尋問が開始してから一時間が過ぎようとしていた。しかし男は何かを俺たちに告げるどころか、自分の名前すらまだ一度も吐いていない。相当意志の固いやつだった。
殴り過ぎて俺の右こぶしの皮は剥け、彼の頬も膨れ上がっていた。口からは大量の血を垂らし、それでもなお彼は笑っていられる。狂ってやがる。なぜこのようなやつと、俺たちは絡まってしまったのだろうか。
「ねぇ・・・」
背後から花の声がして俺は振り返った。花がやや奇妙な表情をしながらその男の顔を眺めていたのだ。男は花の方を見る。真っ暗な瞳を、さきほど俺を見つめていた時とはまた別な形で、彼女に見せた。
花は男のことを見てはいるが、どうやら意識の方向は俺に向いているようだった。じっと男を見つめながらも、俺の方に向かって口を開ける。
「この男・・・私どっかで見たことがあるかも・・・」
「え?そうなの?」
クローデットが驚いて花の方を見る。俺もそれを聞いて驚嘆した。
「・・・実は俺もだ」
「そうなんだ・・・」
「私は知らない。こんな男はじめて見た」
そう言ってクローデットはまた親指の付け根を唇に押し当てた。
「どこで会ったか思い出せるか?」
俺は花の顔をじっと見つめながらそう尋ねた。男からはまだまだ情報が搾取できそうにないため、自分たちで考えるしかなかった。花はしばらく考えた後、顔を顰めて俺の方に向き、首を振った。
俺はまた男の方に顔を向けた。男は目をこちらに向ける。
考えても考えても、どうしてもコイツが誰なのかさっぱり思い出せない。喉のあたりまで詰まっているのに、そこでしこりができたかのように、それから先まではいけないようになっている。
だめだ。わからない。何も思い出せない。考えれば考えるほど脳がやられそうだ。
頭が徐々に熱くなっていった。それにエスカレートを掛けるかのように、男は笑って俺のことをじっと見つめる。両手が震える。前が霞むようになった。地に足がついている感覚もない。呼吸が早まる。
「・・・何笑いやがってんだこの野郎!」
俺はまた渾身の力を入れて彼の殴った。
そしたら、
「・・・あなたがどれほど愚かなのかと思いまして」
男は開口一番にそう言った。
それを聞いた俺は爽やかな笑みを浮かべて間髪入れずに殴った。男はまた血を吐き、そして俺の方に向き直る。
「なんて愚かなんでしょう。ここまで来てまだ何もわかっていないなんて、本当にあなたは愚かです。どうしようもない――うっ!」
「いいかよく聞け。もう曲もしまいに近づいた。今すぐにてめぇの知っていることを洗いざらいすべて吐き出さなかったら、頭に赤い花を咲かすことになるぞ」
彼の耳たぶが唇に触れてしまうのではないかというほど近くまで口を近づけ、俺は彼にそう囁いた。そうすると彼は俺の方を見て瞳孔を開かせた。明らかに恐怖を感じたというよりも、俺のその行為に関して感心していたように見える。
「そうです。そうでなくちゃ・・・ほら、もっと怒ってください。それでこそ私の・・・」
そこまで言いかけて彼は口を噤んだ。
「私の、何だ?」
彼の襟をつかみながら俺は問い詰めた。
「私の!何だ!」
だが彼はずっと笑っているだけで答えない。もう我慢の限界だった。
「・・・ふんっ。そうか。お前が選んだんだからな。くたばりやがれ」
そう言うと、俺はナイフを高く上げ、迷わず振り下ろそうとした。もう気が気じゃなかった。
その瞬間、
「ネェェイィミィィィィィィィィィィィ!!!」
突然男は喉の奥から渾身の力を込めた大声を出した。
突如頭に痛みが走り、また視界が一瞬にしてぼやけた。
「・・・また、かよ」
俺はそのまま眠りについた。
・・・
・・・
・・・
