松を見あげながら僕は思った。いつの時代にも、人類は先人の偉業の恩恵を受けつつ現在に至った。人に慰撫と喜びを、そして希望や勇気を与える精神文化、物質的な豊かさをもたらす科学技術の応用製品、そしてまた、健康に生きるうえで不可欠な医療技術や医薬品。現代に生きる我々は、家に居ながらにして音楽や映画を楽しむことができる。車で自由に移動することができるし、飛行機で海外の国を訪れることも可能だ。我々は近代科学とそれがもたらした成果の恩恵を受けながら生きている。科学技術やその応用製品を作りあげた人達の多くは、読み人知らずとされた歌人のように無名であって、世間にその名を知られることはない。そのような彼等が夢を追い求め、執念を燃やして成し遂げたそれらの成果が、健康で文化的な、そして豊かな生活を我々にもたらしている。
僕は松の根に両手をかけて、いまいちど松を見あげた。
枝が激しくゆれていた。砂に根を張り、風雪に耐えて育ち、そしていま風と戦っているこの松の樹は、人が植えて育てたものだ。松を植えて砂丘を人が生活できる土地に変えようと考え、それを実現した人々がいたのだ。根に触れながら松を見あげていると、松が、そしてその樹を植えて育てた人が、手のひらを通して僕を励ましてくれているような気がした。
自分にも砂丘に松を残すような仕事ができるだろうか。目標に向かって執念を燃やし続けるならば、自分にもそれが可能なはずだ。そのことを自らにしっかり言い聞かせつつ、執念を燃やして努力する技術者として生きてゆこう。僕は松と約束でもするように、松を見あげながら強く自分を励ました。
林をぬけると視界がひらけ、そこから畑が拡がっていた。防風林はみごとにその役割をはたしていた。風はまだかなり強かったけれども、畑の砂を飛ばすことはなかった。防風林を離れるにつれ、松風は海鳴りにまぎれて、次第にそれとは分からなくなった。
寒々とした冬の畑に、麦の緑が整然と列をなしていた。防風林は砂丘を耕地に変え、その耕地を砂の侵食から護っている。この土地は現代においてもなお人々の生活の基盤になっている。農業を主な生活手段としていた時代の人々にとっては、防風林は先人の偉業と呼ぶにふさわしいどころか、それにも勝る存在だったにちがいない。それにしても、あの長大な防風林を完成するまでに、どれだけ多くの人々が関わったことだろう。今では忘れられているその一人ひとりが、自らの役割をはたして防風林を作りあげたのだ。その人たちの労苦はどのように報われたのだろうか。
歩きながら考えていると、不意に伯父の言葉が思い出された。「人間が生まれてくる目的は、生きることを通して魂を向上させるためだ。そのために必要な試練を乗り越えること、誠実により良く生きようと努力すること、そういったことを通して自分の魂を向上させることが大切だ」と伯父は語ってくれた。
伯父の言葉を信じるならば、と僕は思った。防風林に関わった人々にとっては、その労苦を通して得ることができた魂の糧こそ、名誉や金銭に勝る報酬だった、と言えるのではないか。防風林の造成を使命として主導した人なくしては、あれだけの防風林の完成はなかったはずだが、今なお功績を讃えられるその人にとっても、真の報酬は霊的な向上にあり、偉業を成し遂げた功績への名誉や評価は副次的なものである、と言えはしないだろうか。
ところで、と僕は思った、僕自身が人生をより良く生きるためには、どのような生き方をすべきだろうか。いずれは執念を燃やして仕事にとり組むことになり、それが僕に生きがいをもたらすことになろうが、そのことによって僕の魂が向上するとは限らない。より良く生きるにはどうしたらよいかと問いかけたとき、伯父は「それは自分で考えることだよ。より良く生きようと心がけながら、どのような生きかたをすべきかと考えてゆくことだ」と答えた。たしかに、より良く生きるための具体的なマニュアルなどがあろうはずはない。どのような価値観をもってどのような生き方をするにせよ、結局のところは、より良く生きたいと願いつつ、誠実に生きるということに尽きるのではなかろうか。いずれにしても、人生を歩き続けてどこかに辿り着いたとき、僕の魂は向上していなければならない。そのように生きる必要があるのだ。
雪がちらつき始めた。
畑の中の道を急いでいると、いきなり心の奥に佳子が現われた。佳子は正月休暇をどのように過ごしたのだろうと思った。
佳子が僕の電話を受けてくれたのは、あの手紙を受け取ってから1週間が経った頃だった。
僕は伝えた。しばらくは会わないという佳子の言い分を受けいれること。僕にはいつでも会う気持ちがあること。
