「…今までどんだけ手加減してたんだよ。」
「牙鋭様!」
一部始終を黙って見ていた牙鋭はついに膝から崩れ落ちた。颪がすかさず駆け寄り、牙鋭を支える。
黒蓮は今まで攻撃されても躱したり強く注意したりする程度で、反撃したことはなかったのだ。牙鋭は黒蓮の力を見縊っていたことに後悔しながら、颪に向かって口を開いた。
「もうオレに仕えなくていい。こいつらと一緒に行くなり、一人で暮らすなり好きにしろ。」
「何故いきなりそんなことをおっしゃるのですか?」
「オレと一緒にいたら、綺麗な生き方はできねぇぞ。」
牙鋭は吐き捨てるようにそう言った。
「そんなもの自分が望んでいると思いますか??」
「…一つ言い忘れていたが、オレはお前に呪いなんかかけてないんだよ。」
「…え?」
「試したんだ。お前はいつでも逃げられたんだよ。逃げたら、追うつもりもなかった。」
「呪いなど関係ありません。自分はあの時から牙鋭様にお仕えすると誓ったはずです。」
「そうか……オレには勿体無かったな。」
そう言うと牙鋭は力なく笑った。牙鋭は他者に与える力は強いが、その力を己に向けることはできない。つまり神のように凄まじい治癒力は持たないのだ。
「…牙鋭さんを手当てしても良いですか?」
「…ああ。オレも手伝おう。」
「まさかお前に手当てされる日が来るとはな。」
牙鋭は黒蓮を見つつそう言うが、もう動く気力も無いのか抵抗しなかった。雪月は風で吹き飛ばされかけていた風呂敷を開いて布を取り出す。慌てて準備してきたので、薬房にあった布やさらしはほぼ全て詰め込んできたのだが、結果的に役に立った。
牙鋭に薬草はもちろん使えないので、直接圧迫して止血する。颪と三人で手分けしながら手当てしているが、牙鋭本人はというと、別人になったかのようにおとなしい。すると、空を見つめたままポツリと呟いた。
「なんでオレはこんな風にしか生きられねぇんだろって、ずっと思ってた。」
雪月は目を見開いて手を止め、牙鋭の方を見ると牙鋭も雪月のことを見ていた。
「…あんた強いんだな。」
「え?」
(どういう意味だろう。)
「私は特別な力は持っていませんが…」
「そうじゃねぇ…。ただ、強いヤツは自分の人生を嘆いたりしねぇんだなって思っただけだ。」
牙鋭は、雪月がどういった境遇で黒蓮と共にいるのか知っているらしかった。牙鋭は再び空を見つめると、独白を始めた。
「人間はオレの力に敵わない。オレに喰われることしかできない。他の妖怪も怯えて近づかない。オレはそれで自分が強い気になっていた。…でも言いかえればそれしかできない。実際、力が及ばずこのザマだ。」
弱さを認めることこそが、牙鋭にとって強くなるために必要だったのだろう。そして、自分の思い通りにすることが全てではないと気付くべきだったのだ。
「オレは本当に醜い怪物だな。」
そう言って、苦しそうに、悲しそうに笑った。
「……そうでしょうか。」
今まで黙って聞いていた雪月はもう一度、しかし今度はしっかりとした眼差しで牙鋭を見つめた。
「相手が傷つくのを気にしなくなったら、本物の怪物になってしまうかもしれません。でもあなたはあの時、苦しむ私を見て力を緩めてくれたじゃないですか。」
雪月は首を絞められた時、やめてと言ったが本当にやめてくれるとは思っていなかった。牙鋭の言ったように、殺さなければ良い話だからだ。しかし同時に瞳の奥に見えた気がした悲しみの色も忘れていない。牙鋭自身、己のしていることにどこか疑問を抱いていたのだろう。
今度は牙鋭が雪月の言葉に目を見開いた後、小さく「悪かったな。」と謝った。
「黒蓮。」
牙鋭に呼ばれ、黒蓮は視線だけで応える。
「いい人に会ったな…。オレも昔にこんなヤツに出会っていたら、何か違ったのかもしれねぇ…。」