真っ暗な闇の中で何かが見えた。まるでゲームの演出に出てきそうな、深紫色をした巨大なエネルギーの塊だ。その塊の奥に行けば行くほど色が濃くなっていき、中心が黒く、そして夥しい量の殺気を感じる。
これがなんなのかはわからない。
ただただ訳もなく空恐ろしいように感じられ、そしてどこか懐かしかった。
いや、懐かしいというより、むしろ今でも近くに感じる。まるでずっと一緒にいたようだった。今まで生きてきた中で、一度も手放したことのないような存在、そんなもののように感じる。
だが、自分から進んで手放さなかったのではなく、むしろいつも自分は嫌がっていた。だがいくら離そうとしても離れなく、それは影のように付き纏って来る。だけど、もしそれがなくなったらそれはそれで困ってしまう。人間が影を失っては困るのと同じことだ。本当はいてほしくないのに、付いてくる。そして、それがついてこなくなると、それはそれで困ってしまう。
その塊の背後に無数の背景が重なり合っていた。俺が知らないような、未知の世界だった。だけど俺はその世界を確認するよう気もなく、ただずっとその塊と距離を置き、ずっと警戒していた。少しでも油断すれば、自分はそのままその塊に取り込まれ、そして失われるような気がした。何か証拠があるわけではないが、そう直感することができた。この塊は大きくなる。この塊はもっと色が濃くなる。この塊はこの空間全体に広まりたいと思っている。
塊と俺は、ずっとにらみ合い、一歩も譲ろうとしない。
だがすぐに状況は一変した。
そいつがとうとうこの膠着状態に我慢しきれなくなったのか、その姿を大きく増幅させ、全方向へ一斉に拡散していった。深紫色の光が徐々に周りへと伸縮し、すべてを食い尽くそうとする。
俺の方へも尋常じゃないスピードで走ってきた。
俺は逃げようと試みた。
だが逃げられるわけがなかった。たちまち体が深紫色の一色に染められ、目の前がぼやけてきた。だがまだ完全に飲み込まれたわけではなかった。俺が抵抗の意志を見せる限り、その塊はいくら増幅しようと、俺を避けるように横を通り過ぎた。
しかしそれでも塊はあきらめようとしなかった。それはまたさらに勢いを増し、そして絶え間なく周囲に深紫色のオーラをまき散らした。それに伴って俺ももっともっと抵抗しようと努めた。そしてこの状態が少しの間続き、気づいたら、塊はあきらめたように増幅するのをやめた。
だが油断はできなかった。なぜなら、それはあきらめたのではなく、いったん退散し、様子を伺おうとしているのだと俺は知っていたからだ。それの考えがなぜか読めた。だが正体がわからない。だから自分から攻撃を仕掛けることもできない。俺たちは一歩も互いに譲ろうとはしなかった。
そしてまた意識を失った・・・
気づいたら、俺は広間にいた。
さきほどと同じように痛む頭を抑え、ゆっくりとした動作で立ち上がる。トムの血で真っ赤に染まってしまった服を再度見てみた。もう血は乾いていて、そしてその塊がこびりついて服を固くしていた。俺はなぜかのんきにその塊を取る気になっていた。
そしたら急に花の啜り泣き声が聞こえて、俺はそこでようやく我に返った。はっとして俺は声の方向を向く。
「花!」
そういって俺は彼女の方へと駆けつけた。彼女はなぜか一階の階段口のところで泣き崩れていた。いったい何があったのだ。俺はようやくそう疑問に思った。さきほどの記憶が蘇り、本来なら自分は男の拷問していたはずだったことを思い出す。
「・・・クローデット、クローデットはどうした?」
そう尋ねた俺に花は顔を上げず、ただただ腕をまっすぐに上げてある方向を指さした。
