「理由はね、モテそうだったから」
「え?」
「大学進学する頭もないしさ、就職するってなった時に、特にやりたいこともなくて。どうせならかっこいい仕事がいいなーって思ってたら、たまたま沢木さんのスタジオの案内が学校に来てて」
あの時は、沢木さんがお祖父さんの代からの写真館を継いで、新しくスタジオに生まれ変わらせた時で、とにかく人が足りなかった。俺も、手伝って欲しい、とニューヨークから呼び戻されたのだ。向こうでの仕事に未練がないわけではなかったけど、恩人の沢木さんの頼みだったから迷うことなく引き受けた。
「そういう軽いノリで入っちゃったらさ、結構厳しいんだよね、この世界。体力仕事だし、疲れるのなんのって」
初めは、こいつ半年ももたないんじゃないか、と思ったものだ。でも、なんだかんだ言いながら、仕事を任されるようになるまで食らいついてきた。
「写真の面白さ、みたいなものを、沢木さんとガクさんが教えてくれたんだよね。多分俺、相当ウザかったと思うんだけど、いつも嫌がらずに教えてくれて。こういう風に撮れるようになりてえ、って思ってたら、今まで続いちゃった」
こいつのいい意味での単純さが、今まで続いた理由だと思う。素直で、いいと思った物はこだわりなく受け入れることができる。そういう部分は、日南子ちゃんに似ているかもしれない。
スタジオにはあっという間に着いて、吉川の手も借りて荷物を降ろす。吉川は名残惜しそうにしながら、沢木さんのスタジオへと帰って行った。
さて。
「ちょっと寄ってく? なにもないけど」
わざわざ待っていたんだから、何か話でもあるのかもしれない。所在無さそうに隅っこに立っていた日南子ちゃんに声をかけると、彼女はほっとしたように頷いた。
遠慮がちにソファの端に座る彼女の前に、ミルク多めのコーヒーを置く。
「今日は一日お疲れさま」
「お疲れさまでした」
カップを両手でくるんで持つ彼女が、そっと口を付ける。いつも初めはゆっくり飲むので、猫舌なのかもしれない。
当たり障りのない話をしながら、彼女の様子を窺った。何か考えているのか、いつもよく動いて感情を伝える目が、今はずっと伏せられている。
もしかして、切り出しにくい話だろうか。俺はその話を、聞き出したほうがいいのか、気づかないフリをしたほうがいいのか。こちらも迷っていると、だんだんと話が途切れがちになる。
少し沈黙が続いた後で、彼女が躊躇いがちに切り出した。
「私がニューヨークで見た、あの窓辺の写真、もう一度見せてもらえませんか?」
「いいけど」
言いたかったことってこれか、となんだか拍子抜けしながら、あの写真を探す。写真が見たいだけなんだったら、もっと早く言えば良かったのに。何冊かのブックの中からあの写真を見つけ出して、彼女に渡す。
彼女はしばらく、じっと写真を見つめていた。俺にとっては痛みを伴う、彼女にとっても何かしらの感慨があるだろう、その写真。実を言えば、俺はまだきちんと直視することができない。
彼女が写真を見つめながら、おもむろにポツン、と言った。
「私、優衣さんの代わりでもいいですよ?」
「え?」
「もし、まだ優衣さんのことが忘れられなくて、それでなにか躊躇ってるんだったら、私、優衣さんの代わりでいいです」
目線は写真に向いたまま、小さな声で続ける。
「桐原さんの心のなかに、ほんのちょこっとでも私の居場所があるんなら、その他全部優衣さんで占められててもいいんです」
無言のままの俺に、ゆっくりと目を向ける。
「ちょっとでも、私のこと、好き、ですか?」
不安げな光を宿して、一言一言区切るように言った。
俺の曖昧な態度のせいで、また彼女に言いにくいことを言わせてしまった。ちゃんと答えなければと、心の中を必死で探った。
優衣が未だに強く心に残っているのは間違いないし、何度も彼女の姿に優衣が重なる。それでも、普段何気なく思い出すのは、日南子ちゃんの笑顔だったり、困った顔だったり、声であって、今俺の心の中を占めているのは優衣じゃない、と思った。
優衣よりももっと強く、俺の心を支配しているのは、今目の前にいる彼女だ。
「俺が今好きなのは、優衣じゃなくて君だよ」
優衣の身代わりとしてではなくて、日南子ちゃん自身が、欲しい。
「え……?」
引き結ばれていた彼女の口元が緩んで、吐息混じりの声が漏れる。瞳の中に揺れていた不安が、徐々に薄くなっていく。一度目を伏せると、意を決したように俺の隣に移動してきた。俯いたままで、ぎゅ、と俺の服を掴む。
もう、触れてもいいだろうか。
柔らかな髪を撫でると、彼女はそのまま俺に体を預けてきた。そっと腕の中に抱き込むと、遠慮がちに背中に手を回してくる。
頬に触れると、ぴく、と体が震えた。少し力を入れて上向かせると、おずおずと目線をあげて俺を見る。そのぎこちなさが、愛おしく思った。
目が合って、それから彼女はゆるゆると目を閉じた。それを合図に、ゆっくりと顔を近づける。もう少しで唇が重なる、その距離で、どこかから声が聞こえた。
――ガク。
甘い、幸せそうな優衣の声。
どうしてこんな時にばかり、そんな声で俺を呼ぶ?
