暗い廊下の中をひたすら歩き続け、そして部屋を順に一つ一つ調べつぶしていくことにした。いつどこでどのような感じで不意打ちをされてしまうのかが予想できないため、俺たちは前後左右を手分けして絶え間なく見続けながら歩き、屋敷の中を探索しなければならなかった。
俺たちの主要な目標は犯人を捜すに他ならない。自分たちの身を守るため、そしてその犯人により良いダメージを与えるために、道中で見つけた殺傷力の高いもの、例えばカッターナイフだったり、果物用ナイフだったりにもともと持っていた鈍器を取り換え、そしてさらに屋敷の奥深くまで足を踏み入れた。
しかし、それ以外にも二つやることがあった。
一つ目はまず電源を入れることだった。
電気がつけられるだけで、視野の広さが全く違くなるし、もしかしたら犯人も見つけやすくなるかもしれない。なにより、みんなが落ち着ける。人間は暗闇を怖がる。一寸先が闇であると、どうしても慌ててパニックを起こしやすくなるのだ。だから喧嘩も起こりやすい。今の状態で仲間割れがこれ以上起ころうとしたら、それこそ全員が死ぬ最悪の事態になりかねない。
また、犯人を見つける可能性がより高くなるためにも、俺たちはまず電源装置がある場所を目指して歩くことにした。
そしてもう一つの目標は、叔父の傷を癒すための医療道具を取るためだった。アルコール、ガーゼ、ハサミ、その他もろもろ。広間をトムと花がずっと探してくれたが、さすがに見つかるわけもなく、仕方なく叔父にはもう少し耐えてもらうことにした。おそらく、目当てのものは全部一階のキッチンにある。しかし、キッチンは一階の一番奥に位置しているため、最後に向かうことにした。奥の方でも上下をつなぐ階段がある。その時に道順としてそこへたどり着けるのだ。クローデットの料理の手伝いをみんなでしていたから、そこら周辺の間取りはなんとなく覚えている。
「えっと・・・地図によると、ここをまっすぐ行って・・・ああ、廊下の突き当りだ。そこを右に曲がってさらに歩いていけば、真ん中あたりに引き戸があって、その部屋の中にあるらしい」
叔父の胸ポケットから取り出した地図を広げながら俺はそういう。地図を見るときは歩かず、いったんみんなで止まって、確認ができてから歩くことにした。これで不意打ちに合う確率も下がる。
「電源装置はすぐそこだ。早く行こう」
そう言って、俺たちはまたゆっくりと歩き始めた。
「イッテ・・・」
後ろにいた花が突然そう言った。そのため俺とトムは突然立ち止まって彼女の方に顔を向ける。花は前を見ておらず危うく俺にぶつかるところだった。
「どうした?」
「いや・・・ナイフで指をちょっと切っちゃっただけ」
俺の質問に彼女は目をそらしてそう答えた。
「びっくりさせんなよ」
ため息を一つ付いて俺はまた前の方を向いた。一刻を争うようなこの時にいちいち止まってはいられないのだ。
「・・・ごめん」
そう花が小さな声で言うと、
「まあ、花は前から傷を作りやすい奴だからな」
サポートに回るようにトムがそう言った。
「ま確かにな」
俺も応ずる。
「女の子にしてはちょっぴり元気が良すぎだ。学校の階段を半階分一気に飛び降りたり・・・それに俺たちの学校の中で走るスピードが三番目に速いし。男子を混ぜてだぞ?」
「女の子が元気じゃおかしいって言うのは性差別でしょ」
「別に俺はいけないとは言っていない。ただお前、俺たちがいなかったら当初、独りぼっちだったじゃないか。女子の輪にも入れそうになかったし」
トムがそういうと、俺は改めてあの時の花を思い出した。あの時まだ英語もろくに話せなかった彼女は、そういった言葉の壁もあってなかなか誰かに話しかけることができなかった。
日本人はみんな控えめだってことは聞いたことあるけど、まさかあそこまで陰キャ気質なやつらだとは想像できなかったし、なによりあいつが学校に来て誰にも話しかけなかったことに驚いた。ずっと俯いて机を見つめたまま座っているだけで微動だにしないし、誰かが声をかけても頷くばかりで、自分の意見を一向に言おうとはしない。まるで銅像のようだった。
「そんなこと言っているけど、今こうして三人でいるのもだって結局のところあなたたちが私のことを気になったからでしょ?」
花はおそらく、俺たちと花が一緒に遊ぶようになったのは俺たちが彼女に積極的に近づいていったからと言いたいのだろう。
「やまあ、それも否めないけどな」
トムがやや照れ臭そうに笑っている。前を向いているから、彼がどんな表情をしているかはわからなかったが、明らかに声が柔らかくなっていた。
「でも、お前さ。あんなに静かだったのに、一緒に遊ぶってなったとたんに元気が出たじゃないか。俺けっこう気に入っていたんだぞ。あの頃のお前が。なんていうか、ほら、よく言うジャパニーズ・レディ、ってやつ。おしとやかで、陰から男を支えるような・・・とにかく独特な柔らかいっていうか、そんな感じのオーラが漂っていた」
言葉を何となく濁しながら俺はそう口にした。
「それただ花が好きなだけだろ」
トムが笑ってそう俺を茶化す。
「んなこたあねぇよ」
「いや、俺は覚えている。花と会って間もない時・・・まだ完全に俺たちとコイツが一緒になじめていない時だよ。あんときさ、お前興奮して俺にこう言ったじゃないか。『あいつは俺の隣に引っ越してきたやつだ!』って。覚えているか?」
トムがそう言うと、脳内に顔を赤く染めた当時の自分の顔がだらしなく映った。
「覚えてねぇよ。ってかお前ちゃんと後ろの方見てんのか?」
そう言うがトムは無視して続ける。
