第7章 防風林の松

 会社に辞表を出してから半月後には、心おきなく辞めることができる状況になった。12月に入ってまもなく、僕は会社を去ることにした。
 実験レポートを仕上げるために、最後の日には遅くまで残業をした。つき合ってくれた小宮さんと並んで机に向かっていると、退社したはずの野田課長が入ってきて、記念の品だと言いながら、小さなダンボール箱を渡してくれた。この人がこんなことをしてくれるとは、いったいどうしたことだろう、と思いながら受け取った箱を開けると、高音領域用スピーカーの試作品が入っていた。小さなそのスピーカーが眼に入ったとたんに、懐かしさに似た感情が湧いてきた。会社で過ごした数か月のすべてが、そのスピーカーの中に詰まっているような気がした。湧きあがってきたもうひとつの想いを胸に、僕は野田課長に感謝の気持ちを伝えた。そのとき僕の胸の中には、自分の未熟さを恥じる気持ちがあった。
 僕をはげます言葉を残して野田課長が出ていったあと、箱から取り出した品物を手にしたまま、僕は小宮さんと技術者の夢について語り合った。二人で努力してきた数か月を振り返るなかで、野田課長に反発してきた自分たちの姿が、反省と自戒をこめて話題になった。僕たちには野田課長を批判する気持ちが残っていたものの、反感や憎しみの感情はすでに薄まっていた。
 退職するまでの数週間、僕はそれまでとは異なる眼で野田課長を見るように努めた。野田課長は会議の席で相変わらずどなっていたが、そのような姿が以前とは異なるものに見えてきた。責任の重さに耐えかねている野田課長が見えた。部下の気持ちを無視するかのような野田課長の指示には、課長としてのあせりが表れていた。不満や怒りをあらわにする自制のなさは、野田課長の短所に違いなかったが、課の仲間たちがそれを誘発していると言えなくはなかった。そのようにして数週間が経つうちに、野田課長に対する僕の気持ちは変化した。野田課長の言動はしばしば僕を不快な気分にしたが、以前とはちがって憎しみが胸に残ることはなかった。それどころか、野田課長にたいして同情を覚えることすらあった。
 会社を去ることになったその夕方、去来するさまざまな想いを胸にしながら、僕は野田課長に別れのあいさつをした。わだかまりが完全に消えたわけではなかったけれど、向きあって挨拶している僕の胸中はおだやかだった。
 残業をしていたその夜、野田課長からスピーカーの試作品を贈られたとき、残っていたわだかまりのすべてが消えたような気がした。会社をやめるにあたって思い残すことはなかった。

 在職中にも大学院に向けての準備をしていたが、退職してからはそのことに全力をそそいだ。受験の準備を効率よく進めるために、大学の研究室にいる大学院生に協力してもらうなど、2次募集の試験に向けて、僕は可能なかぎりの努力をした。
 大学院で学ぶ数年間を、家庭教師のアルバイトをしながら過ごすことにしていた。中学1年生までは成績劣等生だったので、成績不振に悩む生徒のための、良い家庭教師になれる自信があった。入学試験が終わり次第アルバイトを始めたかったし、教える生徒は多いにこしたことはなかったので、家庭教師の口をさがすために友人にも協力してもらうつもりだった。
 年末が近づいたころ、出雲の祖父から訪問をうながす電話があった。出雲の冬を体験できる機会ではないかと母にもすすめられ、受験勉強に全力をそそぐべき時期ではあったが、正月を母の実家で過ごすことにした。母から聞かされていた出雲の冬を、ようやくにして体験できることになった。必要な参考書を持参したなら、出雲に滞在しながらでも受験の準備はできるはずだった。冬の出雲と荒れる日本海を見るために、3年ぶりに訪れる母の実家にしばらく滞在するつもりだった。