そして再び雪月の方を向いた。
「ありがとな…。……雪月…。」
「牙鋭様!」
体力の限界だったのか、牙鋭は気を失ってしまった。
「颪さん、牙鋭さんをお願いできますか?」
「はい。」
雪月は風呂敷ごと颪に渡した。牙鋭は屋敷に連れ帰れないし、植物由来の生薬は効かない。雪月は心配に思ったが本人の治癒力に頼るしかないのだ。
颪は牙鋭を抱き上げると、二人に頭を下げた。
「色々とご迷惑をおかけしました。」
「颪、といったな。俺の方こそすまなかった。牙鋭を頼む。」
「はい。それでは。」
「いつかまた、顔を見せてくださいね。」
「…そうですね。いつか。」
颪は目を細めてそう答えると、ゆっくりと去って行った。さらしの下で、口元が弧を描いていたのは気のせいではないことを祈りながら、雪月は二人を見送った。
雲の隙間からは、再び白い月が顔を覗かせていた。
「俺たちもそろそろ帰ろう。」
「そうですね。」
「待ってください!」
振り返ると、誰かが走ってきている。息を切らしながら声をかけてきたのは李花だった。手には先程雪月が李花の瘤を冷やすために用いた布を握りしめている。
(そういえば、洞窟の中で寝かせたまま忘れてた…。)
「李花さん、もう頭の怪我は大丈夫ですか?」
「あたしは大丈夫ですけど、あの、えっと……本当にごめんなさい‼︎」
李花は勢いよく頭を下げた。
「お前が雪月を連れ出したと聞いたが…何か事情があったのだろう?」
「はい…。」
しかし、李花はそれきり黙り込んでしまった。
(確かに、なんで李花さんは牙鋭さんのいいなりになっていたんだろう。)
雪月から見た感じでも、李花は牙鋭に仕えているというわけでもなそうだった。牙鋭の李花に対する扱い方や、会話を聞けば一目瞭然である。
「悪いと思っているのならちゃんと話してほしい。」
「私からもお願いします。」
何か困っていることがあるのなら、少しでも力になりたいと思った雪月は自らも話してくれるように頼んだ。二人にお願いされて流石に居た堪れなくなったのか、李花は己のことを語り出した。
「あたしは人家で飼われていた猫でした。元々は山中で暮らしていたんですけど、怪我を負ってしまって…。動けなくなっていたところを人間に拾われたんです。」
李花の話や、黒蓮の補足説明によると、猫又には二種類いるらしい。山中に暮らす猫が長く生きて猫又になった場合と、人家で飼われている猫が年老いて尾が二つに分かれたものだ。山中で猫又になったものは人を食べるが、人家で飼われていた猫は猫又になっても人は食べない。李花は後者だった。
「あたしは、手当てしてくれた人たちのことが大好きだったんですけど、寿命がきちゃって…。もっと一緒にいたいと思っていたら猫又になっていたんです。あの人たちの子供も、そのまた子供も、影から見守っていました。話したかったけど、あたしはまだ上手く人形をとれないし、猫の姿になっても尾が二つに割れてるし…。」
李花は俯きながら悲しそうに自分の尾を撫でた。
「あたしは見守ることしかできないけど、それでもいいと思ってたんです。あの人たちが幸せなら…」
「でも…!」と顔を上げた李花の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「雪月さんを連れ出さなければ、あの人たちを喰らうと言われたんです…!」
「なるほど…。牙鋭たちは釁隙に入れないから李花にやらせたということだな。」
「そんなことが…。」
(颪さんが洞窟に私を連れてくるように仕向けたと言っていたのはそういうことだったんだ。)
「ただの猫だったあたしが言うのもなんですが…、人の一生は短いです。でも一人で生きるには長すぎる。だから人は互いに寄り添い合うと思うんです。それを簡単に壊されたくなかった…!」
