レストランで夕食をとってから、流しのタクシーをひろってホテルへ向った。タクシーでホテルにつくまでに5分もかからなかった。
僕たちはホテルの一室に集まり、あくる日の計画をねった。観光案内を見ながらしばらく話し合ったあと、フロントへ行って係員に相談にのってもらった。
次の日の朝食も、前日同様にパンとジュースだけですませた。どんなにささやかであろうと、ふざけたり笑いあったりしながらの朝食に、いささかの不満もなかった。
僕たちはレンタカーを借りて、松江の東方にある枕木山へ向かった。僕が自宅から持ってきていた道路地図に、ホテルの社員に道順などを記入してもらったので、道に迷うことはなかった。助手席の坂田が道路地図を持ち、ハンドルは僕が握っていた。
山肌を縫って道を登ると、山頂に近いあたりの開けた場所に出た。そのような高所に駐車場が作られていた。
僕たちはそこから見えると聞かされていた隠岐島をさがした。山並みの彼方に日本海が見え、水平線上には薄い影のようなものが見えたが、それが隠岐島かそれとも雲か判然としなかった。とはいえ、そのことで僕たちが失望することはなかった。中海から松江にかけての低地が眼下に拡がっており、中国山地の山並と呼応して、みごとな景観をつくっていた。そのような景勝地を教えてくれたホテルマンに感謝しながら、僕たちはしばらく山の上で過ごした。
山上からの眺望が、僕たちに充分な満足感を与えてくれた。それだけでなく、山の上から眺めたことで、松江の付近をおおよそ見てしまったような気分になっていた。僕たちは松江に向かう車中で話し合い、予定を変えて早めに出雲大社へ行くことにした。
僕たちはレンタカーの返却手続きをおえると、そこから近い松江駅まで歩いて行き、構内の食堂で昼食をとった。
出雲市へ向かう列車に乗り込んでまもなく、観光案内を見ていた坂田が言った。
「出雲大社の近くに日本で一番高い灯台があるんだ。今日のうちに行ってみないか」
相談はすぐにまとまり、出雲大社に参拝するのは翌日にして、その日は日御碕の灯台を見ることになった。
出雲市駅に着くとすぐにレンタカーの営業所をさがした。
出雲市に着いてから30分がたった頃には、僕が運転する車で大社町に向っていた。借りた車は4人で乗るのに充分な軽乗用車だった。助手席の坂田が道路地図を見ながら、出雲大社への道を指示した。
田園地帯の道を、坂田に指示されるままに走って大社町に入った。巨大な鳥居をぬけて出雲大社の参道入口に着いたが、僕たちはそこを素通りして日御碕への道を進んだ。
「ねえ、神様に挨拶しないで行っても大丈夫かしら」
絵里がみんなを笑わせるような口調で言った。
「こわいんだろう、絵里。縁結びの神様にしかられるのが」
「もちろんよねー、アヤちゃん」絵里がおどけた口調で言った。「明日お参りしたら、お願いをする前にお詫びをしなきゃね」
そんな会話を交わしているうちに、道は海沿いの断崖のうえに出て、しかも急カーブの連続になった。僕は緊張しながらハンドルを握っていたが、うしろの座席では絵里と綾子が明るい笑い声をあげていた。エアコンのきいた車内には快適な気分が満ちていた。
日御碕に着くまでにかなりの車とすれちがった。辺りに人家は見えなかったから、それらの多くは日御碕から帰ってくる車だったのだろう。
出雲大社から日御碕までは30分もかからなかった。駐車場に車を置いた僕たちは、軒を並べるみやげ物屋の前を通って、かなたに見える灯台に向かった。
松のかなたで白く輝いている灯台を目指してゆくと、見晴らしのよい台地のうえにでた。灯台を乗せた岩の台地は、岩の斜面を介して海とつながっていた。
日本海は穏やかだった。沖合に浮かぶ貨物船は東に向かっていたが、ほとんど静止しているように見えた。