ぴたりと動きを止めてしまった俺に戸惑って、日南子ちゃんが目を開けた。
「桐原さん?」
また、重なる。優衣の顔が、少し不思議そうに首をかしげて、それから仕方ないなあ、と笑って……。
――ガク?
「ごめん」
顔を背けて、抱きしめていた体を離した。彼女の方を向けなくて、立ち上がって背を向ける。
「あ……」
一瞬目に入った、日南子ちゃんの泣き出しそうな表情が、俺の心を責め立てる。
最低だ。期待させるだけさせて、すぐに裏切った。
「わ、私こそ、すみません、その……」
帰ります、と小さな声で言って、ばたばたと荷物をまとめる音がする。立ち上がって、大慌てで出ていくのを、背中を向けたまま気配だけで感じていた。
バタン、と扉が閉まるのと同時に、ズルズルとその場に座り込む。
何をやっているんだろう、俺は……。
何がこんなに俺を躊躇わせるんだろう。今触れたいと思うのは、日南子ちゃんだけだ。優衣はもういないこともちゃんとわかっていて、今更求めたりなんかしていないのに、なんでいつまでも優衣の姿がちらつく?
彼女だけは傷つけたくないとあんなに思っていたのに、現実はこのざまだ。戸惑いと、驚きと、悲しみが入り混じった彼女の顔が、脳裏に焼きついて離れない。あんな顔、絶対させたくなかったのに。
彼女を傷つけたという事実が、その倍の威力を持って俺に跳ね返ってくる。もう、彼女に近づくのが怖い。何もなかったことにして、このまま逃げてしまいたい。
十年前と、なにも変わっていなかった。変わったのは、その情けなさを隠す狡さと器用さが身に付いただけだった。
◇
その日の夜から、雪が降り始めた。すでに塵のような初雪は何日か前に降っていたけど、今回は長い間降り続いたので、きっと朝には積もるだろう。静かに舞い落ちてくる白の結晶がなんだかすごくキレイに見えて、暖房もつけずに窓を開けて見ていたら、翌朝熱を出してしまった。
思ったより高熱で、一人じゃ心細くなって実家に電話をしたら、ちょうどお休みだったお父さんがすぐに迎えに来た。そのまま病院に連れて行かれて、その後は実家の私の部屋のベッドに押し込まれる。
「もう雪なんて見飽きてるでしょうに。どうして風邪をひくまで寒いところで我慢したの?」
呆れ気味に言いながら、麻衣子さんがお粥を乗せたお盆を持って部屋に入ってくる。
お父さんの再婚相手の麻衣子さんは、お父さんと一回り年が離れていて、お母さんというよりお姉ちゃんという感覚だ。はきはきした美人で、何が良くてお父さんと結婚したんだろう、と常々疑問を抱いている。
薬のおかげで、だいぶん体は楽になった。卵の餡がかけられたお粥の匂いが鼻をくすぐる。お盆を受け取って、少し口に入れると、優しい塩気が染み渡った。
しばらく私がお粥を口に運ぶのを黙って見ていた麻衣子さんが、あらかた食べ終わるのを待って、口を開いた。
「なにかあったの? ここに電話をかけてくるなんて」
今まで、体調を崩したくらいで実家に連絡することは、まずなかった。あとから風邪をひいていたことを知ったお父さんに、叱られたことがあるくらいだ。
「力になれることがあるなら、なんでも言って」
麻衣子さんはいつも、いい意味で距離を取ってくれて、無理に世話を焼こうとなんてしてこない。今まで悩み事の相談なんてしたこともないし、してくれと言われたこともない。
今の私は、そんなに弱って見えるんだろうか。
「麻衣子さんは、なんでお父さんと結婚したんですか?」
「そりゃ好きだからよ。なあに、いきなり」
私の質問の内容に驚いた様子で、だけど麻衣子さんは即答した。
「じゃあ、死んだお母さんに、嫉妬したこととかありますか?」
この質問には、すぐには答えなかった。考え込むように、目をさまよわせる。
「難しいこと聞くわね」
「ごめんなさい」
