人間の脳は、
「左脳」...識字、計算を含む論理的、分析的な思考をする部分
「右脳」...感情、ひらめき、イメージを司る部分
の大きく分けて二つに分かれている。
 一般的に男性の恋は左脳、女性の恋は右脳だとされている。そのため、男女間での恋愛観の違いは脳科学的なものが原因だとされていてどうしても起こってしまうものなのである。
 そして右脳にはもう一つ大きな役割がある。それが”記憶”である。


「カチっ、カチっ、カチっ」
 高校二年の始まりを知らせるチャイムが鳴る。

久しぶり
またお前と一緒の暮らすかよ
おお、髪切ったね
先生誰だろうね
ねね、ライン友達追加していい?
一年生かわいい
なんか教室広くない?
久しぶりって昨日会ったじゃん!
松村先生以外がいいなぁ
あーそれわたしも、
「席につけー、私がこのクラスを持つことになった松村だよろしくな、そしてこのクラスには転校生が入ることになった。」
えーこの時期に転校生?
誰々、かわいいこがいいなぁ
途中からってことは訳ありかな?
なんか病気がちだったのかもね
いやでも、もしかしたら暴力沙汰で退学になったのかもよ
「静かにしろ、よし入っていいぞ」

「初めまして、梅野凛です」

 イメージと違かったのだろうか、名前だけで終わらすぼくに、クラスは一瞬の困惑を見せながらもまばらに拍手を鳴らし始めてくれた。ぼくは、何事もなかったかのように言われた通り席に向かう。その道中、クラスが目でぼくを追っているのが分かる。しかしその中に、一つだけ他とは違う類の視線を感じた。その時振り向けば視線の主が誰であったかわかったと思うがぼくはそれをしなかった。できなかった。何かが変わってしまうと思った。
 朝のホームルームが終わり、女の子が近づいてくるのが視界の右端に映った。そして深く一回息を吸う音とともに、背後から声がした。
「ねえ、」
 ぼくは戸惑って、彼女を見て言った。
「はじめまして、梅野凛です。」
 ぼくが返事したことが意外だったのか、彼女は少し不満そうに
「神田ゆかりです」と言った。
 彼女なりに精一杯の笑顔をしたのだろう。僕もそれに応えようと、
「よろしく、神田さん」と笑顔を作った。しかしぼくの笑顔がぎこちなかったのか彼女が少しだけ愛想笑いになったように思えた。
 とはいえ、ほかに話すことも考えてなかったので気まずめの空気に軽く襲われ、ぼくは勝手にダメージを受ける。
 彼女は、その一言だけ僕に言い残して去ると、視界に映る彼女が最初より少し小さく見えた。
 それ以降ぼくが彼女に話しかけられることはなかった。
 ぼくは明るくはなかったけど、決して無差別に人を嫌うような人間ではなかったので時間はかかったけど五月頃にはそれなりにクラスに馴染めていた。ただ神田ゆかりとは転校したその日以来口をきいていなかった。
 転校してから今日までクラスには馴染めたが、神田ゆかりのことをどこか気にしていた。最初に見たあの愛想笑いがぼくの何かに引っ掛かった。最近は気が付けば彼女のことを目で追ってしまっている。それは多分彼女にもばれていると思う。決して僕に対して向けている感情が怒りではないということは分かっていたが、ぼくを見ると少しの喪失感を思わせるさみしそうな顔をする理由がぼくには分からなかった。無視してはいけない感情だと思った。
 一人で抱え込むのは良くないことだと散々聞かされてきたが、今のぼくにこれを相談できるような相手はいない。そう簡単に人に話してはいけないことだと直感的にそう感じた。
 明日彼女に聞こう。そう静かに決めた。
 
