吉野さんとさらに話しているうちに、僕の知らなかった野田課長の姿が見えてきた。それを話したのが吉野さんでなかったならば、僕がそれを信じることはなかっただろう。とはいえ、それによって野田課長に対する感情がただちに変わるわけがなかった。だが、僕が積み上げてきた野田課長に対する反感と憎しみの感情は、土台のところで既にぐらついていた。
吉野さんに来客があるとの呼びだしがあり、僕たちの話し合いは終わることになった。
「野田君からの頼みを伝えるより先に、君の決意を聞かされたわけだが、さっきも言ったように、君にとっては大学院への進学は良いことだろうという気がするんだ。だけど、今の僕の話を聞いて君の考えが変わるようだったら、すぐに知らせてくれないか。野田君とのことがうまく行くように相談にのるから」
その言葉を残して、吉野さんはあわただしく会議室を出て行った。
僕は誰もいない会議室に残って、吉野さんから聞かされたことを思い返した。僕には疎ましい野田課長だが、吉野さんにとってはそうでもないらしい。それどころか、野田課長に反発している僕に対して、吉野さんは批判的ですらあった。もしかすると、野田課長に対する自分の対応には、反省すべきところがあるのかも知れない。
僕は自分の職場がある建物に帰ると、事務室には入らないで実験室へ向かった。混乱している心境のまま、野田課長と顔を合わせたくはなかった。何よりもまず、吉野さんから聞かされたことを、もう一度じっくりと考えてみなければならなかった。
実験室に入るとすぐに、装置の清掃作業に取りかかった。考えごとをしながらでもできる作業だった。
僕は作業を続けながら、野田課長を憎むに至ったいきさつをふり返ってみた。
野田課長の感情的な言動に僕は嫌悪感を抱いた。部下の感情には意を用いない野田課長を、上司として尊敬することができず、その下では働きたくないと思うに至った。そして今では、 野田課長に対して不満を抱くどころか、反感や憎しみすら覚えている。このような僕に対して、吉野さんは明らかに批判的だった。
もしかすると、吉野さんのような見方をしなければ、野田課長の本当の姿は見えないのかもしれない。僕は野田課長の短所だけに眼をむけたことで、そして、野田課長の言動に対して感情的に反発したことで、野田課長の一面だけを見るようになったのかも知れない。野田課長の短所を許せないと感じている僕自身にも、他人から指摘されるような欠点がいくらでもありそうな気がする。課長の立場に思いを致すことなくその言動にこだわり、さらには憎しみをつのらせているということは、僕が野田課長におとらず狭量だということではなかろうか。もしかしたら、僕は狭量であるのみならず、人を見る視野も狭いということではないのか。人並みの判断力を備えていると自負していたが、もしかすると、人を見る眼には問題があるのかもしれない。
吉野さんには様々な指導を受けてきたのに、野田課長とのことでは一度も相談しなかった。もしも吉野さんに相談していたなら、野田課長に対してどのように向き合うことになっていたのだろうか。
いつの間にか装置の清掃作業を終えていた。装置の蓋を閉じ、内部を真空にする操作をしてから、実験室を出て事務室へ向かった。
事務室に入ったとたんに野田課長と眼が合った。いつもなら、その瞬間に不愉快な感情がわきあがるところだったが、そのとき、僕はどうしたらよいのか戸惑って、そのまま野田課長をぼんやりと見ていた。野田課長は何ごともなかったかのように、机の書類に眼をもどした。
僕は自分の席につき、測定データの分析をはじめた。隣の席では小宮さんがレポートを書いていた。吉野さんから聞かされたことを、小宮さんにも伝えなければならないと思った。昼休みに小宮さんを屋上へ誘い、そこで話し合うことにした。
吉野さんの話にショックを受けたからといって、大学院へ進む方針を変えるわけにはいかなかった。野田課長には旅行の後で退職の意志をあらためて伝えたし、家族の者や会社で親しくしている人に対しても、大学院への意志を明確に伝えてあった。いきさつはともかくとして、僕は大学院への進学を自分の目標としてすでに強く意識していた。
入学試験のことを相談するために、卒業した大学の専任講師に電話をかけた。僕の卒業研究を指導してくれたひとだった。
専任講師によれば、多くの大学院が入学試験をすでに終えているらしかった。新宿で池田と話し合ったとき、大学院の入学試験が話題になっていたので、それは既に予想していたことだった。それはそれとして、僕が卒業した大学では、翌年の春に2次募集があることがわかった。受験の準備をしていなかった僕にとっては、数か月先の試験は厳しい難関といえたが、あきらめずに準備を進めることにした。
退職してから大学院に入るまでの期間を、僕は研究室の研究助手ということにしてもらいたかった。すでに卒業している身で受験の準備を進めるためには、研究室に出入りできる資格があったほうが良さそうだった。講師は僕の希望を教授に伝え、協力すると約束してくれた。
その数日後、卒業してからはじめて大学を訪れ、卒業研究のために在籍していた研究室の教授に会った。その結果、僕の希望は受けいれられて、研究助手ということにしてもらえた。研究助手とはいっても名目だけのものであり、給料がないかわりに出勤する義務もないというものだった。僕が望む場合には、図書館を利用することも可能になった。
僕が辞表をさしだすと、無言で受け取った野田課長は、封筒の表書にしばらく眼をとめていた。その表情が、辞表の提出を予期していたことを表していた。
野田課長は僕を来客用の応接室につれて入った。
「君にはずいぶん期待していたんだが、残念だな、こんな結果になって。結局は僕の不徳の致すところだと思ってあきらめるよ。大学院にゆくそうだが、大学院を修了したらこの会社にもどってこないか。そのときには君を大歓迎するつもりだ。忘れないでいてくれよな。それから、君にはお礼を言わなくちゃな。これまで随分がんばってくれたことだし、仕事がかたづくまで残ってくれるんだから。もうひとふんばりして、小宮くんといっしょに仕事をまとめてくれ、悔いを残さないようにな」
野田課長の表情と口調に、いつもと変わらぬ冷たい印象を受けたが、そのような野田課長と向き合っていても、僕の心に反発心がわきあがることはなかった。
野田課長との話し合いが終ったあとで、僕は坂田に社内電話をかけて、辞表を提出したことを伝えた。その翌日、坂田とふたりで飲みながら話し合うことになった。坂田と飲みにでかけるのはそれが二度目だった。
「うちの会社にも困ったもんだよ、お前に見かぎられるようじゃな」と坂田が言った。
「だいじょうぶだろ、お前が見かぎらなきゃ」
「お前みたいに優秀なやつが、上役との関係で会社をやめることになるんだからな、サラリーマンにとってはやっぱり運みたいなものも大事だよな」
「それは言えるよな、たしかに」僕は箸を使いながら言った。
僕たちが食事をとりながら飲んでいたのは、坂田が先輩たちと入ったことがあるという店だった。その大衆酒場のざわついた雰囲気がよかった。あたりに遠慮しないで坂田と議論することができそうな店だった。
「仕事が自分に向いているかどうかということも、サラリーマンの運という意味では重要なことだよな。仕事がおもしろくて、しかも成果がだせるわけだからさ」と坂田が言った。「適材適所というけど、ほんとの意味でそうなっていたら、誰もがやる気を出せるはずだよ。会社はもっと考えるべきだよ、そういうことを」