「あんときのお前の顔まだ覚えている。興奮しすぎて鼻息をふんって勢いよく出してたぜ。機関車リアムだな。チューチュー!」
「ふんっ・・・かわいいじゃんリアム」
花がさらに追い打ちをかける。鼻で笑ったところがなんともムカつく。
「うっせぇな!」
「チューチュー!チューチュー!」
ずっと前を向いていたが我慢しきれなくなって俺は慌てて後ろの方を向いてトムに睨みの利いた視線を当てた。しかし、今この一瞬で後ろの方に向き直ったのか、それともずっと後ろの方を向いていたのか。彼は俺に背を向けるだけで特にこちら側を気にしていない素振りを見せた。
「ちょっとリアム、あなたこそちゃんと前の方を向きなさいよ」
そこへ花が前の方を向いて、からかいながらそう注意する。
「え?リアム前向いていないの?おい頼むよこれだとみんな死ぬだろ。ちゃんと前を向け!」
「・・・お前ら後で待っていろよ。一人ずつしばいてやる。特にトム、お前は許さない」
「うっわ、こっえ」
仕方なく俺は前を向き直った。
「あそういうや、花」
またトムがしゃべりだした。
「ん?」
「お前、もう薬は飲んでいないのか?ほら、昨日一緒にこの別荘に来てからお前が薬を飲むところ、まだ一回も見ていなかったから」
トムが言っている薬は、花のうつ病の向精神薬のことだ。花はなぜか知らないが、九年生から十年生にかけての頃、原因不明のうつ病にかかっていたらしい。精神病院に行ってもその原因がわからなく、なんとなく処方を出されていた。
「は!?あなたさあ、まじでなんなの?薬のことといい、私が日本から来たんだってことも知らなかったことといい」
花がいきなり声を荒げる。
「は?俺またなんか悪いことでも言ったのか?」
トムはまだわかっていないようだった。花のうつ病は十年生になって間もない頃にもうすでに治っていたのだ。結局原因はわからないままだったらしい。しかし治った花は今の通り、昔と変わらず元気になっていたから、俺とトムはその時結構安心して喜んだのを覚えている。神様の脛にキスをしてもいいくらいの勢いで。
「その薬、もう一年半以上もずっと飲んでいないんですけど?」
「あそうだったの・・・」
夕食のころと同じように、トムは花にそう怒られて黙った。
「よしついた・・・この引き戸だな」
そうこうしているうちに、俺たちは電源装置までたどり着き、そこの電源を入れた。「キューーーン」とトーンがだんだん高くなっていくような電子音がしばらく鳴り続けると、「ガチャ」という音が鳴り響いた。これでスイッチを入れればどこの電気もつく。
念のために、俺は電源装置にパスワードを設定した。電源装置の操作部分はモニター式になっていて、この屋敷にあるすべての装置は連動している。パスワードの設定機能があったが、設定されていなかったため、また電源をオフにされることがないように、少々の手間をかけて長めのパスワードを入れておいた。
「よし、これで電源が落ちることはもうない。本格的に犯人を捜そう」
そう言うと、残った二人も頷いてくれた。
今のところ犯人には会っていないが、いずれどこかで遭遇してもおかしくない。いや、もしかしたらもう俺たちの存在に気づき、ずっとどこかに潜んで隙を伺っているのかもしれない。
俺たちは決してお互いに離れぬよう、慎重に進みながら、とにかく屋敷の電気を一つまた一つとつけていき、辺りを明るくしていった。これで襲われる心配も格段と下がっていった。まあ最も、襲われるということは、つまり犯人に会えるということなのだが、暗闇に慣れているだろう相手に比べたらこちら側が不利になってしまうため、安全策を取るのが一番だ。
この屋敷は全部で四階ある。四階のフロアはほかの階に比べて面積がその三分の二ほどしかないが、それでも立派に広かった。途中で天井がガラス張りになっている屋上農園チックな幻想的な場所を目にして、一瞬ここで心地よく眠ってみたいという願望が浮かび上がってきたが、今の状況を考えろとすぐに俺は平和ボケた自分を心の中で叱った。それに、外は嵐だったから、寝るにしても眠れない。
そして四階を倉庫、各寝室、小広間や屋上プール・・・と探っていき、そしてさらに三階の奥側、手前側、二階の奥側、手前側・・・と探っていったが、犯人を見つけるどころか、その尻尾の毛一本すら掴み取ることができなかった。
そして俺たちはとうとう二階まで屋敷を調べつぶした。途中で自分たち以外の誰かが発した音も聞いていなく、まったくと言っていいほど手掛かりがなかった。このままでは戦利品がグレードアップしていった武器と、叔父のための医療品だけになって、肝心なトムの潔白は証明できなかったことになってしまう。これではまずい。そう思って俺たちは焦った。一番焦ったのは言うまでもなく、犯人容疑を掛けられたトム本人である。
奥側の階段を使って一階に降りると、俺たちは左右両面についているアルミ製の押し扉を目にした。中が見える丸い窓がついた、よく映画とかでも見る厨房の扉である。電気をつけて、中に入ると、俺の家のキッチンの五倍ほどの広さがあるのではないかというくらいのだだっ広いキッチンが広がっていた。各種の調理用具が飾られどれも新品でピカピカであった。クローデットが先ほど使っていた奴が申し訳程度に部屋の隅に置かれている。
「さっきも入って思ったんだけどさ。こんな広いキッチン、いるかよ。別荘にしては大きすぎる気がするんだよな。キッチンだけじゃなくて、すべてが。俺の父さん、別にそれほどたくさんの友達がいたわけじゃないし、そもそもこんなところでパーティーを催すなら一緒に暮らしている俺にも言っていたはずなんだが」
「一人じゃなかったんじゃないのかな?」
