「はあ……気分が重い」
自宅にて、玄関でパンプスを履きながら、玲央奈はどんよりした空気を全身で背負っていた。
本日は土曜。莉子に組まれたお見合いの日だ。
約束の時間は午後一時なので、まだ午前の今のうちに、滑り込みで予約した美容院へとこれから向かう。
わざわざ母の振り袖を引っ張り出してきて、着つけてもらう予定である。
はっきり言って気乗りしない。
「私が着飾っても意味ないし、もっと簡単な格好がよかったんだけど……」
莉子から『お着物で来てね』と語尾にハートマークつきで言われてしまい、口論の末に玲央奈が負けた結果がこれだ。
『玲央奈は和風美人だから、絶対に着物が似合うわ。それなのにあなた、せっかく着られる機会だった成人式もすっぽかしたでしょう? どんな場面でも使える素敵なお着物も持っているんだから、こういうときこそ着なくちゃダメよ』
そう説得されてしまった。
そもそも玲央奈は、本人に自覚はあまりないが、莉子が褒めるように世間一般でいうところの『美人』に分類される。
小さな顔に、意思の強そうな大きな猫目。肌もキメ細やかだ。体型は細すぎるくらいだが、手足はスラッと伸びている。
これで雰囲気がもう少し和らいで、笑顔のひとつでも浮かべられたら、もっと異性にモテそうなものだが……。
あいにくと玲央奈は、理不尽な呪いを身に受けたその日から、なるべく誰も巻き込まないように孤独で生きる覚悟をしている。成人式をすっぽかしたのだってそれが理由だ。
(それにどうせ、行ったところで友達もいないし……)
玲央奈から距離を取ったとはいえ、仲がよかったのに卒業する頃には話もしなくなった子たちと、式で顔を合わせるのは辛い。
心を守るためにも、行かなくて正解だったのだ。
(他人との関わりは極力避けること。莉子姉には、どうしてもたまに甘えちゃうけど……それ以上は望んじゃダメ)
何度も自分に言い聞かせてきたことを、また繰り返す。
これから向かうお見合いだって、相手には悪いが、顔を合わせたらさっさと切り上げるつもりである。
「よし、行こう」
うだうだしていても仕方ないと、着物セットを一式入れた、大きめのトートバッグの中身を確かめる。
「うん……入れ忘れはなし、お守りも持ったわね」
お守りは玲央奈の生命線だ。一歩外に出れば、いつどんなあやかしが襲ってくるかわからない。
なお、この家の中は〝基本的には〟安全だ。
住宅街の外れに建つ小さな一軒家は、以前までは玲香とふたりで、現在は玲央奈がひとりで住んでいる。ここには玲香の気配がまだ微かでも残っているためか、お守りの力がちょっとだけ回復するのだ。
おかげで家にあやかしの侵入を許したことはまだないが……やはりお守り自体がそろそろ限界なのか、ついこの間、アメーバ状のうねうねしたあやかしが、窓の隙間から入り込もうとしているのを撃退した。
ここ最近では、なぜかあやかしが忌避していなくなる会社の方が、安全度が高くなりつつある。
どうにかしなければとは思うのだが、どうにもならないのが現状だった。
「今日も無事でいられますように。それじゃあ、行ってきます」
玲央奈が家を出ると、外は灰色の雲が立ち込め、ポツリポツリと雨が降っていた。
満開に咲き誇っていた街路樹の桜も、小雨とはいえこのまま降り続くようなら、もったいないが今日ですべて散ってしまうだろう。
「なにが『今週末はとても天気がいいらしい』、よ。悪天候じゃない」
またしてもウソをつかれたのか。もう天野主任の天気予報は信じない。
「あの人、私には本性がバレていそうだからって、あんな意地の悪い態度を取り出したのかしら……?」
独り言を雨音に溶かしながら、水色の傘をさしてアスファルトを踏む。
跳ねた水滴がロングスカートを濡らして、どうせ着替えるとはいえチョイスを失敗したかと、早々に後悔した。
早く美容院に着きたいと足取りを速める。行きつけのお店なので、道は間違えようがないはずなのだが……。
「……まだ着かないの、おかしくない?」
もうとっくに美容院の看板が見えてもいい頃なのに、一向に現れない。
そこでようやく玲央奈は違和感を抱いた。