しばし間があってから、受話器を通して佳子の声が聞こえた。「わがままを言ってごめんね」
その言葉を聞いて、僕はうしろめたい気持ちになった。佳子の本心はすぐにも会いたいはずだとわかっていながら、佳子の言い分を口実にして会わないことにしたのだから。
佳子を確かに愛しているつもりではあっても、絵里にたいする想いを強く残していては、うしろめたさを感じることなく佳子と向き合えそうになかった。佳子が抱えているわだかまりを消し、以前のようなふたりに戻るために必要なこと、それは、僕自身の心のありようだった。
会社をやめる決意をしてからは、それまでとは格段に忙しくなった。仕事を仕上げるために全力をつくさねばならなかったし、受験の準備に力を注がなければならなかった。そのように忙しい毎日を過ごしながらも、佳子と絵里のことはいつも心にかかっていた。
佳子と学校で会った日から3週間が過ぎると、不安な想いが高まってきた。佳子と会わないままに日を過ごしていると、これが普通の状態ということになりはしないだろうか。このような状態を続けていては、佳子との間がますます気まずくなるのではないか。さらに日が経つと、大切なものを失いつつあるような気がした。絵里に惹かれながらも佳子を見失わなかったわけを、ようやくにして理解できたように思えた。僕の胸のうちには、佳子の席が確保されていたのだ。佳子のことが気がかりだった。佳子の不安と悲しみを想った。
僕は佳子にふたたび電話をかけた。その前の電話からさらに1週間が過ぎていた。
会社をやめて大学院へ進学することを、佳子にはまだ報せていなかったので、まず最初にそのことを伝えた。むろん佳子を驚かせることになったが、驚きを表す佳子の声は低くおさえられていた。
受話器を通して聞こえる佳子の声に、言葉を交わすことに対する嬉しさと、不安な想いがともに表われていた。ぎこちなく始まった僕たちの会話は、その雰囲気から抜け出すきっかけをつかめないままに終わった。
それ以来、幾度か佳子に電話をかけたが、会話はいつもぎこちなかった。自分たちが作り出した雰囲気にとらわれ、僕たちはふたりとも、そこから抜け出せなくなっていた。僕は思った。こんなことをしているよりも、佳子と会った方が良さそうだ。そうすれば、以前の自分たちに早く戻れそうな気がする。誘いかければ佳子は喜んで会うだろう。佳子もそれを待っているのだ。だが、佳子と向き合っている場面を想像してみると、電話で話しているときの雰囲気がいやでも思いだされて、会わない方が良かったという結果に終わりそうな気がした。
手紙を書くことを思いついたのは、学校で佳子と話し合った日からひと月余りが経った頃だった。僕はすでに会社をやめて、受験の準備を本格的に始めたところだったが、佳子への手紙を書くために多くの時間をかけた。
手紙には気持ちを素直に表せた。それが佳子に伝わることを願って書いた長い手紙を、僕は何度も読みかえし、そして書きなおした。
12月もすでに半ばを過ぎていたので、ようやく書きあげたその手紙に年賀状を添えることにした。正月までには日数があったので、賀状の書き方にはかなりの工夫を要した。便箋に書いたその賀状にも、佳子とのわだかまりを解く役割を期待していた。
絵里にも年賀状を送ることにした。あて先は坂田の場合と同様に彼らの両親の住所だった。電話や手紙に限ることなく、自分の方から絵里に働きかけることは一切しないことにしていたのだが、その年末に出す賀状に限っては、絵里にそれを送ることがむしろ礼儀だという気がした。
絵里にあてた最初で最後の便りになると思いつつ、そしてまた、絵里が幸せな人生を送れるようにとの願いをこめて、言葉を選びながら文字をつづった。何枚かのハガキを破りすててから、どうにか納得できるものを書くことができた。万年筆の文字で文面がうめつくされた年賀状になっていた。
出雲へ向けて東京を発った1月3日の朝までに、絵里からの賀状は届いたものの、佳子からの返事と賀状は届かなかった。
降る雪が次第にふえて、遠くの山並がかすんできた。降りかかる雪が肩に積もった。
畑中の道を急ぎながら、佳子と出会ってからちょうど2年になるのだと思った。あのとき幸子と街なかで行き会わなければ、そしてまた、幸子がそのとき佳子を紹介してくれなかったならば、僕が佳子とつき合うことはなかったはずだ。佳子とつき合ってからの1年あまりは楽しく過ぎた。そして、僕は絵里と出会った。僕は自分の感情に流されるまま絵里との交際をつづけて、結局のところは、佳子と絵里をともに悲しませることになった。佳子と絵里の人生にとって、自分はいかなる意味を持つ存在であろうか。彼女たちに悲しみを与えて、魂の向上を促す役割を果たしたのであれば、僕の未熟さが、彼女たちのために役立ったということになる。そうだとすれば、情けなくも悲しい役割だ。そのような自分には、未熟な殻からの脱皮を誓う義務があるはず。彼女たちは自らの悲しむ姿を見せることにより、僕にそれを誓わせる役割を果たしたということになろうか。僕はその誓いを守らなければならない。
