たとえ、僕が永遠に君を忘れても

「……嘘だろ」

 にわかには信じられない。けれど、残酷なまでに確信があった。
 俺はこれから死ぬ。より正確には、既に死んでいたのだ。

 どういうわけか入学式の日まで時間が巻き戻って、そして、冬木だけがその全てを知っていた。

 思い返せばそうだった。

 何故面識のないはずの俺に冬木がたびたび声をかけてくるのか。
 どうして俺の邪魔をしてくるのか。
 どこから俺の電話番号を入手したのか。

 簡単な話だ。

 ――初めから、冬木は全てを知っていたのだ。

 面識がないなんてことはなかった。俺たちは既に会っていたのだ。
 俺の邪魔をしたのも、俺が大会に行けば死ぬと冬木だけは知っていたからだ。

 番号を教えたのも時間が戻る前の俺自身だ。
 これまでの頭痛も既視感も、おそらく過去の記憶が原因だ。

 時間が戻る前の記憶全てがあるわけではないが、少なくとも俺が死んだことだけは何よりもはっきりと覚えている。

 嘘だと思いたい。全部夢だと思いたい。
 しかしこれまでの冬木の言動と照らし合わせると辻褄が合う。
 汗を拭い、リビングに向かうと俺は一目散にテレビをつけた。

『先日の降雨の影響により駅周辺で土砂災害の恐れがあります。外出なさる方は充分注意を払いましょう』

 ニュースキャスターの女性が読み上げた土砂崩れという言葉で背筋が凍り付く。
 そうだ、これだ。俺はこれに巻き込まれて死ぬ。いや、死んだ。

 車両一台が飲み込まれるかどうかくらいの、規模の小さい土砂崩れ。しかし人の命を奪うには充分すぎる災害だ。

 ……今すぐ冬木と話をしなければ。

 慌ててスマホを取り出すと、見計らったかのように玄関のチャイムが鳴った。それは一度だけでなく、何度もしつこく繰り返された。

 慌てて玄関まで駆けた。人生でこれほど急いだことはない。
 扉の向こうにいる人物が誰かなど、このうるさいチャイムを聞くだけでわかる。

「冬木!」
「わっ、びっくりした! おはよう誠くん!」

 玄関先にはぱっと見いつもと変わらない、明るい笑みの冬木が立っていた。しかし体の前で組んだ手が微かに震えていることも、その理由も今の俺にはわかる。

 くだらない前置きはなしだ。

「入れ」
「え、でも大会までゆっくりする時間はな――」
「はぐらかさなくていい。死ぬんだろ、俺はこれから」

 そう口にした瞬間、冬木の表情から笑みが消えた。
 ――その反応は紛れもなく、俺の見た夢が現実であることの証明だった。
 ――十月十八日 県大会当日

 私は愚か者だ。
 私は大馬鹿者だ。

 こうなることがわかっていながら、結局何もできなかった。
 誠くんの家の前で、私は不安に怯える胸を落ち着けるべく何度も深呼吸をする。

 今日、誠くんは死ぬ。そんなこと誠くんは夢にも思っていないだろう。
 顔を合わせた時、上手く笑えるだろうか。きっと誠くんはもう起きている、私がチャイムを押せばすぐにでも出てくるはずだ。

 扉の前で何度も息を整える。口角をあげて、開口一番「おはよう!」と言えるよう幾度となく予行練習を行った。

 泣いても笑っても、今日が運命の日。
 彼の運命を変えるために、私はもう一度ここに来た。

 ああ、懐かしい。こうして笑顔の練習をしているとあの頃の記憶が鮮明に蘇る。誠くんと過ごしたかけがえのない時間。

 けれど、その記憶はこの半年間のものではない。私が彼の邪魔をし続けた日々の記憶ではない。

 それは時間をさかのぼる前、私が彼と過ごした本当の半年間――。

 ◇ ◇ ◇

 高校入学当初、私は隣の席に座る誠くんを変な人だな、と思った。
 いつもスマホばかりを見ていて、昼休みになるとどこかへふらっと消えてしまう。授業もろくに聞いていないみたいでいつも先生に叱られていたっけ。