娘の私から見ても、お父さんはお母さんのことが大好きだった。見ていて恥ずかしくなるくらい仲のいい夫婦で、お母さんが死んでからも、お父さんはずっとお母さんのことを大切に思っていたと思う。きっと、今でも。
麻衣子さんという恋人を紹介された時、だからひどく驚いた。少し、ほんの少しだけ、裏切られたような気持ちになったのも事実だ。
「全く気にならない、と言えば、嘘になるわね。いまだにすごく大切な存在だってことはよく伝わるし……そうね、少し悔しく思ったことはあるわ。なんで先に私と出会ってくれなかったんだろう、って」
その気持ちは、すごく良くわかる。優衣さんより先に出会うことができていたら、こんな卑屈な思いをすることはなかったのに。
「でも、そんなもしものこと考えたって仕方ないじゃない。先に前の奥様に出会って、日南子ちゃんが産まれて、奥様を失って、そういう出来事を全部経てきた上で、今の彼がいるんだと思うし。その前に出会ってたって、好きにならなかったかもしれないわ」
いろんな思いを乗り越えてきたからこそ、今の彼がいる。そうかもしれないけど、でも。
私にはそんなふうに割り切れなかった。好きな人が自分以外の人のことを特別に思っているのは、やっぱり辛い。
納得いかない様子の私に、麻衣子さんが言った。
「私がこんなことを言えるのは、今は私のことを考えてくれているっていうのが、ちゃんと伝わるからかもしれないわ。自信があるから、寛容になれる。自信が持てなかったら、きっと辛くて一緒にいられない」
自信、か。今の私には、全くないもの。
「さあ、もう休んで。体調が悪い時にいろいろ考えたって、後ろ向きになるだけよ」
そう言って私の肩を宥めるように叩くと、お盆を持って部屋を出ていこうとする。ドアを閉める前に咄嗟に呼び止めると、なに、と振り向いた。
「変なこと聞いてごめんなさい。ありがとう」
そんな私に優しく笑って、おやすみなさい、と言ってドアを閉めた。
一人になって、もう何度考えたかわからない疑問を繰り返す。
今好きなのは、優衣さんじゃなくて、私。あんなにはっきり言ったのに。
勇気を出して、自分から近づいた。ちゃんと受け止めてくれた、初めはそう思った。でも、最後の最後に拒絶された。ごめん、なんて、そんな言葉聞きたくなかったのに。
私のことを好きだと思ってくれるなら、どうして拒絶するんだろう。受け入れてくれないんなら、好きだなんてそんな甘い言葉、かけてくれなくて良かった。好きじゃないなら、そう言ってくれればいいのだ。
私のこと、本当はどう思っているの? わからない、全然、理解できない……。
麻衣子さんの言う通り、どんどん後ろ向きになっていく。もうやめよう、とりあえず、今は風邪を治すことだけ考えよう。
電気を消して、布団をかぶる。なにも考えない、思い出さないようにしようと思うのに、彼の最後の声が頭から離れてくれなかった。
ーーごめん。
ごめん、なんて、言わないで。
熱が引いても、心配したお父さんが家にいろと言い張って聞かなかった。私も一人でいたくなかったのもあって、結局年を越すまで実家から学校に通うことになった。久しぶりに自分以外の人が作ったご飯を食べて、洗濯も掃除もしてもらって。甘やかされているのがわかって、それが心地よかった。
なにか連絡があるかもしれないといつもより携帯を気にかけて、鳴るたびに飛び付くのに、欲しい人からのメールは一向に届かなかった。私からもなにか、送ってみようと思ったけど、結局なんと送っていいいかわからなくてやめた。
なにも進展がないまま、新年を迎える。初詣に行って、麻衣子さんと一緒におせちを作って、いつもより時給があがるバイトに精を出す。去年となにも変わらないのに、なんだか心にぽかっと穴が空いたような気がした。
「なんか隠してるだろ?」
潤平くんが私の顔をじっと覗き込んで言った。
「え? なんにも隠してなんかないよ?」
「嘘つけ。ヒナが落ち込んでるのなんてバレバレなんだよ。自分が嘘つくの下手なこと、わかってないの?」
