狭く四角い部屋の中を、俺を含めた多くの人が足をまげて居座っている。狭い部屋だというのに、畳の地が見えないほどにみっちりと多くの人が集まっていることにより、自分がいる今の空間がより窮屈なものに感じた。
 この部屋と隣の部屋は障子で仕切られていて、その障子には横になった父の黒い影がくっきりと刻まれていた。父が隣の部屋で寝ているのだ、永遠に。
 今回、多くの親戚がこの屋敷に集まった理由はほかでもない、俺の父の葬式のためだった。由緒正しいこの門閥の氏長者であった父が死ねば、それは門閥にとっては大きなことであり、葬式を開くことになれば瞬く間に全国各地から身を黒く覆った親族の人たちが集まってきた。
 だが、親族と言っても、誰一人、俺の血族ではないのだ。俺は冷めた視線で回りの人間を一人一人眺めていった。父の死を受け入れられず悲しみに暮れる者、場に合わせてそう装っている者、楽観的い考えようと明るい表情を見せる者など、十人十色ではあったが、その誰もが今の俺の心境ほど、特殊な気持ちを抱えている者はいないだろう。俺は優越感に浸っていた。
 そんなことを考えていると、ふと顔を前に向けた瞬間、障子が開いた。ハンカチを下瞼に押し付けた叔母が、父の遺体が置かれた隣の部屋から出てきたのだ。どうやら「話」は終わったようである。
 これはこの門閥の風習なのだ。死者の葬式が挙げられたその晩、障子で隔たれた二つの部屋を用意して、一つの部屋に死者の遺体を置き、もう一つの部屋には遺族が集まる。一人ひとり順番に遺体が置かれた部屋に行き、その死者に自分の秘密を告げるのだ。その死者が生きている頃に言えなかったこと、隠していたことを告げることで、その死者が思い残すことなく成仏してくれることを願って代々伝統として行われ続けていたそうである。
 ようやく俺の番となった。速やかに部屋を移ると、感情の高ぶりを抑えて深呼吸をしながら障子をパタッと静かに閉めた。無様な姿へと化した父の体を舐めるように上から下へと眺め、口角が自然と上がる。
 俺は彼の耳元に唇を寄せた。そしてゆっくりと口を開き、空気を吐くようにして囁いた。
 「なぁ父さん。今だから言えることなんだけど、母さんを殺した犯人、あれ実は俺なんだ」
 これを聞いて今にも父が飛び上がるのではないかとどこか期待していた節もあったが、そんなはずはあるまいと俺は唾を飲み、話を続ける。
 「母さんが死んでからということ、父さんはいつも元気がなかったよねぇ。ほんとに見ていて気味が良かったよ」
 本心を隠さずに俺はそう告げる。顔が自然に綻んでしまったが、気にしなかった。