俺がため息を漏らすと、花が流し台の下の戸棚を漁りながらそう口にした。
「あなたのお父さんって、どれくらいのペースでここに来ていたのよ?」
そう花に聞かれて俺はしばらく記憶を探ってみた。
「んー、別荘にいくって告げられたことはないけど、確か前は月に一度くらいのペースで三日ほど家を空けることはあったな・・・で?それがどうしたの?」
「いや・・・別に私が言わずともわかるでしょ」
そう花は言うのをためらって、トムの方を向いて「ねぇ、トム」とバトンを渡そうとした。しかしトムは「ん?どうかした?」と振り向いてくる。どうやら話を聞いていなかったらしい。
「あなたって本当に使えないのね」
訳もなくまた怒られてトムは理解しがたいという風に目を大きく開けて俺の方を見、肩をすくめた。
「女って難しい生き物だな」
「いや多分お前が鈍感なだけだよ」
「あなたもよ」
いきなり不意打ちを食らって俺はトムと同じように彼を見ながら肩をすくめる。
「だからさ。リアム」
戸棚を調べ終わったようで、彼女は立ち上がって俺の方を見る。
「つまり、あなたのお父さんに新しい愛人ができてたのよ」
「まさか、あの老けた爺さんが。だって俺を生んだ時、父さんはもう四十五くらいだったんだぜ。母さんが不妊だったからって二人悲しんでいたけど晩年になってようやく生まれたのが俺だ」
「知ってる。でもそんなのは関係ないでしょ。愛に年齢も見た目も関係ないのよ」
「花にもそういうロマンチックなところがあるんだ、驚いたよ。活火山にバラ畑が申し訳程度に広がっているような情景を彷彿させられる」
ほかの戸棚を調べていたトムが場違いなコメントを差し入れる。
「あんたは黙ってなさい」
「いやいや、だとしたらなんで愛人ができたって俺に報告しもしないんだよ」
「それはだって、あんたが傷つくのを心配したからでしょ」
当たり前だという風に花はそっけなく答えた。
「母さんが死んだんだから別に愛人ができたくらいで悲しんだりも怒ったりもしないし、むしろずっと秘密にされた方がまずいでしょ。なにも隠すことはない。俺はそんな器の小さい男じゃないよ」
壁側に付いたテーブルの上側にある戸棚を開いて、そこで瓶に入ったアルコールを見つけた俺は二人に「あった」と言って見せた。
母さんは俺が七歳くらいの頃に交通事故で亡くなってしまった。その時俺はまだトムとも知り合っていなかった。父さんからは母さんのことについてよく話してくれたんだが、なぜか肝心な交通事故に関してはあまり明言しなかったのだ。別に疑っているわけではなかったのだが、なぜいつも黙っているのか不思議がっていた時期もあった。あの時は母さんが突然いなくなったせいでいつもさみしくて泣いていたのを思い出す。
「あ、ガーゼ発見したぞ」
奥の方からトムの声がして、振り返ってみると彼がニッと歯を見せて笑いながら手に持ったガーゼをこちらに見せてきた。
「ハサミもさっき見つけたわよ」
そう花が言うと、とりあえず集めるべきものは集まったことで俺は安心した。
――その時だった。
「うわっ!」
トムの声だ。
「どうかしたの!?トム!」
花の声を傍らに俺は急いで彼の方を見た。するとそこにはグレーのズボンに、真っ黒なフード付きパーカーを着た、フードを深々と被っている一人の男が立っていた。そのすぐ横でトムが座り込んでいて、自分の顔を両手で押さえている。おそらく男に顔を殴られたのだろう。
「犯人だ!」
俺は急いでそいつの方へと駆け寄った。自分の体に持っていたナイフを手に隠すと、すぐに近づいていく。
男は俺の方に向いてきた。仮面をかぶっている。右上が欠けている仮面だ。そこから男の真っ暗な瞳が見える。
戦い方も知らない俺だったが、あの時はとにかく攻撃することしか考えられなかった。正体不明の敵が目前にいることに対する恐怖よりも、それ以上にコイツを倒すことへの執念が強かった。
両手で持ったナイフを彼に突きつける。しかし彼は全く動じない。ナイフがちょうど彼に当たりそうになったところを、シュッと躱され、気づいたら背中に強烈な痛みを覚えた。
それと同時に花がナイフを持って彼の方へと走っていく。しかし男は彼女をものともせず、彼女の手首をつかむと勢いよく上にひねる。
「痛い!離して!」
キッチンに花の悲鳴が響き渡った。
その瞬間。
いつの間にか立ち上がっていたトムが勢いよく男の背中にしがみつき、渾身の力を込めて彼を押し進めた。不意にそうされた男はよろめいて花の手を離してしまい、そのままトムの力によって強制的に後ずさる。
「うわあああああ!」
トムが咆哮し、立ち上がって助けに行こうと思った俺だが、目の前の光景に目を見開かせた。
なんとトムが男を僅かの高さではあるが抱き上げていたのだ。そのまま彼は男を後ろのガラス棚のところにアタックし、男はガラスの割れる音とともに地面に倒れこんだ。
俺と花は急いでトムのもとへと駆け寄った。トムは目の前でぐったりと倒れている男を見下ろしながらものすごい荒い息を吐いていた。
「すげぇなトム!」
俺は思わず歓声を上げた。
しかしそうするにはまだ早かった。男はすぐさま朦朧とした意識を覚ませ、背を後ろの棚に預けたまま俺たちをじっと見つめた。
左から順に俺、トム、花と見つめていく。
そして花の方を見ると、仮面に隠れ右目しか見えない彼はその目を大きくした。じっと花の方を睨み、ゆっくりと左手を上げる。何かするのかと備えていたが、彼がしたのは簡単なことだった。
中指を立てたのだ。
「・・・なに?」
花は数歩後ずさって苦々しい表情をした。男はずっと彼女の方を見つめ、真っ暗な瞳をさらに大きく開かせる。まるでブラックホールのように奥行きがあるように感じられ、ずっと見ていると吸い込まれそうだった。
