「そりゃあわかるよ。ガクが喋ってくれないから、私が一人で必死に喋ってるのに、露骨に呆れた顔して聞いてたもん。ちょっと傷ついたんだよ」
 そうだったのか、と意外に思う。あの時はただ、話すのが好きなだけだと思っていた。
「でも、最後に笑ってくれたの、嬉しかった」
 心が五年前にさかのぼってゆく。あの時、優衣が積極的に近づいてきてくれなかったら、こんなふうに一緒にいて、満ち足りた気持ちになることもなかった。いつの間にか隣にいるのが当たり前になっていた。誰かが隣にいる心地よさを、優衣が教えてくれた。
「ありがとうな」
 感謝の言葉が口をついて出ていた。何に対しての感謝なのか、詳しくは言わなかったけど、優衣は全部わかっているように微笑んだ。
「ねえ、今日はカメラ持ってきてないの?」
「持ってきてるわけないだろ」
「えー、残念。撮ってもらおうと思ったのに」
 そう言う優衣はあまり残念そうでもなく、枝だけの桜の木を見上げる。
「この子が産まれる頃には、この桜も満開かな」
 予定日は三月だ。産まれて落ち着いた頃には綺麗に咲いているだろう。あの日のように。
「その頃にまた来ようね。子供も連れて、みんなで一緒に」
 さあっと風が吹いて、優衣の髪を舞い上げる。長くて綺麗な髪を押さえながら、優衣が振り向いた。
「私のこと、ここでキレイに撮ってね、ガク」
 微笑む優衣はとても綺麗で、カメラを持ってこなかったことを、少し後悔した。

 東京に戻ってすぐ、優衣は退学の手続きをした。とりあえずの荷物だけを持って、俺のアパートに引っ越してくる。何度も泊まりに来ていたおかげで勝手は俺より分かっているくらいで、二人暮らしは問題なく始まった。
 籍は十月の優衣の誕生日に入れた。仕事帰りの俺を待って、二人で区役所へ向かう。夜間受付なんて初めて行ったけど、思ったよりあっさりしていて拍子抜けした。それでも、担当職員のおめでとうございます、という言葉に、夫婦になったんだな、と実感する。
 仕事は相変わらず忙しかったけど、なるべく優衣と一緒に過ごすようにした。優衣のお気に入りの出窓の下で、二人で空を眺めながら、優衣が買ってきたお揃いのカップを傾けるのが日課だった。俺は甘ったるいコーヒー、優衣はホットミルク。他愛もない話をしながら、時折赤ん坊が動くのを感じて笑いあう。