僕が口をはさむ前に、坂田はさらに続けた。「ほんとに優秀で、才能を発揮してもらいたい人がだよ、仕事の面では必ずしも恵まれているとは言えないんだよな」
坂田が吉野さんのことを言っているように聞こえた。
会社の食堂で坂田を吉野さんに紹介したのは、僕が吉野さんと親しくなってから間もない頃のことだった。坂田と吉野さんの部門は協力しつつ業務をこなす関係にあったので、それ以来、坂田も吉野さんから指導を受けるようになっていた。
「それって、吉野さんのことか」
「吉野さんにかぎらず、一般的に言えることだよな、このことは」
「そうだろうけど、仕事で成果をあげるためには、執念を燃やすことも必要なんだよ。吉野さんが話してくれたことだけど、案外これは重要なことだと思えるんだよな、おれには」
「おれも聞いたよ、執念の話」と坂田が言った。
それからしばし、目標の達成に向けて燃やす執念について議論した。
「会社で働く技術者はサラリーマンだから」と坂田が言った。「仕事に執念を燃やしている技術者というのは、仕事をやり遂げるために執念を燃やしているサラリーマンということだよな」
「言いかえれば、執念を燃やしてがんばるのは技術者に限らないということだよ。責任を果たすためにも、自分の業績を上げるためにも努力なしではできないからな。仕事によって執念のもやし方には違いがあるだろうけど」
坂田が彼の伯父のことを話しだした。福島県で農業技術の改良に情熱をかたむけている伯父の姿に、ふたりで議論している執念の話が当てはまりそうだ、と坂田は言った。
たしかに、と僕は思った。執念を燃やしながら努力をしている人は、さまざまな分野で見られるに違いない。
僕が箸を使っていると、坂田が言った。「おれの伯父はだいぶ年をとってるんだが、あい変わらずはりきって田や畑に出ているそうだよ。はっきりした目標があれば、いくつになっても人間は努力できるのかもしれないな」
「目標があればこそ努力することができる、というわけか。どんなに苦労していても、当人はわくわくしながらやってるわけだ」
「わくわくできるような仕事か」と坂田は言って、ビールをいっきに空けた。「たしかに伯父にとっては農業が生きがいみたいだな」
「おれもな、なるべく早く目標を決めるつもりだ。あわてるわけじゃないけど」
「お前ならやれるさ。もとは成績劣等生の落ちこぼれだったんだからな、長岡半太郎や本多光太郎みたいに。あんがい世界的な業績をあげるかもしれないぞ」
「せっかくのありがたいお言葉だ、真に受けることにするよ」僕はおどけて言った。「おれが将来やる仕事はまだ決まっていないけど、とにかく執念を燃やしてがんばるよ。お前もがんばれよな」
「もちろん、おれもがんばるさ。だけど、おれの場合には、吉野さんの言う執念とは、ちょっと違うがんばり方をするかも知れんな」
「要は生きがいだよ。お前の伯父さんみたいな生き方もあるんだからさ」
坂田は僕のコップにビールをつぎながら言った。「生きがいと言えばな、吉野さんに言わせると、これからの日本人は、生きがいということをもっと考えるべきだってさ。物質的にはどんなに豊かになっても、それだけではむなしいだろう、と吉野さんは言った」
「吉野さんのことだからもっと話しただろう、生きがいのこと」
「明日を今日よりも良くしたいという気持ちがあって、そのために何かをしている人には生きがいがあるはずだ、と吉野さんは言ったよ。たぶん、気持ちの持ちようがだいじだということだろうけど」
坂田は続けた。「だけどな、どんな生き方をするにしても、努力が報いられる社会でなければだめだよな。新聞や雑誌によると、日本の貿易黒字は膨大なものらしいが、問題は、汗水たらしてがんばっているおれたちに、その分け前がきちんと渡されているかどうかということだよ」
坂田がいきなり話の向きを変えた。いかにも坂田らしいその言葉で、吉野さんや小宮さんといっしょに議論した、日本人奴隷論のことを思いだした。僕がそのことを話すと坂田は言った。
「たしかに、いまの日本人の多くは奴隷みたいなもんだぞ。貴重な時間を犠牲にしてまで残業したり、働くこと自体が目的みたいな生き方をしたり……自分で自分を奴隷にしているようなものじゃないか。苦労しているわりには報われない社会だといっても、自分たちがそんな社会にしているんだよ。社会の仕組みに問題があれば、それを変えるために努力すべきだし、政治をもっと良くすることも必要だけど、そんな努力が日本では不足しているとおれは思うな」
「何のために働いているのか、おれたち自身がもっと考えるべきだな。まずは政治を良くしなくちゃならんけど、お前がいつか言ったように、政治のありようは、政治家よりもむしろ国民にかかってるんだ。政治に満足している者など、今の日本にはいくらもいないはずだけど、選挙では半分近くの者が棄権するんだから、日本という国はまったくおかしな国だと思うよ」
僕の言葉にうなずいた坂田は、コップに半分ほど残っていたビールを空けた。
あのことがあって以来、僕たちの間で絵里にかかわる話題がでたことはなかった。絵里のことがどんなに気にかかっていても、僕はそのことを口にしなかったが、そのときは、そうすることが坂田に対する礼儀だという気がしたので、その後の絵里の様子を訊くことにした。坂田は週末に両親の家に帰ることがあるので、絵里の近況をよく知っているはずだった。
坂田が話してくれたところによれば、絵里は元気をなくしているものの、心配する程のことはなく、表面的には以前と変わりのない生活をしているということだった。僕を安堵させようとの配慮があるには違いなかったけれども、それを聞いてほっとするような気持ちになった。
「絵里さんには、ほんとにすまないと思ってる」と僕は言った。
「大丈夫だよ、絵里は。おとなしいやつだけど、そのわりには積極的にやってゆけそうだからな。お前のおかげで男ともつき合えるようになっただろうから、これからも何とかやっていくだろう。だから、心配するなよ、絵里のことは」
「絵里さんなら、おれなんかよりもましな男を見つけるよ」
「おまえのおかげでコンプレックスも消えたようだしな」と坂田が言った。「おれの眼にはけっこう可愛い奴に見えるんだけど、本人にすればそうではなかったみたいだな。よくはわからないんだが、女というのは、おれたちとは違ったふうに見るのかもしれないな、自分のことを」
絵里の笑顔ときれいな瞳を思いうかべながら、絵里にコンプレックスがあるとはどういうことだろうと思った。
「おれにはわからないけど、絵里さんのコンプレックスってどういうことだ」
「おまえの前では絵里も明るく振る舞えたようだから、おまえは気がつかなかったんじゃないかな、絵里が気にしていることに。お前のおかげで、今では気にしていないだろうけど」
僕を魅了した絵里の瞳が思いだされた。あの絵里にどんな自画像があったのだろう、と思ったとき、オードリー・ヘプバーンについて書かれた週刊誌の記事を思いだした。
「オードリー・ヘプバーンという女優がいるだろう。ヘプバーンの自伝を紹介した記事に出ていたんだけど、あのヘプバーンには、自分がみにくいというコンプレックスがあったらしいよ。信じられないような話だけど、自分自身についての思い込みを、心理的な自画像とか言って、案外だれでもそういうのを持っているらしいよ。もしかすると、絵里さんも変な自画像を抱えているのかな」
