「写真の存在なんて、正直今まで忘れてましたけど。やっぱり強く印象に残ったものって、どこかに引っかかってるんですね」
びっくりしたけれど、あの時私を救ってくれたのが桐原さんが撮った写真だったなんて。神様が糸を繋いでくれたような、運命的なものを感じる。
「誰が撮ったものかなんて全然知らなかったけど、わかって嬉しいです。ありがとうございました」
「いや、礼を言われるようなことしてないし」
「ううん、この写真に出会えなかったら、今でもちゃんと悲しむことができないままだっかもしれないから。やっぱり、桐原さんのおかげです」
笑みがこぼれる私から、桐原さんは視線を逸らし、どこか遠くを見るように視線を宙に向けた。あまり嬉しそうではなく、どちらかというと沈んだ表情を浮かべる。
どうしてそんな顔をするのだろう。なんだか悲しみを無理に押し込めているような、寂し気な顔。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「なに?」
「この写真、どこを写したものなんですか?」
なんの変哲もない窓の写真なのに、どうしてこんな気持ちになるんだろう、と見た時は不思議だった。そして思ったのだ。
もしかしたらこの写真を撮った人も、悲しみの中にいたのかもしれない、と。
「海外に行く前に住んでたアパートだよ。……そうだな、これを撮った時、俺も同じような気持ちだった」
私の心を読んだかのように、桐原さんが呟いた。
「大事なものをなくしたあとだったから」
その表情を見て、なんでこんなこと聞いちゃったんだろう、と後悔した。
痛いのを堪えているような、見ていて辛くなるような微笑みだった。
本人が分かっていなさそうなのがさらに辛い。あの時の私も、こんな顔をしてたんだろうか。
何を失くしたんだろう。今でもそんな顔をするくらい、大事なもの。
「もう一個だけ、変な質問していいですか?」
やめておけばいいのに、私の口が勝手に動き出す。
「うん?」
「どうして、ニューヨークに行ったんですか?」
容子さんから聞いた話。真相は全然違う気がする。
私の表情を見た桐原さんは、何かに気付いたようだった。
「もしかして、ようちゃんからなにか聞いた?」
「恋人から逃げるためだったって噂があるって」
桐原さんが苦笑する。
「なんでそんな話になるんだろう」
「本人が、それらしいことを言ってたって」
「俺、そんなこと言ったかな」
心底不思議そうに首をかしげ、それからああ、となにか思い出したように頷いた。
「確かに、逃げるためだ、とは言ったかも。その時の自分から、っていう意味だったんだけど」
それから、冷めちゃったね、と言って、半分飲みかけだった私のカップを持って、また奥に下がってしまった。これ以上、何も話すつもりはないよ、とでも言いたげに。
何を……誰を。なくしたんだろう。
時間が経っても忘れることができないような、大切な、大切な、もの。
知りたい、と思った。桐原さんの心の中を。
過去を。
どんな別れを経験してきたのかを。
◆
もう遅くなったし、送るよ、と言うと、彼女はそんなに遠くないから大丈夫、と断った。
「この辺外灯が少なくて危ないから。家を知られるのが嫌なら途中まででいいし」
「そういうわけじゃないですけど、いつも夜に一人でコンビニとか行くし」
「今日みたいな泣いたあとの顔で、一人でフラフラしてたら、襲ってくださいって言ってるようなもんだよ」
この子は少し無防備すぎる。いつかひどい男にひっかかって、騙されそうで心配になる。
彼女は、う、と言葉につまり、じゃあお願いします、と小さな声で言った。
ほんとに近いから、と車は遠慮されたので、連れ立って二人で歩く。今回は少しだけ彼女が前を行った。さっき、少し強引に会話を終わらせてから、彼女の口数が減った気がする。いろいろ聞きたいことはあるけれど、聞けない、ってところだろうか。つくづくわかりやすい子だな、と思う。
「家は実家?」
こちらから話を振ると、どことなくほっとしたように表情が和らいだ。
「ううん、今は一人暮らしです。お父さん、私が大学に入るときに再婚したから、私は家を出ることにしたんです」
これはあまり突っ込まない方がいい話題なのかな、と少し迷うと、気配を察してか慌てて付け足した。