李花は悔しそうに歯を食いしばっているが、その大きな瞳からは大粒の涙が溢れている。
「…でも、雪月さんも人間です。あたしは命の選別をしちゃったようなものです…っ。本当にごめんなさい…‼︎」
「私は大丈夫ですし…、話してくれてありがとうございます。」
雪月は李花の背中をさすりながら少し屈んで視線を合わせた。
「皆怪我だけで済んだって言ったらあれですが…。その人たちもきっと無事ですよ。」
颪のことだ。李花の近辺を探って脅しただけで、その人間たちに手を出しているとは思えない。
黒蓮も李花に視線を合わせるために屈むと、安心させるように頭にぽんと手を置いた。
「何かを守るためには、何かを犠牲にしなければならないときがある。…だが、判断に困ったときは相談しろ。俺の立場はそのためにもあるんだ。」
黒蓮はきまりが悪そうに「まぁ今回のこともあるし、信用できないかもしれないが…。」と付け加えた。
「そんなことないです! すみませんでした。でも、ありがとうございます…っ。」
李花は涙を拭いながら何度も礼を言った後、大切な人たちの様子を見てくると言って去って行った。
*
雪月と黒蓮もようやく屋敷に戻った。そう何日も空けていたわけではないが、久しぶりな感じと安心感に包まれ、雪月は思わず笑みが溢れた。ところが黒蓮はずっと自己嫌悪に陥っている。
「俺は本当に駄目だな。約束一つ守れない。危害は加えさせないと言っておきながら、こうして危険な目に合わせてしまったし、他の妖怪も巻き込んでしまった…。」
(黒蓮様、かなり自責の念に駆られてらっしゃる…。)
ちなみに今まで牙鋭が人間に手を出そうとした時は、ことごとく黒蓮がその場で止めていたらしい。どうやって牙鋭の行動を見抜いていたのかといえば、嫌な予感がしたから赴いてみれば牙鋭がいた、とのことだった。今回上手く対応できなかったというより、今までが奇跡である。
「黒蓮様、そんなにご自分を責めないでください。牙鋭さんも分かってくれたみたいですし、こうして私も無事っ…」
雪月は話している途中でいきなり、しかし優しく抱き締められた。
「ああ、本当に無事で良かった…!」
その声はまたも少し震えている。雪月は安心させるように抱き締め返した。いつかの黒蓮が自分にしてくれたときのように。
「俺はもう数え切れないくらいの時を越えている。その中で孤独には慣れたつもりだった。でも、孤独に慣れても何の意味もないということをお前は教えてくれた。」
相手がたとえ人間でなくとも、そこから感じられる温もりが確かに存在することが、雪月は嬉しかった。
「食事をする楽しさも、星を見る喜びも、誰かと時を共にする幸せを思いださせてくれた。…俺は雪月に教わってばかりだな。」
黒蓮は困ったように微笑んだ。
「私もですよ。」
(これからも一緒にいたい。特別な存在になりたい。)
「あの、黒蓮様…」
雪月の中で渦巻いてきた思いが、はっきりと形になった。しかし、言葉が出てこない。
「なんだ?」
大切な想いほど、言葉に出来ぬものだ。だが雪月は、「愛情を示すことを恐れてはならない。」という母の言葉を思い出した。恐れ多くて言葉に出来なかったこと。無意識のうちに考えないようにしていたこと。
雪月は赤く火照った顔で黒蓮を見上げた。
「好き、好きです、黒蓮様。」
黒蓮は息を呑んだ。言葉が見つからないのか、口を開きかけてまた閉じる。
「私は黒蓮様のずっとお側にいたいです。特別な存在になりたいです。私を…眷属にしてもらえませんか?」
黒蓮は目を見開いたまま固まっている。雪月は、誰かの言葉や一時の感情に流されているつもりはなかった。ただ心から、そうありたいと願ったのだ。
ひどく長く感じられた時間は、黒蓮の声によって終わりを迎えた。
「本気か?」
「はい。」