坂田は手にしていたコップを見ながら言った。「いつだったか、おまえは話したよな、お前は小学生のころ、自分は頭が悪いと思い込んでいたって。人間というのは、そんなふうにして自分に催眠術をかけるんだよ。自分は優れていると思いこんだ者は得をするけど、運がわるいとその逆になるわけだ。おまえは電子回路を勉強したおかげで成績が良くなったそうだが、絵里の場合には、おまえのおかげで催眠から醒めたんじゃないのかな。だから、お前に絵里を会わせてよかったと思ってるんだ」
坂田は絵里が抱いていたというコンプレックスについて話した。絵里がそのようなことを気にしていたのかと思うと、「僕には今の絵里さんが充分に魅力的だよ」と絵里を励ましてやりたかった。とはいえ、坂田が言ったように、絵里はそのようなコンプレックスからすでに抜け出しているような気がした。そのことで絵里の手助けができたのだと思うと嬉しかった。絵里に対する自分の罪が、少しは軽くなったような気がしたけれども、そうとは言えないことにすぐ気がついた。絵里はいつの日か、幸せになれる誰かと巡り合うに違いない。僕と出会うことがなかったとしても、それどころか、むしろ僕と出会わなかったほうが、絵里は本当の自信を得ることになったかも知れないではないか。いずれにしても、絵里には自信をもって生きてもらいたい、と僕は思った。絵里には本当に幸せになってほしいと強く願った。
「絵里さんにはほんとに幸せになってもらいたいよ」と僕は言った。
坂田はうなづくと、僕のコップにビールを注いだ。
佳子からの手紙のことは、もちろん坂田に知らせなかった。絵里と坂田のふたりには、佳子の妊娠が嘘だったことを知られたくなかった。そのことを知ったら、絵里は気持ちを乱すにちがいなかった。絵里には心穏やかに新しい道を歩んでもらいたかった。
佳子と絵里の間で悩んだこと、そして大学院への進学のこと、そのいずれに対しても、僕は何者かになかば強いられるようにして道を選んだ。その経緯はともかくとして、僕は自分の意志で選んだ道を歩き出そうとしていた。
第7章 防風林の松
会社に辞表を出してから半月後には、心おきなく辞めることができる状況になった。12月に入ってまもなく、僕は会社を去ることにした。
実験レポートを仕上げるために、最後の日には遅くまで残業をした。つき合ってくれた小宮さんと並んで机に向かっていると、退社したはずの野田課長が入ってきて、記念の品だと言いながら、小さなダンボール箱を渡してくれた。この人がこんなことをしてくれるとは、いったいどうしたことだろう、と思いながら受け取った箱を開けると、高音領域用スピーカーの試作品が入っていた。小さなそのスピーカーが眼に入ったとたんに、懐かしさに似た感情が湧いてきた。会社で過ごした数か月のすべてが、そのスピーカーの中に詰まっているような気がした。湧きあがってきたもうひとつの想いを胸に、僕は野田課長に感謝の気持ちを伝えた。そのとき僕の胸の中には、自分の未熟さを恥じる気持ちがあった。
僕をはげます言葉を残して野田課長が出ていったあと、箱から取り出した品物を手にしたまま、僕は小宮さんと技術者の夢について語り合った。二人で努力してきた数か月を振り返るなかで、野田課長に反発してきた自分たちの姿が、反省と自戒をこめて話題になった。僕たちには野田課長を批判する気持ちが残っていたものの、反感や憎しみの感情はすでに薄まっていた。
退職するまでの数週間、僕はそれまでとは異なる眼で野田課長を見るように努めた。野田課長は会議の席で相変わらずどなっていたが、そのような姿が以前とは異なるものに見えてきた。責任の重さに耐えかねている野田課長が見えた。部下の気持ちを無視するかのような野田課長の指示には、課長としてのあせりが表れていた。不満や怒りをあらわにする自制のなさは、野田課長の短所に違いなかったが、課の仲間たちがそれを誘発していると言えなくはなかった。そのようにして数週間が経つうちに、野田課長に対する僕の気持ちは変化した。野田課長の言動はしばしば僕を不快な気分にしたが、以前とはちがって憎しみが胸に残ることはなかった。それどころか、野田課長にたいして同情を覚えることすらあった。
会社を去ることになったその夕方、去来するさまざまな想いを胸にしながら、僕は野田課長に別れのあいさつをした。わだかまりが完全に消えたわけではなかったけれど、向きあって挨拶している僕の胸中はおだやかだった。
残業をしていたその夜、野田課長からスピーカーの試作品を贈られたとき、残っていたわだかまりのすべてが消えたような気がした。会社をやめるにあたって思い残すことはなかった。
在職中にも大学院に向けての準備をしていたが、退職してからはそのことに全力をそそいだ。受験の準備を効率よく進めるために、大学の研究室にいる大学院生に協力してもらうなど、2次募集の試験に向けて、僕は可能なかぎりの努力をした。
大学院で学ぶ数年間を、家庭教師のアルバイトをしながら過ごすことにしていた。中学1年生までは成績劣等生だったので、成績不振に悩む生徒のための、良い家庭教師になれる自信があった。入学試験が終わり次第アルバイトを始めたかったし、教える生徒は多いにこしたことはなかったので、家庭教師の口をさがすために友人にも協力してもらうつもりだった。
年末が近づいたころ、出雲の祖父から訪問をうながす電話があった。出雲の冬を体験できる機会ではないかと母にもすすめられ、受験勉強に全力をそそぐべき時期ではあったが、正月を母の実家で過ごすことにした。母から聞かされていた出雲の冬を、ようやくにして体験できることになった。必要な参考書を持参したなら、出雲に滞在しながらでも受験の準備はできるはずだった。冬の出雲と荒れる日本海を見るために、3年ぶりに訪れる母の実家にしばらく滞在するつもりだった。
出雲の家に着いたのは、1月3日の夕方だった。
出雲を訪れてからしばらくは晴れた日が続いた。冬の山陰地方は天候に恵まれないと思いこんでいたので、雲が多いなりに太陽が姿を見せる出雲の冬に、僕は意外な感じをうけた。
正月休暇が終わるころ、ふたりの従兄は勤務地に帰っていった。平日の昼に家にいたのは、祖父母と伯母、それに僕をふくめた4人だった。
広い家の一室で僕は参考書にとりくんだ。その合間の息ぬきに、祖父と幾度か将棋をさした。高齢の祖父を相手にしながらも、3回さしてようやく勝つことができた。将棋をさしながらお茶を飲み、受験勉強に励みながら、伯母が部屋まで運んでくれたお茶を飲んだ。その家で幾日かを過ごして、母がお茶を嗜む理由がわかったような気がした。
僕は母の育った村を知りたいと思った。すでに幾度か訪れていたけれども、そのような気持ちになったのは初めてだった。よく晴れていたその日、僕は昼食を終えるとすぐに家を出た。
人影のない冬の畑道をあてどなく歩き、農業が主な生活手段だった頃に想いをはせた。若かった頃の母が山菜採りをしたと思われる林に入り、生い茂る茨に行くてを阻まれながら、数十年の時が流れたあとを想った。出雲の伯父が話したところによれば、人びとの暮らしぶりの変化が、森や林の姿を大きく変えたとのこと。僕は森の中に分け入ってみた。厚く積もった枯葉を踏むと、柔らかい音をともなって森のにおいがした。なぜかその匂いがなつかしかった。丘陵のなだらかな起伏や林の風景が、そして、遠くに見える山々が、僕の眼にはやはり懐かしく映った。