 そんな彼と私の関係性は、ただの他人、そのひと言が相応しかった。
 話しけることも、話しかけられることもない。挨拶すらしない。ただクラスが同じで席が隣なだけの全くの他人。道ですれ違う通行人と何ら変わらない関係性。

 当時の私はそれでよかった。
 教室の隅で空気のように座ることが明るい性格ではなかった私には何よりも重要なことだった。

 友達が欲しいとは思うけれど、それ以上に他人に話しかけるという行為がたまらなく苦痛だった。

 何か原因があったわけじゃない。ただ、生まれつきそういう性格だっただけ。

 高校入学当初は希望通りの目立たず平和な生活ができていた。あの日、クラスの子から、いじめを受け始めるまでは。

 金髪で、休み時間になるといつもゲラゲラと笑っている彼女たちはある日唐突に私に目をつけた。どうして自分がいじめられることになったのか私にはわからなかった。

 思い返せば、きっと誰でもよかったのだと思う。一方的に攻撃できる弱い相手ならば誰でも。そういう意味で言えば私ほど手を出しやすい相手はいない。いつもひとりで俯いて、誰とも話そうとしないのだから。派手な彼女たちからすれば地味な私は恰好の餌食だったに違いない。
「千歳ってどうして何も言い返さないの? もしかしていじめられるのが好きだったりしちゃう?」

 彼女たちに弄ばれながら、何度もそんなことを言われた。
 違う、言い返さないんじゃなくて、言い返せないだけ。

 本当は嫌だって叫びたい。すぐにでも逃げだしたい。
 でも怖くて声がでない。足が動かない。

 彼女たちにだってそれはわかるはずだ。わかっていながら、あえてそうやっているのだ。彼女たちは苦しむ私を見ていつも楽しそうに口の端を歪める。

 彼女たちからの行為は日に日に悪化していく一方だった。

「死にたい」

 ある日の朝、目が覚めた私は自然とそう呟いていた。
 学校に行きたくない。今すぐ首を吊って楽になりたい。ここではないどこか遠くで誰にも知られずに消え去りたい。

 頭の中はそんなことばかりだった。
 けれど、行動に移すことはなかった。

 弱い私には死ぬことも、誰かに相談する勇気もなかった。
 もとより相談できるほど心を許した相手なんてひとりもいない。家族にも心配はかけたくない。

 ああ、いつまでこんな生活が続くんだろう。
 お母さんに作ってもらったお弁当をトイレに流される時も、体育のあと着替えを隠されたときも、私はそんなことばかりを考えていた。
 周りの女の子たちはみんな私がいじめられていると知っている。だけど、誰も助けてくれなかった。男子に至っては私がクラスにいることすら知らなかったに違いない。

 どこを見渡しても、私の周りに味方なんていない。
 救いなんてないどこにもない。
 絶望感がますます私の胸を締め付けていく。

 ――私が初めて誠くんと話をしたのは、そんなある日のことだった。

 昼休みに入った私は逃げ場を探していた。彼女たちの手から逃れられる場所を。学校という閉ざされた施設のどこに逃げ場があるかはわからない。それでも涙ながら死に物狂いで駆け回り、必死に逃げ場を追い求めた。

 そして、私はあの場所に辿り着いた。

「あ」

 目が合ったからか、彼は気まずそうな声を漏らす。
 息も絶え絶えになってようやく辿り着いたそこには、先客がいた。

 屋上前の階段に座る彼を、私は踊り場から無言で見上げていた。
 見覚えのある顔。当たり前だ、彼はいつも隣の席に座っているのだから。

 財前誠。かろうじて名前だけは覚えていた彼に、私はその瞬間初めて存在を認知されたような気がした。
「えっと、どうした……?」

 肩で息をして、しかも涙目だった私を訝しんだのか、彼の表情にはやや困惑の色が見られる。

「……何でもない」
「そ、そうか」

 どう見ても何でもなくないのに、我ながら面倒な返しをしたと思う。
 本当は「心配しないで、気を遣わせてごめんね」とか、そういうことを言いたかったのに、口から出てくる言葉は自分でも驚くくらい淡々としていた。

