カツカツカツと、ヒールの音を響かせて早朝のオフィス街を闊歩する。
己の背後を確認して、玲央奈は行儀悪くも舌打ちをしそうになった。
「もう、しつこい……!」
サッと腕時計を確認する。いつもは余裕たっぷりに出社するのだが、今朝は春のポカポカした陽気に誘われて、ほんの少し二度寝をしてしまい、僅かだが時間が押していた。
こういう日に限って、厄介なものに朝一で絡まれる。
玲央奈はテーラードジャケットのポケットに入れた、赤い巾着袋のお守りをひと撫でする。『これがきっと玲央奈を守ってくれるから』と、母がくれた大切な形見。
(今日も助けてね、お母さん)
玲央奈は心の中でそう呟いて、道行く人から身を隠せそうな、ビルとビルの隙間に入り込んだ。
〝ソイツ〟はちゃんと追いかけてきている。
ピタリと足を止めて、玲央奈は振り向いてソイツと対峙した。
「クワセロ、クワセロ」
ノイズのような嫌な声。
浮遊しているのは、小振りな玲央奈の顔と同じサイズの緑の球体。
ソイツは大きなひとつ目玉に、裂けた口から不揃いな歯が覗いていて、ケタケタといやらしく笑っている。だがあやかしの中でも、見るからに弱そうな雑魚あやかしだ。
このくらいの相手では、もはや玲央奈は怯まない。
「あいにくだけど、私はあんたに喰われる気なんてこれっぽっちもないの。さっさとどっか行きなさい!」
ぎゅっと拳を握って、緑の球体にパンチを叩き込む。女性の細腕にしてはなかなか強烈な右ストレートだ。
それだけで球体は「きゅう」と鳴いてダウンし、玲央奈はふんっと肩まである黒髪を払った。そこで再度腕時計を見て、進んだ針に青ざめる。
「ああ、遅刻する! 急がなきゃ!」
そして玲央奈は何事もなかったかのように、会社を目指して駆けていった。
――玲央奈があやかしに狙われるようになったのは、忌まわしい十年前の肝試しの日からだ。
黒い塊に襲われている子供を庇い、気絶したあと、目を覚ませば玲央奈は自室のベッドの上にいた。山の中で倒れているところを、クラスメイトが見つけて家まで運んでくれたらしい。
自分の身に起きたはずのことなのに、そのときの記憶はだいぶ曖昧だった。
庇った子供の姿もろくに覚えていないが、見たこともないくらい綺麗な赤い瞳を持っていた気はする。だが、赤い瞳の子供などそこら辺にホイホイいるはずがなく、むしろそんな子は本当にいたのかさえ疑うほどだ。
だから玲央奈は最初、あの一連の出来事はすべて『夢』であったのだと脳内処理をした。
ただの夢。あるいは暗闇で見た幻覚。
こっそり肝試しになんて行ったことを、母親の玲香にしこたま怒られて、この話は終わりになるはずだった。
しかし無情にも……それらが夢でも幻覚でもないことは、すぐにわかった。
玲央奈の首の後ろには、まるで痣のように【呪】という青い文字が刻まれていたのだ。
そしてこの日を境に彼女は、それまではぼんやりとしか認識できなかったあやかしの存在が、明確に見えるようになった。それだけならまだしも、ソイツ等は玲央奈の命を喰らおうとしてくる。
恐ろしさに震える娘を、玲香はぎゅっと抱きしめた。
「私の可愛い玲央奈……あなたはあやかしに『呪い』を掛けられてしまったの。あの人に聞いたことがあるわ、強力なあやかしは人間を呪うことがあるって。この呪いが悪いあやかしばかりを引き寄せる。奴等にはあなたが『おいしそう』に見えてしまうのよ。だけど心配しないで。あなたのことは、お母さんが必ず守るから」
そう語った母の揺るがない意志を宿す眼差しを、玲央奈は一生忘れないだろう。
そして玲香は、赤い巾着袋のお守りを玲央奈に渡し、これを肌身離さず持つように言った。
「このお守りにはね、悪いあやかしを退ける効果があるの。元はあの人が私にくれたものだけど、玲央奈に譲るわ。大切にするのよ」
『あの人』というのは、玲央奈の父親のことだ。
父は玲央奈が生まれる前、玲香の腹にいる頃に交通事故で亡くなったという。玲香はひとりでも玲央奈を生み、女手ひとつで育て上げた。そのため当たり前だが、玲央奈には父との思い出などは一欠片もない。
だが玲香以上に、なぜか父はやたらとあやかしに造詣が深いことだけは、玲香を通して玲央奈もよくよく知っていた。
玲香に尋ねたことはなかったけど、玲香以上に特別な力でもあったのかもしれない。
「約束して。お守りは絶対に離さないって」
うん、と頷き、玲央奈は約束通り常にお守りを持ち歩いた。
