「俺が今好きなのは、優衣じゃなくて君だよ」
 優衣の身代わりとしてではなくて、日南子ちゃん自身が、欲しい。
「え……?」
 引き結ばれていた彼女の口元が緩んで、吐息混じりの声が漏れる。瞳の中に揺れていた不安が、徐々に薄くなっていく。一度目を伏せると、意を決したように俺の隣に移動してきた。俯いたままで、ぎゅ、と俺の服を掴む。
 もう、触れてもいいだろうか。
 柔らかな髪を撫でると、彼女はそのまま俺に体を預けてきた。そっと腕の中に抱き込むと、遠慮がちに背中に手を回してくる。
 頬に触れると、ぴく、と体が震えた。少し力を入れて上向かせると、おずおずと目線をあげて俺を見る。そのぎこちなさが、愛おしく思った。
 目が合って、それから彼女はゆるゆると目を閉じた。それを合図に、ゆっくりと顔を近づける。もう少しで唇が重なる、その距離で、どこかから声が聞こえた。
 ――ガク。
 甘い、幸せそうな優衣の声。
 どうしてこんな時にばかり、そんな声で俺を呼ぶ?
 ぴたりと動きを止めてしまった俺に戸惑って、日南子ちゃんが目を開けた。
「桐原さん?」
 また、重なる。優衣の顔が、少し不思議そうに首をかしげて、それから仕方ないなあ、と笑って……。
 ――ガク?
「ごめん」
 顔を背けて、抱きしめていた体を離した。彼女の方を向けなくて、立ち上がって背を向ける。
「あ……」
 一瞬目に入った、日南子ちゃんの泣き出しそうな表情が、俺の心を責め立てる。
 最低だ。期待させるだけさせて、すぐに裏切った。
「わ、私こそ、すみません、その……」
 帰ります、と小さな声で言って、ばたばたと荷物をまとめる音がする。立ち上がって、大慌てで出ていくのを、背中を向けたまま気配だけで感じていた。
 バタン、と扉が閉まるのと同時に、ズルズルとその場に座り込む。
 何をやっているんだろう、俺は……。
 何がこんなに俺を躊躇わせるんだろう。今触れたいと思うのは、日南子ちゃんだけだ。優衣はもういないこともちゃんとわかっていて、今更求めたりなんかしていないのに、なんでいつまでも優衣の姿がちらつく?
 彼女だけは傷つけたくないとあんなに思っていたのに、現実はこのざまだ。戸惑いと、驚きと、悲しみが入り混じった彼女の顔が、脳裏に焼きついて離れない。あんな顔、絶対させたくなかったのに。
 彼女を傷つけたという事実が、その倍の威力を持って俺に跳ね返ってくる。もう、彼女に近づくのが怖い。何もなかったことにして、このまま逃げてしまいたい。
 十年前と、なにも変わっていなかった。変わったのは、その情けなさを隠す狡さと器用さが身に付いただけだった。