村のたたずまいを眺めながら、その村に住んでいた頃の母の姿を想いえがいた。そして思った、母はどのような生きがいを求めてこの村を出たのだろうか。
いつのまにか、母の実家からかなり離れた地域まで足をのばしていた。母の実家がある辺りは丘陵地帯だが、そこから15分も歩くと水田地帯になった。
道端の小川をのぞいてみると、すき通った水に小さな魚が群れをなしていた。冷たい冬の川底で、魚はほとんど動かなかった。〈ふるさと〉という歌に詠われている光景に、ようやく出合えたような気がした。
小川のほとりにたたずんで魚を見ていると、遠くで呼び交わしている声が聞こえた。言葉は聞きとれなかったけれども、その声に村人たちの暮らしぶりが想われた。その声を耳にしながら僕は思った。時代や住む場所によって生き方が変わるにしても、与えられた条件の中で、あるいは自分の選んだ道で、人はそれぞれの生きがいを求めながら生きているのだ。
土曜日の午後、就職して松江に住んでいる従兄が家に帰ってきた。
その夜、従兄をまじえて歓談していると、すでに廃校になった村の小学校のことが話題になった。教師だった祖父がその学校の校歌にまつわる思い出話をすると、陽気な伯母がその一節を口ずさんだ。「しせいいっかん、せんじんのいぎょうをつがん」
その言葉と節まわしに僕は強くひかれた。それを最初から歌ってほしいと伯母にたのむと、伯母は歌うかわりにメモ用紙をとり、鉛筆で歌詞を書きはじめた。紙きれに文字をつづっている伯母を見ながら、小学校で歌ったはずの校歌を思い出そうとしたが、メロディと歌詞の最初の部分しか思い出せなかった。
伯母はメモ用紙をさし出して言った。
「3番まで書いたどもね、2番と3番の言葉が入れ替わったりしちょうかもしれんがね。歌ったのは何十年も昔のことだけんね」
「おれなんか、十年前のことなのに、小学校の校歌なんて忘れちゃってる」と僕は言った。
祖父が言った。「この村の出身者でもな、今の若い者は同じようなもんだろう。ラジオさえもろくに無かった昔と違って、テレビをつければ歌を聞けるし、自分でもいろんな歌を唄いながら育つわけだから、校歌に対する子供たちの意識も、昔とは違うかも知れないよ」
伯母が渡してくれたメモ用紙には歌詞が3番まで書いてあった。読み始めてすぐに感じたのは、ずいぶん古風な印象をあたえる歌詞だということだった。
自分の知らない小学校、それもすでに廃校になった学校の校歌だったが、その古風で簡潔な歌詞が気にいった。小学生にはむつかしいはずの語句をつらねた歌詞に、作詞者の想いがこめられているような気がした。
歌詞を書いてくれた伯母の気持ちに配慮して、メモ用紙をたいせつに胸のポケットにしまった。
夜になって着替えようとしたとき、ポケットに入っていた紙が眼にとまった。伯母から渡されたその紙きれをとりだし、鉛筆で書かれた文字をあらためて眺めた。
海よ西浜
磯なれ松に 高き理想 仰ぐもうれし
至誠一貫 先人の偉業を継がむ
いそなれ松とは何だろうと思った。どうやらそれは、先人の偉業に係わるものであるらしい。それにしても、小学校の校歌にしてはずいぶんむつかしい歌詞だ。小学生だった頃の母には、この歌詞が理解できたのだろうか。それとも、教師が歌詞の意味を生徒に解説したのだろうか。卒業をひかえた6年生に、教師が校歌について話している場面が想像された。その学校の卒業生は、その多くがやがて村を出てゆき、生きる道を異郷の地に求めたはずだ。そのことを僕は母から聞かされていた。僕は歌詞の文字を追いながら、作詞者はそのような村の事情を考えながら、この歌詞を作ったに違いないと思った。異郷に暮らす卒業生にとって、校歌の歌詞には校歌を越えた意味があったのではないか。そのような想いを胸にしながら、伯母が書いてくれた歌詞を読みおえた。
寝床に入って身を横たえると、縁側の外からもの音が聞こえた。耳をすますと風の音だった。風に鳴る庭木の音に重なって低い轟きが聞こえた。かすかではあったが、それは確かに轟だった。母から聞かされていた海鳴りにちがいなかった。
冬の出雲はときおり厚い雲におおわれ、冷たい季節風にさらされる。日本海をおし渡ってくるその風が、山陰海岸に怒涛をもたらし、その轟きを陸地の内部へと運んでくる。母からそのことを聞かされ、冬の荒れる日本海を見たいと思っていた。かすかに聞こえる海鳴りに耳をすましつつ、その機会がようやく訪れたことを知った。
つぎの日、従兄といっしょに家を出たのは11時前だった。従兄は知人たちとの会食のために出雲市へ行き、そのあと松江に帰る予定だった。
バス停で従兄を見送ってから、ひとりで畑中の道を海へ向った。畑は砂地の丘にひろがっており、その先には松の林が連なっていた。林が近づくにつれ、海鳴りが次第に大きくなった。道は林の中へと続いていた。
林の中の砂の道には、いたるところに松の根がうねっていた。太い根をあらわにした松の巨木は、どれもみな風に押されるように傾いていた。松は根元を風にえぐられながらも、その太い根で自らの体躯を支えていた。そのような松の姿は、その場所が松の自生に厳し過ぎることを教えていた。
祖父と一緒に初めてその林を訪れたのは、僕がまだ小学生の頃であったが、そのとき祖父が語ってくれたところによれば、それらの松は防風林のために植えられたものだった。砂丘で松を育てるために払われた知恵や労苦が、出雲ではよく知られている、と祖父は語った。祖父の話を思いだしつつ松を見あげると、風と戦っている松が雄叫びをあげていた。
松風につつまれながら林を通りぬけると、眼の前に海がひろがった。僕は風を押しやるようにしながら、浜辺へ向かう砂の道をくだった。
僕は砂浜に立って沖合いを眺めた。波のかなたは厚い雲に溶けこみ、水平線はおぼろに見えた。風と怒涛の響きのなかで、僕は押し寄せてくる波を迎えた。塩を含む飛沫が頬を濡らした。
砂浜のどこにも、人影はむろんのこと、一羽の鳥も見られなかった。荒涼とした砂浜を右のかなたにたどった先が大社町だが、そのあたりの海岸は霧がかかったようにかすんで見えた。
出雲大社のあたりに眼をやりながら、夏の山陰旅行のことを思った。あの砂浜で絵里たちと遊んだのは、そして、今こうして立っている場所をあちら側から眺めたのは、前年の暑い8月だった。
砂浜に沿って防風林がつらなり、黒味を帯びた松の緑が、寒々とした風景にわずかな彩りを添えていた。
風になびくかのように傾いている松を見ているうちに、僕はようやくにして気がついた。校歌に詠われている磯なれ松は、防風林のこの松の樹だ。
寒さに対する身仕度はしていたものの、風に吹かれていると体が冷えた。飛沫で服がぬれていた。
浜辺をひきあげることにして、今いちど沖合に眼を向けると、荒涼とした灰色の眺めに、夕焼けの華麗な光景が重なった。砂浜におり立ったときから、その光景がくり返しては心に浮かび、僕の眼を怒涛のかなたに引きつけていた。
荘厳な入日のさまは、そして、夕映えに染まった絵里の横顔は、僕の脳裏にまだ鮮明だった。僕をみつめた絵里の瞳はありありと思いだせたが、風と怒涛の響きのなかで、遠い日のできごとのように思われた。
出雲へ出かける準備をしていた元日の午後、年賀はがきの束が配達されてきた。僕に宛てた賀状を選んでいると、ボールペンで書かれた絵里からの賀状があった。雪山の絵はがきを賀状にしたもので、文面には小さな文字がならんでいた。その文字に惹かれるままに、僕はその場で絵里からの賀状を読んだ。