「べつに居づらかったわけじゃないですよ、相手の人もすごくいい人だし。でも、やっぱりお母さん、って素直に呼べなくて。無理して一緒に暮らさなくてもいい、って言ってくれたし、私も新婚の邪魔はしたくなかったので」
今でもご飯食べにちょくちょく帰ってます、と笑う。
「桐原さんはご実家はどこなんですか?」
「実家、っていうものはない、かな。俺の両親、ガキの頃に死んでるから」
え、と今度は彼女の方がすまなそうに顔を曇らせた。
「俺もそんなにひどい思いしたわけじゃないよ。引き取ってくれた親戚の家でも、本当の家族みたいに接してもらったし」
それでも、そこは実家とは言わないだろう。高校を出て働き始めてからは、ほとんど連絡は取っていない。
「ひとりでいるのも慣れてたし。どっちかというと誰かといるより、ひとりでカメラを構えてる方が楽しかった」
「小さい頃から、写真を撮るのが好きだったんですか?」
「俺が、というか親父の趣味で。子供用のカメラを買ってもらって、海とか山とかよく一緒に撮りに行ったよ」
小学四年の時に事故で母が亡くなり、あとを追うように父も一ヶ月後に死んだ。心臓の発作で突然倒れたらしいけど、それまでなんの病気もしてこなかった人が母が死んで急に倒れるなんて、なんて仲のいい夫婦なんだ、と子供ながらに皮肉げに思ったものだ。
突然ひとりぼっちになった俺は、父の妹の家に引き取られた。叔母は自分の子供と同じように接してくれたし、両親がきちんと保険に入ってくれていたおかげで、そこまで肩身の狭い思いはしなかった。それでもやはりひとりだけ異質なものだという自覚はあった。遠慮もあったし、なるべくひとりでいるように意識していたところもあったかもしれない。大学まで行け、という叔母の言葉にも逆らった。早く好きな仕事で食っていけるようになりたかったし、誰にも頼らないで生きていけるようになりたかった。
高校の時にバイトしていた写真館の店主の息子が沢木さんだ。当時東京のスタジオでバリバリ活躍していた沢木さんの口利きで、俺も卒業後にそこで使ってもらうことができた。
「東京にいたんですか?」
「うん。二年くらいしかいなかったけど」
東京へ行って、ニューヨークへ行って。我ながら贅沢な経験をさせてもらってるな、と思う。全部沢木さんのおかげで、だからいつまでたってもあの人には頭があがらない。
「なんだか羨ましいです。幸せですね、自分の好きなことを思い切りやれるって」
それは本当にその通りだと思う。選びようがないまま流されることもあったけど、その時々で導いてくれる人がいて、いまこうやって自由にやらせてもらえている。自分は幸運だ。
「日南子ちゃんだって、今やりたいこと好きなだけやればいい。先のことなんて、案外どうとでもなるよ。いつか後悔しないように」
何かを永遠に失ったあと、それに対して悔やんだって、取り返しはつかないから。
「はい」
素直に頷く彼女は、例えなにか困難にぶつかったとしても、きっと真っ直ぐに向かっていくんだろう。
ここです、と彼女が指し示したアパートは、事務所から本当に近くて、ゆっくり歩いてきたけれど十分もかからなかった。今日コンビニで出会ったのがすごい偶然だと思っていたけど、案外ほかにもすれ違ったりしていたのかもしれない。
「送っていただいてありがとうございました」
丁寧に頭を下げる彼女に、じゃあね、と手を振り踵を返すと、あの、と呼び止められた。
真剣な目でこちらを見ている。
「また、写真見に行ってもいいですか?」
どう返事をするか一瞬迷った。これ以上、彼女に関わるのは怖いような気がする。だけどそれと同じくらい、また会いたい気もする。
「いいよ。いつもいるわけじゃないから、来ても留守かもしれないけど」
「いなかったら、何回でも出直します」
真っ直ぐに見返してくる、その目に、射抜かれる。
「……待ってる」
その目から逃れるように、今度こそ振り返ることなく歩き出した。彼女の視線が追って来るのを感じながら、自然と早足になった。
あの目で真っ直ぐぶつかってこられたら、俺はどうするだろう。何度も何度も、躱し続けることはできるんだろうか。もし、躱しきれなかったら? あの目に、捕らわれてしまったら?
