たとえ、僕が永遠に君を忘れても

 深夜、電気を消した自室のベッドで俺は頭を抱えていた。
 かれこれ一時間はこの調子だ、もたもたしていた朝を迎えてしまう。

「赤点回避……」

 入学後に行われた学力テストの結果が頭の中で暴れまわる。五科目合わせても百点に満たない散々な結果。
 この調子だと俺は永遠に幽霊部員になってしまう。考えるだけで恐ろしい。

 絶望の中、ふいに真っ暗な部屋の天井を淡い光が照らした。同時に軽快なメロディがスマホから流れ、天井を照らす光源がスマホからなのだとわかった。
 画面を見ると、見知らぬ番号からの着信が。

 知らない番号からの着信には出ない主義の俺はすぐに拒否のボタンを押してスマホを放り投げる。だが、拒否を押した瞬間再び同じ番号からかかってきた。

 もう一度拒否を押すも、すぐに着信。それを繰り返すたびに段々とこの見知らぬ番号の主が誰なのかわかってくる自分がいた。

「……まさか、な」

 嫌な予感がしながらも観念して応答ボタンを押すと、スピーカー設定でもないのにスマホから大声が聞こえてきた。

『やっほー! だーれだっ!』

 それはこの一か月ですっかり聞き慣れた声だった。

『……切っていいか?』
『待って! ごめん! 私です私! 千歳です!』

 やっぱりこいつか。
 というかどうして俺の番号を知ってるんだよ。

『それで、用件は?』
『んー、今頃誠くん困ってるんじゃないかなって。成績のことで』

 エスパーか。俺の周りには超能力者しかいないのか?
『よくわかったな、さすがだ』
『でっしょー! だからね、助けてあげようと思って』
『……と言うと?』
『勉強、教えてあげるよ!』

 なんだこいつ、もしかして天使の生まれ変わりじゃないだろうな。
 冬木千歳……なんて良い奴なんだ。

『まじか。めっちゃ助かる』
『でしょでしょ。というわけで明日と明後日はみなみちゃんも誘って勉強会ということで! ちょうど土日だしね!』
『待ってくれ、明日からやるのか? まだテストまで三週間くらいあるぞ。せめてテスト期間に入ってからでも……』

 些細な抵抗をすると、一瞬だけ沈黙が訪れた。
 俺を説得するための策を考えているのだろう。

『……誠くん、学力テストの結果を言ってみなさい。大声で! 隣家のみなみちゃんに聞こえるくらいの大声で!』
『ぐっ』

 策を考えた甲斐か、とんでもない威力の攻撃が飛んできた。
 国語は二十八点でした! 英語は七点でした!
 そんなこと言えるわけがない、みなみに殺される。

『さて誠さん、果たしてテスト週間から始めて間に合うと思いますか?』
『……思いません』

 何故か敬語で訊いてきた。怖い。

『早速明日から勉強会を行います。いいですね?』
『……はい』

 もはや頷くしかなかった。

『よし! じゃあ明日駅前に集合ね! みなみちゃんはもう誘ってあるから!』
『わかった……』
『いやー、それにしても赤点とったら部活できないなんて、大変なことになっちゃったね』

 まさしくその通りだ。おかげでまたテニスをやる時間が減りそうでこちらはずっと頭を抱えている。もうずっとため息ばかりだをついているところだ。

『まあ顧問の先生にその提案したの私なんだけどね~。それじゃあまた明日!』
『おい、ちょっと待て』

 ……くそ、切りやがった。
 こいつ今とんでもなく非道なことをさらっと口にしたぞ。

 何が勉強を教える、だ。全部あいつのせいじゃねえか!
 一瞬でも感謝してしまった自分が憎い。

 あいつは悪魔の生まれ変わりなんじゃないだろうか。
 冬木千歳……なんて悪い奴なんだ。
 ――五月二日(土曜)