「犯人はお前だけか。ほかの奴はどこだ!」
トムはそんな彼をお構いなしに足で一蹴りして問い責めた。俺はナイフを強く手に握り、彼が動こうものならいつでも切りつけられるよう、トムとは違ってやや後ろに下がって様子を伺っていた。男はどうやら武器を持っていないようである。見る限り、ポケットも膨らんでいないから、叔父を殺そうとした犯人でもないようだった。なぜなら彼は拳銃を持っていない。
トムの再三の詰問に屈せず彼はずっと花の方を見ていた。瞼がないのではないかというほどに目を見開かせて、そしてじっと彼女の方に顔を向ける。不気味なその顔に俺たちは見るに堪えなかった。
ついに我慢しきれなくなったトムは身を低くして彼の仮面を外そうと手を伸ばす。
しかし、トムの足が宙を浮いた。
男が見えない速さでトムの足を蹴って彼の足を掬ったのだ。そのままトムはバタリと背中から床に着き、男はすぐに立ち上がる。襲い掛かるのではないかと思って俺はナイフを突きつけ倒れたトムの前に立ったのだが、予想外に彼は仕掛けてくるのではなく、再び花の方に中指を一回立てつけると、そのままキッチンから出て姿を消してしまった。
俺はすぐにそのあとを追おうとした。しかし、トムに呼び止められる。
「だめだリアム。追っていったらどこかで仕掛けられて殺されちゃう。まだ犯人が彼一人かわからない」
「知っているよ。でも追いかけないと。それに犯人は絶対に彼一人だけじゃない。彼は拳銃を持っていなかった」
俺がそういうと、トムは背中の痛みに顔を顰めながら話す。
「拳銃は捨てたのかもしれない」
「どうして?」
それに花が突っかかった。
「あいつ、めちゃくちゃ喧嘩が強そうだった。さっき戦った時も、俺たちはみんな武器を持っていたのに、あいつは手だけで俺たちに立ち向かおうとしていた。多分、武器はあまり使いたくないんだよ。なんでかはわからないけど。おじさんが刃物で刺されたのは、おじさんが拳銃を持っていたから、さすがに素手で立ち向かうにはリスクが高すぎるって思ったんだ」
ものすごい痛そうな声で彼はそう答えた。
「じゃあ、なんで彼は逃げたの?そのまま私たちみんなをやっつければよかったんじゃないの?」
恐怖に震え、花もまともに声を出して話すことができていなかった。
「・・・それはわからない」
少し考えてから、トムは頭を横に振った。そしてゆっくりと立ち上がり、俺は彼の腕を首に回してサポートした。
「イテテテテ・・・」
あまりにもの痛さにトムは歯と歯の間から空気を吸うような音を発する。
「大丈夫か?」
「ああ、ありがとう。っていうか、さっきの犯人、なぜかずっと花のことを睨んでいたな」
そうトムに言われて、俺は改めてそのことにはっとした。花も同じくまた苦い顔をした。
「それに中指を立てていた・・・犯人は花に何か因縁でもあるのか?」
「まさか、誰かに復讐なんてされるようなことを私がすると思う?」
花が慌ててそう訊き返す。
「・・・いや、ない」
「・・・うん、ない」
俺とトムはそろって否定した。
これは俺たちの絆からそう彼女を信じていたからというわけではなくて、事実そうなのだ。彼女は確かにたまに人の痛い急所を突くような口をするときはあるが、誰かをいじめたり、ケガさせたりするようなことは今まで一緒にいて一度もやったことがない。いつも明るく元気で、出会った当初とは違って今やものすごく友達が多く、学校でも顔が広い。そもそも今回一緒に別荘に来たジェイクとクローデットだって、もともとは俺とトムの知り合いではなかったのに、彼女のつてでここにいることになったのだ。
「日本にいた時に何かしたとかは?」
トムがそう聞くが、
「日本からわざわざこっちに飛んできてまで復讐するって相当なことだよ?六年生以下だった私が、しかも年上相手にそれほどの仇事をすることができると思う?あの男、見た目からして絶対に私たちよりも年上だった!」
感情的になった花ははきはきとそう言う。俺たちはそれを聞いて確かにそれはないと悩んだ。そもそも花が復讐される相手だなんて、あまりにも柄に合わない。そういう問題ではないが。
「とりあえず、いったん広間に戻ろう。だいぶ空けちゃったからジェイクとクローデットの方も心配だ」
少しの間考えた後、俺はそう言った。
「犯人は捕まえられなかったけど。もしトムが犯人の一人なら、さっきの男とここまで戦わないだろうし、そう言えばさすがの彼らも信じてくれるとは思うから、これでいいと思う。もうここは危険だ」
「そうだね。さっきの男みたいなやつがもしほかにいたら、今度はもう立ち迎えられるとは思えないよ・・・」
トムがそう弱音を吐いた。ガタイのいい彼でさえそうなるのだから、ほかの俺たちはもっと叶わない。実際そうだったし。
「・・・怖いよ。リアム」
涙目になりながら花は俺の方を見た。俺は彼女に歩み寄り、彼女の頭を胸に抱え込んで慰めてやる。
「大丈夫だ。俺とトムが守ってやるから。絶対に死なせたりなんかしない・・・絶対に」
震えそうになる声を必死に落ち着かせながら、俺はつとめて彼女が安心できるような優しい声で言った。
「・・・なぁトム」
「ああ!なんか知んねーけど体がまたピンピンし出したわ!姫は俺が守ってやるよ!」
さっきまで痛がっていたトムが無理して元気よさそうに何回か飛び跳ねた。それを見た花は小さな涙を頬に垂らしながらもぎこちなく笑う。
「・・・二人ともありがとう」
「よし!じゃあ早く行こうぜ!」
「ああ、そうだな――」
