新入社員研修が終わろうとするころ、職場配属の辞令を渡された。僕の配属先は希望がかなってスピーカー部だったが、ビデオ機器の開発を希望していた坂田は、アンプを製造する部門に配属された。
新入社員研修が終わるとすぐに、僕たちはそれぞれの職場に別れていった。僕はスピーカー部の第1開発課に配属され、5年ほど先輩の小宮さんについて、スピーカーの振動板を開発することになった。CVDという技術を使うその仕事に、小宮さんは1年前から取り組んでいるとのことだった。
最初の1週間は、あたえられた資料を読みつづける毎日だった。小宮さんが渡してくれた資料は、仕事に必要な知識を修得するための参考書や、文献をコピーしたものだった。スピーカーについては豊富な知識を持っているつもりだったが、それらの資料を理解するためには努力を必要とした。僕ははりきって、そして夢中でそれに取り組んだ。
職場の資料棚には多くの文献や資料があった。僕はそれらを自宅に持ち帰り、夜おそくまで読んだ。もともと朝寝坊の僕がそのようなことをしたので、母にたたき起こされてもバスに乗り遅れることになった。数日の間に2度目の遅刻をしたとき、上司の野田課長からきつい言葉で叱責された。小宮さんが忠告してくれた、自宅でいくら努力をしても、そのために遅刻をすれば、サラリーマンとしてはマイナスにしか評価されないのだ、と。
そのような努力をつづけて、僕は多くの知識を身につけた。配属されてからひと月もたたないうちに、小宮さんの相棒として実験にとりくむようになっていた。
先輩たちが提出したレポートの中に、とくに僕を惹きつけるものがあった。報告者は吉野となっていたが、その先輩はすでに他の職場に移っていた。
「面白いですね、このレポート」僕は小宮さんにレポートを見せながら言った。
「たいしたもんだな松井、吉野さんのそれがわかるのか。レポートというより提案だけどな、それは」
「ちょっと変わった形になりますよね、このアイデアで作ると」
「そうかも知れんけどさ、ほんとに音が良ければ売れるだろ、きっと」
「どんなふうに鳴るのか聴いてみたいですね、このスピーカー」
「いいアイデアだけど、どういうわけか試作もしなかったんだ」と小宮さんは言った。
吉野という先輩の提出したレポートが、資料棚にはいくつもあった。いずれも考えかたが明快で説得力のあるものだった。会ったことのない吉野という先輩に僕は敬意を抱いた。小宮さんに聞いてわかったことは、吉野さんは第2開発課の係長だったが、前年の春に回路設計の部門に移っているということだった。
小宮さんといっしょに振動板の材料を試作しては、高音領域用のスピーカーに適したものかどうかを調べ、その結果をもとにしてさらに実験をくりかえした。毎週月曜日の午前中に開かれる会議で、小宮さんが実験の進みぐあいを報告した。
第1開発課には四つのグループがあり、それぞれのテーマにとりくんでいた。月曜日の定例会議で、各グループのリーダーが仕事の進捗状況を報告すると、野田課長がそれから先の進め方について指示を与えた。課長になって4ヶ月とのことだったが、野田課長は会議の席で部下をきびしく指導した。そのような野田課長の姿が、その頃の僕には頼もしく見えた。
僕が実験に加わってからひと月が過ぎても、試作は少しも進まなかった。製品化されているスピーカーは先輩たちの努力の結晶であり、それを越えるものを容易に作れるわけがなかったのだが、少しも進展しない試作に僕はあせりをおぼえはじめた。その職場で6年目になる小宮さんは、そんな僕をはげましながら試作を進めようとした。
複合材料の利用を思いついたのは、図書室で学術雑誌を見ているときだった。性質の異なる素材を組み合わせることにより、優れた特徴を引き出そうとするその考え方は、スピーカーの材料にも応用できそうに思われた。僕はすばらしいヒントを与えられたような気がした。僕は昼休になると図書室へ行き、参考になりそうな資料をしらべた。
そのアイデアが浮かんだのは、会社から帰る途中の電車の中だった。家に着くなり自分の部屋にこもって、そのアイデアを具体的な形にするための検討を始めた。
それからの数日、夜おそくまで知恵をしぼってアイデアをまとめた。単なるアイデアのままに終わらせたくはなかったので、それを開発案として提案することにした。
そこまでのすべてを自宅で進めていたし、小宮さんにはそのことを話してもいなかったので、いきなり提案書を見せて小宮さんを驚かすことになった。その提案書を検討するには時間がかかりそうだからと、小宮さんはそれを自宅に持ち帰ることにした。
翌日になって小宮さんが返してくれた提案書には、数ヶ所にエンピツで意見が記入してあった。最後のページには、〈良く考えられたアイデアであり、検討してみる価値はあるが、振動板の重さが気になるところだ〉というコメントが記入してあった。
僕はそのアイデアに自信があったので、すぐにも課長に提案したかった。小宮さんは野田課長の反応を気にしていたが、提案することには反対しなかった。僕は勇んで野田課長の席へ向かった。
僕の説明を聞きながら提案書を見ていた野田課長は、僕が途中まで話したところで口をひらいた。
「君はまだわかっていないようだな、会社で仕事をするということの意味が」
なぜ咎められるのか分からないまま、僕は野田課長を見つめた。野田課長の威圧的な眼に、会議の席で部下を責めるときと同じような冷たさを感じた。
「いいか、松井くん」と野田課長は続けた。
野田課長は教えさとすような口調で話した。小宮さんと僕が取り組んでいる仕事は、充分に検討された開発案にもとづいたものである。新入社員が思いついたアイデアを検討している暇はない。社員は与えられた仕事に全力をつくすべきであり、それ以外のことにエネルギーを費やすならば、場合によっては職務怠慢になる。
野田課長の言葉を聞いて僕は混乱し、そして強い怒りをおぼえた。僕は落胆と憤りを胸にしながら自分の席にもどった。小宮さんは僕を見るなり立ちあがり、実験室で話し合おうと僕をうながした。
実験室に入るなり、僕は野田課長に対する怒りをぶちまけた。提案書をまとめるために仕事をさぼったことはない。与えられた仕事に全力をつくしたうえで、さらに努力して提案書を作りあげたのだ。野田課長はそのような僕の熱意を認めようとしないばかりか、課長の方針に忠実ではない部下だときめつけた。野田課長には僕の提案書を検討してみようという気持ちがなさそうだ。そのような提案書を提出したこと自体が、野田課長には不快なことらしい。それどころか、野田課長は職務怠慢という言葉すら口にした。野田課長のあの発言をを許すことはできない。あのような人の下では仕事をしたくない。
小宮さんは奨めてくれた。吉野係長を訪ねて僕の提案書を見てもらい、意見を聞いたらどうか、と。
その翌日、小宮さんは吉野係長に電話をかけて、僕が相談に乗ってもらえるように依頼してくれた。その夕方、僕は吉野係長の職場がある建物に向かった。
笑顔で迎えてくれた吉野さんは、小宮さんから聞かされていたように、気さくで親切そうな人だった。僕がお礼の言葉を口にすると、吉野さんはそれをさえぎるように、「わかってる、小宮くんから話は聞いている」と言った。
吉野さんは空いていた隣りの席の椅子をひきよせ、そこに腰かけるようすすめてくれた。僕は提案書をさしだしてから椅子に腰をおろした。
吉野さんは提案書に眼をおとし、そのまま黙って読みはじめた。僕は高い評価を期待しながら、吉野さんが読み終えるのを待った。
読み終えた吉野さんは、提案書に眼を向けたままで言った。
「入社してから2ヵ月あまりで、こんな提案書が書けるんだから、たいしたもんだよ、君は。小宮くんが感心するわけだよな」
僕はわくわくしながらその続きを待った。
吉野さんは続けた。「だけどな、ちょっと問題があるんだよ、この開発案には」
吉野さんは僕の開発案にえんぴつでコメントを記入しながら、問題となるところを説明してくれた。
僕の提案書には製作過程に技術上の問題があるだけでなく、たとえ試作してみたところで、従来製品を超える性能を期待できないものだった。僕は吉野さんの説明を聞き、そのことを充分に理解することができた。
その開発案が採用されることに大きな期待を抱いていたので、それが無価値なものとわかって僕はショックを受けた。心の中で僕は思った。もしかすると、野田課長も見抜いていたのではなかろうか、僕の開発案に問題があることを。
吉野さんは僕を慰めるように語りかけてきた。
「ちょっと問題はあるにしてもだ、会社に入ってすぐにこんなアイデアを出せるんだからな、たいしたもんだよ君は。本当に良いアイデアというのは、開発課なんていう組織じゃなくて、個人の中にひらめくものなんだ。いっしょうけんめいに努力していると、神様がアイデアを与えてくださるというわけだよ。がんばるんだな、松井君。僕も応援するから。これからは、君のような技術者が力を発揮すべき時代だからな」
吉野さんが低く語りかける声には、僕を鼓舞してくれる力があった。誉めてくれるその言葉を、僕は素直に受け取ることができた。吉野さんから受ける印象とその言動が、吉野さんに対する僕の信頼感を確たるものにした。提案書に技術的な問題があるとわかって落胆したが、吉野さんから励まされたことで自信を無くさずにすんだ。
吉野さんの職場を出たときは、すでに定時を1時間ほど過ぎていた。スピーカー部にもどって事務室に入ると、残業をしていた小宮さんが立ちあがり、僕をうながして実験室に向かった。
実験室に入るなり小宮さんが言った。「それで、どうだった、あの提案書」
僕は吉野さんから指摘された問題点を小宮さんに伝えた。
「おかしなやつだな松井は」と小宮さんが言った。「あれほど自信を持っていたアイデアがだめだとわかったのに、案外に元気じゃないか」
「小宮さんのおかげで吉野さんに会えたし、いろいろと教えてもらえたからですよ。すごい人ですね、吉野さんは」