「出雲って、人も穏やかだけど、海も景色もみんな穏やかなのね」と絵里が言った。
あまりにも穏やかな海が、絵里にそのような印象を与えたのだろう。
坂田が言った。「ここだって、台風が来たときには荒れるし、冬の日本海は波が荒いそうだぞ」
「だけど、今日の海は波がなくて湖みたいね」と綾子が言った。「灯台に登るよりも、あの人たちみたいに下までおりてみたらどうかしら」
数人の行楽客が水ぎわで戯れていた。その姿にひかれるままに、僕たちは灯台に登る計画をとりやめにした。
潮風と波が作りあげた岩の起伏をつたっていると、子供の頃に戻ったような気分になった。そこでは誰もがむじゃ気になった。僕たちは岩の斜面をかけまわって遊んだ。
僕がカメラを向けると、絵里は岩にもたれてほほえんだ。僕は絵里の笑顔をズームアップした。笑顔が僕に呼びかけていた。その呼びかけに応えてやりたいと思った。忘れていたシャッターをあわてて押すと、絵里が嬉しそうにうなずいた。僕はアングルを変えた絵里の写真をたて続けに撮った。
1時間ほどで日御碕を引きあげることにした。記念写真をとるために、坂田がバッグから三脚をとりだし、傾斜している岩の上にセットした。日ざしに輝く灯台を背にして、僕たちはカメラに向かった。すでに大きく傾いた太陽が、僕たちをまぶしく照らした。
夕日にきらめく穏やかな海を見ながら、海沿いの道を大社町へ向った。
「夕日が海に沈むところ、私はまだ見たことがないのよ。どんなふうに沈むのか見てみたいな」
絵里の言葉にだれもが同意した。日が沈むまでにはまだ時間があったので、それまでにホテルを確保しておくことにした。
出雲大社の前をふたたび素通りし、大きな鳥居に向かって行くと、神社から数百メートルの所に宿が見つかった。出雲大社の町に似つかわしい、古風な趣きのある旅館だった。
食事の時間などを確認しておいてから、あわただしく車に乗り込んで海岸へ向かった。海辺の近くの道に車を置いて、僕たちは砂浜に入った。日御碕の一帯は岩であったが、出雲大社の海岸は砂浜だった。砂浜はゆるやかな弧を描いて南西に延びていた。
砂の表面がひときわきれいな場所を見つけて、僕たちは腰をおろした。
水平線の上で輝く太陽は絶対的な存在だった。太陽はあたかも自らを荘厳するかのように、周囲の雲と海の面を鮮やかに彩り、視界のすべてを夕映えで染めあげていた。
オレンジ色の輝きは、赤みを増しながら降りてゆき、ついに水平線に接した。
太陽は水平線に溶けこむように形をくずしながら、思わぬ速さで沈みはじめた。華やかな入日の儀式に見とれているうちに、太陽はあっさりと姿を消した。
主役の消えた舞台には、華麗な飾りつけがまだ残っていたが、その光景は淋しさにも似た感情をもたらした。刻々と色調を変える夕焼け空が、甘美でしかも憂いをおびた音楽を想わせた。
「こんどの旅行で一番良かったのは、今日の夕日とこの景色だわ。いつまでも忘れないような気がする、体の中まで染められるような夕焼け空と、沈んでいったあの太陽」
旅行がまだ終わっていないにもかかわらず、絵里が口にした感想に、僕たちは共感の声をもらした。
「太陽があんな速さで沈むなんて、考えたこともなかったわね」掌から砂をこぼしながら綾子が言った。
「昼間だって同じ速さで動いてるんだよな。太陽があんな速さでおれ達の上を通り過ぎたら、その一日が終わるというわけだ。こういうのを見ると実感できるよな、光陰矢の如しというけど」
「光陰の光は太陽で、陰は月のことですよね。月が海に沈むときはどんなふうに見えるのかしらね」