いつも通り振舞っていたつもりなのに、なんでこんなに周りに見抜かれてしまうんだろう。
「愛香が気にしてたよ。またなんか悩んでるのに、全然話してくれないって」
「悩んでなんか、ないんだけどな」
そう笑って見せるのに、潤平くんはごまかされてくれない。
「あの人と、なんかあった?」
心配そうに尋ねる潤平くんの顔を見れなくて、机の上の教科書に目を向ける。
「なんにもないよ」
どうせ嘘だってバレてるんだろうけど、今は詳しく話したくない。
「ほら、テスト近いし。今回、全部難しそうで嫌になっちゃうよね。単位落としたら三年から大変だし……」
「ヒナ?」
私のごまかしを遮って、潤平くんが名前を呼ぶ。
「言いたくないなら言わなくてもいいけど、ずっとそんなんなら俺は黙ってないから」
短い冬休みが終わって、また日常が始まっていた。一月の学校は、なんだかみんな浮き足立っているような気がする。早ければ一月の半ばから試験が始まって、すぐに長い春休みへと突入だ。春休みと夏休みの長さは、大学生の特権だ。
テストが近いのも全部難しそうなのも落とすとまずいことも全部本当で、私は試験が終わるまで、一旦全て棚上げしようと決めた。家に帰ってもほとんど机に向かっていたし、学校でも空き時間は図書館に籠っていた。
携帯は、いつも傍らに置いてあった。初めは気になるから遠ざけようとしたけれど、近くにないとそっちのほうがそわそわすることに気がついて、諦めていつも手が届くところに置くことにした。
桐原さんからの連絡は、まだない。
今はテストという逃げ場所があるからいいけど、春休みに入ったら、何かしらの答えは出さなきゃ、とは思う。今のまま自然に離れていくのだけは嫌だし、リサさんのショーの時にはすっきりした気持ちで会いたかった。
やっぱり、春休みになったらちゃんと話をしに行こう。気まずくても、ずっと一人でモヤモヤしてるよりずっといい。
そう決めると、少しだけ心が軽くなったような気がした。
◆
『もう一度ちゃんと話がしたいので、次の金曜日の夜にお時間いただけませんか?』
日南子ちゃんからではないのはわかっていたのに、その文面を見て、一瞬どきりとする。
美咲ちゃんからのメールだった。八月の出来事があって以来、初めての連絡で、俺もきちんとこれまでのことを謝りたいと思っていたので、了解の返事を送る。
あの日から、日南子ちゃんのことは考えないようにしていた。でも、考えまい、考えまいと思えば思うほど、最後の情景が強く浮かんでくる。
不思議なことに、優衣のことはほとんど思い浮かばなかった。ただ、日南子ちゃんのあの泣き出しそうな顔だけが、ひたすら頭の中を回っていた。
あの後、彼女は泣いたんだろうか。
勝手な想像だけど、何故か泣いていないような気がした。そうだといいな、というただの願望かもしれないけど。
彼女に謝りたいと思うけど、どう謝ればいいのかわからない。そもそも自分は彼女のことをどう思っているのか、それさえ曖昧になってきた。好きだと言った、あの時は本気でそう思ったのに、今はその気持ちにすら自信がない。
何度も電話をかけようとして、発信できないまま表示を消す。それをずっと繰り返していた。
彼女の写真に向かい合うのは苦痛を伴う作業で、結局、最低限の処理をしただけで、ほとんど手を加えないまま鈴木さんに渡してしまった。写り込む彼女の想いと、自分の感情を直視できなかった。
美咲ちゃんが指定したのは、駅の近くのカフェバーだった。夜遅くまで営業していて、夜はアルコールも飲めるようになっていて、使い勝手がいいからかいつも人はそこそこ入っていた。
少し時間に遅れて行くと、美咲ちゃんが入口から見える席に座っていた。先に彼女が俺に気がついて、小さく手を振る。近づくと、彼女の足元の大きな荷物に目がいった。
席に着くと、すぐに店員が注文を取りに来た。車だったのでノンアルコールのドリンクを頼む。