「あんな人がここを出されたなんて信じられるか。よくわからんよな、会社の人事というのは」と小宮さんは言った。
金曜日の夕方、バスを待っていると、大きなバッグを手にした坂田がやってきた。坂田はたくさんの洗濯物を持って、墨田区の両親の家に帰ろうとしていた。バスと電車を乗り継いで三鷹駅につくまで、僕は坂田といっしょに過ごすことになった。
「クラシック音楽のことだけどな、おれにも少しはわかるような気がしてきたぞ」
電車の中でとうとつに、坂田が意外なことを口にした。しばらく前に坂田と話し合ったとき、クラシックには興味がないと聞かされたばかりだった。
「たった1週間でえらい変わりようだな」
「試聴用のCDの中にいいのがあるんだよ。試作中のアンプで聴いてみて、クラシックも案外いいものだと思ったよ。ラジカセで聴いてもわからないのかな、クラシックの良さというのは」
寮の自分の部屋でクラシック音楽を聴いてみたいので、ボーナスが出たらオーディオ装置を買うつもりだ、と坂田は話した。初めてのボーナスが支給される日が近づいていた。多くのボーナスを期待できない新入社員だったけれども、僕たちにはそれが待ちどおしかった。
クラシック音楽に興味を覚えたらしい坂田に、1週間ほど先の演奏会のことを話すと、坂田は僕といっしょに演奏会に行きたいと言いだした。入場券が手に入るかどうか分からなかったが、プレイガイドへ寄ってみるという坂田に、演奏会の名称や演奏曲目などを書いたメモ用紙を渡した。
毎日のように資料や文献を自宅に持ち帰り、翌日の朝がつらくなるとわかっていても、夜おそくまでそれを調べた。仕事に熱中するそんな日々を過ごしながらも、佳子との週に1度のデートを欠かすことはなかった。
そのようなデートをした土曜日に、佳子が僕の家を訪ねたいと言いだした。佳子がかけてきた電話に母が応じることも多かったから、母と佳子は以前から声を交わしていたことになる。親しく言葉を交わしてきたのだから、そろそろ会ってもよいではないか、と佳子は言った。いきなり聞かされた要望だったが、佳子の気持ちを思ってすぐに同意した。
僕は佳子を家に連れてくることを母に伝えた。佳子のことを母に話したのは、それが初めてだった。佳子からの電話を取り次ぐことがあっても、母が佳子について問いただすようなことはなかったのだが、強い関心を抱いていたに違いなかった。
母が言った。「急な話だけど、だいじょうぶ、明日の日曜日は、他に予定がないから」
「ごめん、勝手に決めてしまって。ケーキを作ってくれるとありがたいけどな」
「そう・・・・ケーキね。どんなのがいいだろうかね」母はうれしそうに言った。
次の日の午後、車で佳子を迎えに行った。待ち合わせ場所は三鷹駅だった。
助手席の佳子はどことなく心もとなさそうで、口数もいつになく少なめだった。佳子の気持をほぐしてやるために、僕は母のことを話した。母が佳子の訪問を喜んでいること。自慢のケーキで佳子を歓迎しようとしていること。僕がそのような努力をしても、佳子が冗舌になることはなかった。
父と兄は午前中にでかけたので、家で待っていたのは母だけだった。
居間に入るとすぐに僕はテレビをつけた。くつろいだ雰囲気を作るためにも、話題を見つけるためにも、テレビをつけておいた方が良さそうな気がした。
緊張気味だった佳子がようやくうちとけてきた頃、母がケーキを運んできた。ふだんは緑茶しか飲まない母が、ケーキとともに出してきたのは紅茶だった。
佳子の前にケーキを押しやりながら母が言った。
「こんなものを作ってみたけど、どうかしらね。滋郎が言うには、杉本さんにはこれがいいだろうって」
ケーキのことが話題になった。母はそのケーキの作り方を佳子に教えはじめた。佳子の気持をほぐすための、母の気づかいに違いなかった。
母をまじえて話し合ったあと、佳子の好きなショパンを聴くために、僕の部屋に佳子をつれて入った。
僕たちは壁ぎわに敷いた座布団に腰をおろすと、スピーカーに向かって足を投げだした。
「もう少しで1年半ね、私たち」
スピーカーに向ったままで佳子が言った。幻想即興曲が始まったところだった。
「おれは、あのときから何年も経ったような気がするよ。そんな気がしないか」
「そう言えばそうね、私もそんな気がする。どうしてかしら」
「いろんなことがあったからだろうな。しかも、大きなできごとが」
「ほんとにそうね。こうして滋郎さんの家に来ることもできたし」
佳子がそっと僕の膝に手をおいた。その手をとって引きよせると、佳子は無言のまま軽く握りかえした。幻想即興曲はアレグロの部分が終わって、甘美なメロディに移ろうとしていた。
第2章 その妹
演奏会場となる建物に近づくと、入口の近くに坂田の姿が見えた。意外なことに坂田は女をつれていた。坂田からは知らされていなかったが、妹をつれて来たらしいとすぐに察しがついた。
「わるいな、待たせたか」と僕は声をかけた。「妹さんか」
「ああ、せっかくだからつれてきた。妹のエリだ」
なぜか照れたような表情を見せながら坂田が紹介すると、その妹は、「はじめまして、エリです」と言って、かるくおじぎした。きれいな眼がまぶしかった。
「俺よりも妹のほうが楽しみにしていたんだ、今日の音楽会を」
「クラシックは初めてなんです。一度は聴いてみたいと思って、兄についてきました」
つつましやかな口ぶりだった。そのものごしに、控えめな性格が表われていた。
建物の入口を入ったところで、2階の座席へ向かう坂田たちと別れることになった。
「それじゃ、あとで」と僕は坂田に向かって言った。
僕はその妹にも声をかけようとして、どのように呼びかけようかと考えた。そのとき、その妹が笑顔を見せて、「エリです」と言った。僕はその言葉に誘われるように「エリさん」と呼びかけ、「クラシックなんて、気楽に聴けばいいですよ。聞こえてくる音を聴いてるだけでいいんだから」と言った。
開演を待ちながら僕は思った。坂田といっしょに飲んだとき、坂田は妹を紹介すると言っていた。坂田は妹を紹介するつもりでつれてきたのかもしれない。機会をみて、佳子のことを坂田に知らせよう。
演奏会がおわったあと、僕たちは会場の外で落ち合った。
「どうだった、坂田」僕は坂田に感想をもとめた。「会社のCDで聴くのと違ってたか」
「演奏するのを見ながら聴くのもいいもんだな。だけど、楽器を演奏している人の動きに気をとられるんだよな、俺は」
「珍しいからだろ」
「終わる頃には眠かったけどな。でも良かったよ、クラシックの音楽会というものを体験できて」
「俺だって、家でLPを聴くときには、しょっちゅう居眠りしてる。演奏会で眠るなんていうのは最高のぜいたくだよ」
絵里が笑った。遠慮ぶかそうな小さな声だった。
第29話
絵里を見ながら坂田が言った。「松井、どこかに寄らないか。せっかくだからさ、絵里に音楽のことを話してやってくれよ」
喫茶店をさがしながら地下鉄の駅に向かっていると、駅の入口に近いところでようやく見つかった。
コーヒーカップを手にしたまま、僕はその日の演奏会の解説をした。オーケストラの特徴や演奏曲目のこと、さらには作曲家のことなど。僕の向い側が坂田で、そのとなりが絵里だった。絵里はきれいな瞳を輝かせながら、僕の話にだまって耳をかたむけていた。
いつのまにか、坂田に向って話しかけているときですら、僕は絵里に聞かせるために話しているような気持になった。
「だったら、わたし、ラフマニノフよりも以前の人が作った曲も聴いてみたいですね」と絵里が言った。
「テープにダビングしてあげるよ、絵里さんが気に入りそうなのを。さっきも話したんけど、絵里さんのラジカセだったら、ヘッドフォンで聴いたほうがいい音で聴けるからさ、音質のいいヘッドフォンも貸してあげるよ」
「うれしいです」絵里が僕を見つめるようにして言った。「ありがとうございます」
「どんなのにしようかな」僕は絵里の気に入りそうなものを考えた。「さっき聴いたようなピアノ協奏曲ということで、シューマンとショパンのにしてみようか。他にも何か考えとくよ」
音楽の話がしばらく続いたあとで、銀行のことが話題になった。絵里が語った職場での体験談は、銀行の内部のことを知らない僕にはめずらしく、そして面白かった。
喫茶店でのひとときを、僕はうかれたような気分ですごした。自分に向けられた絵里の笑顔を意識して、僕はいつになく冗舌だった。
絵里がひかえめな性格だということは、最初に言葉を交わしたときにわかった。絵里のものごしやその口ぶりに、そして、笑顔の中の美しい眼に、誠実で優しい人がらがにじみ出ていた。そんな絵里が僕には好ましく思えた。絵里が僕の心に残したものはそれだけではなかった。僕は気がついていた、絵里もまた僕に対して好意を持ってくれたということに。佳子という存在がありながら、ほかの女から好意を持たれたという意識が、僕をうわついた気分にしていた。
どんなに実験をくり返しても、成果らしいものはほとんど得られなかった。とはいえ、僕は実験装置の取り扱いにすっかり慣れて、小宮さんから試作の作業をまかされるようになっていた。
僕と小宮さんは時おり吉野さんの職場をたずね、実験データについての意見を聞いた。吉野さんは親切に指導してくれただけでなく、あとで電話をかけてきて、自分の意見を補足するようなこともあった。吉野さんは自分の仕事で忙しかったはずだが、いつでも気さくな態度で相談に応じてくれた。
僕には月曜日の会議が疎ましいものになった。野田課長はいらだちを隠さず、きつい言葉で課員を責めた。野田課長のそのような姿に、僕は疑問をいだきはじめた。
僕の課の四つのグループは、いずれも困難な技術上の課題をかかえていた。困難な課題だからこそ開発に意義があるはずだが、そのような開発が予定通りに進むとはかぎらない。試作の遅れにいらだつ野田課長の姿とその言動に、僕は憎しみすら覚えるようになった。
実験室で小宮さんとふたりきりになったとき、僕は野田課長に対する不満をぶちまけた。