そこにあったのは、頭の一部が凹んだ、見るに堪えない姿へと化したクローデットの死体だった。なにか鈍器で殴り殺されたのか、頭蓋骨が陥没しており、中身が外へはみ出していた。殺されてからまだ時間が経っていないようで、その鮮やかなピンク色のそれはテカテカに光っている。中から外へ脳汁があふれ出ている。吐き気が催し俺はその場で吐いてしまった。そしてまた顔を上げ周囲を見回した。だが誰もいない。体が自由に動けるのは、俺と花の二人だけだった。
「おい嘘だろ・・・これはお前がやったのか・・・?」
現場に犯人はいない。それにもし花以外の誰かがやったのだとしたら、あの時俺が殴り倒される前に二人は気づいて通知してくれたはずだ。あの時唯一俺を失神させクローデットを殺せたのは花しかいない。
「違う!」
彼女はゆらゆらと立ち上がって後ずさった。俺の方を見ながら、何度も何度も首を振る。
「頼む・・・正直に言ってくれ。花、お願いだから・・・」
なぜかわからない。俺は涙を流して彼女に懇願していた。もし、もしこの惨事の真犯人が花なのだとしたら・・・もし彼女が自白してくれたのだとしたら、俺は許してしまうかもしれない。だって花だから。
まだナイフを握っていた右手が震える。自分でも今自分が何を考えているのかがわからない。ただただ悲しかった。花がこんなことをするはずがないのに・・・でも花以外に誰が殺せた?男は依然として柱に縛り付けられたままなのだ。
「違うの。違うのリアム、私の話を聞いて・・・お願い、お願いだから・・・」
花は自然と後ずさり、俺はそれをゆっくりと彼女との距離を詰めた。気づけば二階の方へと足を掛けていた。知らぬ間に上っていたらしい。俺たちはお互いに相手の目を見て離さなかった。
「違うって言うなら・・・やったのは誰なんだよ」
大粒の涙を止めることなく流し続ける花の顔を見て俺も自然と涙が止まらなくなった。
「よく聞いてリアム、絶対に信じて。私はあなたに嘘なんかつかない・・・トムとクローデットを殺したのはあなたなのよ」
「そんなわけがないでしょ!」
「違うの!本当にそうなの!本当にそうなのよ・・・これを見て!信じて!私は本当のことを言っている。自分でもなぜこんなことになっているかわからない。でもそうなの・・・そういうことなの」
そう言って彼女は俺の方に何かを投げた。俺はそれを拾う。
ハンコ入れだった。偽の宝石が飾られたきれいなハンコ入れ。
「その中にあなたのお父さんがあなた宛てに書いた遺書があるわ。私読んだ。今さっき読んだ。私たちは嵌められていたのよ!誰も気づかなかったの!気づけなかったの!」
そう花が言うなり、下にいた男がまた咆哮しはじめた。
「ネイミー!何をやっているんですかぁぁぁ!しくじったらどうなるかわかっているんですよねぇぇぇぇ!??!!」
そういうと、花に突然異変が起こり始めた。彼女は表情を豹変させ今まで俺が見たことのないような鋭い目つきで叫んだ。
「分かっているわよ!少し間黙ってろこのくそイルマーがっ!この・・・やめろっ!花!」
「・・・どういうことなんだよ花、説明してくれよ!」
彼女は頭を抱えて苦しみ始めた。何が起こっているのかさっぱりわからない。
「リアム助けて!お願い目を覚まして!もうこれ以上人を殺しちゃダメよ!ダメ!ここから出て行って・・・まだ遅くない。まだ遅くないから!」
俺はただただ彼女を見つめることしかできなかった。彼女は必死に頭を抱えながら、ひとりでに狼狽え、そして覚束ない足取りで階段のところをさまよっていた。
バキッ
「――はぁっ!」
バランスを崩した彼女は体を老朽化していた柵に思いっきりぶつけ、運悪くその柵が崩れた。彼女はそのまま一階まで落下し、俺はそれを見ると同時に瞳孔を開かせた。
「は、はな!」