想像しかけて、早々にやめた。
考えるだけ無駄だ。どうなるかなんてわかりたくもない。
もう二度と、誰かの人生に深く関わることなんて、したくなかった。
※
「写真、撮ってるの?」
一人でふらりと川沿いまで歩き、桜にカメラを向けていた時、ふいに後ろから声をかけられた。
明るいパステルピンクのワンピースを着た女の子が、興味深そうに俺の手の中のカメラを見つめていた。
「おんなじクラスの、桐原くん、だよね?」
「……中屋、さん」
声をかけたものの自信がなかったのか、彼女はよかった、と少しほっとしたように笑った。
彼女のほうはうちの高校の有名人だった。入学式の時に、美人のしかも双子がいる、と男子の中でかなり騒がれていた。しっかりもののクールな姉と、ふわっとした少し天然気味の妹は、雰囲気は違えど造作はほとんど一緒で、見た目では微妙な髪の長さの違いでしか判別できない。
同じクラスということは、これは妹の方だろうか。
「後ろから見てて、なんか見たことある人だなあって思ったの。ね、それすごいね、自分のなの?」
コンパクトなデジタルカメラはだいぶん普及したけれど、こんなでかい一眼レフは、普通の高校生はあまり目にすることはないだろう。しかもかなりの年代物。
「元は親父のだけど。貰ったんだ」
貰った、というか遺された、というか。彼女がどれだけ俺の家庭の事情を知っているかはわからないけれど、自分からいちいち説明するものでもない。
「そうなんだ。かっこいいね、すごい本格的」
すごい、すごいと連発しながら、カメラを眺めまわし、持ってみたい、と言い出した。
「いいけど」
落とすなよ、とカメラを渡すと、恐る恐るという感じで両手で受け取った。
「けっこう重いんだね。すごーい」
楽しそうにカメラをひっくり返したり、撫で回したりしている。
……よくこんなに楽しそうにできるな。
人付き合いがそんなに得意じゃない俺には、同じクラスだというだけでほとんど話したこともない人間に、にこにこ話しかけてくる気持ちが理解できない。微妙な知り合いの姿を見かけたら即立ち去るし、正直今も居心地が悪かった。だけど彼女はそんな俺のことなどお構いなしで、カメラに夢中だ。あろうことか、撮ってみたい、と言い出した。
「いいけど、どんなのが撮れたかなんて、現像しないと見れないよ?」
フィルムのカメラはデジカメと違って、その場で画面を見て確認なんてことはできない。しかも古ぼけたこいつは扱い方も難しくて、慣れない人が撮ったったら確実にボケるかブレるかして何を撮ったかわからなくなる。俺も始めの頃はずっとそんな感じで、必死で勉強して練習して、やっとちゃんと撮れるようになったのだ。
「いいよ、出来上がるまで楽しみに待ってる」
ということは、現像して持って来い、ってことか?
