、両者は主従の関係となることを、ここに誓う』
 二人の体が同時に金色に輝く。
 お互いに目を開くと、目を細めた。
『これからよろしくね、アリス』
『えぇ、ノエル様』
『ノエルでいいよ。堅苦しいのは好きじゃないの』
 それに、アリスはうなずく。
 これまで探し回っていた使い魔が、簡単にできてしまった。それも、とても綺麗な猫だ。
 ノエルは上機嫌にアリスを抱き抱える。ふわふわとした毛並みに、さらに気分が上昇した。
 これからは、一人で旅をしなくていいのだ。二人でする旅は、きっと楽しいだろうなと思いを馳せた。