僕の言葉に同意した小宮さんは、「野田さんは猛烈社員流のやり方から抜け出せないんだよ」と言った。
「こんなにがんばってるんだから、僕たちだって猛烈社員じゃないかな」
「もちろん、おれたちだって随分がんばってるさ。だけどな」と小宮さんが言った。「目標に向かってがんばるのと、野田さんみたいに無理な計画を立てて、それを達成するためにがんばるのとは違うはずだろ。ああいうのを猛烈社員型って言うんじゃないのかな」
「猛烈に働いて、たくさん作ってどんどん売って、それで日本は豊かになったわけですよね。だけど、日本人の生活というのはそれ程でもないんでしょ。外国とくらべて住宅が狭すぎるし、通勤には時間がかかりすぎるし。新聞や週刊誌にはそんなことが載ってますよね。日本の誰なんだろう、豊かになったのは」
「会社だろ、もちろん。あのグラウンドを見ろ。土地を買ってあんなに広くしたじゃないか。だけどさ、一番得をしているのはアメリカ人じゃないのかな。誰かが言ってたぜ、日本人はアメリカ人の豊かな生活のために、汗水たらして働く奴隷みたいなもんだって」
そんな記事か論説を読んだことがある、と小宮さんは言った。企業は互いに競争し、良い製品を少しでもやすく作ろうと努力する。その競争にまき込まれた日本人が汗を流して作った製品を、アメリカやヨーロッパでは豊かな生活のために使っている。それにひきかえ、日本人は努力したほどには報われていない。勤勉に働くことは日本人の美徳であるにしろ、それが自分たちに還元されていないのであれば、それは奴隷の労働に似たものである。小宮さんによれば、日本人奴隷論というのはそのようなものであるらしかった。
僕は小宮さんと議論した。実際のところ、今の日本人のおかれた状態はどのようなものなのか。確かに今の日本人には奴隷的な要素がある、と小宮さんは主張した。
「もしもそれがほんとなら、急いでリンカーンを見つけて来なきゃならないですね」と僕は言った。
「誰かがリンカーンにならなくちゃならないんだよ」
「労働組合ってリンカーンにはなれないのかな」
「いまの組合がやれるのは、せいぜい奴隷の待遇改善だろう」と小宮さんは言った。「やっぱりさ、おれたち日本人が変わらなきゃだめなんだよ、奴隷のような状態から脱却するには。どっかの誰かによって解放されるってもんじゃないだろ、そういうのは」
たしかにその通りだと思った。日本を住みよい国にしたいというのであれば、自分たちが真剣に考えるほかはないだろう。政治について坂田と話し合ったことが思いだされた。
昼食をとっている間に雨が強まっていた。社員食堂から僕の職場までは50メートルもなかったが、その距離を走ることすらあきらめさせる雨だった。食堂の出口付近にはたくさんの社員がたむろしていた。
「このようすだと、しばらく待つしかないだろう。中に入ってコーヒーでも飲みながら話さないか」
いつのまにか坂田が横に立っていた。
自動販売機のそばで紙コップを手に立ち話をしていると、坂田がとうとつに先日の演奏会のことを持ちだした。絵里は演奏会のことをとても喜んでおり、そのような機会をさらに持ちたがっている、ということだった。僕はそれを聞いて、佳子の存在を知らせなければならないと思った。
「実はおれのつき合っている人も音楽が好きなんだ。埼玉に住んでいるから、いっしょに演奏会に行くことはめったに無いけどな」
僕の話したことに意外な感じを受けたらしく、坂田はとまどったような表情を見せた。
「そうか・・・・でもいいじゃないか、音楽会に行く程度の浮気なら。お前にはつき合っている人がいること、家に帰ったときに絵里に話すよ。がっかりするだろうけどな」
坂田の「がっかりするだろうけど」という言葉が僕の胸にさざ波をおこした。甘美な想いを伴うさざ波は、ここちよく拡がりかけたけれども、すぐに不安を伴う予感がそれを抑えた。自分の心の不確かさをかいま見たような気がした。僕は佳子に対してうしろめたさを覚えた。
僕は心の揺れをおさえて言った。「絵里さんが聴きたがってるなら、もちろん喜んでつき合うよ。おれだって、一人で聴きに行くより、絵里さんといっしょの方が楽しいからな」
演奏会の日の別れぎわに、絵里は「もしも迷惑でなかったらですけど、いつかまたいっしょにお願いできますか」と言った。絵里の遠慮ぶかそうな声と笑顔を前にして、僕は喜んでつき合うと答えたのだった。絵里が望んでいるというのであれば、それを拒むわけにはいかないと思った。
多少のこだわりはあったけれども、僕は絵里の希望に応えることにした。そして、僕は自分に向って言いわけをした。約束通りに絵里を演奏会につれて行き、そのついでに自分も楽しいひと時をすごすのだ。そのことに問題があろうはずはない。いったんその気になると、なるべく早く絵里を演奏会につれて行きたくなった。
その日は夕食を終えるとすぐに自分の部屋に入り、プレイガイドに立ち寄るたびに持ち帰っていた、演奏会に関わる資料を取りだした。さがしてみると、どうにか良さそうなのがあったので、電話で坂田にそのことを伝えた。
坂田を介して絵里の都合をたしかめてから、つぎの日の夕方には入場券を買った。演奏会まで四日しかなかったので、良い席はすでに売りきれていた。
その日の演奏会に、僕はめずらしく早めに出かけた。会場の入口で絵里を待たせるようなことをしたくなかった。
待つほどもなく、白いブラウスを着た絵里の姿が見えた。壁にもたれていた僕のまわりには、知人を待っているらしい人が立ち並んでいたから、絵里には僕の姿が見えなかったのだろう。僕に見られていることに気づかないまま、絵里は軽快な足どりで近づいてきた。白いハンドバッグを手にした絵里がとても清楚に見えた。
絵里が近くまできてから、僕はもたれていた壁をはなれた。僕に気づいて、絵里はおどろいたような表情を見せたが、すぐににこやかな笑顔をうかべた。
「ごめんなさい、待ちましたか」
「いや、ちょっとだけ」と僕は答えた。「たまには早く来て、どんなだか試してみようと思ったんだ」
「試すって・・・・」絵里はとまどいを見せたが、すぐに笑顔で続けた。「それで、どうでしたか、早く来てみたら」
「待つことも案外に楽しいということがわかったよ。絵里さんがどんな風に現われるのか想像したりしてさ」
「期待にそえましたか、こんな現れ方で」
絵里は両うでを左右に開きながら言って、そんな自分のしぐさをはにかむみたいにほほ笑んだ。いきなり、絵里がそれまでよりも身近で親密な存在になった。笑顔のなかのきれいな眼が、それほど眩しくはなくなった。
「絵里さんを見ていたら、演奏会に期待していることがよくわかったよ。ここへ向かって一所懸命に歩いてくるみたいだった」
「わー、はずかしい」本当にはずかしそうな表情を見せて絵里は笑った。「この次は松井さんよりも先に来なくっちゃ」
うちとけたもの言いをしながらも、絵里の笑顔にはまだ堅さが残っていた。そんな絵里を見ていると、いたわってやりたいような気持ちになった。
「この次も僕のほうが先に来て待つことにするよ。近づいてくる絵里さんを、どきどきしながら見たいからさ、今日みたいに」
それを口にしたとたんに、僕はかすかな狼狽をおぼえた。絵里の気持ちをほぐしてやるつもりの言葉の中に、自分の気持ちがまぎれこんだような気がした。
「ごめんなさい、先にお礼を言わなくちゃいけないのに」と絵里が言った。「ほんとにありがとうございました、あのテープ。とっても素敵です、ショパンもシューマンも」
絵里に贈るために、ショパンとシューマンのピアノ協奏曲をダビングし、一週間ほど前に坂田に渡しておいた。それがよほど気に入ったのか、絵里はそれら二つの協奏曲のことを夢中になって話した。
「そんな風にして、ヘッドホンであのテープを聴きながら小説を読むのって、ほんとに素敵ですよ。BGMみたいな感じですけど、くりかえして聴いてます」
「気に入ったクラシックでも、そんなに聴けばあきるだろうから、別のものをダビングしてあげるよ」
「ごめんなさい」と絵里が言った。「なんだかおねだりしちゃったみたい」
しばらく話しているうちに、絵里の笑顔からかたさが消えた。二週間ぶりの二度めの出会いだったが、僕たちをうちとけた雰囲気がつつんでいた。
演奏が始まっても、僕は音楽に集中することができなかった。横にいる絵里を意識しながら考えた。会場を出てからそのまま駅に向かうというのでは、絵里に淋しい想いをさせるような気がする。どこかに立ち寄って、演奏会の余韻を楽しむとしよう。ふたりとも食事はすませていることだから、飲み物だけでいいだろう。
会場を出ながら絵里に誘いかけると、絵里はうれしそうに同意した。
地下鉄の駅へ向かう途中にケーキ屋があり、その2階が喫茶室になっていた。飲み物を注文すれば、特製のケーキがついてくる店だった。店の中の階段をのぼって、僕たちは喫茶室にはいった。
コーヒーとケーキはすぐに出てきた。絵里はケーキをながめ、それから僕を見て嬉しそうにほほえんだ。笑顔を絵里にかえしてから、僕はコーヒーカップをとりあげた。絵里はケーキの皿を両手で引きよせた。
演奏会の感想を語り合っていると、にこやかな笑顔を見せて絵里が言った。
「あの人の寝息、何だかとてもおかしかったですね。音楽が静かになると聞こえて」
演奏が始まってからまもなく、絵里の前の座席から寝息が聞こえ始めた。サラリーマンらしいその男の寝息は、となりの人に注意されるまで続いた。
「あの人も、きっと音楽が好きな人だと思うよ。わざわざ出かけたんだからさ」
「この前に会ったとき、松井さんはLPを聴きながら眠ることがあると言ったでしょ。音楽を好きな人って、かえってそんなことがあるのかしら」
「LPならば子守歌にできるけど、演奏会で寝てしまったらもったいないよ」
「演奏会が子守歌っていうのもぜいたくだけど、寝ちゃったら子守歌も聞こえないから、やっぱりもったいないわね」
絵里の言葉に僕が笑いだすと、絵里もいっしょになって笑った。抑えられたその声が、僕の耳には好ましく聞こえた。