「ねえ、どうすればいいの?」
まあ、いいか、と簡単に思った。珍しいおもちゃで遊んでみたいだけだろう。写真のことなんてすぐ忘れるだろうし、とりあえずシャッターを押せば写真は撮れる。
「ここ、覗いて。シャッターはこれ。押せばいいから」
面倒な説明は全部省いた。どうせ理解できるとも思えない。
そんな適当な説明に気づかず、彼女は真剣な顔でカメラを構えると、桜の花に向かってファインダーを覗き込む。えい、という掛け声付きでシャッターを押した。
「これで撮れた?」
撮れた。なにかしら物体は写ってるだろう。頷いてみせると、ありがとう、と嬉しそうに笑ってカメラを寄こす。
「桐原君の家、ここの近所なの?」
「近くもないけど」
「そうなの? うちは近くなの。毎年ここの桜、咲くの楽しみにしてるんだ。家族みんなでお花見するの。理恵と二人で来たりするんだよ。あ、理恵、わかる? 三組の」
彼女は一人で楽しそうに話し続けた。俺の愛想のかけらもない返事なんて、一向に気にしていないようだった。天然、って噂、本当なんだな、と勝手に納得する。
「明日、雨らしいから、もう全部散っちゃうなあって思って見納めに来たの。満開の時もいいけど、このくらいの散り際も綺麗だよね、ふわーって花びらが風に舞って」
しゅんとしたりうっとりしたり、くるくる表情が変わる。
風が吹いて飛んできた花びらを、追いかけようと彼女が手を伸ばして、捕まえられず宙をかいた。口を開けて、一心に花びらを目で追う姿はなんだか子供みたいで、思わず小さく笑ってしまった。
笑われた気配に気がついて、彼女がこちらを振り返る。
「あ、笑った」
ごめん、と謝ると、ううん、となぜか嬉しそうにする。
「笑ったところ、あんまり見たことないから貴重だなあって思って。もっと笑えばいいのに」
何が嬉しいのかニコニコしている。周りから無愛想だと言われるのは事実だけど、今初めて話したような相手にそんなことを言われると思わなかった。
「だってもったいないよ。笑ったらかっこいいのに」
そんなこと面と向かって言われても返答に困る。
「あ、でもやっぱりそのままでいいかなあ」
ふふっ、と彼女は微笑んだ。
「私だけが知ってる方が嬉しい」
耳が赤くなったのが自分でもわかった。可愛いことで有名な彼女に、なんでこんなこと言われてるんだろう。そりゃ褒められて嬉しいけど、変な風に勘違いしそうになる。
「あ、赤くなった」
また楽しそうに笑って、俺に向かって手を伸ばしてきた。驚いて身を引くと、その手は俺の髪に伸びて、花びらを摘んでいた。
「ついてたよ」
ふうっと息を吹きかけて飛ばすその姿は、なんだか少し艶かしくて。
天然なのか、わざとなのか、わざとなら何の意味があるのか。
真意がわからなくて混乱しかけた俺をよそに、写真できたら教えてね、と言って彼女は去っていった。ひらひら手を振りながら。
なんなんだ。なんなんだ一体。
彼女の後ろ姿を見ながら、俺はしばらくその場でバカみたいに突っ立っていた。
次の日から、彼女がよく話しかけてくるようになった。他愛もない話に彼女はよく笑い、つられるように俺も笑った。初めのうちは周りに冷やかされたりするのが面倒だったけど、徐々にそれもなくなっていき、俺の目が自然に彼女を追うようになった頃、彼女から告白された。
中屋、から自然に名前で呼ぶようになった。
優衣、と。
彼女はいつも、名前を呼ぶと、少し照れたようにはにかんだ。
優衣と付き合い始めてから、双子の姉の理恵とも話をするようになった。見慣れてしまえば二人は全然違っていて、同じ服を着て同じ髪型をしていても、見分けられる自信がある。理恵とも仲良くなった頃、優衣には内緒、と言ってこっそり教えてくれた。