 人生そううまくはいかないと誰かが言っていた。その通りだった。彼女は今日初めて学校を欠席した。
 ぼくは心の中で神回避かと思いながらも、実際は心に決めたことがきっと顔に出ていたのだろうなと反省する。
 彼女は次の日も欠席した。
 平静を装おうとしたけれど心が落ち着かない。自分がしたことを振り返り勝手に責任を感じる。この時のぼくは周りから見たらきっと焦って見えただろう。汗の一滴や二滴は出ていた焦っと思う。それくらいに体が熱かった。
 しかし、人生そう悪いことばかりは続かないとも誰かが言っていた。彼女は二日ぶりに学校に来た。それだけでぼくの中に、高揚感が生まれた。まだ本題に入っていないということは一旦忘れて。
 そんな大事な日に何もアクションを起こさないまま太陽が頭上を通過した。焦りと興奮と心配と恐怖がぼくの頭の電池を食う。決闘の末、ぼくの理性は理想的な働きをし彼女に声をかける決心がついた。
 五時限と六時限の間
 視線を上げる
 右前方を確認する
 

「神田さん」とあえて背後から声をかける。背後であることに特に意味はない。言うならば仕返しであろうか。
 彼女はさほど驚いた様子もせず無言で振り向く。
「どしたの?梅田君」
 今度は分かりやすい愛想笑いだった。
 ぼくもそれに対して平然とした口調で続ける。
「ぼく何か神田さんの気に障るようなことしちゃったかな?もしそうならごめんなさい」
 何を話すか決めていなかったぼくは心にも思ってない謝罪の言葉を口にした。彼女の方だって急に謝られて困ったと思う。ぼくだったら困る。しかし、あれだけ時間があって自分でも不思議に思うくらい話すことを考えていなかった。こんなに頑張って勇気まで使ったのにと、もう既に後悔している。
「ううん、別に大丈夫だよ」
 彼女はそう言ったが、相変わらずの愛想笑いとその短い返答がぼくの息を詰まらせた。彼女の顔を見ると息もできないくらいに苦しく感じた。こんなことならと再び早めの後悔をする。
 しかしここで引き下がっては、また彼女を気にしながらの生活になってしまうと思い、すんでのところで踏みとどまった。
「そうかな?でもなんか神田さんの顔がさみしそうなんだよね」
 この発言の直後、ぼくの心の中ではやってやったと思う気持ちと言ってしまったと思う気持ちの二つが拮抗していた。
 だが、次の瞬間ぼくの気持ちの片方は消滅した。
 彼女がぼくの言葉に対して、驚くと同時に怒りや悲しみや悔しさとも言えない表情をした。この瞬間ぼくは越えてはいけない一線を越えてしまったのだと自覚したが、もう遅かった。
 この出来事がぼくと彼女との溝をさらに深めた。

 救急車の音を聞くと頭が痛くなる。これは別に最近に始まったことではない。しかし、転校してからその頻度は増えた気がする。
「頭痛が痛い」
「バカか」
 ぼくの恥ずかしい独り言を拾いツッコミを入れてきたのは同じクラスの祐介だ。彼とは席が近かったということもあって、ぼくの友達の中では仲のいいほうだ。
 彼はそれ以上深くは聞いてこなかった。そんなところを良いなと思いながらも少し人に話したくなったぼくは祐介に相談することにした。
「神田ゆかりってどんな人?あ、ちなみにこの子が気になるとかそういうのじゃないから。」と聞かれてもいないことも付け足す。
「ん?どんな人って...かわいい人?」
 祐介はぼくの付け足しに振れもせず、求めていたのと違う答えが返ってきた。
「違うんだ、容姿のことじゃなくて、なんかこう...避けられてるというかそんな感じがするんだけど...もしかして男嫌いとか?」
「それはないと思うよ。たしかに神田さんの恋愛事情は聞いたことないけど、少なくとも男気嫌いではないよ。俺は仲いいし。」
 さらっと自分のコミュニケーション能力の高さを自慢してきたが、たしかに転校生のこのぼくが信頼できる相手なのだから、その通りだなと思った。だが男嫌いではないとすると、やはり彼女に個人的に嫌われているとしか思えなかった。
「ありがと」
 自分の感謝の言葉に祐介が喜んでくれて、なんだかいいことをした気分になってしまう。彼は本当に良いやつだ。
 誰かに嫌われることは嫌だし、大事な友達が数人いれば何人かには嫌われてもいいと思えるような人間ではなく、どちらかと言うとみんなから好かれたいと思う方の人間なので、この状況のままにするのは気に入らなかった。だが、原因が不明である今打つ手はないので、妥協して神田ゆかりとのことは忘れることにした。

