ゴクリ、と溜まった唾を飲みこむ。まさか、一緒に来るなんて。
 立ち上がりかけたまま中途半端に動きを止めた俺を見て、沢木さんが近づいてきた。俺にだけ聞こえるような小さな声で囁く。
「悪い。一回家に荷物を取りに行ったら鉢合わせちまって。連絡取ろうと思ったんだけど、携帯スタジオに忘れて来ちまった」 
 おじさんは少しだけ目を見張って俺を見ていたけど、ただ驚いているだけのようで、嫌悪や怒りは感じられない。
 どうしたらいいかわからず中腰のままだった俺を正気に戻したのは、イタタタ、と呻く理恵の声だった。はっとして、沢木さんと二人、理恵の方へ振り返る。
 沢木さんが理恵の手を握って、腰をさすった。呻きながら、理恵が少し涙が滲む目を俺に向けて、ごめん、と言った。理恵が謝ることなんて何一つないのに。
 ドアの前で動かずにいたおじさんの後ろから、また見覚えのある人影が近づいてくる。
「あなた、どうしたんですか、こんなところにぼうっと立って……」
 大きな荷物を持った理恵のお母さんがおじさんに話しかけ、俺を見て同じように目を見開いた。それでも立ち直るのは早く、おじさんの背をすり抜けてベッドに近づいてくる。
「桐原くん、よね?」
 否定的な感情ではなく、控えめな笑みを浮かべてくれていた。十年前よりももっと理恵に似ている気がする。いや、理恵が似てきたのか。
「ご無沙汰してます」
 やっと口を開いた俺を、沢木さんと理恵が不安げに見上げてくる。
「理恵に付き添ってくれてる友人って、あなただったのね」
 ありがとう、と言って笑うその顔に、葛藤みたいなものは見えなかった。まるで昔優衣の身に起こったことなんて忘れてしまったかのようで。
「元気そうで安心したわ」
 ただ単純に娘の友人に対するような接し方に、俺は内心混乱した。ひどく気分が落ち着かない。もっと邪険にされて、出て行けと責められる方がまだ理解できる。
「あなたもそんなところにいないで、入っていらっしゃいよ」
 おばさんがおじさんの方を向いて手招きした。こちらに近づいてくるおじさんの目にも、やはり負の感情は見当たらなかった。
「それじゃあ、俺はこれで」
 家族が来たんならもう用なしだ。俺がいたんじゃかえって空気が悪くなる、と思って帰ろうとすると、おじさんがやっと口を開いた。
「急いで帰らなければいけないのか?」
「いえ……」
「ならいなさい」
 まさか引き止められると思っていなくて、狼狽を隠しきれずに助けを求めるように理恵を見る。
 理恵は理恵で、意外そうに両親を見比べていたけれど、俺の視線に気づくとへなっと眉尻を下げた。
「できるなら、産まれるまでいてほしいな。この子の顔を見てほしい」
 そんなすがるような目で見るのは反則だと思った。理恵にまでそう言われて、俺は完全に帰るタイミングを逃してしまった。