〈あけましておめでとうございます。昨年はとても良い思い出を本当にありがとうございました。私とのことが松井さんにも良い思い出となりますよう願っています。せっかくの人生を幸せで楽しいものにするよう勇気をだして積極的にやってみます。友達と初めてのスキーに行きました。松井さんもスキーがお好きなら兄を誘って連れていって下さい。お幸せをお祈り致します。〉
絵里が書いた文字を見たのはそれが初めてだった。僕に対する気持をうかがわせる言葉がないことに、絵里の気くばりを感じた。
その夜、電気スタンドの明かりのなかで、絵里からの賀状をあらためて眺めた。
写真のわきにスキー場の名前が印刷されていた。スキーの練習をしている絵里を思い浮べつつ、絵里が書いた文字を読み直した。丸みをおびた小さな文字を見ながら、それを綴ったときの絵里の心のうちを想った。絵はがきに詰めこむように書かれた文字に、前向きに生きようとする絵里の気持ちが表れていると思った。
年賀状を眺めながら思った、絵里はこの賀状によって、僕を安心させようとしたのかもしれない。そうだとすれば、それはいかにも絵里に似つかわしいことだ。もしかすると、いっしょにスキーをした友達というのは、絵里の新しいボーイフレンドかもしれない。そのような男が早く現われて、絵里に楽しい日々を与えてやってほしいものだ。そのように思いながらも、淋しさに似た感情が胸の底を流れた。
僕とのことが良い思い出になったという言葉に、山陰旅行やホテルのことが、苦みを伴いながらも懐かしく思い出された。ハガキに眼をとめたまま僕は思った。絵里にとって、自分はすでに思い出の世界の住人になっているのだろうか。それにしても、僕とのことが良い思い出になっているというのは本当だろうか。
僕の胸のうちには、絵里をいとおしく思う気持が残っていたが、それは絵里に対する未練というよりも、むしろ懐かしさに近いものだった。絵里はすでに僕の思い出の人になろうとしていた。わずか2ヵ月で絵里がそのような存在になったのは、僕がそれを望んでいたからだった。
三鷹駅で別れてからも、絵里はしばしば僕の胸を訪れてきた。絵里が心に現われると、僕はすなおにそれを受けいれて、絵里とのことをふり返ることにした。そのついでに、中学や高校時代に片想いをした相手を思いだし、絵里とあの同級生たちは、自分の人生にとってどんな存在であろうか、と考えてみた。そして思った。絵里に対する想いがまだ残っていようとも、絵里もまた、いずれは懐かしいだけの存在になってゆくはずだ。そうなることを願っていれば、さほどに手をかさなくても、絵里は記憶の世界に入ってゆくに違いない。
やがて、絵里は期待に応えて足早に思い出の世界に入って行った。僕がいくぶんかはそれを手伝ったにしろ、わずか2ヵ月で、絵里は記憶の中の、それも極めて懐かしい記憶の中の女の一人になりつつあった。
体がすっかり冷えていた。僕は海に背を向け、防風林に向かって砂の坂を登った。遠くの方では雪が降りはじめたらしく、大社町のあたりはほとんど見えなくなった。真昼の太陽は厚い雲にとざされ、その在りかすらわからなかった。
海鳴りに松風が響きあい、防風林はさながら巨大な音響空間だった。松風につつまれながら歩いていると、思いきり大きな声を出したくなった。僕は声をはりあげて歌をうたった。無駄に抱えていたものを声とともに放出しているような、そして、僕を束縛しているものを解き放ちつつあるような気持になった。爽快な気分が胸を満たした。
歌いながら歩いて行くと、道を半ばふさいでいる松の根に出合った。傾いた松を支えているその太い根は、風に削られた地面から1メートルほどの高さにあった。通り過ぎようとして根に触れたとき、手のひらに伝わってくるものを感じた。
根に触れたまま僕は思った。この樹を植えた人の手も、この根に触れたにちがいない。樹を植えながら、その人はどのような想いを抱いていたのだろうか。風と戦う松の姿に想いをはせながら、祈りをこめて苗木をここに植えたことだろう。もしかすると、その人は心の耳で聴いていたのかも知れない、防風林のこの松風を。
防風林の造成に執念を燃やした人がいなかったなら、松の苗木を砂丘に根づかせることはできなかっただろう。人が根づかせた松の樹は、潮風に耐えて成長し、長い歳月を風と戦ってきたのだ。不屈の意志をもって松を育てた人に応えて、防風林は冬の季節風に立ち向かっている。防風林は砂の移動をおさえることにより、この地で畑作を可能にしている。松を植えた一人ひとりが忘れられた今も、この防風林はこの土地に生きる人々の生活を守っている。この防風林こそは先人が遺したまさに偉業だ。
あの校歌の歌詞が思いだされた。〈海よ西浜 磯なれ松に 高き理想仰ぐも嬉し 至誠一貫 先人の偉業を継がむ〉という歌詞には、その最初に防風林のこの松がうたわれている。人が植えたこの松の樹は、困難に立ち向かおうとする人に勇気を贈るはず。この松の樹はわれわれに不屈の意志でことにあたれと教えてくれる。人を鼓舞するこの松の姿が、そして、この磯なれ松のそのような力が、校歌の歌詞に表わされているような気がする。校歌の作詞者はどのような人だったのだろうか。その作詞者と詞に対して、僕は敬意とともに共感をおぼえた。
松の根にふれたまま僕は歌詞の一節を口ずさんだ。
「至誠一貫 先人の偉業を継がむ」
声は松風に消された。僕は松を見あげた。松は風と戦いながら雄叫びをあげていた。傾いた松を見ながら僕は思った、あの校歌の作詞者は、学童に励ましの言葉を贈るとともに、先人に対する感謝の気持ちを想起させようとしたのだ。防風林の恩恵を受けるこの土地の人々にとって、これらの松は何よりもまず、先人に対する感謝の念を呼び起こす存在なのだ。
松を見あげながら僕は思った。いつの時代にも、人類は先人の偉業の恩恵を受けつつ現在に至った。人に慰撫と喜びを、そして希望や勇気を与える精神文化、物質的な豊かさをもたらす科学技術の応用製品、そしてまた、健康に生きるうえで不可欠な医療技術や医薬品。現代に生きる我々は、家に居ながらにして音楽や映画を楽しむことができる。車で自由に移動することができるし、飛行機で海外の国を訪れることも可能だ。我々は近代科学とそれがもたらした成果の恩恵を受けながら生きている。科学技術やその応用製品を作りあげた人達の多くは、読み人知らずとされた歌人のように無名であって、世間にその名を知られることはない。そのような彼等が夢を追い求め、執念を燃やして成し遂げたそれらの成果が、健康で文化的な、そして豊かな生活を我々にもたらしている。
僕は松の根に両手をかけて、いまいちど松を見あげた。
枝が激しくゆれていた。砂に根を張り、風雪に耐えて育ち、そしていま風と戦っているこの松の樹は、人が植えて育てたものだ。松を植えて砂丘を人が生活できる土地に変えようと考え、それを実現した人々がいたのだ。根に触れながら松を見あげていると、松が、そしてその樹を植えて育てた人が、手のひらを通して僕を励ましてくれているような気がした。
自分にも砂丘に松を残すような仕事ができるだろうか。目標に向かって執念を燃やし続けるならば、自分にもそれが可能なはずだ。そのことを自らにしっかり言い聞かせつつ、執念を燃やして努力する技術者として生きてゆこう。僕は松と約束でもするように、松を見あげながら強く自分を励ました。