昼間の住宅街、加えて週末だというのに人の気配がまったくない。物音ひとつ聞こえず、いまだ傘に当たっている雨の音さえ、知らぬ間に消えていた。
道の先は蜃気楼のようにぼやけ、並ぶ家々がぐにゃりと歪んで見える。
スマホを開けば圏外。
これはマズイ。
「誘い込まれちゃった、かも」
手の平に嫌な汗がジワリと滲む。
そう多く遭遇する現象ではないが、力の強いあやかしは稀に『ここであって、ここではない場所』……有り体に言えば異空間を作り出し、そこに人間を誘い込むことがある。
一度入ってしまえば出るのは困難。ここはそのあやかしのテリトリー内だ。
「……お、落ち着いて。冷静になって。昔も一度だけあったじゃない」
小刻みに震えながらも、玲央奈は自身を叱咤する。
あれは玲香が亡くなって程なくした頃だったか。
買い物帰りにぼんやりと道を歩いていたら、気付けば今のような無音で無人の異空間にいた。あのときはお守りを握って、ひたすら玲香の名前を繰り返していたら、なんとか出られたはずだ。
「そうだ、お守り! お守りを……!」
バッグの中を漁って、取り出したお守りを傘の柄と一緒に両手で握り込む。
正直、もうこのお守りでは、現状を打破できるほどの力がないことはわかっていたが、それでもこれしか手段がない。
こういったあやかしは狡猾だ。最後まで本体は姿を現さず、玲央奈の精神が弱ったところで喰らいにくる。
だから意識を強く保たなくてはいけない。
……保たなくては、いけないのに。
(怖い、怖い、怖い)
油断すれば弱音が口から飛び出そうだ。
手から滑り落ちた傘が地面を叩く。それを拾おうとして力が抜け、そのまましゃがみ込んでしまった。
止まない雨粒が視界を滲ませる。つられて涙まで流さないように、玲央奈は唇をきゅっとキツク噛んだ。
――そのときだ。
「え……?」
カツンと、背後で靴音がした。
音のない空間で生まれた音。
おそるおそる後ろを向くと、切れ長の赤い瞳と視線がバッチリ合う。
(……赤?)
「こんなところでしゃがんでいたら危ないぞ、潮」
「天野……主任……?」
自宅にて、玄関でパンプスを履きながら、玲央奈はどんよりした空気を全身で背負っていた。
本日は土曜。莉子に組まれたお見合いの日だ。
約束の時間は午後一時なので、まだ午前の今のうちに、滑り込みで予約した美容院へとこれから向かう。
わざわざ母の振り袖を引っ張り出してきて、着つけてもらう予定である。
はっきり言って気乗りしない。
「私が着飾っても意味ないし、もっと簡単な格好がよかったんだけど……」
莉子から『お着物で来てね』と語尾にハートマークつきで言われてしまい、口論の末に玲央奈が負けた結果がこれだ。
『玲央奈は和風美人だから、絶対に着物が似合うわ。それなのにあなた、せっかく着られる機会だった成人式もすっぽかしたでしょう? どんな場面でも使える素敵なお着物も持っているんだから、こういうときこそ着なくちゃダメよ』
そう説得されてしまった。
そもそも玲央奈は、本人に自覚はあまりないが、莉子が褒めるように世間一般でいうところの『美人』に分類される。
小さな顔に、意思の強そうな大きな猫目。肌もキメ細やかだ。体型は細すぎるくらいだが、手足はスラッと伸びている。
これで雰囲気がもう少し和らいで、笑顔のひとつでも浮かべられたら、もっと異性にモテそうなものだが……。
あいにくと玲央奈は、理不尽な呪いを身に受けたその日から、なるべく誰も巻き込まないように孤独で生きる覚悟をしている。成人式をすっぽかしたのだってそれが理由だ。
(それにどうせ、行ったところで友達もいないし……)
玲央奈から距離を取ったとはいえ、仲がよかったのに卒業する頃には話もしなくなった子たちと、式で顔を合わせるのは辛い。
心を守るためにも、行かなくて正解だったのだ。
(他人との関わりは極力避けること。莉子姉には、どうしてもたまに甘えちゃうけど……それ以上は望んじゃダメ)
何度も自分に言い聞かせてきたことを、また繰り返す。
これから向かうお見合いだって、相手には悪いが、顔を合わせたらさっさと切り上げるつもりである。
「よし、行こう」
