「メインコンセプトがあって、それに沿ってテーマを決めて、チームでステージを作り上げるの。服のデザインだけじゃなくて、ヘアメイクだったり照明だったり音楽も含めてね。デザイナー一人が発表できるのは二着まで。私たちはテーマを二つ決めて、片方は圭太がメンズ、梨沙がレディスを、もう一方はその逆をデザインすることになったの」
「観客に投票してもらって、人気のあったステージは表彰されるんだ。二人とも気合入ってるんだよね」
 保志さんの言葉に、リサさんと西さんが同時に頷いて、顔を見合わせる。足引っ張んなよ、と西さんが言うと、そっちこそ、とリサさんがべーっ、と舌を出して見せた。
「ねえねえ、ヒナちゃんって呼んでいい?」
 小川さんがまんまるの目をキラキラさせて、私の隣にやって来る。
「はい、もちろん」
「じゃあ僕もそう呼ばせてもらおうかな」
 保志さんもそう言って、手近な椅子に座った。
「あ、ほっしーヒナちゃんのこと口説かないでよ? もうヒナちゃんには決まった相手がいるんだからっ」
「なんだ、彼氏持ち?」
 リサさんが誤解を招くような言い方をするから、私は慌てて否定する。
「彼氏じゃないです。私の片思いなだけで」
 ふーん、残念、と呟く保志さんは、全く残念そうじゃなかった。西さんとは正反対の、優等生然とした整った顔は、女の子にとっても人気がありそう。
「ヒナちゃん、ほっしーああ見えて手が早いから、気をつけて」
 こそっと耳打ちしてくれたけど、保志さんには筒抜けで。
「誰でもいいわけじゃないよ。僕はもっと気が強そうな子が好みなんだ」
 潤平くんもそうだけど、女の子にモテる男の子ってなんか余裕があると思う。どんな時も動じないというか、しれっとしてる。
「そういえば、ヒナちゃんK大の文学部なんだよね。松田さん、って知ってる?」
 保志さんが余裕の態度のまま聞いてきた。
「松田って、愛香ですか?」
 知ってるもなにも、いつも一緒にいるけど。
「そうそう、松田愛香ちゃん。僕のどストライクなんだよね。あの子、彼氏いるの?」
「いないはずですけど。というか、どこで愛香のこと知ったんですか?」
「可愛い女の子の情報はどこからか流れてくるもんなんだよ」
 またまたしれっと言い放つ保志さんは、優等生の笑顔を浮かべているだけに得体がしれない。
 じゃあじゃあ、と隣の小川さんが手を上げる。
「松田潤平くんも知ってる? W松田の男の方!」
 学校が違うのにこうやって名前が出てくるとは、あの二人はどうやら相当目立っているらしい。W松田なんて言われてるなんて、初めて知った。
「知ってますよ。二人とも同じ学科なので」
 じゃあ私潤平くん紹介して欲しい、とはしゃぐ小川さんを見て、宇野さんが、だったら、と呟いた。
「その二人にもモデルしてもらえば?」
 名案を思いついた、という感じで宇野さんが西さんの方を見る。
「二つあるテーマのイメージが正反対だから、モデルも別の方がいいかな、って前に圭太言ってたじゃない。私もあの二人、顔だけは知ってるけど、すごくステージ映えしそうよ?」
「あー、リサも愛香ちゃんに会ってみたい。ヒナちゃんから話聞いて、興味あったんだ」
 リサさんも同調して、にわかにその場が盛り上がった。その中で私は一人、内心焦る。
 ちょっと待って。愛香はいいけど、潤平くんが関わってくると若干困る。
 そんな私の心の中なんて分かる訳もなく、西さんが真剣な顔で私に聞いてきた。
「道端さん、その二人ってモデルとか頼めそうかな? そういうの嫌いそう?」
 いや、愛香はイベント好きだし、潤平くんだって雑誌のモデルに応募するくらいなんだから、嫌いではないだろう。むしろおもしろがりそうで、正直にそう伝えると、西さんが少年の笑みを浮かべた。
「道端さんから二人に聞いてもらってもいい? できれば前向きに考えて欲しいって」
 そんな期待に溢れる顔をされて、嫌なんて言えなかった。

 モデルの話を二人にすると、予想通り二つ返事で引き受けてくれた。だけど愛香は不満そうで。
「私はともかく、なんで潤平にまでそんな話頼むのよ?」
「だって二人に、って頼まれたし」
「だからってバカ正直に引き受けてくるなっつーの。あんた、危機感とか覚えないわけ?」