「僕だって、場合によったら居眠りするかも知れないよ、あの人みたいに。マージャンで寝不足になったりすれば」
「マージャンをするんですか、松井さん」
「学生時代に、マージャンの好きな友達に誘われたんだ。洞察力が強くなるからやってみろって。僕もたまには遅くまでつき合ったけど、卒業してからは一度もやっていないよ。それほど好きなわけじゃないし、そんな暇もないからさ」
「兄は好きなんですよ、マージャン」
「そうか、意外な感じだな、坂田がマージャンをするとは。もしかすると、坂田の洞察力はマージャンのおかげかもしれないな」
「そんなに洞察力があるんですか、兄さんは」
「坂田の洞察力はそうとうなもんだよ。僕たちがこんな店に入ることだって、坂田にはお見通しだと思うな。だからさ、月曜日に坂田に会ったら、あいつは僕に向かって言うはずなんだ。演奏会のあとで絵里といっしょにケーキ屋に入って、二階の席でケーキを食いながら、うまいコーヒーを飲んだだろう。お前を見ただけでおれにはわかる」
絵里は控えめな声をあげて笑い、「松井さんは、私のこともそんなふうに洞察できますか」と言った。
「洞察って、絵里さんのことをかい」
「そう、たとえば、休みの日にはどんなことをしてるのか」絵里は両手で持っていたコーヒーカップをゆっくりとまわしながら言った。「あるいは・・・・ボーイフレンドはいるのかどうか・・・・たとえばそんなこと」
絵里がボーイフレンドという言葉を口にしたとき、僕は心の揺れをおぼえた。坂田が僕に絵里を紹介しようとしたのは、絵里にはつき合っている男がいないからだ、と僕は思い込んでいた。絵里の言葉を聞いて、もしかすると、絵里にはボーイフレンドが居るのかも知れないと思った。
「むつかしいな、ボーイフレンドについての洞察なんていうのは」
「だから・・・・そのことも含めて、ようするに私のこと」
「居るんだろ、ボーイフレンド」
「さあ、どうでしょう。どう思いますか」
絵里は僕に笑顔を向けたまま、コーヒーカップを口へはこんだ。
その様子を見て、絵里にはボーイフレンドがいないような気がしたけれども、僕は「もちろん居ると思うよ。だってさ、絵里さんをひとりにしておくなんて、もったいないからな」と言った。
絵里の眼が、笑顔の中で驚いたように大きく開かれた。絵里はコーヒーカップをテーブルに置き、カップに手をそえたまま顔をあげた。
「居ないんですよ、わたし、ボーイフレンドって。短大の頃だって。だからね、ボーイフレンドを持ってる友達がうらやましかったの」
「今までいなかったなんて不思議だな。もしかしたら、ボーイフレンドが欲しいと、本気で願っていなかったんじゃないのかな、絵里さんは」
「そういうのって、やっぱり縁だと思いませんか」
「銀行にもたくさん居るんだろ、良さそうな人が」
「そうね、一般論的にいい人は、いっぱい居るような気もするんだけど」
「なんだよ、一般論っていうのは」
「理想的な恋人の条件というのがあるんですって。そういう意味では、銀行にもいろんな人がいるんですけど、とくにこの人はというひとはいないのよね、わたしの場合には」
「一般論的な理想にこだわるわけじゃないんだろ」
「そんなことにはこだわりませんけど……いままでは、わたしと縁のある人に出会えなかったのよね、きっと」
絵里はコーヒーカップを取りあげると、それを両手でそっと支えるようにした。絵里のそのような仕ぐさがかわいらしく見えた。
「出会いを待つのもいいけどさ、縁を作るようにしたら、もっと早く見つけることができるはずだよ。男にだって同じことが言えるんだけど」
「男の人にとっても一般論的っていうか、そういうのはあるんでしょ」
「あるだろうな、たぶん。でも結果としてはやっぱり縁だろうな」
「いまつき合ってる人とは縁があったわけですね」
坂田が伝えたはずだから、絵里が佳子のことを知っているのは当然のことだったが、その言葉に僕は不意をつかれた。あのとき坂田になにも話さなければ良かった、という想いが心の端をよぎった。
僕にはつき合っている女がいるということを知って、絵里はむしろ気楽に僕に接することができたのかも知れない。絵里は内気な性格に見えたが、その日ははじめから、思ったよりもうちとけた態度を見せていた。そのわけがわかったような気がした。
「そうだろな、たぶん。一般論的にどうとかいうことは、少しも考えなかったからな」
絵里がうなづいたのを見て僕は続けた。「もしかすると、僕のようなのは一般論的には対象外じゃないのかい」
「でも結果的には松井さんを好きになった人が現われたわけでしょう」
「そうか、やっぱりおれって一般論的じゃないんだ」
「ですけど、松井さんってすてきですよ」絵里はにこやかな笑顔を見せて言った。
絵里にしてはずいぶん大胆な言葉だと思った。同時に僕はここちよくくすぐられたような気持になった。
「僕のことはもういいよ。それよりも、絵里さんがボーイフレンドを見つけるための方法を考えようよ」
「教えてもらえるとうれしいですけど」絵里が再びにこやかな笑顔を見せて言った。「どうしたらいいんでしょう、早く見つけるためには」
コーヒーカップを口にはこんだ絵里は、唇をかるく触れただけですぐにそれを離した。僕はそんな絵里を見ながら、絵里のために役に立ちそうな話をしてやろうと思った。
「だいぶ前に新聞か雑誌にでていた話なんだけどな、これは。東京駅で新幹線に乗ってから、隣り合った乗客どうしがどんな会話をするのか調べたんだよ。大学の心理学研究室だったと思うけどな、それをやったのは」
僕がいきなり話題を変えたので、絵里はとまどったような表情を見せた。
「調べてみたらわかったんだよ、どんな条件があれば乗客どうしで話をするかってことが。それがどんな場合なのか想像できるかい」
「そうねえ・・・・・・私が新幹線に乗ってる場合を想像して・・・・」
絵里は手にしたコーヒーカップに眼を落とし、ほんのしばらく考えてから言った。
「酔っぱらった隣の人から話しかけられたり・・・・棚にあげようとした荷物を落してあやまることだってあるけど、そういうのとは違うわよね、いくらなんでも」
絵里をからかうような口調で僕は言った。「絵里さんって、案外おもしろいことを想像するんだな」
「想像だったらいいけど、誰かさんが、ほんとに荷物を落とした話なのよね、これって」
その言い方がおもしろくて僕が声にだして笑うと、絵里自身もおかしそうに笑った。すっかりうちとけている笑顔だった。
「教えてあげようか」と僕は言った。
「その条件ってむつかしいものですか」
「そうなんだ、むつかしいんだよ。だから隣どうしで話をするのはめずらしいんだ」
「そうね、ずっと並んでるのに、話なんてしないわね」
「隣り合ってる人のどちらかが、先に座席についているわけだよな。そこへ隣の人がくるわけだ。それでさ、1分以内にどっちかの人が隣へ声をかければいいんだよ。ちょっと声をかけるだけでいいらしいよ。そうするとだよ、それから後で互いに話をすることがあるんだってさ。隣り合ってから1分以上も話をしない場合には、大阪までお互いにひと言もしゃべらないそうだよ」
「そういうことだったの。そう言われてみれば、わかるような気がする、その話。おもしいことを研究するわね、大学の先生も」絵里は感心したように言った。
「案外とおもしろいよな、心理学の研究というのも。とにかく、そういうわけだからさ、男と女の間だって、出会ってから1週間なのか、あるいは半年なのかわからないけど、その間にきっかけを作ればいいと思うよ」
「あ・・・・・・やっとわかったわ。どうしてそんなことを話してくださるのかと思ったら、そういうことなの」絵里は明るい笑顔を見せた。「その話をもっと早く聞いておけば、ボーイフレンドができてたかも知れないわね。でも良かったわ、いま聞かせてもらったから、今後の参考にさせてもらいます」
「ずっと同じ職場で働いている人とどうにかなりたかったなら、変化を起こすようなことをしたらいいんじゃないかな。棚から荷物を落としたら会話が始まるんだからさ。今からでも間に合うよ、きっと」
「そうね、これからは最初がかんじんだって心がけときます。それでもうまくいかなかったら、荷物を落とすやり方をためしてみます」
絵里はおどけたような口調で言った。僕たちは声を合わせて笑った。そんなときでさえも、絵里の笑い声は遠慮がちに聞こえた。絵里のやわらかいアルトの声と、つつましやかながらも明るい話しぶりが、その笑い声とともにとても好ましかった。
演奏会からの帰りではあったが、僕たちは音楽についてはあまり話さなかった。絵里が音質の良いヘッドホンを買うつもりだと話したとき、ついでのように音楽のことを少しだけ話題にした。
気がついたときにはずいぶん時間が経っていた。両親が心配しているかも知れないからと、絵里は店から自宅に電話をかけた。僕はテーブルについたまま、電話に向かっている絵里を見ていた。絵里の体がときどき小刻みにゆれた。絵里が話し終えるまで、笑いながら話している絵里の後ろ姿から眼を離すことができなかった。
店を出たときには霧雨が降っていた。ふたりとも傘を持っていなかったので、地下鉄駅の入口を目指して懸命に歩いた。
「私は今までデートをしたことがないんです。だから、今日は私とデートをしたことにしてくださいね」息をきらしながら絵里が言った。
息をきらしながらも、絵里は明るい笑顔を見せていた。絵里にいとおしさを覚えながら、その笑顔に向かって僕は答えた。
「もちろんデートだよ。今日のは最高のデートじゃないか」
「松井さんは、休みの日にはいつもデートするんですか」
「たまに会うだけだよ。せいぜい日曜日に会うくらいかな」
佳子との親密な仲を知らせるべきなのに、僕はそのことを隠そうとした。そんな自分を意識して気持ちが少しかげった。
