母の実家が見えてきた。家が松に囲まれているので、見えるのは屋根の一部とテレビのアンテナだけだった。
 玄関に入ろうとしたとき、肩に積もった雪に気づいた。ジャンパーを脱いで雪をはらいおとしてから、僕は玄関の引き戸を開けた。
母からの電話があったことを祖母が報せてくれたので、伯母が用意してくれた昼食をとる前に、東京の母へ電話をかけることにした。
「杉本さんから電話があったよ、1時間くらい前だったけど。お前が出雲にいるといったら、東京へ帰ったころにまた電話をかけると言ってたけどね」と母が言った。「それに、手紙もきてるよ、杉本さんから」
 佳子からの電話があったと聞いて胸がおどった。あのことがあって以来、佳子の方から電話をかけてきたのは初めてだった。佳子が僕の手紙に応えてくれたのだと思った。佳子からの手紙をすぐにも見たかった。
 母がわざわざ報せようとしたのは、佳子からの電話がないことを気にしていたからであろうか。それとも、佳子の話しぶりから何かを察したのだろうか。昼前に電話をかけてきたというのだから、佳子はまだ自宅にいるに違いないと思った。佳子が僕からの電話を待っているような気がした。
 僕はいそいで昼食をおえ、佳子の家に電話をかけた。
 呼び出し音を待っていたかのように、受話器から佳子の声が聞こえた。明るくなった佳子の声に、嬉しさがこみあげてきた。
 佳子が言った。「読んだわよ、滋郎さんの手紙。とても嬉しかった」
 その声の表情と口調が、言葉にまして佳子の気持ちを伝えてきた。佳子の声が続いた。
「あのね、滋郎さん。私も年賀状を手紙といっしょに出したのよ。私たち、相談したみたいに同じことを考えたわね」
「手紙といっしょにか・・・・同じだな、ほんとに。だけどな」と僕は言った。「ずいぶん心配したんだぞ、おれは。待ってたのに来ないからさ、佳子からの返事が」
 僕のしゃべり方も以前のそれにもどった。僕は体中に満ちてくる喜びを感じた。僕たちを縛りつけていたあの気まずさは、佳子が明るい声で話しかけてきたとき、いずこへともなく消えていた。
「ごめんね。書きなおしている内に時間がかかっちゃった。それで、返事を出すのが新潟へ行ってからになったのよ。年末休暇に入ったら、妹と新潟へ行く約束だったから」
 佳子はいかにも楽しそうに話した。新潟の父親の生家を妹と訪れたこと。僕とスキーを楽しんだ一年前のことを思い出しながら、妹といっしょにスキーをしたこと。
 僕たちの会話ははずみ、久しぶりに長い電話になった。佳子の声と話しぶりは、すっかり以前のそれに戻っていた。
 気持をこめて書いた僕の手紙が、あの不思議なわだかまりから抜けださせてくれた。それを願って書いた手紙に佳子は応えてくれた。手紙を思いつかないまま佳子に会ったとしたら、ぎこちない雰囲気のなかで気まずい想いをしたことだろう。手紙という手段を思いついたことに、そして、そのようにして書いた自分の手紙に感謝したい気持だった。
「私の手紙も早く読んでもらいたいけど」と佳子が言った。
「もちろん、すぐに読みたいさ、佳子の手紙。だから、あした東京へ帰るよ」
「あした帰るの?、滋郎さん」
 期待に満ちた佳子の声だった。すぐにも佳子に会いたかった。その想いを口にしたとき、佳子は嬉しさを声に表わしてそれを望んだ。佳子をいとおしく思った。佳子を抱きしめてやりたかった。
 僕たちは翌々日の火曜日に会うことになった。僕は電話を終えると、近くにいた祖母に帰京することを伝えた。

 つぎの日の朝、出雲地方は雪におおわれていた。
 雪が浅く積もった道を僕はバス停に向かった。あたりに人影はなかった。雪を踏みしめる音だけが聞こえた。雲間からさす日がまぶしく照らし、冬の出雲を光で満たしていた。
 立ち止まって見回すと、雪に覆われている丘のはずれに、防風林の松が長くつらなっていた。
 防風林の松の樹は、雪の砂丘に凛然としていた。僕は風に頬をなでられながら、松が伝える言葉に心をむけた。砂丘につらなる松の樹は、僕を、そして、誰とはかぎらぬ人を鼓舞し続けていた。
 僕は願った。僕を鼓舞する松風が、いつまでも胸の奥で鳴り続けることを。それを確かなものとするために、防風林にむかって深呼吸をした。
 雲間に現われた太陽が、雪の斜面をはげしいほどに照らした。僕はおもわず眼をとじた。防風林の残像は速やかに消え、まぶしさのなごりの明るさだけが残った。僕はその瞼のうらに情景を想った。砂丘をわたる潮風が、雪をまきあげる光景を。
 僕はそっと眼をあけた。先ほどまでと変わりなく、雪の砂丘に松は凛然としていた。
 つらなる松を見ていると、感謝の気持と敬意の念が湧いてきた。僕は防風林の松にむかって、思いきり大きな深呼吸をしてそれを伝えた。松とそれを植えた人たちに、さらにまた、誰とはかぎらぬ先人たちに。
 僕は道の行くてに向きなおり、雪を踏みしめながら足を運んだ。畑をわたってきた風が、辺りに群がる枯草をゆらした。
風に騒ぐ枯草が、防風林の松風を思い出させた。冷たい松の感触と、松と交わした約束が思い出された。
 風と戦う松を思い浮かべつつ、僕はあらためて願った。砂丘に松を残すがごとく、困難な課題であろうとも、価値あるそれに挑戦し、不屈の意志をもって成し遂げたい。防風林のあの松風に、胸の奥で鳴り続け、不屈であれと鼓舞してほしい。
 顔をあげて行く手を見ると、まだ足跡のない道が、僕を待ち受けるように延びていた。僕はしっかりとした足取りで雪の道を進んだ。