 これは復讐だったのだ。
 しとしとと雨が降り続けるとある日、まだ赤ん坊だった俺を、目の前で伏している父ともうこの世にはいない母が拾ってくれた。橋下に放置されていた俺を彼らはひと時の気の迷いに惑わされて安易に持ち帰ったのだろう。それから俺は二人の子供になった。
 だが、彼らが俺の命の恩人だと俺が思ったことは一度もない。
 彼らに拾われた最初のころは、肉親でもなかったのに寵愛されていて、それはそれは幸せな日々だったのだろうと俺は思う。まだそんな自覚はなかったが、あの頃の写真を見れば、まだ幼い俺の顔には必ずと言っていいほど笑顔が映っていた。
 しかしそれも束の間の幸福だった。すぐに二人の間に新たな息子が生まれ、俺は家族で部外者としての立ち位置に追いやられた。二人の実の息子に俺が愛情の面で勝てるわけもなく、たちまち俺は二人から疎遠される存在になってしまった。父は俺のことを無視するようになり、母は俺を煙たがるようになった。俺はそれが苦痛で仕方がなかった。
 何か生きる上で頼れるものを失ったとき、人間というものは人生のどん底に突き落とされ、その後再び這い上がってくることはとんでもなく難しいことなのだと、その時俺は学んだ。そしてその時の自分が、どれだけ孤独で、寂しいものだったのかも、俺以外の人は誰も知らない。父さんと母さんに可愛がられる継弟を見つめていると、寂しがっている自分が惨めに見えて、孤独感がよりいっそう自分に纏わり付いてくるのであった。
 そうしているうちに、いつしか俺はその孤独を紛らわすために、自分の心の中におぞましい悪魔を飼うようになった。悪魔は瞬く間に成長を遂げ、そして俺を支配していった。常に継弟に笑顔を振りまく父と母を悪魔は睨みのきいた視線で刺し、彼らをどう懲らしめようかと、俺に復讐の手段を提示してくれた。
 そして、考えに考えたうち、ある打ってつけの方法を考え付いた。それは、両親のうちどちらかを殺すということだった。二人とも殺してはそいつらが俺と同じような寂しさを味わうことはない。それは癪である。どうしても、俺は彼らに自分の味わった孤独を思い知らせてやりたかった。二人のうちどちらかにしか味わえさせてやれないのが多少残念に感じたが、それでも俺はそれを実行することに躍起になっていた。
 今まで支えあっていた愛人が、ある日突然自分から離れてしまったら、それはさぞかし寂しいことだろう。まるであの時愛してくれていた両親が、自分から突然離れた時の俺のように。そう思うと、悦に浸り全身で快感を覚えたのだ。
 計画を練っている段階で、殺しやすい母を殺害の対象に選んだ。そして実行するまでにそう時間は掛からなかった。別に加害者が俺であることが発覚してもいいと思った。ただただ彼らに思い知らせてやりたかったのだ、この孤独感を。それができるのであれば、どんなひどい刑罰でも受けようと俺は腹をくくっていた。そのため、綿密に計画する必要性も感じられずにいた。
 そして父が出張し、継弟が残業していたあの晩、ついに俺は母をこの手で殺めたのだ。母を殺すと決めたその時から、もう母は俺にとって、父を懲らしめるために死ぬための道具に過ぎないものとなっていた。
 そのため俺は有無を言わさず彼女を押し倒すと、手に持った包丁で全身をまんべんなく刺してやった。彼女の絶叫が大きければ大きいほど、その時の俺の脳を支配していた興奮の渦が激しさを増し、母の飛び血で顔を真っ赤にしながら俺は振る手を止めなかった。

 ――これでお前も孤独になれ!
 ――これでお前もどん底に落ちろ!
 ――これでお前も俺と同じになれ!

 その時の俺の中に母のことなど端から存在していなかった。「お前」とは父のことで、母はもうこの計画を考えていた時からただの物質でしかなかった。
あれほど快感であったことがこれまで生きてきた中であっただろうか。俺は自分にそう尋ねてみる。そうすると、必ず俺の中に俺は、俺に向かってきっぱりと首を振る。顔に薄気味悪い笑みを浮かべて、「お前のやったことは正しい」と言うのである。
 俺はその時、はじめて自分を見つけた気がした。自分の本当の正体はまさしく悪魔であった。復讐を果たした達成感が自我を形成する主な要素となり、それが身元不明な俺のアイデンティティとなっていた。自分には血の通った者がいなくても、本当はどこで生まれたのかがわからなくても、もう孤独ではない。俺は一人でも大丈夫なのだ。
 これこそが、真の俺である。そして、それから先の俺がやるべきことは、ただただ死んだ妻を思い続け、孤独に打ちひしがれる父を眺めながら気味がいいと感じることだった。案の定、父はまるで鏡に映った俺のようになった。どん底に突き落とされた彼はその日から何もかもが消極的になり、俺以上にその心は荒んでいた。俺はそれを見て、飢えていた心がようやく満足し、もう死んでもいいと思った。一応丹念に母の遺体を家の裏山の奥の奥に埋めておいたものの、事件が発覚し、自分が加害者であることが突き止められるのも時間の問題だと覚悟していた。
 しかし、どういう風の吹き回しか。警察が来る以前に、そもそも父は母の不在について何も言及をしなかったのだ。そればかりか、その日から俺を見るとたびたび俺に奇妙な目線を送り付けてくるのであった。
 憐れむような、しかしどこか憎いような、だけどどこかやってやったというようなおぞましい感情が、彼の目から感じられた。俺はたびたびそれを見てわけもなく背筋が凍るような思いをした。
 継弟すら、それについて何も言わなかった。
 俺はそれがどうしても腑に落ちなかったが、しかし自分からはどうすることもできなく、やがて母の存在は記憶の海の中へと葬られた。誰も母について話題することはなくなった。だが、父の背に潜むおびただしい量の孤独だけは、はっきりと俺に伝わった。俺はそれを糧にして毎日を送っていた。
 そして、その糧もようやく尽きてしまった。