「あの子、多分ガクに一目惚れしたのよ。入学式の日から、違うクラスの私でも気付くくらいいつも見てたもん。ほんとわかりやすいよね」
理恵も優衣も、俺のことを下の名前で呼んだ。でもやっぱり声にも性格が出るのか、理恵が呼ぶとさっぱりした響きになるのに、優衣が呼ぶと柔らかく響いた。
優衣があの日撮った桜の写真は、当然ながらピンボケで、渡した時、彼女はひどく落ち込んだ。付き合うようになってから、ちゃんと説明しなかったことを明かすと、思い切り拗ねて、丸一日無視された。今度きちんと教えてあげるから、と俺にしては必死で謝って、ようやく許してもらった。
一台のカメラを交互に譲り合って、二人でよく写真を撮った。彼女が撮った写真を見るのは、自分とはまた違った感性があって新鮮で、面白かった。俺が優衣を撮ることもあって、彼女が笑う、その姿を何度でも焼き付けたくて、夢中でシャッターを切った。
高三になって、俺が東京で就職する、と言うと、彼女と大喧嘩になった。
優衣の家はお父さんが厳しい人で、当然のように地元の大学に進学しろ、と言われていた。優衣も、俺が就職するつもりなのは知っていたけど、バイト先の写真館でそのまま社員になると思っていたらしい。
沢木さんから東京行きの話をもらったとき、俺は一も二もなく飛びついた。優衣と遠距離になることも一瞬頭をよぎったけど、それよりも、新しい世界を見てみたい気持ちの方が何倍も強かった。優衣も理解してくれると勝手に思いこんでいた。
離れ離れになっても平気なの、と彼女は泣きながら俺を詰った。
『私のことなんて、全然大事に思ってない。ガクは写真が撮れれば、ほかのことはどうだっていいんでしょ』
ふだんおっとりとした彼女のどこにこんなに激しい感情が眠っていたのかと驚くくらい、すごい剣幕で怒りをぶつけられて、俺はようやく優衣の気持ちを全く無視してしまっていた事に気がついた。
事の経緯を知った理恵が俺に行った。
「ガクはこれからのことどう考えてるの?」
正直、その時点で二人の将来を具体的に考えるのは難しかった。だけど、いつか自分の腕で生きていけるようになった時、優衣に隣にいて欲しかった。
俺から逃げ回る優衣を理恵が説得してくれて、二人で話し合った。俺が自分の気持ちを正直に伝えると、優衣は東京に進学することを決めた。
優衣はカンカンに怒ったお父さんを理恵と二人でなんとか説き伏せ、東京の大学を受験した。なんとか第一志望に受かって、晴れて二人で東京に行けるのが決まった時は、抱き合って喜んだ。
未来は明るく開けていると思った。新しい世界は少し怖くもあるけれど、そばに優衣がいてくれれば大丈夫だと思ったし、なんでも乗り越えられると思った。
ずっとこのまま一緒にいて、いつか家族になって、ともに年老いていくのだと、信じて疑いもしなかった。
◇
桐原さんの事務所に行った日から数日後、今度は中屋さんから電話がかかってきた。容子さんから電話番号を聞いたそうだ。知らない番号からだったし無視しようかな、と思ったけど、出てみて正解だった。
『単刀直入に聞くけど、うちの雑誌の読者モデル、してみない?』
「読者モデル、ですか?」
『そう。別にファッション誌のモデルみたいに本格的なものじゃないの。飲食店の特集なら食べてるところの写真撮ったり、旅行の特集なら実際に行って遊んでるところを撮ったり。ほとんどの子が気楽にやってるわ』
「なんで私に?」
『容子ちゃんにも聞いたと思うけど、サロン特集のあなた、すごく評判良かったのよ。それでうちの編集長が気に入っちゃって。もちろん私も、あなたはモデル向きだと思う。興味あったらバイト感覚でやってみない?』
面白そう、だとは思うけど、この前の撮影であれだけ緊張しまくった私に、果たして務まるんだろうか。
『撮影の雰囲気は、この前と同じよ。スタッフも気さくな人ばっかりだから、気負わなくていいわ。……あと』
