自分の思考回路がはっきりしたのは、一本の着信音が鳴ってからだった。
 その時初めて、私は自室に戻って、現実から逃げるようにアニメーションを制作していたのだと知った。ほとんど無意識だった。
「も、もしもし?」
 私は食らいつくように応答ボタンを押して、スマートフォンを耳に当てる。
「永遠? お母さんだけど……」
「お母さん! 日彩は、日彩はどうなったの!?」
 母と認識した私は、間髪入れずに問い詰めた。暖房を付けることも忘れた冷たい空間を、甲高い声が引き裂く。
 耳元で聞こえる母の声は、いつもより低く、重かった。
「一応呼吸困難は治まって、意識も戻ったわ。でも手足の感覚麻痺というか、痺れや震えが治まらなくて立ち上がれないらしいの。だから今日は入院して、検査をすることになったわ」
 肺に留めていた空気を、はっと吐き出し、その後は肩で呼吸をする。母の言葉を聞くまで、酸素を循環させることすら脳内から欠乏してしまうほど、日彩のことで頭がいっぱいだった。
「お父さんも会社から直接こっちに来てる。あとでお母さん、一旦着替えとかを取りに帰るけど、今夜は病院に泊まるわね。永遠なら大丈夫でしょう? でも戸締りはしっかりするのよ」
 私は安心からか、また自然と頬に涙を流していた。ここ最近、私は一体何度泣いたことだろう。そのせいで声が喉に詰まり、伝わらないと理解しつつも、私は首を縦に深く振った。
 遠くから母が誰かに呼ばれたようで、それじゃあ、と軽快な機械音と共に静寂な空間へと引き戻される。
 真っ黒になった長方形の物体を机に置くと、無我夢中で描いたらしい絵と嫌でも向き合わされた。ラフ画から下書きへと移り、ある程度描かれてあったが、明らかにいつもよりも酷い物だった。線は勢いに任せただけと言わんばかりに跳ねており、顔の輪郭も少し歪んでいる。画面に近づきすぎて、全体像が見えなかったのかもしれない。
 でもなんとなく、その絵は日彩に似ている気がした。涙を流す、日彩の表情にそっくりだった。
 手と唇が震え出す。涙は未だ枯れることなく、体内の水分を奪った。手の甲で拭うと、氷になりそうなほどにそれは冷たい。
 怖かった。夢の中での出来事がこのことを伝えようとしているのだと考えると、いても立ってもいられなかった。本当に日彩が死んでしまうのではないかと、一瞬でも想像するだけで、胸が張り裂けそうになった。
 失いたくない。たった一人の私の妹だから。どんなに喧嘩をしても、憎たらしくても、恨んでも、羨ましくても、日彩が居なくなるなんて耐えられない。二度と話せなくなるなんて嫌だ。仲直りもできないまま終わってしまうなんて嫌だ。
 するとまた、隣に置いたスマートフォンに光が灯り、愉快な音楽が部屋に響き渡る。私は慌てて、(かじか)む手で応答ボタンに触れる。
「もしもしお母さん⁉ 日彩は大丈夫なの⁉」
 日彩に何かあったのではないか、容態が急変したのではないかと、嫌な予感ばかりが浮かんで止まらない。電話の向こうは静かだった。只ならぬ気配を感じ、私の心臓がさらに早鐘を打つ。すると、予想よりも遥かに低い声で、あー、と返ってきた。
「悪い、俺だよ、上原康助」
 私は一瞬心臓が止まったかのように思えた。自分が予め考えていた結果と全く違うものになった場合、人は思考が追いつかないのだと知った。
「う、上原くん……?」
 拍子抜けしたように少し高い声が出る。私は最初の言葉を誤魔化すように涙を拭き取り、鼻を軽く啜った。
「ああ、いきなりごめん。それより、妹がどうかしたのか? 大丈夫か?」
 なぜかその声は、胸に染み込んでくるほど優しく温かいものに感じられた。友達のいない私からすると、話を聞いてくれる相手なんて家族のみ。どうしたのかと心配してくれる人がいることの嬉しさと、このとてつもない不安を誰かに吐き出したい思いが溢れ、また目を腫らし、嗚咽を上げた。
「ひ、日彩が、救急車で運ばれて……。死んじゃうかもしれないって思うと、怖くて、どうしようもなくて……」
 すると電話の向こうで、何かを倒したようにがたんと音がする。声はしないため何が起こったのかわからず、私は耳を澄ませた。
「今どこにいる」
 私の言葉に対する感想は無く、優しい低い声が何やらガサゴソと雑音と共に聞こえてきた。
「え? い、家だけど……」
「分かった、すぐ行く」
 上原くんが何を考えているのかわからなかった。いや、わかっていたのかもしれない。ただそれを信じることができなかった。期待しても、勘違いだったり、裏切られる可能性はいくらでもあるのだから。
「い、行くって、こんな時間だし、それに住所だって……」
「時間とか関係ない。小学校同じだっただろ、大体の場所はわかる。ちょっと待ってろ」
 その言葉を境に、電話は切れた。画面の時計を見ると、二十一時を指している。私はほんの少し冷静になり、涙で酷く汚れた顔を洗いに行くため、液晶タブレットの電源を落とした。