「旅行でも行くの?」
挨拶もそこそこに質問を投げかけると、実家に帰るんです、という答えが帰ってきた。
「県外の人だっけ?」
「愛知出身です。前にも話しましたけどね」
そうだっけ、と呟く俺に、どうせ覚えてないと思いましたけどね、と諦めたように笑う。
「だから、もう会うことはないと思って。最後にきちんと謝ろうと思って、来てもらいました」
その言葉に、自分が思い違いをしていることに気付く。
「ただの帰省じゃなくて?」
「完全に引っ越します。もうこっちの部屋は引き払いました」
「そっか」
「一人でいるの、なんか疲れちゃって。親が戻って来い、って言ってくれたので、甘えちゃいました。春までのんびりして、また向こうで仕事探します」
突然のことで驚いたけど、彼女はなんだかすっきりした顔をしていた。肩の力が抜けたというか、いい感じに気負いが抜けた気がする。
注文したドリンクが来たので、改めて乾杯する。新しい生活がうまくいきますように、と願いを込めて軽くグラスをぶつける。
彼女も一口口をつけると、グラスを置いて改まって頭を下げた。
「無責任に引っ掻き回すようなことをして、すみませんでした」
「もういいよ、気にしてない。ようちゃんから少し聞いたけど、大変だったんだろ?」
顔をあげた彼女の表情は、泣きそうなんだか笑いたいんだか、中途半端に崩れていた。
「相変わらず優しいけど、それやめたほうがいいです。ちゃんと怒ってくれないと。あの子がかわいそうですよ」
「え?」
「誰にでも優しいんじゃなくて、ちゃんと一人だけ大事にしてあげてください」
誰にでも優しくしているつもりはなかったけど、それで昔、彼女も嫌な思いをしたことがあったのだろうか。
「俺も謝りたかったんだけど、昔付き合ってた時、我慢してたこと、もしかしていっぱいあった?」
俺の言葉に、彼女は少し目を見開く。
「どうしたんですか、いきなり」
「あの後反省したんだよ。昔は物分りのいい子だな、なんて勝手に思い込んでたけど、本当は無理させてたのかなって」
黙って俺をじっと見る彼女に、今度はこっちが頭を下げた。
「いろいろ、辛い思いさせてたんなら。ごめん」
口を開かない彼女の目に、突然涙が溢れ出した。
「え、あ、ごめん?」
また何か傷つけるようなことを言っただろうか。咄嗟に置いてあった紙ナプキンを渡すと、彼女はひったくるように受け取った。
「だから、そういうのダメなんですって。こんな昔ちょっと手を出しただけの女に、謝ってどうするんですか」
涙を押さえながら、なんだか怒ったように言う。
「あの時は、ちゃんと付き合ってるつもりだったけど」
「そんなの、つもり、です。私のこと好きでもなんでもなかったでしょう?」
そう言われて、言葉を返せない。
「愛されてたなんて、そんな思い上がれるほど馬鹿じゃありません。ずっと違う人見てたくせに」
「そんな風に見えた?」
優衣のことは、彼女には何も話していない。昔結婚していたことも。
「見えましたよ。私に笑いかけながら、目は私の後ろを見てた。ああ、私は身代わりなんだ、って悲しかった。でも、それでもいいと思ってたんです」
この前の日南子ちゃんと、同じことを言う。
「それって辛かった? 身代わり、って」
「辛かったですよ、当たり前じゃないですか。私以外の人のことなんて、考えて欲しくないに決まってます」
ぼろぼろ泣きながら怒る彼女を見て、ああやっぱり、無理をさせてたんだな、と思う。
そして今、日南子ちゃんにも同じ思いをさせているんだと。
「ごめん」
何度目かの謝罪の言葉に、ようやく泣き止んだ美咲ちゃんが呆れたように言った。
「だから、謝っちゃダメですって。私だって、辛かったけど、一緒に居られたら嬉しかったんです。今はもう、感謝しか残ってません」
だから、ちゃんと幸せになってください。
そう笑う彼女に、ただ笑い返すしかできなかった。