「すまん、もう一回言ってくれ」
「えっとね、ここの問題はこの式を使って――」
「というか問題文の意味がわからん」
「ええー……」

 市営図書館の学習室で俺の右席に座っている冬木が困惑の声をもらした。数学の教科書を片手に困ったように眉を下げている。

「どうしようみなみちゃん。誠くん、もの凄く馬鹿だあ」
「あはは、本人の前でそれを言っちゃうんだ」

 左席では眼鏡をかけたみなみが苦笑いを浮かべていた。
 ただでさえお節介焼きで高校生とは思えないのに、眼鏡までかけると完全に女子高生のフリをしたOLだな。
 なんて、こんなくだらないことを考えているから俺は勉強ができないのだろう。
 逃げたくて仕方がないが、ふたりに挟まれるように座らされているせいで隙を見つけられそうにない。というか逃げて困るのは結局俺自身だ。

 しかしだからといって集中できるわけでもない。

 室内は十人は座れる横長の机が向かい合うような形でいくつも設置されており、前方と左右にはそれぞれの座席を区切るための仕切りが設けられている。各座席には照明まで完備、まさに勉強するための空間といった感じだ。部屋も教室と同じくらいの広さでスペースは申し分ない。

 だが、俺のように普段から勉強する習慣のない人間はこういった空間だと逆に集中できないのだ。そわそわしてどうにも落ち着かない。

 みんなよくこんな空間で勉強ができるな。
 仕切りで姿は見えないが、向かいの席からはカリカリとペンを動かす音が絶えず聞こえてくるし、通路を挟んで背中合わせになっている後ろの子はヘッドホンをつけたままひたすら教科書を読みこんでいる。

 そして、そんな様子を観察できてしまう程度には俺は勉強をしていない。

「誠くん、本当は部活行きたくないの?」
「そんなわけないだろ」
「じゃあどうして手が止まっているのかな?」
「……頑張ります」

 やばい、いつもにこにこしている冬木の目がマジになっている。

「私のことは千歳先生、もしくは千歳と呼びなさい」
「よろしく冬木」
「……むう」

 冬木は残念そうに頬を膨らませた。全然マジな目じゃなかった。

「そんなに千歳って呼ばれたいのか?」
「うん」
「へー」

 まあ呼ばないけどな。もう冬木で定着してしまったし。
 そんなこんなで、中間テストに向けての勉強会が始まった。毎週の土日と、テスト期間は放課後も。

 テニスをやる時間は、お察しだ。
 ――六月三日(水)

「中間テストお疲れ様ー! そしておめでとう誠くん!」

 いつにも増してうるさい冬木が、屋上前の階段で飛び跳ねた。座っている俺とみなみの間でくねくねと身をよじり器用に踊っている。まるでチンアナゴみたいだ。

 そのお気楽な様子には心底呆れさせられるが、かくいう俺もその実、冬木同様小躍りしたいくらいの気持ちではあった。

「あー、マジでどうなるかと思った」

 テストが終わって一週間、返却された答案用紙を見て胸をなでおろす。
全科目ギリギリで赤点回避。あと一点でも落とせば追試を食らう、という科目がほとんどだった。

 とても胸を張れるような点数ではない。が、セーフなものはセーフなのだ。ひとまずはこれでいいとしよう。

「これも千歳ちゃんのおかげだね、感謝しなよ」

 購買で買ったパンを片手にみなみからの横やりが入る。

「してるって」

 言われなくとも感謝くらいしている。冬木のおかげで赤点を免れ、晴れて部活動に打ち込むことができるのだから。もっとも、俺を部活中止の危機に陥れたのも冬木なのだが。

「それにしても、すげえな」

 俺は返却された答案用紙とは別の、テスト前に冬木から渡されていた紙に目を移す。
 プリントの上部には『ここがテストに出るよ! 多分!』と丸文字で書かれており、その下には出題されるだろう問題とその答え、そして解説がびっしりと手書きで記されていた。

「へへへ、凄いでしょ」
「ああ、天才的だ」

 珍しく心の底から褒めてやった。
 実のところ俺が赤点を回避できたのは完全にこのプリントのおかげだ。冬木が予想した問題のほとんどが実際に出題されてくれたおかげで俺は何とか一命をとりとめることができたのだ。