坂田と綾子の会話を耳にしながら、僕は横にならんでいる絵里を見た。絵里は太陽が隠れたあたりに顔を向けていた。体を寄せれば触れそうなところに絵里の腕があった。夕映えに染まっているその横顔を見ていると、絵里がまつげを一瞬ふるわせた。絵里がそっと首をまわして僕を見た。その眼にはいつもの微笑みがなかった。僕を見つめたその瞳が、絵里の想いを伝えてきた。その眼ざしが伝えたものを、そのとき僕はそのまま受け入れた。佳子は心の奥に隠れてしまい、僕にはその姿が見えなくなった。
胸をときめかせながら水平線に眼をやると、姿を隠した太陽がまだその存在を誇示しているかのように、夕焼雲に金色の輝きをそえていた。夕映えの華麗な色彩はかげりはじめていたが、その光景を僕は心を浮きたたせながら眺めた。
辺りは少しづつ暗くなったが、僕たちは腰をおろしたまま話し続けた。
「俺のおふくろのこと、昨日も話したけどさ、この先なんだよ、おふくろの故郷は」
母が生まれ育ったふるさとは、その海辺のはるか彼方にあった。
「昔はこの地方の中学校が、この大社町にあったんだ。昔のその中学校に通うために、俺のおじいさんは、砂浜の向こうの端あたりからここまで砂浜を歩いたそうだよ」
「昔っていつごろのことですか」綾子が聞いた。
「そうだな」およその見当で僕は答えた。「いまから六十年くらい前のことだな。大正時代が終わる頃だったそうだから」
「ずいぶん苦労したのね、昔は車がなかったから」と絵里が言った。
「出雲大社の祭りの時には、お参りするためにここまで歩いたそうだよ。いちばんの近道だから」
「大変よね、あんなに遠い所から、こんな砂の上を歩いて来るなんて。もしかしたら、神様に願いを叶えてもらうためには、そんなふうに苦労してお参りした方がいいのかな」
「そうよ、アヤちゃん。明日お参りするときは、せめて旅館からでも歩かなくちゃ」明るい声で絵里が応じた。
「神様はお見通しだぜ、絵里、そんなみえすいた考えなんてさ」坂田がちゃかすように言った。「車の時代の人間はだよ、それなりの誠意をもって参拝すればいいんだよ」
さきほどからの絵里の声には、はずむような響きがあった。絵里の心のうちを推しはかりながら、僕は夕焼けの名残の空をながめた。
僕たちはホテルの一室に集まり、あくる日の計画をねった。観光案内を見ながらしばらく話し合ったあと、フロントへ行って係員に相談にのってもらった。
次の日の朝食も、前日同様にパンとジュースだけですませた。どんなにささやかであろうと、ふざけたり笑いあったりしながらの朝食に、いささかの不満もなかった。
僕たちはレンタカーを借りて、松江の東方にある枕木山へ向かった。僕が自宅から持ってきていた道路地図に、ホテルの社員に道順などを記入してもらったので、道に迷うことはなかった。助手席の坂田が道路地図を持ち、ハンドルは僕が握っていた。
山肌を縫って道を登ると、山頂に近いあたりの開けた場所に出た。そのような高所に駐車場が作られていた。
僕たちはそこから見えると聞かされていた隠岐島をさがした。山並みの彼方に日本海が見え、水平線上には薄い影のようなものが見えたが、それが隠岐島かそれとも雲か判然としなかった。とはいえ、そのことで僕たちが失望することはなかった。中海から松江にかけての低地が眼下に拡がっており、中国山地の山並と呼応して、みごとな景観をつくっていた。そのような景勝地を教えてくれたホテルマンに感謝しながら、僕たちはしばらく山の上で過ごした。
山上からの眺望が、僕たちに充分な満足感を与えてくれた。それだけでなく、山の上から眺めたことで、松江の付近をおおよそ見てしまったような気分になっていた。僕たちは松江に向かう車中で話し合い、予定を変えて早めに出雲大社へ行くことにした。
僕たちはレンタカーの返却手続きをおえると、そこから近い松江駅まで歩いて行き、構内の食堂で昼食をとった。
出雲市へ向かう列車に乗り込んでまもなく、観光案内を見ていた坂田が言った。
「出雲大社の近くに日本で一番高い灯台があるんだ。今日のうちに行ってみないか」