 ぼくは二年目からのスタートもすっかり慣れて、学校生活も安定してきた。六月にあるこの学校で初めての体育祭を通して、また一段とクラスとの距離が縮まった。人間関係は順調だった、一人を除いては。
 このイベントの終わりと同時にぼくにも春が来る。
 初めて告白された。
 隣のクラスの深田さんだった。彼女はメガネで物静かそうな雰囲気の子だった。ぼくは特段足が速いわけでもなかったので、体育祭で目立った活躍はしていなかったけれど、彼女は普段の学校生活でのぼくが優しくてかっこいいと言ってくれた。うれしかった。やっぱりどこかで誰かが自分のことを見ていてくれるんだなぁと思うと笑みがこぼれる。
 彼女に告白はされたが、付き合ってくれと言われたわけではなかったのでその後どうすることもしなかった。友人たちには「付き合っちゃえよ」だの「勿体ない」だの言われたが、ぼくは告白されたのも初めてだし、彼女なんかも当然いたことがなかったので付き合うという考えは特になかった。ただ、自分に向けられる好意が嬉しく、一人で心の奥でかみしめていた。
 このテクノロジーが進化した時代で、人間に不可能なことは日に日に少なくなってきていると思うが、未だ魔法だの魔力だのそういう目に見えない力はファンタジーの世界だけのものだと思う。しかし、高校のイベントには何か目に見えない特別な力があると思う。イベント後は、クラスの雰囲気も変わり色恋の話にクラスの意識は支配される。クラス内ではもちろんのこと、他クラス、ましてや学年の壁をも越えることがあるのだからこの力には驚かされる。
「お前彼女いるんだって?」
 突然の声に驚いて振り向く。この驚きは内容を聞いてというよりも背後からの急な声に驚いた反射の方であった。そのため内容を理解してからはまた驚いた。
「隣のクラスの女の子でしょ?」
 声をかけてきたのは同じクラスの速水君。彼とは仲が悪いわけではないが、いつもは別のグループにいてほとんど話したことはなかった。そんな彼がぼくに話しかけてきたのだから本当にイベントの力は強大だと思った。
「え、何それ知らないんだけど」
 いろいろ考えたが、まずは相手の知っている情報を知ることが第一優先だと思って、彼にしゃべらせることにした。
「誰かは知らないんだけど隣のクラスの女子に告られたって聞いた。」
 彼が言っている情報は間違っていない。普通噂というのは怖いもので、話に尾ひれがついて自分に回ってくる頃には盛大に成長しているものだが、今のところ彼の情報に誤りはない。
「で...告られたら付き合うっしょ」
「ここか。」
 なるほど、こうやって噂は成長していくのかとその瞬間に立ち会えて安心する。まだそんなには広まっていないのだろう。付き合ったというのは速水君の自論だった。ぼくの周りの友達の容疑が晴れてうれしい反面、心の中で謝罪をする。
「告白はされたけど付き合ってはないんだ。」
「えー振ったんだ。」
 改めて振ったのだといわれると少し心が苦しくなるが、好きでもないのに付き合うことの方が申し訳ないし、なにしろ「付き合って」とは言われてないので振ったわけではない。と自分を肯定する。
 速水君はぼくと違って、運動神経もよく顔立ちも整っているから告白されることなんて別に珍しいことじゃないんだろうなと皮肉気に思いながら、去っていく速水君の背中を見送る。
 噂なんてすぐ消える。そう思っていた。