「なになに、何の話~? なんで危機感覚えるの?」
 採寸をしていたリサさんが、私たちのコソコソ話を聞き止めて無邪気に疑問を口にする。
 モデルの件を二人が快諾してくれた、と連絡したら、早いうちに採寸させて、ということだったので、数日後に今度は三人でリサさんの学校におじゃましていた。前のようにみんな集まってくれていて、自己紹介し合うとすぐに打ち解ける。潤平くんに会いたがっていた小川さんは大喜びで別の教室で潤平くんの採寸をしていて、愛香ににこやかな笑顔を向けていた保志さんは、私たちの教室についてこようとして西さんに殴られていた。
「もしかして、恋愛絡み?」
 愛香の採寸を担当していた宇野さんが、含み笑いを浮かべて言った。
「え、なになにどういうこと?」
「梨沙って意外と鈍いわよね。潤平くん、ヒナちゃんに対する態度が他とちょっと違った」
 え、違いましたか? みんなの前では特にちょっかい出してきたりしてなかったはずなのに。こんな短時間で見抜くなんて、宇野さんが鋭すぎです。
「えぇっ、そうなの? ってことはええ? ガクさんの敵!?」
 メジャーを取り落としながらリサさんが叫ぶ。
「いや、敵ってわけじゃ」
「そうなんですよ、敵なんです。なのにこの子、ぼんやりしてるというか、狙われてるのわかってるのに平気で一緒にいるし」
「ちゃんとはっきりお断りしてるよ?」
「そんなの全然あいつに響いてないっ」
 ぴしゃっと言われて言い返せない私に、宇野さんが申し訳なさそうに声をかける。
「無責任にモデルなんか誘っちゃったけど、もしかしてまずかったかしら?」
「いえ、そんなことは全く。事情をお伝えしてなかったのは私ですから」
 とはいえあの時、潤平くんは私のことが好きなので困ります、なんて言う勇気は私にはなかった。
 メジャーを拾って私の肩に当てるリサさんが、困ったような顔をする。
「う~ん、そうかあ。そんな面白いことに……」
 顔は困ってるのに、発言の中身が全然困ってない。
「私は潤平くんのことただの友達としか思ってませんし。潤平くんだってムキになってるだけですよ、きっと」
 自分で言って、ああこれ昔私が桐原さんに言われたなあ、なんて自虐的なことを思った。
 とにかく、潤平くんからは必死さみたいなものが一切見えないのだ。私が簡単に落ちなかったから、意地になっているだけに違いない。
「そうかしらねえ」
「全く呑気なんだから」
「うう~」
 意味深な声と呆れた声と、なぜか唸り声を上げるリサさんの声に挟まれて、私は一人無言を貫いた。

 ◆

『とゆーワケで、今回の卒展、めっちゃ気合入ってるんだ! いつもより大きい会場だし、一般のお客さんも入れるし』
 理恵と事務所で打ち合わせの途中、携帯がなって表示されたのはリサちゃんの番号だった。電話を取るなり彼女の明るい声が響き出す。卒展のショーが今度から一般公開になって、そのモデルを日南子ちゃんに頼んだ、という話。 久しぶりに聞くリサちゃんの声は、電話越しでも生き生きとしていて、心の底から楽しんでいるのが伝わってきた。
『で、どうせならちゃんとプロのカメラマンに入ってもらって記録してもらおう、ってことになったから、リサが先生たちにガクさんのこと猛プッシュしといたよ。二月の第三週の日曜日、まだ仕事とか入ってないよね?』
 これを伝えたかったのか、とようやく納得がいった。楽しそうなのはいいけれど、なんでわざわざ電話してきたのか、不思議に思い始めていたところだったのだ。
「まだなんにも予定はないよ」
『じゃあ、改めて学校から依頼入ると思うから! 絶対断らないでね!』
「了解」
 学生最後の晴れ舞台を任せてくれる、その気持ちが素直に嬉しい。妹みたいになついてくれるリサちゃんだから、なおさらだ。
『ありがと! でね、本題なんだけど』
 今のが本題じゃなかったのか。
『ショーのモデル、ヒナちゃんの友達にも頼むことになったんだけど。愛香ちゃん、って子と、潤平くんって男の子』
 潤平くん。……あいつだ。
『その子がね、どうやらヒナちゃんのことが好きらしいんだけど』
「らしいね」
『えっ? 知ってるの?』