バンッ! ――――――――――――キーーーーーーーーーーーーーーン
頭に強烈な痛みを覚えて、体がバランスを失い、世界が反転した。
そのあとは、真っ暗な闇。
俺たちの主要な目標は犯人を捜すに他ならない。自分たちの身を守るため、そしてその犯人により良いダメージを与えるために、道中で見つけた殺傷力の高いもの、例えばカッターナイフだったり、果物用ナイフだったりにもともと持っていた鈍器を取り換え、そしてさらに屋敷の奥深くまで足を踏み入れた。
しかし、それ以外にも二つやることがあった。
一つ目はまず電源を入れることだった。
電気がつけられるだけで、視野の広さが全く違くなるし、もしかしたら犯人も見つけやすくなるかもしれない。なにより、みんなが落ち着ける。人間は暗闇を怖がる。一寸先が闇であると、どうしても慌ててパニックを起こしやすくなるのだ。だから喧嘩も起こりやすい。今の状態で仲間割れがこれ以上起ころうとしたら、それこそ全員が死ぬ最悪の事態になりかねない。
また、犯人を見つける可能性がより高くなるためにも、俺たちはまず電源装置がある場所を目指して歩くことにした。
そしてもう一つの目標は、叔父の傷を癒すための医療道具を取るためだった。アルコール、ガーゼ、ハサミ、その他もろもろ。広間をトムと花がずっと探してくれたが、さすがに見つかるわけもなく、仕方なく叔父にはもう少し耐えてもらうことにした。おそらく、目当てのものは全部一階のキッチンにある。しかし、キッチンは一階の一番奥に位置しているため、最後に向かうことにした。奥の方でも上下をつなぐ階段がある。その時に道順としてそこへたどり着けるのだ。クローデットの料理の手伝いをみんなでしていたから、そこら周辺の間取りはなんとなく覚えている。
「えっと・・・地図によると、ここをまっすぐ行って・・・ああ、廊下の突き当りだ。そこを右に曲がってさらに歩いていけば、真ん中あたりに引き戸があって、その部屋の中にあるらしい」
叔父の胸ポケットから取り出した地図を広げながら俺はそういう。地図を見るときは歩かず、いったんみんなで止まって、確認ができてから歩くことにした。これで不意打ちに合う確率も下がる。
「電源装置はすぐそこだ。早く行こう」
そう言って、俺たちはまたゆっくりと歩き始めた。
「イッテ・・・」
後ろにいた花が突然そう言った。そのため俺とトムは突然立ち止まって彼女の方に顔を向ける。花は前を見ておらず危うく俺にぶつかるところだった。
「どうした?」
「いや・・・ナイフで指をちょっと切っちゃっただけ」
俺の質問に彼女は目をそらしてそう答えた。
「びっくりさせんなよ」
ため息を一つ付いて俺はまた前の方を向いた。一刻を争うようなこの時にいちいち止まってはいられないのだ。
「・・・ごめん」
そう花が小さな声で言うと、
「まあ、花は前から傷を作りやすい奴だからな」
サポートに回るようにトムがそう言った。
「ま確かにな」
俺も応ずる。
「女の子にしてはちょっぴり元気が良すぎだ。学校の階段を半階分一気に飛び降りたり・・・それに俺たちの学校の中で走るスピードが三番目に速いし。男子を混ぜてだぞ?」
「女の子が元気じゃおかしいって言うのは性差別でしょ」
「別に俺はいけないとは言っていない。ただお前、俺たちがいなかったら当初、独りぼっちだったじゃないか。女子の輪にも入れそうになかったし」
トムがそういうと、俺は改めてあの時の花を思い出した。あの時まだ英語もろくに話せなかった彼女は、そういった言葉の壁もあってなかなか誰かに話しかけることができなかった。
日本人はみんな控えめだってことは聞いたことあるけど、まさかあそこまで陰キャ気質なやつらだとは想像できなかったし、なによりあいつが学校に来て誰にも話しかけなかったことに驚いた。ずっと俯いて机を見つめたまま座っているだけで微動だにしないし、誰かが声をかけても頷くばかりで、自分の意見を一向に言おうとはしない。まるで銅像のようだった。
「そんなこと言っているけど、今こうして三人でいるのもだって結局のところあなたたちが私のことを気になったからでしょ?」
花はおそらく、俺たちと花が一緒に遊ぶようになったのは俺たちが彼女に積極的に近づいていったからと言いたいのだろう。
「やまあ、それも否めないけどな」
トムがやや照れ臭そうに笑っている。前を向いているから、彼がどんな表情をしているかはわからなかったが、明らかに声が柔らかくなっていた。
「でも、お前さ。あんなに静かだったのに、一緒に遊ぶってなったとたんに元気が出たじゃないか。俺けっこう気に入っていたんだぞ。あの頃のお前が。なんていうか、ほら、よく言うジャパニーズ・レディ、ってやつ。おしとやかで、陰から男を支えるような・・・とにかく独特な柔らかいっていうか、そんな感じのオーラが漂っていた」
言葉を何となく濁しながら俺はそう口にした。
「それただ花が好きなだけだろ」
トムが笑ってそう俺を茶化す。
「んなこたあねぇよ」
「いや、俺は覚えている。花と会って間もない時・・・まだ完全に俺たちとコイツが一緒になじめていない時だよ。あんときさ、お前興奮して俺にこう言ったじゃないか。『あいつは俺の隣に引っ越してきたやつだ!』って。覚えているか?」
トムがそう言うと、脳内に顔を赤く染めた当時の自分の顔がだらしなく映った。
「覚えてねぇよ。ってかお前ちゃんと後ろの方見てんのか?」
そう言うがトムは無視して続ける。
「あんときのお前の顔まだ覚えている。興奮しすぎて鼻息をふんって勢いよく出してたぜ。機関車リアムだな。チューチュー!」
「ふんっ・・・かわいいじゃんリアム」