僕は松の根に両手をかけて、いまいちど松を見あげた。
枝が激しくゆれていた。砂に根を張り、風雪に耐えて育ち、そしていま風と戦っているこの松の樹は、人が植えて育てたものだ。松を植えて砂丘を人が生活できる土地に変えようと考え、それを実現した人々がいたのだ。根に触れながら松を見あげていると、松が、そしてその樹を植えて育てた人が、手のひらを通して僕を励ましてくれているような気がした。
自分にも砂丘に松を残すような仕事ができるだろうか。目標に向かって執念を燃やし続けるならば、自分にもそれが可能なはずだ。そのことを自らにしっかり言い聞かせつつ、執念を燃やして努力する技術者として生きてゆこう。僕は松と約束でもするように、松を見あげながら強く自分を励ました。
林をぬけると視界がひらけ、そこから畑が拡がっていた。防風林はみごとにその役割をはたしていた。風はまだかなり強かったけれども、畑の砂を飛ばすことはなかった。防風林を離れるにつれ、松風は海鳴りにまぎれて、次第にそれとは分からなくなった。
寒々とした冬の畑に、麦の緑が整然と列をなしていた。防風林は砂丘を耕地に変え、その耕地を砂の侵食から護っている。この土地は現代においてもなお人々の生活の基盤になっている。農業を主な生活手段としていた時代の人々にとっては、防風林は先人の偉業と呼ぶにふさわしいどころか、それにも勝る存在だったにちがいない。それにしても、あの長大な防風林を完成するまでに、どれだけ多くの人々が関わったことだろう。今では忘れられているその一人ひとりが、自らの役割をはたして防風林を作りあげたのだ。その人たちの労苦はどのように報われたのだろうか。
歩きながら考えていると、不意に伯父の言葉が思い出された。「人間が生まれてくる目的は、生きることを通して魂を向上させるためだ。そのために必要な試練を乗り越えること、誠実により良く生きようと努力すること、そういったことを通して自分の魂を向上させることが大切だ」と伯父は語ってくれた。
伯父の言葉を信じるならば、と僕は思った。防風林に関わった人々にとっては、その労苦を通して得ることができた魂の糧こそ、名誉や金銭に勝る報酬だった、と言えるのではないか。防風林の造成を使命として主導した人なくしては、あれだけの防風林の完成はなかったはずだが、今なお功績を讃えられるその人にとっても、真の報酬は霊的な向上にあり、偉業を成し遂げた功績への名誉や評価は副次的なものである、と言えはしないだろうか。
ところで、と僕は思った、僕自身が人生をより良く生きるためには、どのような生き方をすべきだろうか。いずれは執念を燃やして仕事にとり組むことになり、それが僕に生きがいをもたらすことになろうが、そのことによって僕の魂が向上するとは限らない。より良く生きるにはどうしたらよいかと問いかけたとき、伯父は「それは自分で考えることだよ。より良く生きようと心がけながら、どのような生きかたをすべきかと考えてゆくことだ」と答えた。たしかに、より良く生きるための具体的なマニュアルなどがあろうはずはない。どのような価値観をもってどのような生き方をするにせよ、結局のところは、より良く生きたいと願いつつ、誠実に生きるということに尽きるのではなかろうか。いずれにしても、人生を歩き続けてどこかに辿り着いたとき、僕の魂は向上していなければならない。そのように生きる必要があるのだ。
雪がちらつき始めた。
畑の中の道を急いでいると、いきなり心の奥に佳子が現われた。佳子は正月休暇をどのように過ごしたのだろうと思った。
佳子が僕の電話を受けてくれたのは、あの手紙を受け取ってから1週間が経った頃だった。
僕は伝えた。しばらくは会わないという佳子の言い分を受けいれること。僕にはいつでも会う気持ちがあること。
しばし間があってから、受話器を通して佳子の声が聞こえた。「わがままを言ってごめんね」
その言葉を聞いて、僕はうしろめたい気持ちになった。佳子の本心はすぐにも会いたいはずだとわかっていながら、佳子の言い分を口実にして会わないことにしたのだから。