相談はすぐにまとまり、出雲大社に参拝するのは翌日にして、その日は日御碕の灯台を見ることになった。
出雲市駅に着くとすぐにレンタカーの営業所をさがした。
出雲市に着いてから30分がたった頃には、僕が運転する車で大社町に向っていた。借りた車は4人で乗るのに充分な軽乗用車だった。助手席の坂田が道路地図を見ながら、出雲大社への道を指示した。
田園地帯の道を、坂田に指示されるままに走って大社町に入った。巨大な鳥居をぬけて出雲大社の参道入口に着いたが、僕たちはそこを素通りして日御碕への道を進んだ。
「ねえ、神様に挨拶しないで行っても大丈夫かしら」
絵里がみんなを笑わせるような口調で言った。
「こわいんだろう、絵里。縁結びの神様にしかられるのが」
「もちろんよねー、アヤちゃん」絵里がおどけた口調で言った。「明日お参りしたら、お願いをする前にお詫びをしなきゃね」
そんな会話を交わしているうちに、道は海沿いの断崖のうえに出て、しかも急カーブの連続になった。僕は緊張しながらハンドルを握っていたが、うしろの座席では絵里と綾子が明るい笑い声をあげていた。エアコンのきいた車内には快適な気分が満ちていた。
日御碕に着くまでにかなりの車とすれちがった。辺りに人家は見えなかったから、それらの多くは日御碕から帰ってくる車だったのだろう。
出雲大社から日御碕までは30分もかからなかった。駐車場に車を置いた僕たちは、軒を並べるみやげ物屋の前を通って、かなたに見える灯台に向かった。
松のかなたで白く輝いている灯台を目指してゆくと、見晴らしのよい台地のうえにでた。灯台を乗せた岩の台地は、岩の斜面を介して海とつながっていた。
日本海は穏やかだった。沖合に浮かぶ貨物船は東に向かっていたが、ほとんど静止しているように見えた。
「出雲って、人も穏やかだけど、海も景色もみんな穏やかなのね」と絵里が言った。
あまりにも穏やかな海が、絵里にそのような印象を与えたのだろう。
坂田が言った。「ここだって、台風が来たときには荒れるし、冬の日本海は波が荒いそうだぞ」
「だけど、今日の海は波がなくて湖みたいね」と綾子が言った。「灯台に登るよりも、あの人たちみたいに下までおりてみたらどうかしら」
数人の行楽客が水ぎわで戯れていた。その姿にひかれるままに、僕たちは灯台に登る計画をとりやめにした。
潮風と波が作りあげた岩の起伏をつたっていると、子供の頃に戻ったような気分になった。そこでは誰もがむじゃ気になった。僕たちは岩の斜面をかけまわって遊んだ。
僕がカメラを向けると、絵里は岩にもたれてほほえんだ。僕は絵里の笑顔をズームアップした。笑顔が僕に呼びかけていた。その呼びかけに応えてやりたいと思った。忘れていたシャッターをあわてて押すと、絵里が嬉しそうにうなずいた。僕はアングルを変えた絵里の写真をたて続けに撮った。
1時間ほどで日御碕を引きあげることにした。記念写真をとるために、坂田がバッグから三脚をとりだし、傾斜している岩の上にセットした。日ざしに輝く灯台を背にして、僕たちはカメラに向かった。すでに大きく傾いた太陽が、僕たちをまぶしく照らした。
夕日にきらめく穏やかな海を見ながら、海沿いの道を大社町へ向った。
「夕日が海に沈むところ、私はまだ見たことがないのよ。どんなふうに沈むのか見てみたいな」
絵里の言葉にだれもが同意した。日が沈むまでにはまだ時間があったので、それまでにホテルを確保しておくことにした。
出雲大社の前をふたたび素通りし、大きな鳥居に向かって行くと、神社から数百メートルの所に宿が見つかった。出雲大社の町に似つかわしい、古風な趣きのある旅館だった。
食事の時間などを確認しておいてから、あわただしく車に乗り込んで海岸へ向かった。海辺の近くの道に車を置いて、僕たちは砂浜に入った。日御碕の一帯は岩であったが、出雲大社の海岸は砂浜だった。砂浜はゆるやかな弧を描いて南西に延びていた。