花がさらに追い打ちをかける。鼻で笑ったところがなんともムカつく。
「うっせぇな!」
「チューチュー!チューチュー!」
ずっと前を向いていたが我慢しきれなくなって俺は慌てて後ろの方を向いてトムに睨みの利いた視線を当てた。しかし、今この一瞬で後ろの方に向き直ったのか、それともずっと後ろの方を向いていたのか。彼は俺に背を向けるだけで特にこちら側を気にしていない素振りを見せた。
「ちょっとリアム、あなたこそちゃんと前の方を向きなさいよ」
そこへ花が前の方を向いて、からかいながらそう注意する。
「え?リアム前向いていないの?おい頼むよこれだとみんな死ぬだろ。ちゃんと前を向け!」
「・・・お前ら後で待っていろよ。一人ずつしばいてやる。特にトム、お前は許さない」
「うっわ、こっえ」
仕方なく俺は前を向き直った。
「あそういうや、花」
またトムがしゃべりだした。
「ん?」
「お前、もう薬は飲んでいないのか?ほら、昨日一緒にこの別荘に来てからお前が薬を飲むところ、まだ一回も見ていなかったから」
トムが言っている薬は、花のうつ病の向精神薬のことだ。花はなぜか知らないが、九年生から十年生にかけての頃、原因不明のうつ病にかかっていたらしい。精神病院に行ってもその原因がわからなく、なんとなく処方を出されていた。
「は!?あなたさあ、まじでなんなの?薬のことといい、私が日本から来たんだってことも知らなかったことといい」
花がいきなり声を荒げる。
「は?俺またなんか悪いことでも言ったのか?」
トムはまだわかっていないようだった。花のうつ病は十年生になって間もない頃にもうすでに治っていたのだ。結局原因はわからないままだったらしい。しかし治った花は今の通り、昔と変わらず元気になっていたから、俺とトムはその時結構安心して喜んだのを覚えている。神様の脛にキスをしてもいいくらいの勢いで。
「その薬、もう一年半以上もずっと飲んでいないんですけど?」
「あそうだったの・・・」
夕食のころと同じように、トムは花にそう怒られて黙った。
「よしついた・・・この引き戸だな」
そうこうしているうちに、俺たちは電源装置までたどり着き、そこの電源を入れた。「キューーーン」とトーンがだんだん高くなっていくような電子音がしばらく鳴り続けると、「ガチャ」という音が鳴り響いた。これでスイッチを入れればどこの電気もつく。
念のために、俺は電源装置にパスワードを設定した。電源装置の操作部分はモニター式になっていて、この屋敷にあるすべての装置は連動している。パスワードの設定機能があったが、設定されていなかったため、また電源をオフにされることがないように、少々の手間をかけて長めのパスワードを入れておいた。
「よし、これで電源が落ちることはもうない。本格的に犯人を捜そう」
そう言うと、残った二人も頷いてくれた。
今のところ犯人には会っていないが、いずれどこかで遭遇してもおかしくない。いや、もしかしたらもう俺たちの存在に気づき、ずっとどこかに潜んで隙を伺っているのかもしれない。
俺たちは決してお互いに離れぬよう、慎重に進みながら、とにかく屋敷の電気を一つまた一つとつけていき、辺りを明るくしていった。これで襲われる心配も格段と下がっていった。まあ最も、襲われるということは、つまり犯人に会えるということなのだが、暗闇に慣れているだろう相手に比べたらこちら側が不利になってしまうため、安全策を取るのが一番だ。
この屋敷は全部で四階ある。四階のフロアはほかの階に比べて面積がその三分の二ほどしかないが、それでも立派に広かった。途中で天井がガラス張りになっている屋上農園チックな幻想的な場所を目にして、一瞬ここで心地よく眠ってみたいという願望が浮かび上がってきたが、今の状況を考えろとすぐに俺は平和ボケた自分を心の中で叱った。それに、外は嵐だったから、寝るにしても眠れない。
そして四階を倉庫、各寝室、小広間や屋上プール・・・と探っていき、そしてさらに三階の奥側、手前側、二階の奥側、手前側・・・と探っていったが、犯人を見つけるどころか、その尻尾の毛一本すら掴み取ることができなかった。
そして俺たちはとうとう二階まで屋敷を調べつぶした。途中で自分たち以外の誰かが発した音も聞いていなく、まったくと言っていいほど手掛かりがなかった。このままでは戦利品がグレードアップしていった武器と、叔父のための医療品だけになって、肝心なトムの潔白は証明できなかったことになってしまう。これではまずい。そう思って俺たちは焦った。一番焦ったのは言うまでもなく、犯人容疑を掛けられたトム本人である。
奥側の階段を使って一階に降りると、俺たちは左右両面についているアルミ製の押し扉を目にした。中が見える丸い窓がついた、よく映画とかでも見る厨房の扉である。電気をつけて、中に入ると、俺の家のキッチンの五倍ほどの広さがあるのではないかというくらいのだだっ広いキッチンが広がっていた。各種の調理用具が飾られどれも新品でピカピカであった。クローデットが先ほど使っていた奴が申し訳程度に部屋の隅に置かれている。
「さっきも入って思ったんだけどさ。こんな広いキッチン、いるかよ。別荘にしては大きすぎる気がするんだよな。キッチンだけじゃなくて、すべてが。俺の父さん、別にそれほどたくさんの友達がいたわけじゃないし、そもそもこんなところでパーティーを催すなら一緒に暮らしている俺にも言っていたはずなんだが」
「一人じゃなかったんじゃないのかな?」
俺がため息を漏らすと、花が流し台の下の戸棚を漁りながらそう口にした。
「あなたのお父さんって、どれくらいのペースでここに来ていたのよ?」