地下鉄駅の改札口を入ったところで、僕たちは再会を約す言葉を口にして別れた。僕たちにはその日が二度目の出会いだったが、ふたりをつつむ雰囲気は、すでに親密なものになっていた。僕は心の隅でふわふわと揺れるものを抱えて家に向かった。
家に帰り着くとすぐに自分の部屋に入った。家族の者としゃべったり、テレビを見たりするよりも、ひとりで静かにしていたい気分だった。
腹ばいになって夕刊の見出しを追っていると、別れぎわに絵里が口にした言葉が甦ってきた。演奏会のことを感謝したあとで、絵里は「迷惑でなかったらですけど、ヘッドホンを買うときに、松井さんに相談にのってもらえたらと思って」と言った。僕は「遠慮しないでなんでも相談しなよ。迷惑だなんて少しも思わないから」と答えた。僕は思った。絵里はこれから、いろんな相談を持ちかけてきそうな気がする。あの笑顔で頼まれたなら、応じないわけにはいかないだろう。喫茶店でのひとときが、絵里の笑顔と声を伴って思いだされた。
第3章 生きがい
試作はいっこうに進まず、実験データだけが増えていった。会議のたびに、野田課長は小宮さんを責めた。小宮さんと僕は叱責に耐えるしかなかった。
月曜日の会議が終わってから、僕と小宮さんは会議室に残って、実験の進め方について議論した。会議室の白板は、小宮さんと僕が書いた文字や図でうめつくされていた。
パネルで仕切られただけの会議室だったので、ときおり野田課長の大きな声が聞こえた。そのたびに僕は不快な気持ちになった。
「僕たちの仕事はこれでも進んでますよね。これまでの実験の結果を知ってるんだから」と僕は言った。
小宮さんは白板に書かれた文字を消しながら、「そうだよ、もちろん。やってしまったことは、もうやる必要がないからな」と答えた。
「昨日の続きを今日やって、今日の続きを明日やるというような毎日だけど、それでも進歩はしているわけだ」
「そりゃそうだよ。試作にしても、俺たち自身にしても、毎日のように少しづつ進歩しているんだ。経験を積み重ねるということには、そういう意味があるわけだよ」と小宮さんは言った。
会議室を出て事務室に向かいながら、小宮さんが言ったことについて考えた。仕事に関わる僕の知識は、努力と経験を通して確かに進歩し続けていた。それならば、僕自身は人間的にも成長し続けているのだろうか。知識を積むうえでの糧が経験と努力なら、人間的に成長するうえでの主要な糧は何だろう。考えながら歩いている内に、自分の机の前に来ていた。
梅雨が明けて間もない金曜日の夕方、僕と小宮さんは吉野さんからビールに誘われ、いっしょに工場を出てバス停に向かった。
僕たちが入ったのは、スーパーストアの屋上にあるビアガーデンだった。時刻が早かったので空席が多かった。僕たちは東の端に置かれているテーブルについた。
空はまだ明るく、その屋上からは、小さなビルや民家がつらなる光景が遠くまで見えた。風はほとんどなく、夕方とはいえまだ暑かった。
僕たちはとりとめのない話題に興じていたが、やがて吉野さんが熱心に語りはじめた。いつもは寡黙な吉野さんが、その日はむしろ饒舌なほどにしゃべった。製品開発のあり方や技術者の生き方。吉野さんのその言葉に、僕と小宮さんは神妙に耳を傾けた。
「小宮さんはボーナスでオーディオ装置を買い替えたでしょ」と僕は言った。「よく考えて買ったつもりでも、使っているうちに不満なところがでてきたり、新しいのを欲しくなったりするんですよね。オーディオに限らないとは思うけど、何年かたったら買い替えたくなるような商品には、どこかに問題があるということですよね」
「高いのを無理して買ったのに、たった5年で買い替えたんだぜ。俺の貯金が減って、古いのをもらう弟が得をするっていうのがいつものパターンなんだよな、俺の場合には」
「良かったじゃないか、いい音が手に入ったうえに、弟を喜ばせることになったんだから」と言って吉野さんはジョッキを取りあげた。
「オーディオだけじゃなくてさ、家庭用の電気製品はなんでも次々に新製品が出るでしょう。なんだか早く買った者が損をするみたいだよね。もうちょっと待てばもっといいものがでてきそうだから」小宮さんがぼやくような言い方をした。
「ボーナスをもらってから、小宮さんはいろんなものを買ったみたいだけど、いいものがでるのを待ってたわけだ」
「俺は待たないよ。待たないで、さっさと楽しむのが俺の主義だからな」
「さっさと、たっぷり楽しんだのなら、その後でもっといいものが出てきても損はしてないはずだけど」
「そういうつもりなんだけどさ、俺の貯金はいつまでたっても増えないんだよな」
僕たちを笑わせるような口調で言うと、小宮さんは手をのばして枝豆をつかんだ。
「小宮さんの貯金が増えるように、みんなでがんばって、究極の製品を作らなきゃならないね。小宮さんが買い替えなくてもいいように」
「それじゃ松井、さんざん頑張ったあげくに、俺たちは失業することになるぞ」
「究極というのはともかくとして、品物にしろ芸術作品にしろ、何かを作りあげようという人間は、いいものを作ろうと努力してきたんだよ、昔から。進歩とか向上を目指すということは、人間の本質的な性質のひとつじゃないのかな。だから、進歩するのは何も技術製品だけとは限らないだろ。人間は自分たちの文化を向上させ続けるわけだよ」と吉野さんが言った。「さっきの話、技術者の執念のことにしたって、それに通ずることなんだ。執念をもやしている技術者というのは、それをやり遂げたら世の中の役にたつはずだと信じて、身をけづるような努力しているわけだよ」
その少し前まで、僕たちは技術者の生き方について話し合っていた。そのとき、吉野さんは技術者の執念について語った。大きな価値があるけれども、その実現には困難を伴う課題があった場合に、目的を達成できるかどうかのカギは、それに関わる技術者や研究者の執念にある、というのがその内容だった。
吉野さんがさらに続けた。「技術者としては嬉しいことだぜ、仕事に執念を燃やせるということは。執念を燃やしながら苦労するわけだけど、それをやってる技術者にとっては、その苦労も生きがいのひとつだろうな。生きがいというのは人それぞれだし、技術者としての生きがいというのも様々のはずだけど」
吉野さんが話を中断してジョッキを取りあげたので、その間に僕は口をはさんだ。
「発明とか開発とかいっても、組織の中で仕事をする場合が多いでしょう。技術者の執念ということを会社にあてはめると、その開発に会社が執念をもやすということになるんじゃないですか」
「トランジスタもCDも、サラリーマンとしての技術者が、執念をもやして発明したわけだが、開発に対する執念がその会社にあったから、技術者たちがそういう成果をあげることができた、ということは言えるだろうな。だけど、そんなふうに組織の中で開発が進められるにしても、目標に向けて執念を燃やすのは、結局のところは個人だよ」
「創造性の育成も学校教育の重要な役割と、新聞か何かに出ていたけど」と小宮さんが言った。「会社の場合には、創造性を発揮しやすい環境をつくるべきだよね。これからは、品質の良さだけで他の国と競争するのは、あまり得策じゃないらしいから」
「その通りだよ。日本はこれまで以上に、ほんとに独創的な製品をつくりださねばならんわけだよ」
「工業技術や製品にも、日本人が発明したものが随分ありますよね」と僕は言った。
「もちろん、日本人もいろんな物を発明しているけど、これまでのやり方でいいなんて思っていると、大変なことになるかも知れんよ。執念を燃やしている技術者は、世界中にいるんだからな。日本の入学試験は、独創性や研究能力よりも、試験問題を解く能力を重視しているわけだが、いつまでもこんなことをしていたら、日本の将来は困ったことになると思うな」
「どうして、もっと真剣に考えないんだろう。日本の将来を考えなくちゃならない政治家とか、教育者たちは」
「今まではそんなことを考えなくても、輸出できて儲かったからだろ」枝豆を食いながら小宮さんが言った。「会社がいくら儲かっても、俺たち奴隷の生活は良くならんけどな」
「このあいだ小宮さんと話したんだけど、日本人奴隷論というのがあるそうですよ。日本人はアメリカ人などの豊かな生活をささえるために、まるで奴隷みたいに働いている、ということらしいです」
「それは一面的なとらえ方じゃないかな。日本は輸入した原料でいろんな物を作って、それを輸出しているわけだが、輸出先の人達に快適な生活を提供できてこそ、日本から輸出する意味があるんじゃないのかな。だから、日本人を安易に奴隷呼ばわりするのはおかしいと思うよ。日本人ががんばって働いているのに、それが正当に報われていないというのだったら、それはそれとして議論すべきだと思うけどな」
「だからね、松井がリンカーン待望論を言いだしたんですよ」
「なるほどな、リンカーンか」と言って吉野さんは笑顔を見せた。「だけどな、一人のリンカーンをあてにするより、どうしたらいいのか、みんながもっと考えた方が良いと思うな」
「その通り。みんながリンカーンになるべきですよ。このあいだの、おれ達の結論もそうだったよな、松井」
もともと声量のある小宮さんの声が、ビールのせいで一段と大きくなっていた。
ふだんは寡黙な吉野さんが饒舌になり、小宮さんは離れた席まで届くような声でしゃべっていた。僕は飲み始めた時から、すでに浮かれた気分になっていた。風はほとんどなかったけれども、すでに暑さは消えていた。西の空にはまだ夕焼けが残した色が漂っていた。
話題がつきないままに語りあったが、やがて、これでしめ括ろうとでもいうように、吉野さんが僕と小宮さんを励ます言葉を口にした。
吉野さんの激励に答えるようにして、小宮さんが「あしたは今日の続きだとしてもだ、明日は今日よりも進歩しているんだよな、松井。明日からはほんものの執念を燃やしてがんばろう」と言った。
「何だい、今日と明日って」
「このあいだ松井と話し合ったことの続きです、いまのは」
小宮さんの言葉をどう受け取ったのか、吉野さんは笑顔でうなずいた。