佳子を確かに愛しているつもりではあっても、絵里にたいする想いを強く残していては、うしろめたさを感じることなく佳子と向き合えそうになかった。佳子が抱えているわだかまりを消し、以前のようなふたりに戻るために必要なこと、それは、僕自身の心のありようだった。
会社をやめる決意をしてからは、それまでとは格段に忙しくなった。仕事を仕上げるために全力をつくさねばならなかったし、受験の準備に力を注がなければならなかった。そのように忙しい毎日を過ごしながらも、佳子と絵里のことはいつも心にかかっていた。
佳子と学校で会った日から3週間が過ぎると、不安な想いが高まってきた。佳子と会わないままに日を過ごしていると、これが普通の状態ということになりはしないだろうか。このような状態を続けていては、佳子との間がますます気まずくなるのではないか。さらに日が経つと、大切なものを失いつつあるような気がした。絵里に惹かれながらも佳子を見失わなかったわけを、ようやくにして理解できたように思えた。僕の胸のうちには、佳子の席が確保されていたのだ。佳子のことが気がかりだった。佳子の不安と悲しみを想った。
僕は佳子にふたたび電話をかけた。その前の電話からさらに1週間が過ぎていた。
会社をやめて大学院へ進学することを、佳子にはまだ報せていなかったので、まず最初にそのことを伝えた。むろん佳子を驚かせることになったが、驚きを表す佳子の声は低くおさえられていた。
受話器を通して聞こえる佳子の声に、言葉を交わすことに対する嬉しさと、不安な想いがともに表われていた。ぎこちなく始まった僕たちの会話は、その雰囲気から抜け出すきっかけをつかめないままに終わった。
それ以来、幾度か佳子に電話をかけたが、会話はいつもぎこちなかった。自分たちが作り出した雰囲気にとらわれ、僕たちはふたりとも、そこから抜け出せなくなっていた。僕は思った。こんなことをしているよりも、佳子と会った方が良さそうだ。そうすれば、以前の自分たちに早く戻れそうな気がする。誘いかければ佳子は喜んで会うだろう。佳子もそれを待っているのだ。だが、佳子と向き合っている場面を想像してみると、電話で話しているときの雰囲気がいやでも思いだされて、会わない方が良かったという結果に終わりそうな気がした。
手紙を書くことを思いついたのは、学校で佳子と話し合った日からひと月余りが経った頃だった。僕はすでに会社をやめて、受験の準備を本格的に始めたところだったが、佳子への手紙を書くために多くの時間をかけた。
手紙には気持ちを素直に表せた。それが佳子に伝わることを願って書いた長い手紙を、僕は何度も読みかえし、そして書きなおした。
12月もすでに半ばを過ぎていたので、ようやく書きあげたその手紙に年賀状を添えることにした。正月までには日数があったので、賀状の書き方にはかなりの工夫を要した。便箋に書いたその賀状にも、佳子とのわだかまりを解く役割を期待していた。
絵里にも年賀状を送ることにした。あて先は坂田の場合と同様に彼らの両親の住所だった。電話や手紙に限ることなく、自分の方から絵里に働きかけることは一切しないことにしていたのだが、その年末に出す賀状に限っては、絵里にそれを送ることがむしろ礼儀だという気がした。
絵里にあてた最初で最後の便りになると思いつつ、そしてまた、絵里が幸せな人生を送れるようにとの願いをこめて、言葉を選びながら文字をつづった。何枚かのハガキを破りすててから、どうにか納得できるものを書くことができた。万年筆の文字で文面がうめつくされた年賀状になっていた。
出雲へ向けて東京を発った1月3日の朝までに、絵里からの賀状は届いたものの、佳子からの返事と賀状は届かなかった。
降る雪が次第にふえて、遠くの山並がかすんできた。降りかかる雪が肩に積もった。
畑中の道を急ぎながら、佳子と出会ってからちょうど2年になるのだと思った。あのとき幸子と街なかで行き会わなければ、そしてまた、幸子がそのとき佳子を紹介してくれなかったならば、僕が佳子とつき合うことはなかったはずだ。佳子とつき合ってからの1年あまりは楽しく過ぎた。そして、僕は絵里と出会った。僕は自分の感情に流されるまま絵里との交際をつづけて、結局のところは、佳子と絵里をともに悲しませることになった。佳子と絵里の人生にとって、自分はいかなる意味を持つ存在であろうか。彼女たちに悲しみを与えて、魂の向上を促す役割を果たしたのであれば、僕の未熟さが、彼女たちのために役立ったということになる。そうだとすれば、情けなくも悲しい役割だ。そのような自分には、未熟な殻からの脱皮を誓う義務があるはず。彼女たちは自らの悲しむ姿を見せることにより、僕にそれを誓わせる役割を果たしたということになろうか。僕はその誓いを守らなければならない。