そう花に聞かれて俺はしばらく記憶を探ってみた。
「んー、別荘にいくって告げられたことはないけど、確か前は月に一度くらいのペースで三日ほど家を空けることはあったな・・・で?それがどうしたの?」
「いや・・・別に私が言わずともわかるでしょ」
そう花は言うのをためらって、トムの方を向いて「ねぇ、トム」とバトンを渡そうとした。しかしトムは「ん?どうかした?」と振り向いてくる。どうやら話を聞いていなかったらしい。
「あなたって本当に使えないのね」
訳もなくまた怒られてトムは理解しがたいという風に目を大きく開けて俺の方を見、肩をすくめた。
「女って難しい生き物だな」
「いや多分お前が鈍感なだけだよ」
「あなたもよ」
いきなり不意打ちを食らって俺はトムと同じように彼を見ながら肩をすくめる。
「だからさ。リアム」
戸棚を調べ終わったようで、彼女は立ち上がって俺の方を見る。
「つまり、あなたのお父さんに新しい愛人ができてたのよ」
「まさか、あの老けた爺さんが。だって俺を生んだ時、父さんはもう四十五くらいだったんだぜ。母さんが不妊だったからって二人悲しんでいたけど晩年になってようやく生まれたのが俺だ」
「知ってる。でもそんなのは関係ないでしょ。愛に年齢も見た目も関係ないのよ」
「花にもそういうロマンチックなところがあるんだ、驚いたよ。活火山にバラ畑が申し訳程度に広がっているような情景を彷彿させられる」
ほかの戸棚を調べていたトムが場違いなコメントを差し入れる。
「あんたは黙ってなさい」
「いやいや、だとしたらなんで愛人ができたって俺に報告しもしないんだよ」
「それはだって、あんたが傷つくのを心配したからでしょ」
当たり前だという風に花はそっけなく答えた。
「母さんが死んだんだから別に愛人ができたくらいで悲しんだりも怒ったりもしないし、むしろずっと秘密にされた方がまずいでしょ。なにも隠すことはない。俺はそんな器の小さい男じゃないよ」
壁側に付いたテーブルの上側にある戸棚を開いて、そこで瓶に入ったアルコールを見つけた俺は二人に「あった」と言って見せた。
母さんは俺が七歳くらいの頃に交通事故で亡くなってしまった。その時俺はまだトムとも知り合っていなかった。父さんからは母さんのことについてよく話してくれたんだが、なぜか肝心な交通事故に関してはあまり明言しなかったのだ。別に疑っているわけではなかったのだが、なぜいつも黙っているのか不思議がっていた時期もあった。あの時は母さんが突然いなくなったせいでいつもさみしくて泣いていたのを思い出す。
「あ、ガーゼ発見したぞ」
奥の方からトムの声がして、振り返ってみると彼がニッと歯を見せて笑いながら手に持ったガーゼをこちらに見せてきた。
「ハサミもさっき見つけたわよ」
そう花が言うと、とりあえず集めるべきものは集まったことで俺は安心した。
――その時だった。
「うわっ!」
トムの声だ。
「どうかしたの!?トム!」
花の声を傍らに俺は急いで彼の方を見た。するとそこにはグレーのズボンに、真っ黒なフード付きパーカーを着た、フードを深々と被っている一人の男が立っていた。そのすぐ横でトムが座り込んでいて、自分の顔を両手で押さえている。おそらく男に顔を殴られたのだろう。
「犯人だ!」
俺は急いでそいつの方へと駆け寄った。自分の体に持っていたナイフを手に隠すと、すぐに近づいていく。
男は俺の方に向いてきた。仮面をかぶっている。右上が欠けている仮面だ。そこから男の真っ暗な瞳が見える。
戦い方も知らない俺だったが、あの時はとにかく攻撃することしか考えられなかった。正体不明の敵が目前にいることに対する恐怖よりも、それ以上にコイツを倒すことへの執念が強かった。
両手で持ったナイフを彼に突きつける。しかし彼は全く動じない。ナイフがちょうど彼に当たりそうになったところを、シュッと躱され、気づいたら背中に強烈な痛みを覚えた。
それと同時に花がナイフを持って彼の方へと走っていく。しかし男は彼女をものともせず、彼女の手首をつかむと勢いよく上にひねる。
「痛い!離して!」
キッチンに花の悲鳴が響き渡った。
その瞬間。
いつの間にか立ち上がっていたトムが勢いよく男の背中にしがみつき、渾身の力を込めて彼を押し進めた。不意にそうされた男はよろめいて花の手を離してしまい、そのままトムの力によって強制的に後ずさる。
「うわあああああ!」
トムが咆哮し、立ち上がって助けに行こうと思った俺だが、目の前の光景に目を見開かせた。
なんとトムが男を僅かの高さではあるが抱き上げていたのだ。そのまま彼は男を後ろのガラス棚のところにアタックし、男はガラスの割れる音とともに地面に倒れこんだ。
俺と花は急いでトムのもとへと駆け寄った。トムは目の前でぐったりと倒れている男を見下ろしながらものすごい荒い息を吐いていた。
「すげぇなトム!」
俺は思わず歓声を上げた。
しかしそうするにはまだ早かった。男はすぐさま朦朧とした意識を覚ませ、背を後ろの棚に預けたまま俺たちをじっと見つめた。
左から順に俺、トム、花と見つめていく。
そして花の方を見ると、仮面に隠れ右目しか見えない彼はその目を大きくした。じっと花の方を睨み、ゆっくりと左手を上げる。何かするのかと備えていたが、彼がしたのは簡単なことだった。
中指を立てたのだ。
「・・・なに?」
花は数歩後ずさって苦々しい表情をした。男はずっと彼女の方を見つめ、真っ暗な瞳をさらに大きく開かせる。まるでブラックホールのように奥行きがあるように感じられ、ずっと見ていると吸い込まれそうだった。
「犯人はお前だけか。ほかの奴はどこだ!」