長い時間を語り合ったような気がしていたが、スーパーの屋上で過ごした時間は2時間ほどだった。
笑いながら話に興じたことで、心はすっかりときほぐされていた。酔いに乗じた議論が満足感を残していた。僕の心に強く残っていたのは、吉野さんが熱をこめて語った言葉だった。会社という組織で行動するうえで注意すべきこと。新製品開発のあり方。そして、目標の達成に必要な技術者の執念。
吉野さんが語った技術者の執念。たしかに、どんなことであれ、夢や願望は、それを成し遂げるまで努力してこそ実現できる。執念がその努力をささえる原動力になるのだろう。自明の理だと言えなくもない言葉だったが、僕にはそれが新鮮なものに聞こえた。僕は思った。このことをしっかりと心にとどめておくことにしよう。そうすれば、どんな目標であれ、それを安易にあきらめるようなことはしないだろう。そしてまた、僕が困難な課題に取り組むような場合には、それをやり遂げる力を引き出してくれることだろう。
配属された職場で3ヵ月が過ぎた頃には、試作を進めるうえでの相棒として、僕は小宮さんから対等に扱われるようになっていた。僕は夢中で仕事にとりくみ、自宅に帰ってからも試作のことを考え続けるような日々をおくっていた。
仕事に熱中する一方で、それまでと変わることなく、週に一度は佳子に会った。それだけでなく、僕は絵里ともつき合っていた。
残業さえしなければ、絵里とは平日にも会うことができた。絵里が電話で相談を持ちかけてくると、僕は喜んでそれに応じた。絵里がヘッドホンを買う際には、いっしょに幾つもの店をまわって、喜んでもらえる結果になった。カセットテープを選ぶようなときにも、絵里は僕の意見を聞こうとした。絵里の求めに進んで応えようとする僕に対して、僕の理性らしきものが警告しはじめた、佳子を悲しませるようなことをしてはならないぞ、と。
うしろめたさはあったけれども、佳子に隠れて絵里とつき合うことが、おまけのような楽しみを僕にもたらした。佳子に対するうしろめたさとともに、それから先の成り行きに対する漠然とした不安があったけれども、僕は絵里との交際をやめようとはしなかった。僕は自分に向かって言いわけをした、佳子を愛する気持ちに変わりはないのだから、少しくらいの移り気は許されるだろう、と。
会議の席で野田課長が小宮さんをどなりつけたとき、僕は怒りを抑えることができなかった。課長の態度が理不尽なものに思えたので、僕は強い口調で小宮さんを弁護した。野田課長は無言のまま僕を見つめていたが、僕が話し終えると軽くうなずき、穏やかな口調で「わかった」と言った。そのあと野田課長は何ごともなかったかのように会議を進めていった。野田課長は小宮さんのプライドを傷つけながら、それを全く意に介していないかのようだった。僕の胸には怒りの感情が強く残った。
その夕方、野田課長は来客用の応接室に僕をつれて入った。会議での自分の態度をきびしく叱責されるにちがいない、と僕は覚悟した。
「ちょっと聞きたいが」と野田課長がきりだした。「君は僕を批判しているそうだな」
「僕は、やっぱりあの実験をやった方がいいと思います。小宮さんの考えていることをわかって欲しいです」
野田課長の質問に対しては的はずれの回答だったが、その日の会議でのやりとりを思いだしながら僕はそのように答えた。
「小宮くんのことはわかったから、もういいよ。そんなことより、君に言っておきたいことがある」と野田課長が言った。「君には僕の立場も考えてもらいたいんだがな」
「わかっているつもりですけど」
「わかってるんなら、課の雰囲気を乱すようなことはしないでくれ」
野田課長の意図するところがつかめないまま、僕は黙って次の言葉を待った。
「陰で僕を批判するのはやめてくれ。課の雰囲気を悪くするからな」
不安な想いと警戒心がわきあがってきた。へたな対応をすれば、課長との間がまずくなりそうな気がした。
僕が野田課長に対する不満をもらしたことは、それまでに幾度となくあった。その相手は小宮さんだったが、それを耳にした誰かが野田課長にそれを伝えたに違いなかった。僕は同期入社の鈴木を疑った。新入社員どうしということもあって、しばらく前まで親しくつき合っていたが、陰険でずる賢いところを見せられてからは、なるべく近よらないようにしていた。
野田課長はだまって僕を見ていた。うかつなことは言えないと心しながら僕は口をひらいた。
「誰ですか、僕が課長を批判していると言ったのは」
野田課長が話す内容によっては、釈明することもできたであろうが、その質問に答えてはもらえなかった。さらに言葉を交わしたあとで、釈然としないまま、批判的な言動をつつしむようにと約束させられた。険しい成り行きになりそうだと覚悟をしていたのだが、結局のところはその程度でおさまった。
野田課長は僕の仕事ぶりをほめ、期待しているからさらに努力するようにと、言い置くような言葉を残して応接室を出ていった。野田課長の足音を追うようにして僕はドアに向かった。
企業の夏期休暇が集中する8月中旬に、大学の同期生会が設定されていた。同じ学科の同期の者が、卒業してから初めて集まる会合だった。
渋谷で開かれた同期生会には、思っていたより多くの仲間たちが集まってきた。数か月ぶりに会った仲間たちは、身なりがすっかり変わり、話題もずいぶん豊富になっていた。むろん彼等の眼には、僕自身もそのように映ったにちがいなかった。
仲間の就職先は電気にかかわる分野とはかぎらず、出版社や建設会社など、さまざまな業種にわたっていた。担当する仕事がすでに決まっている者もいれば、まだ社内研修を受けている者もいた。
「数学にしろ電子工学にしろ、苦労して勉強したわりには役に立たないよな」と池田が言った。「役にたつのは英語に国語、それと数学。数学というよりも加減乗除の算数だよ、実際に使っているのは」
池田とは学生時代に親しくつき合っていた。僕とちがって池田はめったに講義をさぼらなかったので、僕はしばしば彼からノートを借りた。
「英語と国語に算数か。確かにそんなとこだな」
僕は安易に同意してみせたが、それもあながち間違っているとは言えなかった。小宮さんと取り組んでいる仕事では、英語で書かれた文献を読んだり、測定したデータの計算をするなど、高校で学んだ知識で間に合うことが多かった。とはいえ、試作計画の立案や試作結果の分析に際して、大学で学んだ知識は大いに役立っていた。
「おれの職場に高卒で入社した社員がいるんだよ。同じような仕事をしていながら、大学を出ているおれの給料がいいっていうのは、なんとなく居ごこちが悪いんだよな。おれだけかも知れないけどな、こんな気持ちになるのは」と池田が言った。
「仕事ができさえすれば、高卒の者が大卒と同じような仕事をやるのは当然だし、給料だって同じでいいわけだよな、たしかに」
「おれに向いた仕事をさせてくれない会社にも困るけど、単純に学歴で差別することにも疑問があるよな、会社というところには」
「ほんらいならばだ、誰もがそんな疑問をもたなきゃならないんだよ、形式的な学歴偏重と人事管理のご都合主義については。なにしろ」と僕は言った。「まともに勉強しないまま大学を卒業する者だっているんだからな」
それからひとしきり、僕は池田と議論した。大学で学ぶことの意義はどこにあるのか。
大学で学んだ物理や電子工学などの知識は、僕の仕事に必要なものだったが、それらの多くは適切な参考書があれば充分に独習できるものであり、必ずしも大学で学ばなければならないというものではなかった。
僕は一時限目の講義をほとんどさぼったのだが、それらの科目の成績が悪いということはなかった。大学で学んだ経験から言えるのは、知識の多くは独学で修得できるということだ。学歴を得る目的で大学へ進み、まともな努力をしないままに卒業する者よりも、独学に励んだ者のほうがはるかに大きな力を持つにちがいない。とはいえ独修の場合には、特別に興味をおぼえることや、さし当たり必要となる知識だけを修得することになり、無駄のように見えても実際には有用な知識をなおざりにする、ということも起こり得る。そのような問題点を解決できれば良いのだから、通信教育などで力を蓄えた者に対しては、一般の学卒者と同等以上の評価が与えられてしかるべきではないのか。大学で学ぶことの意義や卒業資格の意味については、もっと議論されるべきではないのか。
池田としばらくそのような議論をして、ようやく僕は気がついた。彼とは学生時代にもよく話し合ったが、何かについて真剣に議論をしたということはなかった。
「こういうことは、学生時代に議論しておきたかったな」と僕は言った。
「そうだよな。単位をよぶんに取って苦労するより、こんな議論をいっぱいやっておいた方が良かったかも知れんな」と池田が言った。「お前みたいに、ぎりぎりの単位しか取らなかったうえに、講義をあれほどさぼっていても、自分のやりたかった仕事をやることができるんだから」
「講義はさぼったけども、勉強をさぼっていたわけじゃないからな」と僕は答えた。
仲間たちとの語らいはおもしろく、時が経つのを忘れていたが、幹事の大きな声が聞こえて、解散の時刻になったことがわかった。
池田がもっと話したいというので、池田と親しかった佐藤を加えた3人で会場を出て、話し合うための場所をさがした。
僕たちは大きな店構えの焼鳥屋にはいった。店の中の一部に畳を敷いた場所があったので、僕たちはそこに座りこんだ。
池田が仕事上の悩みについて語った。総合電機会社に就職した池田の悩みは、配属された検査部の仕事になじめないということだった。
「だからさ、職場を変えてほしいと頼んでみたんだよ、おもいきって」
「すげーな、ほんとかよ」佐藤が感心したような声をだした。
「社員が希望するままに職場を変えたりしたら、会社が成り立たなくなると課長は言うんだ。部長に直接相談したところで、たぶん同じ回答しかもらえないだろうな。夢を実現したくて入社したのに、そんな社員の希望に応えようとしないんだから、こんな会社じゃ将来性はないとおれは思ってるんだ」