「この前写真撮った。新しくパトリのモデルやる子だろ?」
 挑戦的に俺を見る視線を思い出す。直々に宣言されたのだから、知らないわけがない。
『ヒナちゃんのこと、結構真剣みたいだよ、その子』
「そう」
『そう、って。なんでそんな人ごとみたいなの? もうちょっと焦りなよ!』
 俺の素っ気ない返事に、リサちゃんの声がどんどん大きくなっていく。
『リサ鈍いけど、言われたらすごいわかりやすいくらいヒナちゃんのこと大事にしてたよ? おんなじ学校でおんなじ学科でおんなじ年で、ガクさんなんかと比べ物にならないくらい近くにいるのに。ヒナちゃんが心変わりしちゃったらどうするの?』
「どうするもなにも。そうなったらそうなっただよ」
 それだけ近くにいれば、あいつを好きになることもあるのかもしれない。
そのほうが彼女も幸せになれるのなら、それでもいい。
 素っ気ない俺の答えに、リサちゃんの声が少しイライラした口調に変わっていく。
『なんでつなぎとめておかないの? ヒナちゃんのこと好きなら、好きって一言言えばいいだけじゃん』
「つなぎとめる、とかできないし。あの子がしたいようにすればいいだけで」
『あーもう、強がっちゃって! 大人のフリして、一人になって泣いても知らないんだから!』
 ガクさんのバカ、と言い捨ててリサちゃんが電話を切る。あまりに大きい声だったから、電話に当てていたほうの耳がキーンと鳴った。受話器を放して顔をしかめる俺に、ソファに座ってこっちの様子を伺っていた理恵が言う。
「私もリサちゃんの意見に賛成よ。そばにいて欲しい、って一言言ってあげればいいじゃない」
 聞かれても問題ないだろう、とその場で電話に出てしまったのが裏目に出た。リサちゃんの大きい声は、近くにいれば丸聞こえだったのだろう。
「昔からの親友に会わせるなんてことまでしておいて、まだ及び腰になってるの?」
 柴田の店に連れて行った、というのは話の流れで言ってあった。その時は意外そうな顔をしただけで、特に深くは突っ込んでこなかったのに。
「優衣の話、聞かせてあげたら? あの子なら、ちゃんと受け止めてくれるわ」
「もう話したよ」
 え、と理恵が驚きの声をあげる。
「話したの? いつの間に?」
「一ヶ月くらい前」
 きちんと彼女に向き合おう、と、そう決意してから一ヶ月も経つのに、未だに俺の態度は変わっていない。我ながら自分の愚図さに呆れる。
「それなのに付き合ってるわけではないのね?」
「答えを出せるまで、待って、って言ってある」
 どっちつかずのグレーゾーンに、あの子を縛り付けてあるわけだ。
 はっきりしない俺に、理恵も呆れたようにため息をつく。
「何がそこまであなたを頑なにさせてるのかしらね」
 何度か彼女の声が聞きたくて、電話をしようと思ったことがある。でも、その度にためらった。恋愛を覚えたての子供みたいに、どうしようもなく不安になった。いつか自分の前からいなくなるんじゃないか……手に入れる前から、失うことを怖れて。
「まあ、昔に比べれば一歩前進よね。一人になって泣く前に、早く素直になりなさい」
 駄々をこねる子供に言い聞かせるみたいな、諭すような口調で理恵が言う。
「後悔しないように。潤平くん、きっと手ごわいわよ?」
 
 ねえ見て、と優衣が抱き上げたのは、真っ白な毛並みの子猫だった。傍らには、親猫と思しき同じ毛並みの白猫が悠々と寝そべっている。
――どうしたんだよ、これ。
――友達が旅行中で、二日間だけ預かるの。可愛いでしょ。
 言われてみれば、優衣の部屋にはなかったはずのペット用のゲージが、ベッドの横にでん、と置いてある。
 この子今里親募集中なんだって、と子猫に頬ずりしながら、優衣が少し表情を曇らせた。
――ほかの子は飼い主が見つかったのに、この子だけまだなんだって。こんなに可愛いのに。
――言っとくけど飼えないぞ。
 きっと飼いたいんだろうけど、一人暮らしのアパートでは動物は飼えない。
――わかってるもん、そんなの。 
 子猫を俺に押し付けて、無理やり抱かせる。子猫が小さな舌を出して、甘えるように俺の顔を舐める。
――アパート暮らしじゃなかったら、飼いたいと思うでしょ?