トムはそんな彼をお構いなしに足で一蹴りして問い責めた。俺はナイフを強く手に握り、彼が動こうものならいつでも切りつけられるよう、トムとは違ってやや後ろに下がって様子を伺っていた。男はどうやら武器を持っていないようである。見る限り、ポケットも膨らんでいないから、叔父を殺そうとした犯人でもないようだった。なぜなら彼は拳銃を持っていない。
トムの再三の詰問に屈せず彼はずっと花の方を見ていた。瞼がないのではないかというほどに目を見開かせて、そしてじっと彼女の方に顔を向ける。不気味なその顔に俺たちは見るに堪えなかった。
ついに我慢しきれなくなったトムは身を低くして彼の仮面を外そうと手を伸ばす。
しかし、トムの足が宙を浮いた。
男が見えない速さでトムの足を蹴って彼の足を掬ったのだ。そのままトムはバタリと背中から床に着き、男はすぐに立ち上がる。襲い掛かるのではないかと思って俺はナイフを突きつけ倒れたトムの前に立ったのだが、予想外に彼は仕掛けてくるのではなく、再び花の方に中指を一回立てつけると、そのままキッチンから出て姿を消してしまった。
俺はすぐにそのあとを追おうとした。しかし、トムに呼び止められる。
「だめだリアム。追っていったらどこかで仕掛けられて殺されちゃう。まだ犯人が彼一人かわからない」
「知っているよ。でも追いかけないと。それに犯人は絶対に彼一人だけじゃない。彼は拳銃を持っていなかった」
俺がそういうと、トムは背中の痛みに顔を顰めながら話す。
「拳銃は捨てたのかもしれない」
「どうして?」
それに花が突っかかった。
「あいつ、めちゃくちゃ喧嘩が強そうだった。さっき戦った時も、俺たちはみんな武器を持っていたのに、あいつは手だけで俺たちに立ち向かおうとしていた。多分、武器はあまり使いたくないんだよ。なんでかはわからないけど。おじさんが刃物で刺されたのは、おじさんが拳銃を持っていたから、さすがに素手で立ち向かうにはリスクが高すぎるって思ったんだ」
ものすごい痛そうな声で彼はそう答えた。
「じゃあ、なんで彼は逃げたの?そのまま私たちみんなをやっつければよかったんじゃないの?」
恐怖に震え、花もまともに声を出して話すことができていなかった。
「・・・それはわからない」
少し考えてから、トムは頭を横に振った。そしてゆっくりと立ち上がり、俺は彼の腕を首に回してサポートした。
「イテテテテ・・・」
あまりにもの痛さにトムは歯と歯の間から空気を吸うような音を発する。
「大丈夫か?」
「ああ、ありがとう。っていうか、さっきの犯人、なぜかずっと花のことを睨んでいたな」
そうトムに言われて、俺は改めてそのことにはっとした。花も同じくまた苦い顔をした。
「それに中指を立てていた・・・犯人は花に何か因縁でもあるのか?」
「まさか、誰かに復讐なんてされるようなことを私がすると思う?」
花が慌ててそう訊き返す。
「・・・いや、ない」
「・・・うん、ない」
俺とトムはそろって否定した。
これは俺たちの絆からそう彼女を信じていたからというわけではなくて、事実そうなのだ。彼女は確かにたまに人の痛い急所を突くような口をするときはあるが、誰かをいじめたり、ケガさせたりするようなことは今まで一緒にいて一度もやったことがない。いつも明るく元気で、出会った当初とは違って今やものすごく友達が多く、学校でも顔が広い。そもそも今回一緒に別荘に来たジェイクとクローデットだって、もともとは俺とトムの知り合いではなかったのに、彼女のつてでここにいることになったのだ。
「日本にいた時に何かしたとかは?」
トムがそう聞くが、
「日本からわざわざこっちに飛んできてまで復讐するって相当なことだよ?六年生以下だった私が、しかも年上相手にそれほどの仇事をすることができると思う?あの男、見た目からして絶対に私たちよりも年上だった!」
感情的になった花ははきはきとそう言う。俺たちはそれを聞いて確かにそれはないと悩んだ。そもそも花が復讐される相手だなんて、あまりにも柄に合わない。そういう問題ではないが。
「とりあえず、いったん広間に戻ろう。だいぶ空けちゃったからジェイクとクローデットの方も心配だ」
少しの間考えた後、俺はそう言った。
「犯人は捕まえられなかったけど。もしトムが犯人の一人なら、さっきの男とここまで戦わないだろうし、そう言えばさすがの彼らも信じてくれるとは思うから、これでいいと思う。もうここは危険だ」
「そうだね。さっきの男みたいなやつがもしほかにいたら、今度はもう立ち迎えられるとは思えないよ・・・」
トムがそう弱音を吐いた。ガタイのいい彼でさえそうなるのだから、ほかの俺たちはもっと叶わない。実際そうだったし。
「・・・怖いよ。リアム」
涙目になりながら花は俺の方を見た。俺は彼女に歩み寄り、彼女の頭を胸に抱え込んで慰めてやる。
「大丈夫だ。俺とトムが守ってやるから。絶対に死なせたりなんかしない・・・絶対に」
震えそうになる声を必死に落ち着かせながら、俺はつとめて彼女が安心できるような優しい声で言った。
「・・・なぁトム」
「ああ!なんか知んねーけど体がまたピンピンし出したわ!姫は俺が守ってやるよ!」
さっきまで痛がっていたトムが無理して元気よさそうに何回か飛び跳ねた。それを見た花は小さな涙を頬に垂らしながらもぎこちなく笑う。
「・・・二人ともありがとう」
「よし!じゃあ早く行こうぜ!」
「ああ、そうだな――」
バンッ! ――――――――――――キーーーーーーーーーーーーーーン
頭に強烈な痛みを覚えて、体がバランスを失い、世界が反転した。
そのあとは、真っ暗な闇。