「日本の会社なんて、みんなそんなもんだぞ」串で歯をつつきながら佐藤が言った。
大学の三学年が終わる頃、将来の仕事について池田と語り合ったことがあった。僕がスピーカーの仕事を望んでいたのに対して、池田の希望は光素子の開発だった。
「お前はたしか、光素子の仕事をやりたかったんだよな」と僕は言った。
「卒業研究のテーマもレーザーだったし、それをやりたくてあの会社に就職したんだ」
僕は池田に同情しながら聞いた。「それでどうするつもりだ」
「思いきって大学院を受けようと思ってるんだ。がんばれば何とかなりそうだから」
「へー、仕事が面白くねえってんで大学院か」佐藤が池田の顔をのぞきこみ、あきれたような声をだした。「今からでも間にあうのか」
「太田に聞いてみたけど、何とかなりそうだな」
大学院に進んだ同級生にも相談しているという池田は、すでに進学を決意して準備を進めているに違いなかった。
焼き鳥屋を出るときには身体がふらついた。池田と佐藤はさらにどこかに立ち寄るつもりらしかったが、僕はつき合えそうになかったので、ふたりと別れて駅に向かった。
電車に揺られていると、池田と話したことが不意に思いだされた。仕事に不満を抱いている池田とくらべるならば、自分は恵まれている。いまのような仕事に関わっているかぎりは、どんなに課長がいやな奴であろうと耐えられる。もしも池田のように不本意な仕事をさせられることになったら、自分ははたしてどうするのだろうか。それにしても、池田はずいぶん思いきったことをするものだ。あの池田は大学院をでて、いずれは執念を燃やせる仕事にとりかかるに違いない。
第4章 出雲大社
坂田から旅行の相談を持ちかけられたのは、8月に入ってすぐのことだった。絵里とその友人が計画している旅行で、行き先は鳥取の砂丘と出雲地方だった。
出雲は母の生まれ故郷だから、子供の頃からしばしばそこを訪れていた。母の実家を訪ねるたびに、出雲大社などに案内してもらったのだが、母の故郷を充分に知ることができたという実感はなかった。おそらくその原因は、出雲のどこを訪れるにも、案内してくれる誰かについて行っただけであり、自分の意志で行動したことがなかったからだろう。
坂田からその計画を聞かされて、僕は胸をおどらせながら思った。坂田や絵里といっしょに旅行を楽しめるのだ。僕はその場でその計画に賛成し、実現させるようにと坂田をけしかけた。
「どういうわけだろう、行き先が山陰地方というのは」
「絵里から相談を受けたとき、いつかお前が話してくれた出雲の縁結びの神様や、鳥取の砂丘のことを話してやったんだ。おれがいちばん見たいのは、鳥取の砂丘だけどな」
旅行を思いついたのは絵里だったとしても、行き先については坂田の希望が影響しているらしかった。
坂田からの誘いにとびつくように応じたものの、心の隅には不安があった。時間がたつにつれ、その不安は次第に強まった。
いつも受け身で応じるようなデートだったが、僕は絵里とのそれを楽しみにしていた。そんな自分に多少の危惧をおぼえはしたが、それを無視して絵里との交際を続けた。危惧の念が無視できないほどに強まると、僕は自分をごまかしてそれを弱めようとした。絵里とつきあっても佳子に対する気持は変わっていない。ということは、絵里との交際に問題はないということだ。そんな言い訳をしたところで、佳子に対するうしろめたさは抑えきれなかった。佳子は僕の心の中にどっしりと腰をおろしていたものの、僕の心はさほどに確かなものではなさそうだった。僕はおそれた、絵里とすごす数日の旅行が、佳子に対する気持ちを変えるかもしれない、と。
そのような迷いがある一方で、旅行に参加しなければ後悔するような気がした。友人たちと出雲を動きまわれば、母の故郷がもっと身近なものになるだろう。せっかくの機会を逃すことはないではないか。そんなことを考えているうちに、次の日ふたたび坂田が僕の職場にやってきて、絵里と相談した結果を伝えた。僕が迷っているうちに、山陰旅行の計画は進められていた。
会社の夏季休暇を利用できればよかったのだが、僕には大学の同期生会などいくつかの予定があった。坂田をまとめ役にして四人の都合を調整した結果、夏季休暇が終わった後の木曜日に、寝台特急列車で出発することになった。僕と坂田は金曜日に年休をとることになったが、絵里は夏季休暇の日程をずらしてとることができた。
木曜日の夕方、僕は定時になるとすぐに工場をとびだした。いったん自宅に帰って食事をすませ、身仕度をととのえて東京駅に向った。旅先でレンタカーを利用する可能性があったので、バッグには運転免許証といっしょに道路地図を入れておいた。
集合場所で3人が待っていた。絵里が友人を紹介してくれた。
「いっしょに仕事をしているヤマノウチアヤコさん。銀行に入るのも一緒だったの」
僕が山之内綾子と初対面の挨拶を交わすと、絵里が僕に向かって「私はアヤちゃんと呼んでるけど、松井さんと兄さんには綾子さんと呼んでもらうことになったの。長くて呼びにくいでしょ、山之内って」と言った。
僕たちはそれからすぐにプラットホームへ移動した。歩きながら話しているうちに、綾子のことがいくらか判ってきた。浜松が故郷だという綾子は、東京の伯父の家に寄宿して短大に通い、卒業して銀行に勤めるようになったいまも、伯父の家族といっしょに住んでいるということだった。
「もしかすると、ずっと東京に居るかも知れないわね、アヤちゃん」と絵里が言った。
「浜松には帰らないってわけか」坂田が綾子に聞いた。
綾子が口をひらく前に、絵里がからかうような口調で言った。「もしもよ、アヤちゃんが兄さんと結婚すればそうなるんだから」
「おいおい、お前は出雲の神様の代理人のつもりか」
缶コーヒーを持った手を絵里にむけてつきだしながら言った坂田は、綾子に向き直るとおどけたような口調で「せっかくだからさ、そうなるように出雲の神様にこっそりとお願いするよ」と言った。
急行出雲はすでにホームに入っていた。僕たちは切符に記されている指定車両に乗り込んだ。
4人とも寝台列車に乗るのは初めてであり、異性の友人をまじえての旅行も初めてだった。珍しい体験に気持ちをたかぶらせ、僕たちは車内の通路で声高にしゃべっていたが、気がついてみると、他の乗客たちはほとんどベッドに入っていた。
狭いベッドの中で僕は週刊誌を読んだ。ふだんなら読まないような記事まで読んでいたので、眠りに入るのがずいぶん遅くなった。つぎの朝は坂田に揺り起こされて、どうにか目覚めることができた。10分ほどで鳥取駅に到着する時刻になっていた。
鳥取駅の自動販売機で買ったパンとジュースが、僕たちのささやかな朝食だった。
荷物になるものをコインロッカーに入れてから、僕たちはタクシーで砂丘に向かった。僕が手にしていたのはカメラだけだった。
タクシーを降りて砂丘の入口に立ち、眼の前に拡がる光景を見た瞬間に、ここを訪れてよかったと思った。空と海しか背景に持たないことで、砂丘はその姿をいちだんと雄大なものにしていた。
砂に足をとられながら、僕たちは海辺に向かってひたすらに歩いた。その日は朝から暑かった。歩きはじめるとすぐに汗がでてきた。
僕は仲間たちの姿を写真に撮った。坂田が砂の上を走って行き、近づいてゆく僕たちにカメラを向けた。絵里が僕に寄りそいながら、坂田に撮りなおしを求めた。絵里のはしゃぐ声が僕をうわついた気分にした。
僕たちは砂の丘を上って、その頂上に腰をおろした。ふもとの波うちぎわと遥かな水平線が、単純な色彩とあいまってのびやかな景観をつくりあげていた。どこを見ようとするわけでなく、眼に映るままに眺めているだけでよかった。砂丘をはいあがってきた風が、体とシャツの汗をうばった。
のびやかな眺めと優しい風を楽しみながら、僕たちはとりとめのない話題に興じた。1時間に近い時間を砂丘で過ごしてから、僕たちはそこを引きあげることにした。
「ここを見たかったんだろ、坂田。どうなんだ、感想は」
「感想か・・・・多分お前と同じだよ。ここへ来て良かったじゃないか。暑いけど、その方が似合うよな、ここには」
「そうね、砂漠を歩いたみたいで、私はとてもおもしろかった」と綾子が言った。
「こんな海の見える砂漠。日本にもこんな所があっていいわね」
「冬だったら雪の砂漠から海を見ることができるな」僕が絵里の言葉をひきつぐと、「おもしろそう、雪の砂漠も。スキーができるかもしれないわね砂漠で」と絵里が応じた。
鳥取駅へ帰るためのバスを待っていると、タクシーがきて人をおろした。僕たちは客を降ろしたばかりのタクシーに乗りこんで鳥取駅へ向かった。
駅に着いて時刻表を見ると、松江に向かう快速列車があって、発車時刻は1時間後だった。それまでに昼食を終えることにして、僕たちは駅の食堂に入った。
食後のコーヒーをゆっくり楽しんでから、真昼の日ざしの中を快速列車で松江に向かった。僕たちには初めての路線だったが、車窓からの風景は流れるにまかせて、雑談に興じながらの時を過ごした。
僕たちは松江に着くと、街を見物しながら松江城まで歩き、天守閣に向かう坂を登った。
その日は金曜日だったが、天守閣にはかなりの人が入っていた。階段を登ってゆく途中の階に、たくさんの武具や甲冑が展示されていた。
最上階まで登ると、木々のかなたに宍道湖が見えた。周りの景色をしばらく眺めただけで、僕たちは階段の降り口に向かった。
天守閣の近くに店があったので、そこでしばらく休むことにした。
お茶と菓子を味わいながら、僕たちは観光案内に見入った。
「すみません」坂田が店員に声をかけた。「ラフカディオ・ハーンの旧居へ行きたいんだけど。道を教えてくれないですか」
「そげですたら早くいきなさいましぇ。あんまり時間があーすぃましぇんですけんね」
女性店員が教えてくれた道をハーンの旧居へ急いだが、入館の締切時間を過ぎていた。僕たちは係員にたのんで庭先まで入れてもらい、庭の一部と建物の外観だけを無料で見せてもらった。