 イベントが終わった学校は何処か寂しく、クラスにも力がないように見えた。これが中だるみの時期なのだろうか。燃え尽き症候群と中だるみが重なって、心配になるくらい毎日が力なく過ぎていった。
 この消極的な日常を救ったのは、またしても色恋沙汰であった。高校生とは単純な生き物だと他人事のように思った。
 うちのクラス内にカップルが誕生した。兼ねてから何回か噂にはなっていたが、ついにゴールしたと話題になった。二人ともいじられてはいるがどこか嬉しそうで、クラスも息を吹き返した。
 しかしこんな話はその場しのぎのものでしかなかった。こんなにも夏休みまでが遠く感じるのかと思った。ついこの間まで一緒にいた退屈な日常が帰ってきた。お帰り。
 そんな退屈な日常は意外な形で幕を閉じた。次はぼくだった。
 朝クラスに行くと複数の視線を感じた。その瞬間にぼくは、自分の身に何かが起こったのだと察知した。事態が大きくなる前になんとかしたかったぼくは、祐介に聞きに行こうとしたが、祐介はまだ来ていなかった。非のない祐介を初めて恨んだ。
 祐介を待つか速水君に聞くか迷っていたが、速水君の方からぼくに話しかけてきた。視線が集まるのを肌で体感しぞっとする。注目を浴びることの怖さを覚える。クラスで目立ちたいとか思う子はどんな神経をしているのだろうか。同じ人間なのだろうかとまで思う。
「梅野ってほんとに彼女いないんだよね?」
 彼が、信じてたのに裏切られたと言わんばかりの圧をかけてきた。人当たりの良いはずの速水君が怖かった。一瞬ひるんでぼくが言う。
「いないって!」
 自分でも想像の三倍くらいの声が出て驚く。それなのに目の前にいた速水君はピクリともしなかった。彼が怖い。クラスからの疑念の目がまだ消えていないことが容易にわかった。もう自分ではどうしようもない。この時に、告白されたけど振ったと言えば、納得はしてもらえただろうけど勇気を出して伝えてくれた深田さんのことを思うと言えなかった。
  告白することはとっても勇気がいること。
「ガラガラッ」
 ぼくが作った沈黙を破ったのは祐介だった。
「どしたん凛?」
 この静寂の中で、注目の的であるぼくに話しかけてくれるところはすごいと思うし、ほんとに祐介が友達でよかったと思う。祐介への感謝の気持ちよりも尊敬する気持ちの方が大きかった。
「リア充の疑いをかけられてる」
 ぼくの言葉に半笑いしながら祐介は、「お前が?彼女いたことないのに?むりむり」と言った。
 リア充を否定してくれたことは助かるが、シンプルにバカにされた気もして素直にありがとうとは思えなかった。
「ひとこと余計なんだよな」
 ぼくと祐介との会話で、疑いが少し晴れたのか視線が和らぐ。そんなころころ意見を変えるなんて皆どんだけ周りに流されてるんだよと思いながらも、その単純さに感謝する。
 場が和らいで終わりかと思ったときに、話を少し戻される。
「梅野って彼女いない歴=年齢なのかよ」
 恥ずかしいと思ったことはなかったけど、クラス全員が集まるところで言われると恥ずかしい。でも、いじられてクラスにより馴染めるならいいかと軽い気持ちで笑って受け流す。転校してきて初めていじられて少し嬉しかった。ふいに一つ刺すような視線を感じる。
「イタッ」

