「家までは十五分ほどだ。すぐにつく」

「あの、ありがとうございます……!」

「困っている人を助けるのは、当たり前のことだよ」


 真っ暗闇の夜の底を、バンは勢いよく滑り出す。


 後部座席の窓から、私は過ぎ去っていく街並みを見ていた。しばらく何年も前から営業していないような古びた商店が続き、それを過ぎると人の息吹が感じられない明かりのない住宅街が見える。その先は田んぼと畑。どの田畑にも何も植えられておらず、荒涼とした風景が広がっていた。田んぼと畑の向こうは、今度は山道。相変わらず街灯のない真っ暗な中を、バンは器用にカーブを攻略しながら進んでいく。


 また不安が心の隅で蠢(うごめ)いた。駅を出てからこの人にしか会っていないし、他の車とすれ違ってもいない。いくら真夜中だって、そんなことありえるだろうか? まさか本当に私、異世界に来ちゃったの? バンのナンバーだって「弥生桜」だし。


 必死の思いでまた掲示板に書き込む。スマホを叩く指が震えていた。


『駅を出て男の人が運転する車に乗りました。なんでも今夜、泊めてくれるとのことで。でも町には人っ子一人いないし、他の車とすれ違うこともなく、気が付いたら山道に入っていました。車のナンバーは「弥生桜」。このナンバーも、もしかして存在しないナンバーなんでしょうか?』


 レスはすぐについた。SOSを求める気持ちで立てたスレだけど、気が付けば顔の知らない人たちで大盛り上がりだ。


『「やよいざくら」という駅も「弥生桜」というナンバーも日本には存在しません。あなたはいったい何を言っているのですか?』

『知らない男の車に乗っちゃう時点でヤバいでしょ。今すぐ降りたほうがいい!』

『これ何なの? 釣り? にしてはずいぶん話作り込んでねーか?』

『「やよいざくら」ってきっと異世界ですよ! このままじゃ異世界に引き込まれちゃうから、なんとかして車を降りたほうがいいです』


 やがて山道がいっそう険しくなり、電波も届かなくなって、見知らぬ人たちとの交流も絶たれてしまった。


 自分に起こっていることの説明がつかない不安さに、ドクドクと心臓が不穏な駆け足を始める。どうやら本当に「やよいざくら」という駅も「弥生桜」というナンバーも存在しないらしい。この男の人の正体だってわからない。異世界に迷い込んでしまった、という説もあながち、ありえないとは言い切れない。マンガやアニメで異世界に行った主人公はこういう時、何をするんだっけ? 冷静に考えようとしても頭が真っ白で、冷静な思考が働いてくれない。


「あの、すみません。トイレに行きたくなってきたんですけれど……」


 とりあえず掲示板の人に言われた通り、車を降りよう。必死についた嘘だった。


「もうすぐうちだ。あと少しなので、我慢してもらえるかな」


 男の人に一蹴されてしまう。どうしよう。もう、車を降りることすらできない。


 私いったい、どうなっちゃうの!?


 ミミズがのたうちまわったようなカーブの連続の後、ぽっかりと大きな穴が目の前に飛び出す。すべてを飲み込むブラックホールのような、大きな穴。よく見ればただのトンネルなんだけど、この場合、ただのトンネルじゃない気がしてならない。ここをくぐってしまえば、本当に異世界に行っちゃうんじゃないか。元の世界に戻れないんじゃないか。


 助けて、お母さん……!!


 目を瞑(つむ)り、バンのスピードに身を任せる。バンはトンネルの中をごおおぉぉ、と唸りながら駆けていく。地底の奥底に吸い込まれていくような真っ暗闇の中、恐怖が膨れ上がる。やがてくぐもった空気をかき回す轟音(ごうおん)がやみ、トンネルから出たことを察して、私は固く瞑っていた目をおそるおそる開けて――息を呑んだ。


 窓の外に、いっぱいの桜が咲いていた。バンの明かりに照らされ、淡いピンクの花びらが夢のように浮かび上がる。どこを見ても桜、桜、桜。百本、いや千本はありそうな、桜の海。いっぺんにこんなにたくさんの桜を、私は目にしたことがない。尊いと形容してもいい見事な風景は、一度も見たことのないはずなのにどこか懐かしさが込み上げる。かつて見た夢の中に、こんな風景が出てきたんじゃないだろうか。そんな、デジャ・ビュに近いものを私は感じていた。


 桜の海の中に白く浮かび上がるアスファルトを、バンは時速五十キロで走っていく。


「どういうことなんですか」


 かろうじて言葉が声になった。


「今、十二月ですよね? 桜なんて咲いているわけないのに」

「驚かせてしまったね。すまない。『外』の人にはトンネルを抜けるまでは、この町のことを言ってはいけない掟なんだ」


 ハンドルを握りながら、静かに男の人が告げる。


「ここは弥生桜という町で、『外』とは違う次元に存在している。この町では春でも夏でも秋でも冬でも、一年じゅう弥生。つまり、三月のこと。だから、桜が常に咲いているんだ」