林をぬけると視界がひらけ、そこから畑が拡がっていた。防風林はみごとにその役割をはたしていた。風はまだかなり強かったけれども、畑の砂を飛ばすことはなかった。防風林を離れるにつれ、松風は海鳴りにまぎれて、次第にそれとは分からなくなった。
寒々とした冬の畑に、麦の緑が整然と列をなしていた。防風林は砂丘を耕地に変え、その耕地を砂の侵食から護っている。この土地は現代においてもなお人々の生活の基盤になっている。農業を主な生活手段としていた時代の人々にとっては、防風林は先人の偉業と呼ぶにふさわしいどころか、それにも勝る存在だったにちがいない。それにしても、あの長大な防風林を完成するまでに、どれだけ多くの人々が関わったことだろう。今では忘れられているその一人ひとりが、自らの役割をはたして防風林を作りあげたのだ。その人たちの労苦はどのように報われたのだろうか。
歩きながら考えていると、不意に伯父の言葉が思い出された。「人間が生まれてくる目的は、生きることを通して魂を向上させるためだ。そのために必要な試練を乗り越えること、誠実により良く生きようと努力すること、そういったことを通して自分の魂を向上させることが大切だ」と伯父は語ってくれた。
伯父の言葉を信じるならば、と僕は思った。防風林に関わった人々にとっては、その労苦を通して得ることができた魂の糧こそ、名誉や金銭に勝る報酬だった、と言えるのではないか。防風林の造成を使命として主導した人なくしては、あれだけの防風林の完成はなかったはずだが、今なお功績を讃えられるその人にとっても、真の報酬は霊的な向上にあり、偉業を成し遂げた功績への名誉や評価は副次的なものである、と言えはしないだろうか。
ところで、と僕は思った、僕自身が人生をより良く生きるためには、どのような生き方をすべきだろうか。いずれは執念を燃やして仕事にとり組むことになり、それが僕に生きがいをもたらすことになろうが、そのことによって僕の魂が向上するとは限らない。より良く生きるにはどうしたらよいかと問いかけたとき、伯父は「それは自分で考えることだよ。より良く生きようと心がけながら、どのような生きかたをすべきかと考えてゆくことだ」と答えた。たしかに、より良く生きるための具体的なマニュアルなどがあろうはずはない。どのような価値観をもってどのような生き方をするにせよ、結局のところは、より良く生きたいと願いつつ、誠実に生きるということに尽きるのではなかろうか。いずれにしても、人生を歩き続けてどこかに辿り着いたとき、僕の魂は向上していなければならない。そのように生きる必要があるのだ。
雪がちらつき始めた。
畑の中の道を急いでいると、いきなり心の奥に佳子が現われた。佳子は正月休暇をどのように過ごしたのだろうと思った。
佳子が僕の電話を受けてくれたのは、あの手紙を受け取ってから1週間が経った頃だった。
僕は伝えた。しばらくは会わないという佳子の言い分を受けいれること。僕にはいつでも会う気持ちがあること。
しばし間があってから、受話器を通して佳子の声が聞こえた。「わがままを言ってごめんね」
その言葉を聞いて、僕はうしろめたい気持ちになった。佳子の本心はすぐにも会いたいはずだとわかっていながら、佳子の言い分を口実にして会わないことにしたのだから。
佳子を確かに愛しているつもりではあっても、絵里にたいする想いを強く残していては、うしろめたさを感じることなく佳子と向き合えそうになかった。佳子が抱えているわだかまりを消し、以前のようなふたりに戻るために必要なこと、それは、僕自身の心のありようだった。
会社をやめる決意をしてからは、それまでとは格段に忙しくなった。仕事を仕上げるために全力をつくさねばならなかったし、受験の準備に力を注がなければならなかった。そのように忙しい毎日を過ごしながらも、佳子と絵里のことはいつも心にかかっていた。
佳子と学校で会った日から3週間が過ぎると、不安な想いが高まってきた。佳子と会わないままに日を過ごしていると、これが普通の状態ということになりはしないだろうか。このような状態を続けていては、佳子との間がますます気まずくなるのではないか。さらに日が経つと、大切なものを失いつつあるような気がした。絵里に惹かれながらも佳子を見失わなかったわけを、ようやくにして理解できたように思えた。僕の胸のうちには、佳子の席が確保されていたのだ。佳子のことが気がかりだった。佳子の不安と悲しみを想った。
僕は佳子にふたたび電話をかけた。その前の電話からさらに1週間が過ぎていた。
会社をやめて大学院へ進学することを、佳子にはまだ報せていなかったので、まず最初にそのことを伝えた。むろん佳子を驚かせることになったが、驚きを表す佳子の声は低くおさえられていた。
受話器を通して聞こえる佳子の声に、言葉を交わすことに対する嬉しさと、不安な想いがともに表われていた。ぎこちなく始まった僕たちの会話は、その雰囲気から抜け出すきっかけをつかめないままに終わった。
それ以来、幾度か佳子に電話をかけたが、会話はいつもぎこちなかった。自分たちが作り出した雰囲気にとらわれ、僕たちはふたりとも、そこから抜け出せなくなっていた。僕は思った。こんなことをしているよりも、佳子と会った方が良さそうだ。そうすれば、以前の自分たちに早く戻れそうな気がする。誘いかければ佳子は喜んで会うだろう。佳子もそれを待っているのだ。だが、佳子と向き合っている場面を想像してみると、電話で話しているときの雰囲気がいやでも思いだされて、会わない方が良かったという結果に終わりそうな気がした。
手紙を書くことを思いついたのは、学校で佳子と話し合った日からひと月余りが経った頃だった。僕はすでに会社をやめて、受験の準備を本格的に始めたところだったが、佳子への手紙を書くために多くの時間をかけた。
手紙には気持ちを素直に表せた。それが佳子に伝わることを願って書いた長い手紙を、僕は何度も読みかえし、そして書きなおした。
12月もすでに半ばを過ぎていたので、ようやく書きあげたその手紙に年賀状を添えることにした。正月までには日数があったので、賀状の書き方にはかなりの工夫を要した。便箋に書いたその賀状にも、佳子とのわだかまりを解く役割を期待していた。
絵里にも年賀状を送ることにした。あて先は坂田の場合と同様に彼らの両親の住所だった。電話や手紙に限ることなく、自分の方から絵里に働きかけることは一切しないことにしていたのだが、その年末に出す賀状に限っては、絵里にそれを送ることがむしろ礼儀だという気がした。
絵里にあてた最初で最後の便りになると思いつつ、そしてまた、絵里が幸せな人生を送れるようにとの願いをこめて、言葉を選びながら文字をつづった。何枚かのハガキを破りすててから、どうにか納得できるものを書くことができた。万年筆の文字で文面がうめつくされた年賀状になっていた。
出雲へ向けて東京を発った1月3日の朝までに、絵里からの賀状は届いたものの、佳子からの返事と賀状は届かなかった。
降る雪が次第にふえて、遠くの山並がかすんできた。降りかかる雪が肩に積もった。