 懸命に甘えてくる姿は、確かに抱き潰したくなるくらい愛らしい。でも、俺が飼ってもきっとちゃんと構ってやれない。
――俺は飼わないな。別にいらない。
 そんな俺の返答に、優衣は気に食わないのかむっと口を尖らせる。
――本当は可愛いくせに。素直じゃないんだから。
 ガクの悪い癖よね、と俺の手から子猫を取り上げて言う。
――欲しいものをちゃんと欲しいって言わないの、悪い癖。あとから後悔したって知らないんだから……。
 ………
 …… 
 …
 まぶたを開けると、つけっぱなしの電気に目を射られ、優衣の残像が掻き消える。ぼんやりとした頭で傍らのスマホに手を伸ばすと、時計は十時すぎを示していた。
 少し目を休めるだけのつもりが、本気で寝入ってしまったらしい。
 最近は、優衣が死んだ時の悪夢は見なくなっていた。その代わり、幸せだった頃の何気ない記憶の断片が、時折こうやって現れる。
 後悔しないように、か。
 思えば小さい頃からいろんな人に言われた気がする。元から何かに執着するような性格ではないので、何かをねだったり欲したりすることがなかった。自分のものでも、誰かに欲しいと言われれば簡単に手放してしまう性格だった。
 欲しい、と思ったものが手に入らなかった時、もっと頑張ればよかったと、悔やんだりするのだろうか。
 手の中のスマホをいじって、日南子ちゃんの番号を表示させる。前に電話がかかってきた時は、確かこのくらいの時間だったはず。
 発信のボタンを押して、呼び出し音が鳴るのを聞きながら、寝ぼけていた頭がだんだんとはっきりしてきた。特に話す用もないのに、俺は何をしているんだ、馬鹿か。八コール目を聞きながら、やっぱり切ろう、と思ったときに、勢いよく声が響いた。
『もしもしっ』
 慌てて出てくれたんだろう、後ろで何かが落ちるような、ガタガタっという音とともに、小さく痛、という声が聞こえた。
「なんか凄い音したけど、大丈夫?」
『すみません、積んであった本が倒れただけです。気にしないでください!』
 きちんとしているようで、意外と面倒臭がりなのかもしれない。沢木さんのオフィスも、よく資料が積み上がって雪崩を起こしていた。
「ごめん、急がせたみたいで。寝てた?」
『いえ、お風呂入ってて、携帯部屋に置きっぱなしにしてて、着信聞いてびっくりして、そしたら本にぶつかっちゃって』
 そこまで一気に言って、ひと呼吸置いて、またためらいがちに口を開く。
『あの。どうか、しましたか?』
「うん……」
 別にどうもしなかった。なにか話さなければと、必死で頭を巡らせる。
「リサちゃんが、嬉しそうに電話してきたよ。ショーのモデル、引き受けたんだって?」
 とりあえず頭に浮かんだのがその話題だった。
『そうなんです。リサさんがぜひ、って言ってくれて。リサさんの友達も、みんなすごくいい人たちなんですよ。おしゃれだし、気さくな人ばっかりで、なんだかチームの一員になれたみたいで嬉しくて』
 嬉しそうにはにかむ様子が目に浮かんだ。リサちゃんの友達をやれるくらいなんだから、きっといい子達ばかりなんだろう。
「日南子ちゃんの友達も一緒にやるんだって?」
『はい。ファミレスで一緒にバイトしてる子、わかりますよね? 前に迎えに来てくれた時に話してた。あの子と、あと同じ学校の男の子なんですけど……』
 そこで言いよどむように言葉を切った。
『あの。多分、その子、桐原さんに会ったことあるんですけど。その時に、大変迷惑というか、失礼というか、見当違いなことを言ったそうで……』
「松田君?」
『そうです』
「まあちょっと困ったけど」
『ですよね、やっぱり。ほんとすみませんでした』
 彼女がしたことじゃないのに、そんな風に代わりに謝られるとなんだかもやもやする。
「別に、見当違いでもなかったけど」
『え?』
「ずいぶん仲良さそうだね、彼と」
 なにを嫉妬めいた女々しいことを言っているんだろう、と思うけど、勝手に口から出てきてしまった。
『ぜんっぜん仲良くないです! ……いえ、仲良くないわけではなくて、授業とかよく一緒になるし、よく話すから仲良くはなったんですけど、でもそれだけだし、潤平くんは他の子にも人気あるし』
 彼女が言葉を重ねるほど、近い距離にいることがはっきりしていく。
『私のことなんかちょっと興味あるなー、くらいで、すぐに飽きます、きっと』
 すぐに飽きる程度の相手のために、あんな風に他の男を牽制したりしないだろう。
 やっぱりこの子は、無防備だ。