砂の表面がひときわきれいな場所を見つけて、僕たちは腰をおろした。
水平線の上で輝く太陽は絶対的な存在だった。太陽はあたかも自らを荘厳するかのように、周囲の雲と海の面を鮮やかに彩り、視界のすべてを夕映えで染めあげていた。
オレンジ色の輝きは、赤みを増しながら降りてゆき、ついに水平線に接した。
太陽は水平線に溶けこむように形をくずしながら、思わぬ速さで沈みはじめた。華やかな入日の儀式に見とれているうちに、太陽はあっさりと姿を消した。
主役の消えた舞台には、華麗な飾りつけがまだ残っていたが、その光景は淋しさにも似た感情をもたらした。刻々と色調を変える夕焼け空が、甘美でしかも憂いをおびた音楽を想わせた。
「こんどの旅行で一番良かったのは、今日の夕日とこの景色だわ。いつまでも忘れないような気がする、体の中まで染められるような夕焼け空と、沈んでいったあの太陽」
旅行がまだ終わっていないにもかかわらず、絵里が口にした感想に、僕たちは共感の声をもらした。
「太陽があんな速さで沈むなんて、考えたこともなかったわね」掌から砂をこぼしながら綾子が言った。
「昼間だって同じ速さで動いてるんだよな。太陽があんな速さでおれ達の上を通り過ぎたら、その一日が終わるというわけだ。こういうのを見ると実感できるよな、光陰矢の如しというけど」
「光陰の光は太陽で、陰は月のことですよね。月が海に沈むときはどんなふうに見えるのかしらね」
坂田と綾子の会話を耳にしながら、僕は横にならんでいる絵里を見た。絵里は太陽が隠れたあたりに顔を向けていた。体を寄せれば触れそうなところに絵里の腕があった。夕映えに染まっているその横顔を見ていると、絵里がまつげを一瞬ふるわせた。絵里がそっと首をまわして僕を見た。その眼にはいつもの微笑みがなかった。僕を見つめたその瞳が、絵里の想いを伝えてきた。その眼ざしが伝えたものを、そのとき僕はそのまま受け入れた。佳子は心の奥に隠れてしまい、僕にはその姿が見えなくなった。
胸をときめかせながら水平線に眼をやると、姿を隠した太陽がまだその存在を誇示しているかのように、夕焼雲に金色の輝きをそえていた。夕映えの華麗な色彩はかげりはじめていたが、その光景を僕は心を浮きたたせながら眺めた。
辺りは少しづつ暗くなったが、僕たちは腰をおろしたまま話し続けた。
「俺のおふくろのこと、昨日も話したけどさ、この先なんだよ、おふくろの故郷は」
母が生まれ育ったふるさとは、その海辺のはるか彼方にあった。
「昔はこの地方の中学校が、この大社町にあったんだ。昔のその中学校に通うために、俺のおじいさんは、砂浜の向こうの端あたりからここまで砂浜を歩いたそうだよ」
「昔っていつごろのことですか」綾子が聞いた。
「そうだな」およその見当で僕は答えた。「いまから六十年くらい前のことだな。大正時代が終わる頃だったそうだから」
「ずいぶん苦労したのね、昔は車がなかったから」と絵里が言った。
「出雲大社の祭りの時には、お参りするためにここまで歩いたそうだよ。いちばんの近道だから」
「大変よね、あんなに遠い所から、こんな砂の上を歩いて来るなんて。もしかしたら、神様に願いを叶えてもらうためには、そんなふうに苦労してお参りした方がいいのかな」
「そうよ、アヤちゃん。明日お参りするときは、せめて旅館からでも歩かなくちゃ」明るい声で絵里が応じた。
「神様はお見通しだぜ、絵里、そんなみえすいた考えなんてさ」坂田がちゃかすように言った。「車の時代の人間はだよ、それなりの誠意をもって参拝すればいいんだよ」
さきほどからの絵里の声には、はずむような響きがあった。絵里の心のうちを推しはかりながら、僕は夕焼けの名残の空をながめた。