畑中の道を急ぎながら、佳子と出会ってからちょうど2年になるのだと思った。あのとき幸子と街なかで行き会わなければ、そしてまた、幸子がそのとき佳子を紹介してくれなかったならば、僕が佳子とつき合うことはなかったはずだ。佳子とつき合ってからの1年あまりは楽しく過ぎた。そして、僕は絵里と出会った。僕は自分の感情に流されるまま絵里との交際をつづけて、結局のところは、佳子と絵里をともに悲しませることになった。佳子と絵里の人生にとって、自分はいかなる意味を持つ存在であろうか。彼女たちに悲しみを与えて、魂の向上を促す役割を果たしたのであれば、僕の未熟さが、彼女たちのために役立ったということになる。そうだとすれば、情けなくも悲しい役割だ。そのような自分には、未熟な殻からの脱皮を誓う義務があるはず。彼女たちは自らの悲しむ姿を見せることにより、僕にそれを誓わせる役割を果たしたということになろうか。僕はその誓いを守らなければならない。
母の実家が見えてきた。家が松に囲まれているので、見えるのは屋根の一部とテレビのアンテナだけだった。
玄関に入ろうとしたとき、肩に積もった雪に気づいた。ジャンパーを脱いで雪をはらいおとしてから、僕は玄関の引き戸を開けた。
母からの電話があったことを祖母が報せてくれたので、伯母が用意してくれた昼食をとる前に、東京の母へ電話をかけることにした。
「杉本さんから電話があったよ、1時間くらい前だったけど。お前が出雲にいるといったら、東京へ帰ったころにまた電話をかけると言ってたけどね」と母が言った。「それに、手紙もきてるよ、杉本さんから」
佳子からの電話があったと聞いて胸がおどった。あのことがあって以来、佳子の方から電話をかけてきたのは初めてだった。佳子が僕の手紙に応えてくれたのだと思った。佳子からの手紙をすぐにも見たかった。
母がわざわざ報せようとしたのは、佳子からの電話がないことを気にしていたからであろうか。それとも、佳子の話しぶりから何かを察したのだろうか。昼前に電話をかけてきたというのだから、佳子はまだ自宅にいるに違いないと思った。佳子が僕からの電話を待っているような気がした。
僕はいそいで昼食をおえ、佳子の家に電話をかけた。
呼び出し音を待っていたかのように、受話器から佳子の声が聞こえた。明るくなった佳子の声に、嬉しさがこみあげてきた。
佳子が言った。「読んだわよ、滋郎さんの手紙。とても嬉しかった」
その声の表情と口調が、言葉にまして佳子の気持ちを伝えてきた。佳子の声が続いた。
「あのね、滋郎さん。私も年賀状を手紙といっしょに出したのよ。私たち、相談したみたいに同じことを考えたわね」
「手紙といっしょにか・・・・同じだな、ほんとに。だけどな」と僕は言った。「ずいぶん心配したんだぞ、おれは。待ってたのに来ないからさ、佳子からの返事が」
僕のしゃべり方も以前のそれにもどった。僕は体中に満ちてくる喜びを感じた。僕たちを縛りつけていたあの気まずさは、佳子が明るい声で話しかけてきたとき、いずこへともなく消えていた。
「ごめんね。書きなおしている内に時間がかかっちゃった。それで、返事を出すのが新潟へ行ってからになったのよ。年末休暇に入ったら、妹と新潟へ行く約束だったから」
佳子はいかにも楽しそうに話した。新潟の父親の生家を妹と訪れたこと。僕とスキーを楽しんだ一年前のことを思い出しながら、妹といっしょにスキーをしたこと。
僕たちの会話ははずみ、久しぶりに長い電話になった。佳子の声と話しぶりは、すっかり以前のそれに戻っていた。
気持をこめて書いた僕の手紙が、あの不思議なわだかまりから抜けださせてくれた。それを願って書いた手紙に佳子は応えてくれた。手紙を思いつかないまま佳子に会ったとしたら、ぎこちない雰囲気のなかで気まずい想いをしたことだろう。手紙という手段を思いついたことに、そして、そのようにして書いた自分の手紙に感謝したい気持だった。
「私の手紙も早く読んでもらいたいけど」と佳子が言った。
「もちろん、すぐに読みたいさ、佳子の手紙。だから、あした東京へ帰るよ」
「あした帰るの?、滋郎さん」
期待に満ちた佳子の声だった。すぐにも佳子に会いたかった。その想いを口にしたとき、佳子は嬉しさを声に表わしてそれを望んだ。佳子をいとおしく思った。佳子を抱きしめてやりたかった。
僕たちは翌々日の火曜日に会うことになった。僕は電話を終えると、近くにいた祖母に帰京することを伝えた。
つぎの日の朝、出雲地方は雪におおわれていた。
雪が浅く積もった道を僕はバス停に向かった。あたりに人影はなかった。雪を踏みしめる音だけが聞こえた。雲間からさす日がまぶしく照らし、冬の出雲を光で満たしていた。
立ち止まって見回すと、雪に覆われている丘のはずれに、防風林の松が長くつらなっていた。
防風林の松の樹は、雪の砂丘に凛然としていた。僕は風に頬をなでられながら、松が伝える言葉に心をむけた。砂丘につらなる松の樹は、僕を、そして、誰とはかぎらぬ人を鼓舞し続けていた。
僕は願った。僕を鼓舞する松風が、いつまでも胸の奥で鳴り続けることを。それを確かなものとするために、防風林にむかって深呼吸をした。
雲間に現われた太陽が、雪の斜面をはげしいほどに照らした。僕はおもわず眼をとじた。防風林の残像は速やかに消え、まぶしさのなごりの明るさだけが残った。僕はその瞼のうらに情景を想った。砂丘をわたる潮風が、雪をまきあげる光景を。
僕はそっと眼をあけた。先ほどまでと変わりなく、雪の砂丘に松は凛然としていた。
つらなる松を見ていると、感謝の気持と敬意の念が湧いてきた。僕は防風林の松にむかって、思いきり大きな深呼吸をしてそれを伝えた。松とそれを植えた人たちに、さらにまた、誰とはかぎらぬ先人たちに。
僕は道の行くてに向きなおり、雪を踏みしめながら足を運んだ。畑をわたってきた風が、辺りに群がる枯草をゆらした。
風に騒ぐ枯草が、防風林の松風を思い出させた。冷たい松の感触と、松と交わした約束が思い出された。
風と戦う松を思い浮かべつつ、僕はあらためて願った。砂丘に松を残すがごとく、困難な課題であろうとも、価値あるそれに挑戦し、不屈の意志をもって成し遂げたい。防風林のあの松風に、胸の奥で鳴り続け、不屈であれと鼓舞してほしい。
顔をあげて行く手を見ると、まだ足跡のない道が、僕を待ち受けるように延びていた。僕はしっかりとした足取りで雪の道を進んだ。
エピローグ 記憶の世界
ヨーロッパから帰って十日が過ぎたころ、勤務先から家に帰ると、坂田からの手紙がきていた。数日前に坂田がくれた電話によれば、その手紙には、僕にあてた絵里からの手紙が同封されているはずだった。
佳子と息子がテレビの音楽番組を見ているあいだに、僕は手紙をもって机に向かった。17インチブラウン管のパソコン用モニターが、机のかなりの部分を占めており、その横にはウインドウズMeをOSにした新しいパソコンがある。
モニターの前で大きめの封筒をあけ、同封されていた封筒をとりだすと、表には松井滋郎様と記され、裏返してみると本田絵里とあった。丸みをおびたその文字には覚えがあった。僕は急いで封をきり、数枚の便箋をとりだした。
〈・・・・・・ロンドンに来てくださいまして、本当にありがとうございました。わずかな時間ではありましたが、松井さんとお話できて本当に良かったと思っております。いまの私を見てもらえましたし、とても素敵な贈り物をいただくことができました。松井さんから祝福の言葉を贈られたとき、私はずいぶん長い間それを待っていたような気がしました。そのように思えるほどに、あの言葉を嬉しく聞くことができました。