 夏休みも近づいてきたころに、期末試験がやってきた。テストは自分の頑張りが数字として分かりやすく結果になるので嫌いではないが、テスト期間はあまり好きではない。
「おれ数学ノータだわ」
 ほら、さっそく聞こえてきた。
「え、俺も!昨日なんて十時前に寝ちゃったし」
「まじ!?健康児かよ、もう数学捨てるわ」
「それな、一緒に赤点取ろうな」
 テスト期間になると同時に学校では心理戦大会が行われる。これはだれか主催者がいるわけではないのだが、毎回自然と開催される。自分が勉強してないことを言いふらし、周りを油断させるのが目的だろうが高校生にもなって騙される人はほとんどいない。よってこの大会には勝者も敗者も存在しない。この意味のない大会のせいで、学校はピリつく。
 テスト期間は、基本度の部活も停止期間であり普段と違う様子の放課後になる。残って勉強する人が増えるため、放課後の教室が普段より騒がしい。
 今日は、初めての試みで教室に残って勉強してみることにした。非リアであることをいじられたあの日から、クラスでの居心地がよくなったこともあり残ってみることにした。
 テスト期間の放課後の教室は、外から部活動の声が聞こえず、席もまばらにしか埋まっておらず、いつもの教室のはずなのにアウェイな感じがした。クラスには七人しかおらず、その中に坊主姿もあったものだから違和感がすごかった。
 七人は話すこともせず黙々と机に向かう。ぼくもそれに倣う。静まり返ったクラスにはシャーペンの音とページをめくる音しかない。この場でなにか異質な音を立てれば全員の視線がきっと集まるのだろう。
「ガラガラッ」
 異質な音。ぼくを含めた全員がドアに注意を向けたのが分かった。入ってきたのが誰か気になったというよりは、異質な音に対する反射的なものに近かい。全員の集中力を奪った犯人は神田ゆかりだった。
 彼女は悪びれもせず、誰とも目を合わせずに自分の席に向かう。
 ぼくは決して彼女とのことを忘れていなかった。いや、忘れたくても忘れられなかった。彼女とだけ、まだ明白な壁がある。無視してもいいはずなのに、彼女のことがいつもどこかで気になっていた。あんな顔されたら誰だって気になってしまう。
 ぼくは、今日の帰りに神田ゆかりと一緒に帰ることを決めた。
 下校のチャイムが鳴ると同時に、帰りの支度をする音が聞こえ始める。そして、準備のできた人から各自教室を出ていく。結局誰とも一言も話さなかった。いや、話せる空気ではなかった。
 ぼくは、神田ゆかりが出ていくのを確認してから教室を出る。勘付かれて逃げられないように、ぼくは彼女との間に一人を挟んだ。他のクラスにも残って勉強していた人がいたので、下駄箱に近づくにつれ人の数が増える。その人ごみに紛れながら、靴に履き替え校門へ向かう彼女を追う。ここまでは順調だ、なんせ一本道だから人も多い。ここからが勝負だ。
 校門を出る彼女と十メートルくらい距離を取りながら、彼女が左に曲がるのを確認する。その後も絶妙なポジショニングで尾行をし、少し楽しくなって本来の目的を忘れかける。これではただのストーカーではないか。
 彼女が大通りから抜けて、わきの道へ曲がったのを見計らってぼくは全身に力をぐっと込め、距離を詰める。そして、周りに人がいないのを確認してから声をかける。背後から、
「神田さん!」
彼女は絶対に聞こえていただろうに、完璧なスルーを決められた。めげない
「神田さんって、もしかしてぼくと昔会ったことある?...」
 ぼくの口からとっさに出た質問に、神田さんは止まってくれた。ぼくは彼女が止まってくれると思わなかったので、言ってみる。
「春宮中学...」
 神田さんは、ぼくの言葉によほど驚いたのか、こっちを向いた。
 目と目が合う。ほとんど目を合わせたことがないはずなのに、彼女の目がどこか懐かしかった。
 ぼくはそこで確信した。そして、神田さんがぼくを避けている理由もわかった。
「神田さんも春宮中学出身なんだね、まさか春宮の人とこんな遠い立花高校で会えると思ってなかったよ。だからちょっと気づくの遅くなっちゃってごめんね、、でも忘れてたわけじゃないからね!」
 ぼくはできるだけ上手に笑った。神田さんを傷つけないように、上手に。
「え...」
 思わず心の声が漏れた。
 ぼくが見る彼女は泣いていた。悲しそうに。彼女は涙を止めようとするが、彼女の目からは容赦なく涙がこぼれ落ちた。ぼくは何もできずにただ泣いている彼女のことを見ていた。
 少し泣き止んだ彼女が
「じゃあ、しょうがないね!」
 神田さんは笑顔でそう言った。目元には大粒の涙を抱えていたが、とてもきれいな笑顔だった。そのまま彼女は先に行ってしまった。
 ぼくは追いかけなかった。追いかけても今のぼくには何もできないと思ったから。
 失敗した、また神田さんを傷つけてしまった。でも、彼女に避けられていると感じる理由はようやく分かった。
 
