黒い傘を持って立っていたのは、まさかの苦手な上司さまだった。瞳が赤く見えたのは見間違いだったのか、普通に黒目を細めて、天野は「立てるか?」と手を差し出してくる。

 玲央奈は体をよじって、咄嗟にその手を取った。

「あ、ありがとうございます……きゃっ!」
「おっと」

 立ち眩みを起こしてフラつく玲央奈の体を、天野は軽々と支える。
 鍛えられた胸元に頭を預ける形になり、玲央奈の頬は一気に熱を持った。男性への免疫が低い彼女には、このくらいの接触でも刺激が強い。
 急いで離れて、動揺を悟られぬようにサッと自分の傘を拾う。

 そもそもどうして、こんなところに天野がいるのか。

「その、天野主任はなんで……」

 玲央奈は言いかけて途中で気付く。
 いつの間にか周りの雨音が戻ってきているし、景色も歪んでいない。

(あやかしの作った空間から、抜け出せた……?)

 助かった、ということだろうか。

「俺はこれから、些か時間は早いが、大切な用事に向かうところでな。だが君を抱き止めたことで、ベストが少し濡れてしまった」
「あっ!」

 勤務時よりもフォーマルに着こなした、グレーの質の良さそうなスリーピースのスーツは、確かに胸元の色が変わっていた。
 これは絶対にお高い一着だ。
 青ざめて謝罪しようとする玲央奈に、「冗談だ」と天野は苦笑する。

「このくらいならすぐ乾くが、君の方が頭から濡れているぞ。このままだと風邪を引く。早く着替えた方がいい。それに潮もこのあと用事があるんじゃないのか?」
(そ、そうだったわ!)

 玲央奈はそこでやっと、自分はお見合いのために、美容院へ行く途中だったことを思い出した。
 圏外から復活したスマホで時計を見れば、余裕を持って家を出たおかげで予約時間には間に合いそうだ。あの異空間にはだいぶ長い間いた気がしたが、それは感覚がおかしくなっていただけで、ほんの数分のことだったらしい。
 それでもここで悠長に喋っている暇はない。

「す、すみません、主任。私は急ぐのでこれで……!」
「ああ、今度は気をつけてな」

 いろいろと引っ掛かることはあれど、決められた時間に遅れるわけにはいかない。
 相変わらず胡散臭い笑みを浮かべる天野を置いて、玲央奈は小走りで目的の場所へと向かった。

 ずぶ濡れな玲央奈に、美容師さんは大袈裟に驚いていたが、すぐに着付けとヘアセットの準備に取り掛かってくれた。
 深い紅を基調とした着物は、グラデーションがかかっていて、うっすらと小花模様が入っている。帯は白。こちらは季節にもあった桜柄で、合わせてみると着物とピタリと調和した。結い上げた髪には着物と同じ紅色の簪が挿され、動くとシャラリと飾りが揺れる。
 大人の女性らしい気品の中に、華やかさも窺えるその姿は、玲央奈の魅力を存分に引き出していた。美容師さんが手放しで絶賛していたくらいだ。

「本当にお綺麗ですよ。お見合いに行かれるんでしたっけ? 相手の方も見惚れてしまいますね!」
「あ、ありがとうございます」

 褒めちぎる美容師さんに送り出され、お見合い場所へはタクシーで向かう。
 その頃には雨はすっかり止んでいて、重苦しい雲は取り払われ、太陽が燦々と顔を覗かせていた。