急いで一階を見下ろす。テーブルの横で、頭から血の海を作りながら、天井を静かに見ている花の姿があった。よく見たら彼女のすぐ横に、真っ赤な血が滴り落ちているテーブルの角があった。そこに頭をぶつけてしまったようだ。
すぐさま下りて彼女のもとに向かった。長く黒い彼女の髪が真っ赤に染まり、白色のワンピース、そしてその上に羽織ったパーカーをも浸食した。
「花・・・ああなんてことに・・・花、生きていてくれ、嘘だと言ってくれ・・・」
彼女を見つめた。
彼女はゆっくりと瞳をこちら側に向けると、震えた右手を俺の頬に触れさせた。彼女の血が俺の頬につく。なぜかわからないがその時俺は彼女がどれほど愛おしい存在であったかを感じられた。彼女には死んでほしくない。もっとそばにいてほしい。
「ほら、花・・・俺の顔を見て。大丈夫。今すぐ助けるから。包帯を持ってきてあげる。だから我慢してくれ」
俺が立ち上がろうとすると、彼女は力強く俺の腕を引っ張った。まるでこれが最後の力であるかのように、一瞬だけ入れ、そして抜いた。
彼女の目尻から透明な涙が滴り落ちる。
「・・・リアム・・・目を・・・覚まし、て」
・・・
・・・
・・・
手が落ちた。瞳に光がない。
それっきりだった。
彼女はもう動いていない。
「花・・・花花花花花・・・はな・・・」
俺は彼女に縋って嗚咽した。柔らかい彼女の肉体を嫌というほど強く抱き締め、悲しみに暮れた。泣きたい欲望がおのずと外へ出ていく。もう怒るエネルギーも存在しない。
もう、どうでもよくなった・・・
そんなとき、俺は右手に何かがあるのを感じた。見ると、それは先ほど花がくれた紙だった。彼女が言うに、それは父が俺宛てに書いた遺書らしい。血に染まって見えづらくはあったが、読めないほどでもなかった。俺は花の遺体をゆっくりと下ろすと、彼女の開いた瞼に掌を当て、閉じさせた。
そして、彼女の隣で横になりながら、その手紙を読み始めた。
殴り過ぎて俺の右こぶしの皮は剥け、彼の頬も膨れ上がっていた。口からは大量の血を垂らし、それでもなお彼は笑っていられる。狂ってやがる。なぜこのようなやつと、俺たちは絡まってしまったのだろうか。
「ねぇ・・・」
背後から花の声がして俺は振り返った。花がやや奇妙な表情をしながらその男の顔を眺めていたのだ。男は花の方を見る。真っ暗な瞳を、さきほど俺を見つめていた時とはまた別な形で、彼女に見せた。
花は男のことを見てはいるが、どうやら意識の方向は俺に向いているようだった。じっと男を見つめながらも、俺の方に向かって口を開ける。
「この男・・・私どっかで見たことがあるかも・・・」
「え?そうなの?」
クローデットが驚いて花の方を見る。俺もそれを聞いて驚嘆した。
「・・・実は俺もだ」
「そうなんだ・・・」
「私は知らない。こんな男はじめて見た」
そう言ってクローデットはまた親指の付け根を唇に押し当てた。
「どこで会ったか思い出せるか?」
俺は花の顔をじっと見つめながらそう尋ねた。男からはまだまだ情報が搾取できそうにないため、自分たちで考えるしかなかった。花はしばらく考えた後、顔を顰めて俺の方に向き、首を振った。
俺はまた男の方に顔を向けた。男は目をこちらに向ける。
考えても考えても、どうしてもコイツが誰なのかさっぱり思い出せない。喉のあたりまで詰まっているのに、そこでしこりができたかのように、それから先まではいけないようになっている。
だめだ。わからない。何も思い出せない。考えれば考えるほど脳がやられそうだ。
頭が徐々に熱くなっていった。それにエスカレートを掛けるかのように、男は笑って俺のことをじっと見つめる。両手が震える。前が霞むようになった。地に足がついている感覚もない。呼吸が早まる。