 ぼくが高校二年の時に、この学校に転校してきたのにはわけがある。ぼくは高校一年生を”学校”で過ごしていない。ぼくは高校一年生を病院から通信で通っていた。毎日あるリアルタイムでの映像授業を受け、定期テストもこなし、そしてこの立花高校の編入試験を突破し、二年生から普通の高校に通う高校生となったのだ。
 ぼくが高校一年生を病院で過ごすこととなったきっかけは、事故である。中学三年生の冬に、飲酒運転した自動車にひかれたらしい。かなり大きな事故だったそうで、あと少し手当てが遅かったら死んでいたと医者に言われた程だ。もちろん事故の瞬間の記憶なんて当然ない。それに、ぼくは事故の時だけでなく事故以前の記憶もほとんどない。自分がどういう人間でどういう生活を送ってきたのか、ぼくには全く分からなかった。まるで誰かと身体が入れ替わったみたいに”梅野凛”が分からなかった。
 その後、病院でリハビリをして基盤となる自己の記憶を取り戻し、一年かけて家族や住居などの古くからの記憶を取り戻した。そこで、ぼくは高校二年から普通の高校に通おうと決めた。なぜか、読み書きと計算能力には事故の支障がなかったので、勉強が苦ではなかった。そして、医者からの許可を得て、ぼくは空白の記憶を抱えたまま高校に通うことなった。ぼくの記憶にいない人と会うのが怖かったので家から遠い立花を選んだ。
 たぶん神田さんも僕と同じ春宮中学出身で、ぼくと仲が良かったのだろう。ぼくが事故にあって記憶をなくしたことは家族以外誰も知らない。だから、彼女を傷つけてしまっただろう。ぼくのせいで、、、。

 ぼくは、その晩に布団の中で神田さんについて考えた。神田さんは昔のぼくとどんな関係だったのだろうか、幼馴染とかだったらと思うと胸が苦しい。もしそうだったとしても、ぼくは神田さんのために記憶を取り戻そうとは思えなかった。むしろ昔のぼくを知っている神田さんとは関わりたくないとまで思ってしまった。
 ぼくはただ怖かった。せっかく一から築き上げてきた"梅野凛"が、ぼくという存在が壊されるのが。ぼくの思い出も、友人も、努力も、この学校も全て梅野凛に奪われると思うと許せなかった。だから、神田さんには悪いけどぼくはこれからも彼女のことを立花高校二年B組の一クラスメイトとして接していく。そんなのひどいと思われるかもしれない。でも、そう思われたっていい彼女にどう責められたっていい、だってぼくは偽物だから。