お話できる時間にゆとりがありましたなら、16年前に言えなかったことを、私はあらためて口にしたことでしょう。とは申しましても、今だから言える思い出話ではありますけれど。車の中で語りあった16年前の夜、私には悲しみだけでなく怒りがありました。私はあまりにも悲しく、松井さんからの慰めの言葉を聞くことだけでせいいっぱいでしたから、松井さんをなじることも、ぐちをこぼすこともできなかったのです。松井さんをなじったりすれば、ますます悲しくなりそうでしたし、松井さんとの思い出に傷をつけたくもなかったのです。
赤い糸で結ばれた人が見つからないまま十年あまりを過ごしてから、CDを買うつもりで入った店のクラシックコーナーで、いまの夫と出会うことができました。勇気をだして近くに居た男性に声をかけ、CDを選ぶための相談に乗ってもらったのですが、そのことをきっかけにして交際が始まり、演奏会にも一緒に行くようになりました。ごく自然に棚から荷物を落とすことができたのも、松井さんのおかげだと思っています。ヒースローで松井さんに感謝していると伝えましたが、本心から私はそう思っております。心の中で松井さんを恨んだこともありましたが、今ではすべてが懐かしい思い出となり、松井さんには感謝の気持ちしかありません。・・・・・・〉
手紙を読み終えると、絵里の幸せを願う気持ちとともに、絵里に対する感謝の気持ちが湧いてきた。16年前のあの夜、絵里は車の中のひとときを、僕に対する怒りを抱いて過ごしたのだ。絵里はこの手紙を書くことで、あのとき口に出せなかったその気持ちを、ようやく僕に伝えることができたのだ。絵里の誘いに乗ってロンドンを訪ねた結果、絵里に祝福の言葉を贈ることができただけでなく、このような手紙をもらうことにもなった。わずかな時間だったとはいえ、絵里と語り合うことができて本当によかった。
僕は手紙の文字を眺めながら思った。絵里を思い出すときには苦い感情を伴ったものだが、絵里との再会をはたしてからは、そのような苦味も薄らいでいた。絵里がこの手紙をくれたおかげで、これから先に絵里を思い出すことがあっても、記憶の世界の女のひとりとして、穏やかに振り返ることができるようになった。
僕と佳子は信頼し合い、ふたりの間に不安はないが、佳子の気持ちを乱したくはなかったので、ロンドンで絵里に会ったことは伝えなかった。絵里からのその手紙も、佳子には見せないまま処分することにした。
その手紙に住所は記されていなかったので、僕からの返事を期待していないことは明らかだった。そうであろうと、感謝の気持ちを絵里に伝えたかった。
つぎの日、僕は坂田に電話をかけて、絵里にあてた伝言を頼んだ。手紙を読んで感謝の気持ちを抱いたこと。絵里の幸せを心から祈っていること。坂田はひと言「わかった、絵里に伝える」と応えた。僕は「ありがとう、たのむよ」と言った。
会話を終えて顔をあげると、壁に貼られているポスターの風景写真が見えた。海辺につらなる松林の写真が、防風林の松と松風を思い出させた。
僕はロビーの電話コーナーを離れて研究室に向かった。
あとがき
「防風林の松」は私が書いた最初の小説である。小説についてはまったくの素人であり、まだ在職中の身でもあったが、ある日いきなり、思い立って小説を書くことにした。それにはむろん動機があった。
バブル経済をもたらし、その弊害によって社会を混乱させた者たちに対して、私は強い憤りをおぼえていた。その憤りに背中をおされた私は、ユーモア小説を書いて政治を風刺することにした。文章作成のための利器とも言えるワープロを使えば、未経験の小説にも挑戦できそうに思えたからである。
ワープロを購入した私は、小説の構想がまとまらないまま液晶画面に向かった。
プロットなるものを作成し、構想を練ってから書き始めるのが一般的なやり方らしいが、私はまったく行き当たりばったりに書き進めていった。才能に恵まれているとは思えない私が、小説の作法も学ばないままに開始したので、原稿用紙二十枚分を書くのにひと月を要した。
書き始めてからひと月あまりは、そのように遅々としか進まなかったが、5月の連休に入った頃から、自分でも驚く程の速さで書けるようになった。政治を風刺する小説を書きたかったにもかかわらず、物語が進むにつれて、若い技術者の生き様と、その恋愛模様に重点が移っていった。
創作に慣れたことの他にも筆を速めた理由があった。技術者の執念なる言葉を思い出したことで、小説のテーマが見つかったような気がしたこと、そして、故郷の防風林が心に浮かんだことがそれである。当初の目的は政治を揶揄するにあったが、そこからはすでに大きく逸れていたので、創作意欲を維持するには新しいテーマが必要だった、ということであろう。その頃になってようやく、題名が決まって「防風林の松」になった。
ワープロに向かえるのは休日と夜間だけであったが、心血を注いだ数ヶ月を過ごして、どうにか最後まで書き上げることができた。
草稿と呼ぶべきその原稿を読み返してみると、文章と表現は甚だ稚拙ながらも、その概要はこの最終版と変わらない。物語の行方が見えないままに書き進めたのだが、どうにか小説らしい形にはなっていたことになる。
なっとくできる形に仕上げるために、幾度となく改訂を重ねたのだが、前記のごとく、物語のすじを変える必要はなかった。どうやら、その気になりさえすれば、小説は誰にでも書けるものである、と言えそうである。とはいえ、それなりに覚悟は必要である。もしかすると、作家と呼ばれるようなひとにとっても、創作は喜びであるとともに、身をけずるような営みではなかろうか。素人であるのみならず、才能にも恵まれない私ゆえの感想かも知れないのだが、私にはそのように思えるのである。
この小説は一人称で書かれているために、読んでいただいた知人の中には、主人公を私に重ねる人がいたようである。この小説には私自身の体験も入っているが、それはせいぜい一パーセントである。その一パーセントとは、中学一年生までの私が成績劣等生だったこと、ラジオに興味を抱いて独学したことも、成績向上に役立ったと思われること、電機会社に三鷹市から通勤していたこと、仕事に関わる資料や原書を持ち帰り、夜おそくまで読みふけったこと、会社にしばしば遅刻したことである。
この小説で重要な役割をはたしている防風林は、私の故郷である出雲に実在するものであり、作中に出てくる小学校の校歌は、廃校になって久しい私の母校のものである。物語に関わるそれ以外のすべては私の創作になるものだが、初めて書いた小説ということもあって、微妙な心理の描写に少なからず苦労した。とはいえその経験が、特攻隊員を主人公とする小説「造花の香り」を書くうえで、大いに役立つことになった。
最近になって読み返したところ、稚拙なところが眼につきすぎて、改訂せざるを得なくなった。そこで改訂にとりくみ、終章の「記憶の世界」を加えてこのような形に仕上げたのだが、その結果、政治に関わる文章はさらに少なくなった。最初に記したように、この小説を書いた動機は政治に対する怒りであったが、結果的には当初の目的から大きくはずれたものとなった。
バブル崩壊後の「失われた二十年」を経てもなお、この国の政治が愚劣な様態に留まっていることを思えば、若い世代の眼を政治に向けさせ、政治への積極的な関与をうながす小説に対して、多くの出番が用意され、登場を待たれているような気がするのである。才能に恵まれた誰かによって、そのような小説が書かれるようにと願っている。