「・・・何笑いやがってんだこの野郎!」
俺はまた渾身の力を入れて彼の殴った。
そしたら、
「・・・あなたがどれほど愚かなのかと思いまして」
男は開口一番にそう言った。
それを聞いた俺は爽やかな笑みを浮かべて間髪入れずに殴った。男はまた血を吐き、そして俺の方に向き直る。
「なんて愚かなんでしょう。ここまで来てまだ何もわかっていないなんて、本当にあなたは愚かです。どうしようもない――うっ!」
「いいかよく聞け。もう曲もしまいに近づいた。今すぐにてめぇの知っていることを洗いざらいすべて吐き出さなかったら、頭に赤い花を咲かすことになるぞ」
彼の耳たぶが唇に触れてしまうのではないかというほど近くまで口を近づけ、俺は彼にそう囁いた。そうすると彼は俺の方を見て瞳孔を開かせた。明らかに恐怖を感じたというよりも、俺のその行為に関して感心していたように見える。
「そうです。そうでなくちゃ・・・ほら、もっと怒ってください。それでこそ私の・・・」
そこまで言いかけて彼は口を噤んだ。
「私の、何だ?」
彼の襟をつかみながら俺は問い詰めた。
「私の!何だ!」
だが彼はずっと笑っているだけで答えない。もう我慢の限界だった。
「・・・ふんっ。そうか。お前が選んだんだからな。くたばりやがれ」
そう言うと、俺はナイフを高く上げ、迷わず振り下ろそうとした。もう気が気じゃなかった。
その瞬間、
「ネェェイィミィィィィィィィィィィィ!!!」
突然男は喉の奥から渾身の力を込めた大声を出した。
突如頭に痛みが走り、また視界が一瞬にしてぼやけた。
「・・・また、かよ」
俺はそのまま眠りについた。
・・・
・・・
・・・
真っ暗な闇の中で何かが見えた。まるでゲームの演出に出てきそうな、深紫色をした巨大なエネルギーの塊だ。その塊の奥に行けば行くほど色が濃くなっていき、中心が黒く、そして夥しい量の殺気を感じる。
これがなんなのかはわからない。
ただただ訳もなく空恐ろしいように感じられ、そしてどこか懐かしかった。
いや、懐かしいというより、むしろ今でも近くに感じる。まるでずっと一緒にいたようだった。今まで生きてきた中で、一度も手放したことのないような存在、そんなもののように感じる。
だが、自分から進んで手放さなかったのではなく、むしろいつも自分は嫌がっていた。だがいくら離そうとしても離れなく、それは影のように付き纏って来る。だけど、もしそれがなくなったらそれはそれで困ってしまう。人間が影を失っては困るのと同じことだ。本当はいてほしくないのに、付いてくる。そして、それがついてこなくなると、それはそれで困ってしまう。
その塊の背後に無数の背景が重なり合っていた。俺が知らないような、未知の世界だった。だけど俺はその世界を確認するよう気もなく、ただずっとその塊と距離を置き、ずっと警戒していた。少しでも油断すれば、自分はそのままその塊に取り込まれ、そして失われるような気がした。何か証拠があるわけではないが、そう直感することができた。この塊は大きくなる。この塊はもっと色が濃くなる。この塊はこの空間全体に広まりたいと思っている。
塊と俺は、ずっとにらみ合い、一歩も譲ろうとしない。
だがすぐに状況は一変した。
そいつがとうとうこの膠着状態に我慢しきれなくなったのか、その姿を大きく増幅させ、全方向へ一斉に拡散していった。深紫色の光が徐々に周りへと伸縮し、すべてを食い尽くそうとする。
俺の方へも尋常じゃないスピードで走ってきた。
俺は逃げようと試みた。
だが逃げられるわけがなかった。たちまち体が深紫色の一色に染められ、目の前がぼやけてきた。だがまだ完全に飲み込まれたわけではなかった。俺が抵抗の意志を見せる限り、その塊はいくら増幅しようと、俺を避けるように横を通り過ぎた。