言おうか言うまいか迷うような間が一瞬空いた。
『ガクもよく撮影で入るわよ』
「やります」
即答した私がよほどおかしかったのか、電話の向こうで中屋さんが盛大に笑った。
『そんな隠す気ゼロでいいのかしら? もうちょっと恥ずかしがり屋さんだと思ってたわ』
「だってもう、編集部中にバレてるんですよね? 今更取り繕ったってかえって恥ずかしいです。それに……」
『それに?』
「ちゃんと近づきたいんです、私。桐原さんに」
本気の気持ちが伝わったのか、中屋さんが笑いをひっこめた。
『容子ちゃんから、いろいろ聞いたのよね?』
「はい。あと、桐原さん本人から」
『ガクから? 何を?』
中屋さんが意外そうな声を出した。
一瞬話していいのかためらったけど、中屋さんは何でも知っている気がした。
「大事なものをなくして、その時の自分から逃げるためにニューヨークに行ったんだって」
桐原さんの話を総合すると、そういうことだよね。
『いつの間にそんな話したのかしら』
「この前、偶然コンビニで会ったんです。で、桐原さんの事務所に押しかけました。ちょっと図々しいかなとは思ったんですけど」
『よくそこまで聞き出せたわね。そんな話、あの人滅多にしないのよ?』
「なんか話の流れで……あ、私が泣き出しちゃったせいかな」
『泣いた?』
「別に泣かされたわけじゃないですよ」
あの時の状況をかいつまんで話す。
『その写真って、あのなんにもないアパートの中の写真ね?』
「そうです」
どうやら中屋さんはあの写真がどういうものかも知っているらしい。
そう、そっか、と呟いて、少し沈黙が流れた。
『あなたは、ガクの話を聞いて、それでももっと近づきたいと思ったのよね?』
「はい」
『あの人、誰かと本気で向き合う気はないわよ?』
「それは容子さんからも聞きました。でも、そんなのってやだな、って思っちゃったんです。……普通、大事なものをなくしたすぐあとってすごく悲しいけど、どんどん悲しいのって薄らいでいくじゃないですか。ないのが当たり前になって、思い浮かべることも少なくなって、それである時、ああ、そういえばあんなのあったなあ、って懐かしく思い出すようになって。でも、そうやって思い出す時って、なくした時の悲しい気持ちより持ってた時の嬉しい気持ちの方が大きいと思うんです。でも、桐原さんはそうじゃなくて、まだなくした直後の悲しい気持ちのままのような気がして。何年も経ったのにそのままで、もしかしたら死ぬまでその悲しい気持ちのまんまかもしれなくて、そんなの桐原さんも辛いし、なくしたものにとってもかわいそうじゃないですか」
考えが纏まらないまま話し出したせいで、頭の中がごちゃごちゃになって、なにを言ってるのか途中で自分でもわからなくなってきた。それでも中屋さんは静かに話を聞いてくれる。
「悲しい気持ちから抜け出せなかったら、新しく大事なものを作ろうなんて思えないですよね。だから、せめて知りたいって思ったんです。どんななくし方をしたら、そんなふうになっちゃうのか」
『それを知ることができたら、あなたがガクを、その悲しい気持ちとやらから引きずり出すことができると思う?』
「……わかりません」
偉そうに語ったくせに、それを聞かれると途端に自信がなくなる。そんな方法わからないし、そもそも私がそれだけ強く彼に影響を与えられると思えない。
「でも、私は桐原さんの写真に、苦しい気持ちから助けてもらったんです」
できるかできないかわからない。でも、同じことを、今度は私が返してあげたかった。
『あなたのこと、少し見くびってたかも。意外と強いのね。あなたなら、あのわからず屋を変えることができるかもしれないわ』
電話の向こうで、かすかに中屋さんが微笑んだような気がした。