 「なぁ、本当は知っていたんでしょ。俺が殺したってことくらい。今だから聞けることなんだけど、なんであの時通報をしなかった?ああ?」
 俺は答えが返ってくるはずもない質問をして、笑いながら父の肩をわざとらしく揺すった。死んだ父の顔は青白く筋肉が膠着していて、意識があったとしても到底口が開けないのではないかと思わせるほどだった。
 だがその時、心なしか部屋を照らしていた蝋燭の灯が一斉に一瞬揺れた気がした。
 「ん?」
 急に部屋の雰囲気が変わったことに俺は肌で感づく。

 ――ふふふ・・・

 「だれだ!」
 右耳のすぐ横を空気が漏れるようにして笑いが伝わってきた。その瞬間体が強張り、俺は思わず声がした方向と反対のほうへと後ずさった。
 しかし、何も見えない。
 その次の瞬間だった。
 ――自白し終えたか・・・?
 俺ははっとした。この聞き覚えのある掠れた力のない声、これはまさしく死ぬ瀬戸際にあった数日前の父の声であった。俺はすぐさま視線を父のほうへと向けた。だが遺体は動くはずもなく、ただ先ほどと変わらず、シーンと横になったままである。
 だがなぜか声だけが耳に届く。
 ――じゃあ、今度は私がお前に告げる番だな・・・
 体が動けなくなった俺はただただ聞くことしかできなかった。考える原動力を失ってしまったのに、彼の言葉だけは明晰に俺の頭の中で響いていた。考えようとする前に、なぜか彼の言っている言葉がすべて強制的に理解させられている気がした。
 ――お前は・・・捨て子なんかじゃない。お前の実の母親は、まさしくお前が殺したあの女だよ。
 「・・・!?」
 彼の言っていることに絶句する。何を言っているのだ、こいつは。
 ――私と出会う前に一度離婚をしていたお前の母親は連れ子であるお前を抱えて私に嫁いだのだ。橋の下でお前を拾ったという嘘は、私とあいつの子供を第一に考えるためについたただの口実に過ぎない。まあ、子供が生まれてからお前の母親がお前を疎く思っていたのは確かなことだがな。そんなことを知るはずもなく、自分の肉親を殺してしまい、ずっと私への復讐を遂げたと勘違いして微笑んでいたお前の姿はさぞかし皮肉なものだったよ。私はそれを告げたくて告げたくて仕方がなかった。だが言わない方が、面白いでしょう?
 「やめろ!」
 気づけば俺はすでに叫びだしていた。あの日殺したあの女の絶叫が再び自分の脳内で蘇った。
 あの女が自分の実の母?そんなことがありえるか!あいつは俺を嫌っていた!あいつが俺の実の母であるはずがない!そんなの嘘だ!やめろやめろやめろやめろやめろ!
 ――お前は復讐など成し遂げていない。ただたった一人の血の通った家族であった母親を気狂って殺してしまっただけのことだ。勘違いのせいでな。ただ、そんな母親にも愛されなかったお前は、本当に哀れな者だ。
 「あああああああああああああああ!」
 視界が歪んでいく。蝋燭の火が徐々に伸びていき、円を描くように広がっていった。すべてのものの境界線がはっきりとしなくなってきた。自分が今どこにいて、何をしているのかすら認識できなくなり、あたり一帯がカオスと化す。
 ただはっきりとしているのは、脳内で響く死んだ母の叫び声と、父の空高く鳴る不気味な笑い声だけであった。