しかしそれでも塊はあきらめようとしなかった。それはまたさらに勢いを増し、そして絶え間なく周囲に深紫色のオーラをまき散らした。それに伴って俺ももっともっと抵抗しようと努めた。そしてこの状態が少しの間続き、気づいたら、塊はあきらめたように増幅するのをやめた。
だが油断はできなかった。なぜなら、それはあきらめたのではなく、いったん退散し、様子を伺おうとしているのだと俺は知っていたからだ。それの考えがなぜか読めた。だが正体がわからない。だから自分から攻撃を仕掛けることもできない。俺たちは一歩も互いに譲ろうとはしなかった。
そしてまた意識を失った・・・
気づいたら、俺は広間にいた。
さきほどと同じように痛む頭を抑え、ゆっくりとした動作で立ち上がる。トムの血で真っ赤に染まってしまった服を再度見てみた。もう血は乾いていて、そしてその塊がこびりついて服を固くしていた。俺はなぜかのんきにその塊を取る気になっていた。
そしたら急に花の啜り泣き声が聞こえて、俺はそこでようやく我に返った。はっとして俺は声の方向を向く。
「花!」
そういって俺は彼女の方へと駆けつけた。彼女はなぜか一階の階段口のところで泣き崩れていた。いったい何があったのだ。俺はようやくそう疑問に思った。さきほどの記憶が蘇り、本来なら自分は男の拷問していたはずだったことを思い出す。
「・・・クローデット、クローデットはどうした?」
そう尋ねた俺に花は顔を上げず、ただただ腕をまっすぐに上げてある方向を指さした。
そこにあったのは、頭の一部が凹んだ、見るに堪えない姿へと化したクローデットの死体だった。なにか鈍器で殴り殺されたのか、頭蓋骨が陥没しており、中身が外へはみ出していた。殺されてからまだ時間が経っていないようで、その鮮やかなピンク色のそれはテカテカに光っている。中から外へ脳汁があふれ出ている。吐き気が催し俺はその場で吐いてしまった。そしてまた顔を上げ周囲を見回した。だが誰もいない。体が自由に動けるのは、俺と花の二人だけだった。
「おい嘘だろ・・・これはお前がやったのか・・・?」
現場に犯人はいない。それにもし花以外の誰かがやったのだとしたら、あの時俺が殴り倒される前に二人は気づいて通知してくれたはずだ。あの時唯一俺を失神させクローデットを殺せたのは花しかいない。
「違う!」
彼女はゆらゆらと立ち上がって後ずさった。俺の方を見ながら、何度も何度も首を振る。
「頼む・・・正直に言ってくれ。花、お願いだから・・・」
なぜかわからない。俺は涙を流して彼女に懇願していた。もし、もしこの惨事の真犯人が花なのだとしたら・・・もし彼女が自白してくれたのだとしたら、俺は許してしまうかもしれない。だって花だから。
まだナイフを握っていた右手が震える。自分でも今自分が何を考えているのかがわからない。ただただ悲しかった。花がこんなことをするはずがないのに・・・でも花以外に誰が殺せた?男は依然として柱に縛り付けられたままなのだ。
「違うの。違うのリアム、私の話を聞いて・・・お願い、お願いだから・・・」
花は自然と後ずさり、俺はそれをゆっくりと彼女との距離を詰めた。気づけば二階の方へと足を掛けていた。知らぬ間に上っていたらしい。俺たちはお互いに相手の目を見て離さなかった。
「違うって言うなら・・・やったのは誰なんだよ」
大粒の涙を止めることなく流し続ける花の顔を見て俺も自然と涙が止まらなくなった。
「よく聞いてリアム、絶対に信じて。私はあなたに嘘なんかつかない・・・トムとクローデットを殺したのはあなたなのよ」