 次の日、神田さんは学校に来なかった。ぼくはなんとなく察してはいたが、やはり少し心が痛い。このまま一週間来なかったら彼女の家にお見舞いにでも行こう。
 彼女は一週間来なかった。ぼくは、まさか本当に一週間も来ないとは思ってなかったので焦った。そして渋々彼女の家にお見舞いに行くことにした。
 先生は、そう簡単に女子生徒の住所を男子生徒に教えてはくれなかったので、神田さんとよく一緒にいる女子を、多少嘘を吐きながら説得し彼女の住所を手に入れた。
 彼女の家はぼくの家から決して近くなく、二回ほど乗り換えが必要だった。今月もカツカツで生きてるので帰りのことも考えると気が重くなった。
 神田さんちの最寄の駅でスポドリを買って、学校からのプリントと一緒の袋に入れる。住所の通りに行くと目の前に大きめのマンションがあった。エレベーターで七階まで行って部屋の前に到着する。彼女の家の目の前まで来ても、記憶に変化がなかったので少しほっとしてチャイムを鳴らす。
「はーい」
ドアが開くと間髪入れずに先手を取る。
「どうもこんにちは、神田さんと同じクラスの梅野と申します。神田さんに学校からのプリントを届けに来ました。」
 よしいい笑顔でいけた。
「あら、わざわざありがとね。ゆかり!凛君が来てくれたわよ。」
 背筋が凍った。
「ごめんね、ゆかり今ちょっと引きこもっちゃててね。あ、ちょうどいいし少しうちあがってく?」
 彼女のお母さんの急な提案を回避できず、背中を押されドアを閉められ少しの間神田家に監禁されることとなった。ものすごく嫌だったけれどぼくには脱走する勇気がなかった。
 きれいに片付いたリビングに案内されるとお茶が出てきた。有難くいただいてソファに腰を掛けると話しかけられた。
「そこの廊下を突き当りまで行って左側がゆかりの部屋だよ。」
 ぼくは急に、まるで客人にトイレを案内するかのように平然と神田さんの部屋を教えられ、もう行かざるを得なかった。
 お母さんは死角に入りもう見えない。神田さんの部屋の前で息を整えてノックする。三回。
「神田さん、梅野です。気分はどう?」
 いやぼくは何を聞いてるんだ。気分がいいわけないだろう。一週間前にあんなことがあって会いたくないから学校も休んでるのに、そんな男が自分の部屋の前まで来てきっと気分は最悪だろう。
 もちろん返事はない。そのことに深く安堵し、油断してしまった。一応形だけと思ってドアノブに手をかける。するとレバーが下がった。ぼくはもちろん鍵がかかっているものだと思っていたから、予想外の出来事にどうしていいかわからなくなった。わけもわからずそのままドアを押し開けた。
 もう後には引けない、部屋に入りドアを閉めた。神田さんはどうやらベットに潜っているようで姿は見えなかった。一つの部屋に男女が二人っきり、状況が全く違うのについつい考えてしまう。
 張り詰めた静寂の中、部屋を見渡す。やはり見覚えはなかった。少なくともぼくは昔この家に来たことはなかっただろう。ぼくは長い間立ち尽くしていたが、ベットの彼女はピクリともしなかったので少し部屋を徘徊した。女子の部屋を徘徊するのは気が引けたが立ち尽くすよりは気がまぎれた。一通り見て回ったら出ようと思いながら。
 彼女の部屋はきれいに整っていて、壁も床もきれいで物も多すぎず好感の持てる部屋だった。さすがに物には触れなかったが、箪笥の上にある写真立てが倒れていたので直してあげた。
 写真には彼女の横に、、、”ぼく”
 ぼくは慌てて写真から離れた。ぼくがいた。ぼくの知らないぼくが写真には確かに写っていた。神田さんと仲良さそうに二人きりで。
 頭が痛い。痛い痛い。何も考えられない、整理が追い付かない。ぼくの頭の中で何かが思い出されようとしている。それを止めたいのに、止めたいのに少しずつ記憶がよみがえっていく。やめろ、、
 ぼくは頭を抱えながらもがき、バランスを崩して彼女のいるベットに倒れこんだ。しかし、彼女はそこにいなかった。布団の中には大きいクッションが詰められていた。ぼくの頭はついに限界を迎えた。頭が真っ白になり思わず部屋をとび出て、一応お辞儀だけだけは済まして逃げるように神田家を出た。ついさっきあった出来事も思い出せない状況で家へと帰る。
 さっきの出来事は思い出せないのに昔のことは次々と蘇る。
「神田さんは僕の彼女だったんだ」