 出雲の家に着いたのは、1月3日の夕方だった。
 出雲を訪れてからしばらくは晴れた日が続いた。冬の山陰地方は天候に恵まれないと思いこんでいたので、雲が多いなりに太陽が姿を見せる出雲の冬に、僕は意外な感じをうけた。
 正月休暇が終わるころ、ふたりの従兄は勤務地に帰っていった。平日の昼に家にいたのは、祖父母と伯母、それに僕をふくめた4人だった。
 広い家の一室で僕は参考書にとりくんだ。その合間の息ぬきに、祖父と幾度か将棋をさした。高齢の祖父を相手にしながらも、3回さしてようやく勝つことができた。将棋をさしながらお茶を飲み、受験勉強に励みながら、伯母が部屋まで運んでくれたお茶を飲んだ。その家で幾日かを過ごして、母がお茶を嗜む理由がわかったような気がした。
 僕は母の育った村を知りたいと思った。すでに幾度か訪れていたけれども、そのような気持ちになったのは初めてだった。よく晴れていたその日、僕は昼食を終えるとすぐに家を出た。
 人影のない冬の畑道をあてどなく歩き、農業が主な生活手段だった頃に想いをはせた。若かった頃の母が山菜採りをしたと思われる林に入り、生い茂る茨に行くてを阻まれながら、数十年の時が流れたあとを想った。出雲の伯父が話したところによれば、人びとの暮らしぶりの変化が、森や林の姿を大きく変えたとのこと。僕は森の中に分け入ってみた。厚く積もった枯葉を踏むと、柔らかい音をともなって森のにおいがした。なぜかその匂いがなつかしかった。丘陵のなだらかな起伏や林の風景が、そして、遠くに見える山々が、僕の眼にはやはり懐かしく映った。
 村のたたずまいを眺めながら、その村に住んでいた頃の母の姿を想いえがいた。そして思った、母はどのような生きがいを求めてこの村を出たのだろうか。
 いつのまにか、母の実家からかなり離れた地域まで足をのばしていた。母の実家がある辺りは丘陵地帯だが、そこから15分も歩くと水田地帯になった。
 道端の小川をのぞいてみると、すき通った水に小さな魚が群れをなしていた。冷たい冬の川底で、魚はほとんど動かなかった。〈ふるさと〉という歌に詠われている光景に、ようやく出合えたような気がした。
 小川のほとりにたたずんで魚を見ていると、遠くで呼び交わしている声が聞こえた。言葉は聞きとれなかったけれども、その声に村人たちの暮らしぶりが想われた。その声を耳にしながら僕は思った。時代や住む場所によって生き方が変わるにしても、与えられた条件の中で、あるいは自分の選んだ道で、人はそれぞれの生きがいを求めながら生きているのだ。
 土曜日の午後、就職して松江に住んでいる従兄が家に帰ってきた。
 その夜、従兄をまじえて歓談していると、すでに廃校になった村の小学校のことが話題になった。教師だった祖父がその学校の校歌にまつわる思い出話をすると、陽気な伯母がその一節を口ずさんだ。「しせいいっかん、せんじんのいぎょうをつがん」
 その言葉と節まわしに僕は強くひかれた。それを最初から歌ってほしいと伯母にたのむと、伯母は歌うかわりにメモ用紙をとり、鉛筆で歌詞を書きはじめた。紙きれに文字をつづっている伯母を見ながら、小学校で歌ったはずの校歌を思い出そうとしたが、メロディと歌詞の最初の部分しか思い出せなかった。
 伯母はメモ用紙をさし出して言った。
「3番まで書いたどもね、2番と3番の言葉が入れ替わったりしちょうかもしれんがね。歌ったのは何十年も昔のことだけんね」
「おれなんか、十年前のことなのに、小学校の校歌なんて忘れちゃってる」と僕は言った。
 祖父が言った。「この村の出身者でもな、今の若い者は同じようなもんだろう。ラジオさえもろくに無かった昔と違って、テレビをつければ歌を聞けるし、自分でもいろんな歌を唄いながら育つわけだから、校歌に対する子供たちの意識も、昔とは違うかも知れないよ」
 伯母が渡してくれたメモ用紙には歌詞が3番まで書いてあった。読み始めてすぐに感じたのは、ずいぶん古風な印象をあたえる歌詞だということだった。
 自分の知らない小学校、それもすでに廃校になった学校の校歌だったが、その古風で簡潔な歌詞が気にいった。小学生にはむつかしいはずの語句をつらねた歌詞に、作詞者の想いがこめられているような気がした。
 歌詞を書いてくれた伯母の気持ちに配慮して、メモ用紙をたいせつに胸のポケットにしまった。
 夜になって着替えようとしたとき、ポケットに入っていた紙が眼にとまった。伯母から渡されたその紙きれをとりだし、鉛筆で書かれた文字をあらためて眺めた。
  海よ西浜
  磯なれ松に 高き理想 仰ぐもうれし
  至誠一貫 先人の偉業を継がむ
 いそなれ松とは何だろうと思った。どうやらそれは、先人の偉業に係わるものであるらしい。それにしても、小学校の校歌にしてはずいぶんむつかしい歌詞だ。小学生だった頃の母には、この歌詞が理解できたのだろうか。それとも、教師が歌詞の意味を生徒に解説したのだろうか。卒業をひかえた6年生に、教師が校歌について話している場面が想像された。その学校の卒業生は、その多くがやがて村を出てゆき、生きる道を異郷の地に求めたはずだ。そのことを僕は母から聞かされていた。僕は歌詞の文字を追いながら、作詞者はそのような村の事情を考えながら、この歌詞を作ったに違いないと思った。異郷に暮らす卒業生にとって、校歌の歌詞には校歌を越えた意味があったのではないか。そのような想いを胸にしながら、伯母が書いてくれた歌詞を読みおえた。