「そんなわけがないでしょ!」
「違うの!本当にそうなの!本当にそうなのよ・・・これを見て!信じて!私は本当のことを言っている。自分でもなぜこんなことになっているかわからない。でもそうなの・・・そういうことなの」
そう言って彼女は俺の方に何かを投げた。俺はそれを拾う。
ハンコ入れだった。偽の宝石が飾られたきれいなハンコ入れ。
「その中にあなたのお父さんがあなた宛てに書いた遺書があるわ。私読んだ。今さっき読んだ。私たちは嵌められていたのよ!誰も気づかなかったの!気づけなかったの!」
そう花が言うなり、下にいた男がまた咆哮しはじめた。
「ネイミー!何をやっているんですかぁぁぁ!しくじったらどうなるかわかっているんですよねぇぇぇぇ!??!!」
そういうと、花に突然異変が起こり始めた。彼女は表情を豹変させ今まで俺が見たことのないような鋭い目つきで叫んだ。
「分かっているわよ!少し間黙ってろこのくそイルマーがっ!この・・・やめろっ!花!」
「・・・どういうことなんだよ花、説明してくれよ!」
彼女は頭を抱えて苦しみ始めた。何が起こっているのかさっぱりわからない。
「リアム助けて!お願い目を覚まして!もうこれ以上人を殺しちゃダメよ!ダメ!ここから出て行って・・・まだ遅くない。まだ遅くないから!」
俺はただただ彼女を見つめることしかできなかった。彼女は必死に頭を抱えながら、ひとりでに狼狽え、そして覚束ない足取りで階段のところをさまよっていた。
バキッ
「――はぁっ!」
バランスを崩した彼女は体を老朽化していた柵に思いっきりぶつけ、運悪くその柵が崩れた。彼女はそのまま一階まで落下し、俺はそれを見ると同時に瞳孔を開かせた。
「は、はな!」
急いで一階を見下ろす。テーブルの横で、頭から血の海を作りながら、天井を静かに見ている花の姿があった。よく見たら彼女のすぐ横に、真っ赤な血が滴り落ちているテーブルの角があった。そこに頭をぶつけてしまったようだ。
すぐさま下りて彼女のもとに向かった。長く黒い彼女の髪が真っ赤に染まり、白色のワンピース、そしてその上に羽織ったパーカーをも浸食した。
「花・・・ああなんてことに・・・花、生きていてくれ、嘘だと言ってくれ・・・」
彼女を見つめた。
彼女はゆっくりと瞳をこちら側に向けると、震えた右手を俺の頬に触れさせた。彼女の血が俺の頬につく。なぜかわからないがその時俺は彼女がどれほど愛おしい存在であったかを感じられた。彼女には死んでほしくない。もっとそばにいてほしい。
「ほら、花・・・俺の顔を見て。大丈夫。今すぐ助けるから。包帯を持ってきてあげる。だから我慢してくれ」
俺が立ち上がろうとすると、彼女は力強く俺の腕を引っ張った。まるでこれが最後の力であるかのように、一瞬だけ入れ、そして抜いた。
彼女の目尻から透明な涙が滴り落ちる。
「・・・リアム・・・目を・・・覚まし、て」
・・・
・・・
・・・
手が落ちた。瞳に光がない。
それっきりだった。
彼女はもう動いていない。
「花・・・花花花花花・・・はな・・・」
俺は彼女に縋って嗚咽した。柔らかい彼女の肉体を嫌というほど強く抱き締め、悲しみに暮れた。泣きたい欲望がおのずと外へ出ていく。もう怒るエネルギーも存在しない。
もう、どうでもよくなった・・・
そんなとき、俺は右手に何かがあるのを感じた。見ると、それは先ほど花がくれた紙だった。彼女が言うに、それは父が俺宛てに書いた遺書らしい。血に染まって見えづらくはあったが、読めないほどでもなかった。俺は花の遺体をゆっくりと下ろすと、彼女の開いた瞼に掌を当て、閉じさせた。
そして、彼女の隣で横になりながら、その手紙を読み始めた。