3度目に、君を好きになったとき


 一瞬ちらっと見えた先輩の顔は、どこか切ないもので。自分の知らないところで先輩を傷つけているという事実に、胸が痛んだ。


「――あれ? 取り込み中だった?」


 柏木先輩への返答に困っていたとき、ふっと割り込んできた声があった。三人で美術室の入り口へ顔を向ける。
 よく知った声のその子は、長い髪をサイドで緩く編んだ永野未琴だった。

 未琴は美術部ではないけれど、部活見学と称して、よくここに遊びに来る。
 今日もそのノリで来たのか「こんにちはー」と他の先輩方に挨拶したあと、私の向かいの席へ腰を下ろし細長い足を組んだ。

 柏木先輩も一旦自分の席へ戻ったあと、すぐにスケッチブックを持って私の右隣に落ち着く。
 左隣の千尋先輩はマイペースにノートパソコンを開いていた。


「内緒の話なんだけど」


 声を潜めた未琴が、私の方へ身を乗り出す。


「さっき、うちのクラスの担任に聞いたら、2年のクラス替えは私と結衣、同じクラスにしてくれるって」
「本当?」


 今のクラスは、中学のときからの友達があまりいなくて馴染めなくて。次のクラスは少しでも仲の良い子が多ければ、と願っていたところだった。

 未琴は情報を聞き出すのが上手い。私には高度な会話力がないので到底無理だと思う。
 大人でも同級生でも、誰とでも仲良くなれる未琴が羨ましかった。


「同じクラスに決まった記念に、春休みに皆でどこか遠くに出かけない?」
「うん、いいね」
「動物園とかどう?」


 動物園……、そういえば柏木先輩に誘われていたのだった。
 横目で様子を窺うと、先輩も私のことを見ていて目が合ってしまった。


「柏木先輩も、一緒に行きますよね?」


 未琴の誘いに、先輩はゆっくりとうなずいた。


「白坂さんが行くなら、僕も参加したいな」


 私が、行くなら……。
 柏木先輩の言葉を嬉しく思いながらも、顔に出ないように唇を引きしめる。


「ちょうど、白坂さんと絵の題材を見つけるために、どこかに出かけようかと思っていたところなんだ」
「じゃあ、決まりですね。千尋先輩ももちろん行くでしょ?」


 なぜか未琴は決定事項のように千尋先輩へ確認する。


「いや、俺は特に参加する理由は……」


 千尋先輩が冷たく断りかけた瞬間、未琴はニヤリと目を細めた。

「アザラシの赤ちゃん、産まれたばっかりなんですって」
「……何?」


 急に千尋先輩の目の色が変わる。


「俺も行く」


 見かけによらず、可愛いものに目がないらしい。


「ふふ、他にあと二人くらい誘っておきますねー」


 土日は特に混むらしく平日に行くことになり、私は今から着ていく服に頭を悩ませることになった。





 部活後の夕暮れ時。
 私と柏木先輩は昇降口で暗い雨雲を見上げていた。


「あ……みぞれ、ですね」


 空から降ってきていたのは、ただの雨ではなく、雪の混じった雨だった。アスファルトはシャーベット状に濡れている。


「白坂さん、傘は?」
「……持ってきてないです」


 30%という微妙な降水確率だからと、つい雨は降らないという方に賭けてしまったのだ。傘を持つのは手間だから。
 でも、こんなことなら折り畳みの傘くらい鞄に入れてくれば良かった。先輩に、女子力の低い女だと思われる。


「家まで送っていくよ」


 黒い傘を広げながら柏木先輩が私を振り返る。


「え? ……いいんですか?」

 相合い傘ということになるし、先輩の家からは少し遠回りになるはずなのに。


「白坂さんさえ良ければ、送らせて」


 そんな優しい目を向けられて、断れるはずがない。


「じゃあ、あの……、お願いします」


 私が遠慮がちに傘に入る前に、先輩が先に傘を差しかけてくれた。
 不意に近づいた距離に胸が高鳴る。

 時々、傘を差す先輩の腕が私の二の腕に当たり、緊張が増していく。


 門を出てから、沈黙が長く続いていた。先輩につまらない女だと思われていないかな、と心配になってくる。
 自分がもっと面白い話ができるタイプだったら、先輩を退屈させずに済むのに、と自己嫌悪に陥った。