電話帳を頼りにホテルを確保しておいてから、武家屋敷の名ごりをとどめている家並の街を歩いた。宍道湖のほとりまで歩いた僕たちは、岸辺のベンチで休息することにした。
西の空が夕焼けに染まろうとしていた。夕日にきらめく湖の眺めに引きとめられて、僕たちはしばらくベンチを離れなかった。
レストランで夕食をとってから、流しのタクシーをひろってホテルへ向った。タクシーでホテルにつくまでに5分もかからなかった。
僕たちはホテルの一室に集まり、あくる日の計画をねった。観光案内を見ながらしばらく話し合ったあと、フロントへ行って係員に相談にのってもらった。
次の日の朝食も、前日同様にパンとジュースだけですませた。どんなにささやかであろうと、ふざけたり笑いあったりしながらの朝食に、いささかの不満もなかった。
僕たちはレンタカーを借りて、松江の東方にある枕木山へ向かった。僕が自宅から持ってきていた道路地図に、ホテルの社員に道順などを記入してもらったので、道に迷うことはなかった。助手席の坂田が道路地図を持ち、ハンドルは僕が握っていた。
山肌を縫って道を登ると、山頂に近いあたりの開けた場所に出た。そのような高所に駐車場が作られていた。
僕たちはそこから見えると聞かされていた隠岐島をさがした。山並みの彼方に日本海が見え、水平線上には薄い影のようなものが見えたが、それが隠岐島かそれとも雲か判然としなかった。とはいえ、そのことで僕たちが失望することはなかった。中海から松江にかけての低地が眼下に拡がっており、中国山地の山並と呼応して、みごとな景観をつくっていた。そのような景勝地を教えてくれたホテルマンに感謝しながら、僕たちはしばらく山の上で過ごした。
山上からの眺望が、僕たちに充分な満足感を与えてくれた。それだけでなく、山の上から眺めたことで、松江の付近をおおよそ見てしまったような気分になっていた。僕たちは松江に向かう車中で話し合い、予定を変えて早めに出雲大社へ行くことにした。
僕たちはレンタカーの返却手続きをおえると、そこから近い松江駅まで歩いて行き、構内の食堂で昼食をとった。
出雲市へ向かう列車に乗り込んでまもなく、観光案内を見ていた坂田が言った。
「出雲大社の近くに日本で一番高い灯台があるんだ。今日のうちに行ってみないか」
相談はすぐにまとまり、出雲大社に参拝するのは翌日にして、その日は日御碕の灯台を見ることになった。
出雲市駅に着くとすぐにレンタカーの営業所をさがした。
出雲市に着いてから30分がたった頃には、僕が運転する車で大社町に向っていた。借りた車は4人で乗るのに充分な軽乗用車だった。助手席の坂田が道路地図を見ながら、出雲大社への道を指示した。
田園地帯の道を、坂田に指示されるままに走って大社町に入った。巨大な鳥居をぬけて出雲大社の参道入口に着いたが、僕たちはそこを素通りして日御碕への道を進んだ。
「ねえ、神様に挨拶しないで行っても大丈夫かしら」
絵里がみんなを笑わせるような口調で言った。
「こわいんだろう、絵里。縁結びの神様にしかられるのが」
「もちろんよねー、アヤちゃん」絵里がおどけた口調で言った。「明日お参りしたら、お願いをする前にお詫びをしなきゃね」
そんな会話を交わしているうちに、道は海沿いの断崖のうえに出て、しかも急カーブの連続になった。僕は緊張しながらハンドルを握っていたが、うしろの座席では絵里と綾子が明るい笑い声をあげていた。エアコンのきいた車内には快適な気分が満ちていた。
日御碕に着くまでにかなりの車とすれちがった。辺りに人家は見えなかったから、それらの多くは日御碕から帰ってくる車だったのだろう。
出雲大社から日御碕までは30分もかからなかった。駐車場に車を置いた僕たちは、軒を並べるみやげ物屋の前を通って、かなたに見える灯台に向かった。
松のかなたで白く輝いている灯台を目指してゆくと、見晴らしのよい台地のうえにでた。灯台を乗せた岩の台地は、岩の斜面を介して海とつながっていた。
日本海は穏やかだった。沖合に浮かぶ貨物船は東に向かっていたが、ほとんど静止しているように見えた。
「出雲って、人も穏やかだけど、海も景色もみんな穏やかなのね」と絵里が言った。
あまりにも穏やかな海が、絵里にそのような印象を与えたのだろう。
坂田が言った。「ここだって、台風が来たときには荒れるし、冬の日本海は波が荒いそうだぞ」
「だけど、今日の海は波がなくて湖みたいね」と綾子が言った。「灯台に登るよりも、あの人たちみたいに下までおりてみたらどうかしら」
数人の行楽客が水ぎわで戯れていた。その姿にひかれるままに、僕たちは灯台に登る計画をとりやめにした。
潮風と波が作りあげた岩の起伏をつたっていると、子供の頃に戻ったような気分になった。そこでは誰もがむじゃ気になった。僕たちは岩の斜面をかけまわって遊んだ。
僕がカメラを向けると、絵里は岩にもたれてほほえんだ。僕は絵里の笑顔をズームアップした。笑顔が僕に呼びかけていた。その呼びかけに応えてやりたいと思った。忘れていたシャッターをあわてて押すと、絵里が嬉しそうにうなずいた。僕はアングルを変えた絵里の写真をたて続けに撮った。
1時間ほどで日御碕を引きあげることにした。記念写真をとるために、坂田がバッグから三脚をとりだし、傾斜している岩の上にセットした。日ざしに輝く灯台を背にして、僕たちはカメラに向かった。すでに大きく傾いた太陽が、僕たちをまぶしく照らした。
夕日にきらめく穏やかな海を見ながら、海沿いの道を大社町へ向った。
「夕日が海に沈むところ、私はまだ見たことがないのよ。どんなふうに沈むのか見てみたいな」
絵里の言葉にだれもが同意した。日が沈むまでにはまだ時間があったので、それまでにホテルを確保しておくことにした。
出雲大社の前をふたたび素通りし、大きな鳥居に向かって行くと、神社から数百メートルの所に宿が見つかった。出雲大社の町に似つかわしい、古風な趣きのある旅館だった。
食事の時間などを確認しておいてから、あわただしく車に乗り込んで海岸へ向かった。海辺の近くの道に車を置いて、僕たちは砂浜に入った。日御碕の一帯は岩であったが、出雲大社の海岸は砂浜だった。砂浜はゆるやかな弧を描いて南西に延びていた。
砂の表面がひときわきれいな場所を見つけて、僕たちは腰をおろした。
水平線の上で輝く太陽は絶対的な存在だった。太陽はあたかも自らを荘厳するかのように、周囲の雲と海の面を鮮やかに彩り、視界のすべてを夕映えで染めあげていた。
オレンジ色の輝きは、赤みを増しながら降りてゆき、ついに水平線に接した。
太陽は水平線に溶けこむように形をくずしながら、思わぬ速さで沈みはじめた。華やかな入日の儀式に見とれているうちに、太陽はあっさりと姿を消した。
主役の消えた舞台には、華麗な飾りつけがまだ残っていたが、その光景は淋しさにも似た感情をもたらした。刻々と色調を変える夕焼け空が、甘美でしかも憂いをおびた音楽を想わせた。
「こんどの旅行で一番良かったのは、今日の夕日とこの景色だわ。いつまでも忘れないような気がする、体の中まで染められるような夕焼け空と、沈んでいったあの太陽」
旅行がまだ終わっていないにもかかわらず、絵里が口にした感想に、僕たちは共感の声をもらした。
「太陽があんな速さで沈むなんて、考えたこともなかったわね」掌から砂をこぼしながら綾子が言った。
「昼間だって同じ速さで動いてるんだよな。太陽があんな速さでおれ達の上を通り過ぎたら、その一日が終わるというわけだ。こういうのを見ると実感できるよな、光陰矢の如しというけど」
「光陰の光は太陽で、陰は月のことですよね。月が海に沈むときはどんなふうに見えるのかしらね」
坂田と綾子の会話を耳にしながら、僕は横にならんでいる絵里を見た。絵里は太陽が隠れたあたりに顔を向けていた。体を寄せれば触れそうなところに絵里の腕があった。夕映えに染まっているその横顔を見ていると、絵里がまつげを一瞬ふるわせた。絵里がそっと首をまわして僕を見た。その眼にはいつもの微笑みがなかった。僕を見つめたその瞳が、絵里の想いを伝えてきた。その眼ざしが伝えたものを、そのとき僕はそのまま受け入れた。佳子は心の奥に隠れてしまい、僕にはその姿が見えなくなった。
胸をときめかせながら水平線に眼をやると、姿を隠した太陽がまだその存在を誇示しているかのように、夕焼雲に金色の輝きをそえていた。夕映えの華麗な色彩はかげりはじめていたが、その光景を僕は心を浮きたたせながら眺めた。
辺りは少しづつ暗くなったが、僕たちは腰をおろしたまま話し続けた。
「俺のおふくろのこと、昨日も話したけどさ、この先なんだよ、おふくろの故郷は」
母が生まれ育ったふるさとは、その海辺のはるか彼方にあった。
「昔はこの地方の中学校が、この大社町にあったんだ。昔のその中学校に通うために、俺のおじいさんは、砂浜の向こうの端あたりからここまで砂浜を歩いたそうだよ」
「昔っていつごろのことですか」綾子が聞いた。
「そうだな」およその見当で僕は答えた。「いまから六十年くらい前のことだな。大正時代が終わる頃だったそうだから」
「ずいぶん苦労したのね、昔は車がなかったから」と絵里が言った。
「出雲大社の祭りの時には、お参りするためにここまで歩いたそうだよ。いちばんの近道だから」
「大変よね、あんなに遠い所から、こんな砂の上を歩いて来るなんて。もしかしたら、神様に願いを叶えてもらうためには、そんなふうに苦労してお参りした方がいいのかな」
「そうよ、アヤちゃん。明日お参りするときは、せめて旅館からでも歩かなくちゃ」明るい声で絵里が応じた。
「神様はお見通しだぜ、絵里、そんなみえすいた考えなんてさ」坂田がちゃかすように言った。「車の時代の人間はだよ、それなりの誠意をもって参拝すればいいんだよ」
さきほどからの絵里の声には、はずむような響きがあった。絵里の心のうちを推しはかりながら、僕は夕焼けの名残の空をながめた。