現実から逃げるように、私は眠りの世界に身を投じた。


 何のきっかけで目覚めたのかわからない。電車は停まっていて、周りには人っ子一人いなかった。空っぽの電車の中に、リクルートスーツ姿の私が一人だけ座っていた。


 窓の外は真っ暗で、明かりらしきものは見えない。二両編成の小さな電車が停まっているホームには、飾り気のない時計がひとつ。十二時五十分を指している。て、十二時五十分!? とっくに終電、過ぎてるじゃない!! 私、そんなに長く眠り込んじゃってたの!?


 慌てて電車から飛び降りると、ホームにはやはり人っ子一人いなかった。駅員さんの姿も見当たらず、無人改札らしきものがひとつ佇んでいるだけ。私の最寄り駅もたしかに小さい駅だけれど、こんなところじゃない。さては終着駅まで来てしまったのかと、半ばパニックになりながら駅名を確かめる。


 小さなホームに白い看板が立っており、「やよいざくら」と文字が躍っていた。隣の駅名は書かれていない。相模線にこんな駅はなかったはずだ。もしかしたら眠ってるうちに電車が終着駅を過ぎて、もっと遠い場所へ行ってしまったのかもしれない。慌ててスマホで検索をかける。「やよいざくら」と。


 でも、「やよいざくら」という名前の駅は相模線にはおろか、日本のどこにも存在していなかった。不気味さがひたりと背中をかき上がる。存在していない駅に電車が停まるって、どういうこと? 不安でたまらない私が助けを求めたのは、ネット上の匿名掲示板だった。


『相模線で眠り込んでしまったところ、気が付いたら「やよいざくら」という駅に来ていました。見たところ無人駅。私の他にお客さんはおろか、駅員さんもいません。調べてみたところ日本にはない駅なのですが、知ってる人はいますか?』


 藁(わら)にもすがる思いで書き込んだ質問に、思いの他早くレスがついた。


『「やよいざくら」という駅はたしかに日本にはありませんね。他の駅と間違えているんじゃないですか?』

『そんな駅は日本には存在しません。いたずらですか、釣りですか?』

『これってもしかして、異世界に迷い込んじゃったってやつじゃないの? 「やよいざくら」って名前の異世界』


 不安を拭いたくて書いた質問なのに、回答を見てさらに不安が増幅されていく。


 どうやら「やよいざくら」という駅は本当に存在しないらしい。存在しないはずの駅に電車が停まるって、いったいどう説明をつけたらいいんだろう。まさか答えにあったように、異世界に迷いこんじゃったとか? 異世界なんてまるでマンガやアニメの話。実際に異世界に行っちゃうなんてことはありえない。ありえないけれど、「やよいざくら」という存在しない駅にいること自体がありえないわけで。


 とりあえずお母さんが心配しているだろうと思い、電話をかけることにした。しかし『この電話にはお繋ぎできません』という無機質な音声メッセージが返ってくる始末。何度試みても、同じだった。ネットは繋(つな)がるのに、電話は通じない。いったいどうなっちゃってるんだろう。


 しかしこのままホームにいても埒(らち)が明かないと思い、駅を出てみることにした。無人改札はパスケースをタッチするとぽん、と普通に開いた。どうやら、電気は通じているらしい。


「やよいざくら」のひとつしかない改札を出ると、そこはすっからかんのがらんどうだった。いくつか商店らしきものは見えるけれどどれも閉まっているし、コンビニやファミレスなどといった建物もない。ターミナルには街灯がひとつだけ点いていて、足元の白いバンを照らしている。バンのナンバーに目をやると「弥生(やよい)桜(ざくら) の 12―58」の表示。「弥生桜」なんて駅が存在していない以上、「弥生桜」というナンバーも存在するかどうか疑わしい。いかにも怪しいバンだから無視して通り過ぎようとする。


「今夜泊まるところをお探しかな?」


 不意打ちで声をかけられて、びっくりして、ひ、と悲鳴を漏らしかけた。
 闇に紛れるようにして、五十代始めくらいの恰幅のいい男の人が立っていた。背が高くて、横幅も大きい。男の人が身体を動かすと、街灯の中にほんわりと顔が浮かび上がる。眉毛が濃くて目がぱっちりとした、柔和な面立ちの人だった。


 もしかして、悪い人ではない、のかな……?


「あの、私、相模線に乗ってたはずなんですけれど。気が付いたらこの駅に電車が停まっちゃって。電車は動かないし、こんな時間だし、どうすればいいのかわからなくて……」


 ようやく人に会えた嬉しさから、思わず早口でまくし立てていた。きんと静かな夜のターミナルに、私の声が響く。男の人はそうか、と首を縦に振った。


「今日はもう遅い。これ以上ここで待っていても、電車が来ることはない。よかったら私の家で休んでいかないか?」

「いいんですか? 私、ホテルかなんか探そうと思ってたんですけれど……」

「この町にホテルはないよ」


 男の人がバンの運転席に乗り込み、エンジンをかける。どうしよう。これって、すっごく怪しくない? この人、一見怖い人ではないけれど、もし物盗りとか変質者だったりしたら……

 運転席側の窓が開き、男の人が声をかける。


「早く乗りなさい。駅にはもう戻れないよ」


 その言葉にハッとして駅を振り返って、心臓が危うく止まりかけた。たった今出て来たばかりの駅が、文字通り消えかかっていた。陽炎(かげろう)のように建物の輪郭(りんかく)が歪み、夜の闇へと溶けかけている。

 慌てて目をこすってみても、やはり駅は闇に紛れて消えようとしていた。これ、いったいどうなっちゃってるの?


「乗ります」


 不可解な出来事から逃れたい一心で、バンの後部座席に乗り込んだ。この車は、消えてはいない。消えてしまうものの中に戻るよりは、消えていないものの中に戻るほうが安全だと、パニックになった頭の隅っこが決定したから。バンの中は野菜と土と卵の匂いがした。この人はきっと農家かなんかで、仕事にこの車を使っているんだろうと勝手に見当をつける。