「――スケッチブックを持って行こうか、動物園に」
「あ、はい」


 話しかけられ、沈黙が途絶えてホッとする。


「楽しみだな、白坂さんと絵を描きに行けること」
「私も……楽しみです」


 傘の下で突然目が合って、頬が紅潮していく。
 焦る私とは対照的に、先輩は穏やかな表情のまま、私を見つめている。

 そのとき……視界の隅に、こちらを睨みつける気配があり、頬を強張らせた。

 色とりどりの傘の隙間から、沢本君の射るような目が私へ向けられている。
 思わず柏木先輩の袖を掴み、隠れるように身を寄せた。


「……どうかした?」


 怪訝そうに尋ねる先輩の手が、私の手に重なった瞬間――――

 フラッシュバックしたみたいに、頭の中に勢いよく映像が流れ込んできた。



 どこかの天井が見える。

 体にのしかかった沢本君。私の首に、ひどく冷えた手をかけて。

 もう片方の手が、私の頬へと滑り──……



「…………!」

「大丈夫? 白坂さん」


 目を閉じても、その残像は消えない。ドクドクと激しい心臓の音。

 肩を支えてくれる先輩の手が優しくて、だんだんと落ち着きを取り戻す。
 恐怖はしだいに遠のいていった。

 目を開けたら、沢本君の姿はどこかに消えていた。
 ホッとして先輩を見上げれば、心配そうな瞳と視線が絡まる。


「あっ……、ごめんなさい、私」


 傘の下で肩を抱かれていたままだった。慌てて距離を取ると、スッと腕が離れていく。


「顔色が良くないけど、何か辛いことでも思い出した?」


 言い当てられ、そっと視線をはずす。


「いえ、大丈夫です。……少し、頭が痛くなって」
「そう……。帰ったらゆっくり休んだ方がいいよ」
「はい」


 おとなしく返事をしながら思う。
 あの映像は何だったのか……。

 沢本君の制服が、ベージュではなく黒だったから。中学のときの忘れていた記憶かもしれない。

 それともただの、いつか見た怖い夢?


「白坂さん」


 私と向かい合った先輩は、傘を持っていない方の手で私の手を優しく掴んだ。
 温かい感触に包まれ、息が止まりそうになる。


「不安なことがあったら、いつでも連絡して? 僕で良かったら話を聞くよ」
「……ありがとうございます」


 慈しむような目差しを受け、こんな私を心配してくれている、そのことに胸の奥が熱くなるのを感じた。



 待ち合わせをしている駅前の広場に着いたら、背の高い二人がすでにいて。スタイルの良いその二人が誰だか、遠目からでもすぐにわかった。
 通りすがる人達も、目立つ彼らをちらちらと見ている。


「おはよう、白坂さん」


 私の好きな人――柏木先輩がいち早く私に気づき、笑顔を向けてくれる。


「おはようございます」


 私服姿の先輩が貴重すぎて、眩しさに目を細める。
 黒のジャケットに白いシャツ。
 カーキ色のパンツを合わせていて、落ち着いた色づかいが似合っていた。

 千尋先輩は柏木先輩のことを、よく待ち合わせに遅れてくると言っていたけれど。今回は誰よりも早く着いていたので、ひとまず安心する。


「今日はいつもと違うね」
「……そうですか?」


 柏木先輩はなぜか、私のことをじっと見つめてくる。
 コーディネートが変だったかな。もしかしてメイクが似合ってない?
 色々と気になって落ち着かなくなってしまう。

 今日は、スカートにも見える淡いピンクのワイドパンツを履き、ドット柄のブラウスの上にクリーム色のニットカーデを羽織ってきた。


「うん、可愛いよ。似合ってる」
「えっ……」

 お世辞とはいえ、好きな人に『可愛い』なんて言われて嬉しくないはずがない。


「お前さ、臆面もなく、よくそんなこと素直に言えるよな」


 千尋先輩はもはや軽蔑の眼差しで、柏木先輩のことを横目で見ていた。


「白坂のその格好……男と出かけるからって、意識し過ぎだろ」


 足元は歩きやすいようにスニーカーを選んだし、私としては頑張らない程度にカジュアルに抑えたつもり。
 なのに千尋先輩は気にいらない様子だ。


「白坂さん、聞き流していいよ。千尋は天の邪鬼なだけだから」


 フォローしてくれる柏木先輩は、いつもよりもさらに優しさが増している感じがする。


「大丈夫です。千尋先輩の毒舌には慣れてますから」
「……誰が毒舌だって?」
「もっと素直に、可愛いって言えばいいのにね」
「はぁ? 俺はいつも正直だけど?」


 小さく笑う柏木先輩と、目つきを鋭くさせた千尋先輩の口論がいつの間にか始まってしまう。

 そういえば、未琴が他にも誰かを誘うと言っていたのは、誰のことなのだろう。
 苦手な人だったら困るので、少し気がかりだ。

「結衣ー! お待たせ!」

 遠くから、手を振る未琴の姿が確認でき、先輩二人の軽口はいつの間にか中断していた。


「未琴、おはよう」

 手を振り返しながら、彼女の両隣にいる人に気づき、笑顔のまま固まる。


「あっ。白坂さん」

 すらりとスタイルの良い未琴よりも、さらに背の高い女の子――椎名さんが爽やかな笑顔で軽く手を上げる。

 そして……、半歩遅れて歩くのは。
 無愛想に肩に鞄を引っ掛けた、真鳥だった。


「結衣、真鳥と緋彩(ひいろ)も誘っちゃった」

 仲良くなりたいと常々思っていた椎名さんは良いとして、なぜ真鳥も?


(真鳥は、呼んじゃ駄目だよ……)

 私の不満が顔に出ていたのか、すぐに未琴は説明してくれる。


「真鳥と緋彩も同じクラスになるらしいから、呼んだんだ。二人は小学校の頃からの幼なじみなんだって」
「……そっか。幼なじみ、なんだね」


 私は特に問題ないフリをして未琴に言葉を返した。

 ――真鳥を見ると、なぜか不安に駆られる。弱みを握られているような、そんな気になってくる。
 だからあまり、目が合わないように気をつけた。
 心を見透かされて、全てを暴かれてしまわないために。