『だから潤平くんのことなんて気にしないでください。忘れてください。なかったことにしてください』
「わかった」
 あまりに必死に言い訳をするのが、嬉しい。
 嬉しいと、思ってしまった。
「今度、いつ空いてる?」
『はい?』
「次の休み。どっか行こうか」
『……』
「日南子ちゃん?」
 沈黙が続いたので、しまった唐突すぎたかと後悔しかけると、一拍置いて聞いてるこっちが赤面しそうな声で一言、はい、と答えた。
 今、彼女はどんな表情で微笑んでいるんだろう。電話越しでしか様子を伺えないことが、こんなにももどかしい。
『それって、昼間ですか? それとも夜?』
「一日、のつもりだったけど。どっか行きたいとこある?」
 彼女が少し浮かれたような声で話す。
『ちょっと遠くでもいいですか?』
「日帰りできるならどこでも」
『隣の県なんですけど、冬はスキー場で、今の時期コスモスがばーっと咲いてるところがあるらしいんです。昨日ちょうど友達が話してて、羨ましいなあと思ってて』
「じゃあそこにしよう。俺が空いてる日、後でメールしとくから、そこから選んで連絡して」
 詳しい時間はまた今度決めることにして、電話を切る。手にしたスマホを放り投げて、大きく息を吐いた。
 思いつきで誘ってしまった。今日に限って、なんでこんなに口が勝手に動くんだ。
 どんどん深みにはまっていくのが、自分でもはっきりわかる。彼女が俺の頭の中を、すごいスピードで占領していく。声だけじゃ足りない。会いたい。触れたい。……なのに不安になる。理由もないのに、いつかいなくなってしまう、という怖れがいつもある。
 自分の中のコントロールできなくなっていく感情が、いつか自分だけじゃなく彼女を傷つけるかもしれないことが、怖かった。

 ◇

 出掛けるのは翌週の日曜日になった。家の前まで迎えに来てくれる、という桐原さんを待ちながら、鏡を見て最終チェックをする。日程が決まったあと、速攻で容子さんに連絡して、自分でもできるヘアアレンジを教えてもらった。自分では器用な方だと思っているのに、扱い慣れない髪をまとめるのは難しくて、容子さんのスパルタな特訓のおかげで何とか形になった。崩れてないか、変じゃないか、すごく気になってしまう。
 今日も嬉しいことに、とってもいい天気だった。昔はよく運動会とか遠足とか、雨で延期になったりしてたのにな。日頃のがんばりを神様が見てくれているのか、それとも桐原さんが晴れ男なのか。
 あまり車通りのない道に、見慣れた黒い車が入ってくる。助手席に乗り込むと、桐原さんがおはよう、と笑ってくれた。前の時よりも、ドキドキするのはなんでだろう。今日一日、一緒にいられるんだ、と思うと、自然に笑みがこぼれる。
「調べたら、高速使えば一時間ちょっとで着くみたいだ。結構山奥」
「なんだか山ばっかり行ってますね」
「ほんとだ。じゃあ今度は海にでも行こうか」
 今度、というフレーズに、またまた頬が緩む。桐原さんの中に、今度、があるんだ。
「実は行ってみたいところいっぱいあるんです。海もいいけど、これから秋だし、紅葉とか、美術館とか、ちょっと遠くのおしゃれなカフェとか」
「全部行くのにどれだけかかるかな」
 ちょっと調子に乗りすぎかとも思ったけど、彼は嫌そうな素振りを全く見せることなく、順番にね、と笑ってくれた。
 何気ない優しさが、私をつけあがらせていく。それがただの知人への好意なのか、それとも愛情が含まれているのか。ちょっとは思い上がっても、いいのだろうか。
 車が走り出してからは、二人とも自然と口をつぐんでいて、車内に微かに流れる音楽が耳に心地よく響いた。他の人だとこうやって沈黙になると、気まずくてなにか話さなきゃ、って焦るけど、桐原さんと二人の時にそうなったことはほとんどない。というか、沈黙自体が珍しくて、いつも先回りして話を振ってくれていた気がする。こうやって静かになっても大丈夫だと思ってもらえるくらい、心を許してくれたってことだとしたら、とても嬉しい。
 途中少しの会話を挟みながら、一時間はあっという間で、迷うことなく目的地についた。駐車場に車を止めて、少し歩くと芝生の広場と木の建物が見えてくる。そして、その先に広がる景色を見て、思わず歓声をあげた。
 一面に広がる花、花、花。ピンクの中に赤や白が混じって、風に吹かれて揺れている。一輪一輪はちっちゃいのに、これだけ集まって咲いていると圧巻だ。コスモスの間を散策できるようになっていて、家族連れやカップルが花の間に見え隠れしていた。