「さて誠くん」
「うん? なんだ」
「私はご褒美が欲しいです」

 小躍りを終えて腰を落ち着けた冬木が唐突にそんなことを口走った。

「……言ってみろ」
「えっとね――」

 じっと固唾を飲んで言葉の続きを待つ。
 一体何を要求されるのだろうか、考えるだけで恐ろしい。

「頭を撫でてほしいなあ!」
「はい却下」

 また意味不明なことを。
「なんで?」
「なんではこっちの台詞だ。妖怪意味不明女め」
「む、こんなにも可愛い千歳ちゃんの頭に触れるんだよ? 名誉なこととは思わない?」
「思わない」

 即断してやると冬木は「はあー!」とわざとらしいため息をついてのけぞった。ため息をつきたいのはこっちだよ。可愛いのは認めてやらないこともないが、それを自分で言うところに冬木の残念さが垣間見えている。

 誰か助けてくれ、なんて思うがみなみは俺たちの様子を見てくすくすと笑うばかりで助け船のひとつも出してくれない。むしろ冬木の味方をしているような気さえもする。

「でも誠、千歳ちゃんに助けられているのは本当なんだし、お礼のひとつでもしてあげたら?」

 思った通りだ。妖怪お節介ババアめ、余計なことを。
 とはいえこの件に関してはみなみの言うとおりだ。遠からず何かしらの形で埋め合わせはするつもりだ。

「じゃあ、今度何か奢ってやるよ」
「え! 奢る!? お小遣い五百円の誠くんが!?」
「しばくぞ」

 そういう心に刺さることを笑顔で言うのはやめろ。俺じゃなきゃ今頃そこのドアを突き破って屋上から飛び降りているところだったぞ。

「あはは、冗談冗談。私がやりたくてやったことなんだから、お礼なんてしなくても大丈夫だよ」
「さっきと言ってること違ってないか?」

 ご褒美が欲しいですなんて言っていたのは忘れないからな。

「あれは、うん、ダメ元で言ってみただけ」
「つまり、あわよくば本当に撫でてもらう算段だったってことか」
「うへへ」
「きもちわりい笑い方だなあ」
 やっぱり冬木の考えていることはちっともわからない。

「ちぇっ。ちょっとくらい撫でてくれてもいいのに!」
「全然よくない」
「いいの!」
「よくない」

 俺としては一刻も早く冬木から解放されてテニスに集中したいのだが、この様子では難しそうだ。

 ともあれ目の上のたんこぶであったテスト問題が解決した今、俺を阻むものは冬木以外に何もない。その冬木も、厄介ではあるが部活中は顧問の目もあって邪魔はしてこれないようだし、そこまで大きな障害ではないだろう。

 顧問曰く「全部員のテストが返却されて、その点数が確認でき次第部活動を再開する」らしいから遅くても明日には練習を始められるはずだ。

「さーて、飯でも食うか」
「あ! 私があーんして食べさせてあげよっか!?」
「黙ってくれていいぞ」

 横からの雑音をやんわりと流して、弁当箱を開いた。
 ――六月四日(木)

「よーし、今日からテニス部再開だ! 気合入れるぞ!」

 授業が終わるや否や、意気揚々と宣言した。
 普段テンションの低い俺が大声を出したことに驚いたのか、クラスメイトたちが怪訝そうな眼差しをこちらに向けてくる。その表情は何やら可哀想な人を見るようなものだった。

 そして隣では、冬木もまた可哀想なものを見るような顔をこちらに向けている。

「ははは、どうした冬木。元気がないじゃないか」
「誠くん……現実を見よう」

 冬木は悲しげに眉をひそめると白く細長い指を窓の外へ向けた。俺に現実を突きつけるためだ。

「……ああ」

 言われるがまま窓の外を見た俺はたちまち現実に引き戻される。無理矢理高めていたテンションは急降下だ。

「……梅雨、だね」
「……だな」

 窓の外は、土砂降りだった。
 灰色の空からは絶え間なく雨粒が吐き出され、窓から見えるテニスコートを水浸しにしている。地面を叩く雨粒の音、そしていつもより薄暗い教室の空気は心地いいが、俺の気分は優れない。