 人付き合いを避けてきた私には、咄嗟に返せる気の利いた言葉の持ち合わせなどこれっぽっちもなかった。

 いじめられている、助けて。素直にそう吐けば何かが変わるかもしれないと思いながらも、落ち着かなさそうな彼の顔を見て口を噤む。

「私……もう戻るから。邪魔してごめんね」
 
 どこか別の場所に行こう。
 人のことを気遣う余裕などないというのに、私はその場から立ち去ろうとした。

「あ、あのさ」

 しかし、踵を返した私の背に彼の声がかかる。いまいち勢いのない、何かを躊躇いながら発せられたような声。

「……なに?」
「なんというか、その、あれだ」

 彼は口下手なのか、慎重に言葉を選んでいることがわかって、つい振り向いてその顔を見上げた。同時に、私くらいなら簡単にひねりつぶせそうな体格の彼から一体どんな言葉が飛び出してくるのかと身構えてもいた。
「話くらいなら聞いてやれるからさ、つらいことがあったらいつでもここに来てくれ」

 それを聞いた瞬間、思考が停止した。これまでかけられたこともない類の言葉に、脳がついていけなかったのだ。

『――千歳ってどうして何も言い返さないの?』
『――もしかしていじめられるのが好きだったりしちゃう?』

 耳に残った彼女たちからの悪意が、私が彼の言葉を理解することを遅らせていた。

『つらいことがあったらいつでもここに来てくれ』

 しかし、彼が私を心配してくれているのだと理解した瞬間、何故だか自分でもわからないほど大きな涙が粒となって床にこぼれ落ちた。

 ひと粒、ふた粒。まるで降り始めた雨のように、頬を伝って雫がぽつぽつと床を濡らす。

「えっ、俺なにかまずいこと言ったか……!?」

 涙を流す私を見て焦ったのか、誠くんはスマホも弁当箱も放りだして階段を駆け下りてきた。あたふたと慌てる姿からは悪意など微塵も感じられなくて、本当に私を慮って言ってくれたのだと身に染みた。

 初めてのことだった。

 この地獄のような世界で、誰も助けてくれない世界で、初めて手を差し伸ばされた。

 誰か助けて、誰か私に気付いて。心の中で叫んでいた私の声を彼だけが聞いてくれたような気がして、それを自覚した途端、どうして自分が涙を流しているのかがわかった。

 私は嬉しかったんだ。
 いつでもここに来ていい。
 たったそれだけのことなのに、言葉では言い表せない安心感があった。
 彼にしてみれば些細なことだったのだろう。
 迷っている人に道を教えるとか、すれ違った人の落とし物を拾ってあげるとか、その程度の感覚で私を引き止めたに違いない。

 だからぼろぼろと涙をこぼす私のことがわからなくて焦っているのだと思う。

 でも、彼にとっては小さなことでも、私にとってはたまらなく大きなことだった。

 ただ落とし物を拾ってあげただけ。ただ道を教えただけ。
 しかし、もしその落し物がその人にとっての宝物だったらどうだろう。もしその人にとって大切な場所だったらどうだろう。

 きっとその人たちは些細な親切に対し、大げさなほど感謝するに違いない。

「……ありがとう」

 泣かせてしまったと慌てふためく彼を安心させようとお礼を告げた。

「えっと、大丈夫か……?」
「あ、えっと……これは違うの。その、優しくされたのが嬉しくて……気を遣わせてごめんね、ありがとう。心配しないで」
「そうか。ならよかった」

 彼はほっとしたように息をつくと再び扉の前に座りこんだ。熱心にスマホを眺めているが、時折ちらちらとこちらに視線を配ってきている。立っていないで座ったらどうだ、と言いたげな目だった。

 本人がいいと言ったとはいえ、話したこともない相手の近くに座るというのは根暗な私にはハードルが高い。でもせっかくの親切を台無しにするのも申し訳がない。

 悩んだ結果、私は彼より数段下の階段に腰を落ち着けることにした。