雪月は形容しがたい感覚に襲われ、汗が背中を伝っていくのを感じながら黒蓮の次の言葉を待った。
「……お前を俺の眷属にはしない。」
「ぇ…。」
「そのかわり…妻として、俺の側にいてほしい。」
「なぜこんなに早く知れ渡っているんだ…。」
黒蓮は呆れたように目の前の着物一式を見つめている。ここ数日は誰も来ていなかったが、夜が明けるとある妖怪が屋敷に訪れていた。氷織という雪女の妖怪である。彼女は雪月と黒蓮二人分の着物を持って、定期的に開かれている宴への参加のお誘いをしに来たのだ。もちろん理由は雪月の嫁入りが決まったからである。そのお祝いを兼ねて明日の日が落ちた頃、盛大に開かれるらしい。しかしあの夜からそう何日も経っていないのに、妖怪たちには知れ渡っていた。
「とても豪華ですね…二日で作ったとは思えません。」
「また腕を上げたらしい。」
ぜひ仕立てたこの着物を着て参加してほしいとのことだった。都ではとてもお目にかかれない豪華さだ。普段黒蓮や雪月が着ている着物や浴衣は、全て氷織が作ったものらしい。患者の着替え用にと女性用の衣類も屋敷には揃っている。雪月が最初に着せてもらった浴衣もその一つだ。
雪月のために用意された着物は、深い青に薄紅色の桜の柄が映えている。さらに生地には銀糸が織り込まれており、星のように輝くそれは幻想的な雰囲気を醸し出していた。
対して黒蓮の着物と羽織は深い紫色で無地。一見豪華には見えないが、羽織が裏勝りになっている。裏勝りとは、表地よりも豪華な裏地を忍ばせることである。羽裏は脱いで初めて他人に見える場所だ。雪月と同じ桜の柄と、銀糸で繊細な刺繍が施されている。
気恥ずかしさは残るが、せっかく用意してくれたものなので着ていくことにした。
*
「わぁ、たくさんの方々が来られるのですね。」
宴は牙鋭がいた洞窟とは反対に少し山を下った広場のような場所で開かれていた。見知っている妖怪もいるが、会ったこともない妖怪たちも多くいる。皆楽しそうに談笑しているようだ。黒蓮が「年々規模が大きくなっている気がするな…。」と呟いていると、白い着物を纏った美しい女性――氷織が近づいてきた。
「着てくれたんですね!」
「はい。こんな素敵な着物、本当に頂いて良いのですか?」
「勿論です。お二人の為に作ったのですから。よくお似合いですよ。」
「ありがとうございます。」
「いつもありがとう。これも大切に着させてもらう。」
氷織は嬉しそうに微笑んだ。
「さあ、今宵の主役はお二人ですから。私が独り占めするわけにはいきませんね。」
氷織に促され広場の中心に行くと、宴の主催者が座っていた。氷織は「私はこれで。」と言って軽く会釈し去って行った。主催しているのは酒呑童子という鬼らしい。
「よお黒蓮。久しぶりだな。で、そっちが雪月か。二人ともおめでとう。」
「ああ、ありがとう。」
「ありがとうございます。」
「食いもんはないけど、酒は大量に持ってきたから楽しんでくれ。」
「俺は、酒は飲んでも何も変わらないと言っているのに。」
(私は飲んだことないけど、そういえば黒蓮様ってどれだけ飲んでも酔わないんだっけ…)
「そう言うと思って、お祝い用に特別な酒を持ってきたんだよ。」
「特別な酒?」
酒呑童子は意味ありげに笑うと、どこからか徳利を取り出した。
「これは我が鬼の一族に代々伝わる秘伝の手法で作られた酒だ。特別に持ってきたから受け取ってくれ。」
「…後で頂こう。」
流石に断るのも気が引けたのか、黒蓮は素直に徳利を受け取った。
「雪月さーん!」
声に振り向くと、李花が手を振っていた。
「俺は個別に挨拶したい妖怪がいるから、雪月も好きなように見て回るといい。あ、…あまり酒は飲むなよ。」
「はい。」
(私がお酒飲んだことがないから心配してくれたのかな。)