うだうだしていても仕方ないと、着物セットを一式入れた、大きめのトートバッグの中身を確かめる。
「うん……入れ忘れはなし、お守りも持ったわね」
お守りは玲央奈の生命線だ。一歩外に出れば、いつどんなあやかしが襲ってくるかわからない。
なお、この家の中は〝基本的には〟安全だ。
住宅街の外れに建つ小さな一軒家は、以前までは玲香とふたりで、現在は玲央奈がひとりで住んでいる。ここには玲香の気配がまだ微かでも残っているためか、お守りの力がちょっとだけ回復するのだ。
おかげで家にあやかしの侵入を許したことはまだないが……やはりお守り自体がそろそろ限界なのか、ついこの間、アメーバ状のうねうねしたあやかしが、窓の隙間から入り込もうとしているのを撃退した。
ここ最近では、なぜかあやかしが忌避していなくなる会社の方が、安全度が高くなりつつある。
どうにかしなければとは思うのだが、どうにもならないのが現状だった。
「今日も無事でいられますように。それじゃあ、行ってきます」
玲央奈が家を出ると、外は灰色の雲が立ち込め、ポツリポツリと雨が降っていた。
満開に咲き誇っていた街路樹の桜も、小雨とはいえこのまま降り続くようなら、もったいないが今日ですべて散ってしまうだろう。
「なにが『今週末はとても天気がいいらしい』、よ。悪天候じゃない」
またしてもウソをつかれたのか。もう天野主任の天気予報は信じない。
「あの人、私には本性がバレていそうだからって、あんな意地の悪い態度を取り出したのかしら……?」
独り言を雨音に溶かしながら、水色の傘をさしてアスファルトを踏む。
跳ねた水滴がロングスカートを濡らして、どうせ着替えるとはいえチョイスを失敗したかと、早々に後悔した。
早く美容院に着きたいと足取りを速める。行きつけのお店なので、道は間違えようがないはずなのだが……。
「……まだ着かないの、おかしくない?」
もうとっくに美容院の看板が見えてもいい頃なのに、一向に現れない。
そこでようやく玲央奈は違和感を抱いた。
昼間の住宅街、加えて週末だというのに人の気配がまったくない。物音ひとつ聞こえず、いまだ傘に当たっている雨の音さえ、知らぬ間に消えていた。
道の先は蜃気楼のようにぼやけ、並ぶ家々がぐにゃりと歪んで見える。
スマホを開けば圏外。
これはマズイ。
「誘い込まれちゃった、かも」
手の平に嫌な汗がジワリと滲む。
そう多く遭遇する現象ではないが、力の強いあやかしは稀に『ここであって、ここではない場所』……有り体に言えば異空間を作り出し、そこに人間を誘い込むことがある。
一度入ってしまえば出るのは困難。ここはそのあやかしのテリトリー内だ。
「……お、落ち着いて。冷静になって。昔も一度だけあったじゃない」
小刻みに震えながらも、玲央奈は自身を叱咤する。
あれは玲香が亡くなって程なくした頃だったか。
買い物帰りにぼんやりと道を歩いていたら、気付けば今のような無音で無人の異空間にいた。あのときはお守りを握って、ひたすら玲香の名前を繰り返していたら、なんとか出られたはずだ。
「そうだ、お守り! お守りを……!」
バッグの中を漁って、取り出したお守りを傘の柄と一緒に両手で握り込む。
正直、もうこのお守りでは、現状を打破できるほどの力がないことはわかっていたが、それでもこれしか手段がない。
こういったあやかしは狡猾だ。最後まで本体は姿を現さず、玲央奈の精神が弱ったところで喰らいにくる。
だから意識を強く保たなくてはいけない。
……保たなくては、いけないのに。
(怖い、怖い、怖い)
油断すれば弱音が口から飛び出そうだ。
手から滑り落ちた傘が地面を叩く。それを拾おうとして力が抜け、そのまましゃがみ込んでしまった。
止まない雨粒が視界を滲ませる。つられて涙まで流さないように、玲央奈は唇をきゅっとキツク噛んだ。
――そのときだ。
「え……?」
カツンと、背後で靴音がした。
音のない空間で生まれた音。
おそるおそる後ろを向くと、切れ長の赤い瞳と視線がバッチリ合う。
(……赤?)
「こんなところでしゃがんでいたら危ないぞ、潮」
「天野……主任……?」