そのおかげでしばらくは、あやかしたちは玲央奈に近付きもしなかったのだが……夫の元へ行くように、玲香が心疾患で四年前に他界してから、お守りの効果は徐々に薄れ始めた。元の持ち主である玲香がいなくなったことが原因だろう。
今やお守りを持っていても、緑の球体のようなあやかしに絡まれることは、玲央奈にとっては日常茶飯事である。
自然と鍛えられ、あのくらいの弱いあやかしなら自力で退治できるようにもなったが、掛けられた呪いも変わらずそのままで、安寧とは程遠い。
それでも玲央奈は、持ち前の気丈さでどうにか己の平穏を維持していた。
「よかった、間に合った……」
会社に着いて自分のデスクに座り、玲央奈はようやく安堵の息をつけた。急いで来たためか、なんだかんだいつも通りの到着時間である。
明るい色のあふれる、開放的でおしゃれなオフィス。照明ひとつ取ってもデザインにこだわりが窺える。
玲央奈の勤め先は、地元では一番大手の総合インテリアメーカーだ。玲香亡き後も奨学金をもらい勉学に励んだ玲央奈は、四年制大学を卒業後、ここに営業事務として採用された。
「ふう……よし」
PCの電源を入れて、テキパキと業務に取り掛かる準備を始める。
なぜかこの建物内には、玲央奈を狙うあやかしは入って来ない。
会社のあるビルに近付くと、あやかしたちは怯えたように去っていくのだ。なにか奴等が怖がる理由がここにはあるらしい。なんにせよ、落ち着いて仕事ができるのはありがたかった。
とはいえ、いついかなるときも気は抜けないので、玲央奈の纏う空気は常に張りつめている。
顔も自然と無表情になり、職場での玲央奈は『仕事はできるけど近寄りがたい人物』といった立ち位置だ。
これは職場に限らず、玲央奈は呪いのせいで人との付き合いを制限せざるを得なかったため、友達も少なければ二十五にもなって恋愛経験はゼロ。
あやかしに襲われれば、友人と遊んでいる途中だろうと逃げなくてはいけなかったし、誘われて断り切れずに男性とふたりきりで出掛けたこともあるが、あやかしをバッグで殴ったつもりが、男性の顔にクリーンヒットさせていたこともあった。
振り返れば孤独を選ばざるを得ない、苦い経験ばかりだ。
『玲央奈はいいお相手はいないの? せっかく美人なのにもったいないわ!』とは、玲央奈をいつも心配してくれる従姉妹の言葉だったか。
(こっちは毎日あやかしとの戦いで、生き残るだけで精一杯だし。恋とか結婚とか二の次なのよね)
そんな熟練の兵士のようなことを考えていたら、不意に同僚の女性社員たちの黄色い声が耳に入る。
「天野主任、今日もカッコいい……! 朝から目の保養」
「本当に素敵よね。ルックスよし、頭よし、性格もよし。あれでまだ独身とか信じられない!」
「彼女もいないって本当かしら?」
「マジみたいよ。同じ職場で働けて超ラッキーよね」
「ああもう、主任と結婚したい」
彼女たちの熱烈な視線の先には、長い足を組んで椅子に腰かけ、書類に目を通す美丈夫がひとり。
天野清彦。二十九歳という若さで営業部の主任に就く、玲央奈の上司だ。
百八十六センチある長身に、バランスの取れた体躯。青みがかった光沢のある黒髪。切れ長の瞳が怜悧な印象を与える顔は、恐ろしいほど整っており、その完璧な造形はいっそ浮世離れしている。
仕事でも彼は隙がなく、激務だろうと迅速に終わらせて必ず定時に帰るため、ついた呼び名は『定時の鬼』。
それだけ容姿にも能力にも優れているなら、高慢にもなりそうなものだが、人当たりがよく人望も厚いというのだからできすぎである。女性人気はもちろんのこと、男性からも信頼や尊敬を集めていた。
しかしながら、白状すると……玲央奈は天野が苦手だった。
どうにも彼のすべてが胡散臭くて仕方がない。
(……それなのに、よく目が合うのよね。ああ、ほらまた)
チラッと見ただけなのに、天野と視線がバッチリかち合ってしまう。玲央奈は反射的に顔を逸らした。
苦手意識を抱いていることもあって、天野との関わりは仕事上の必要最低限な範囲に留めているし、プライベートの付き合いなんて皆無なはずなのに、なんなのだろう、いったい。
女性陣はまだ天野にきゃーきゃーと騒いでいる。
はあ、とため息をついて、玲央奈は切り替えて仕事に集中することにした。
己の背後を確認して、玲央奈は行儀悪くも舌打ちをしそうになった。
「もう、しつこい……!」
サッと腕時計を確認する。いつもは余裕たっぷりに出社するのだが、今朝は春のポカポカした陽気に誘われて、ほんの少し二度寝をしてしまい、僅かだが時間が押していた。
こういう日に限って、厄介なものに朝一で絡まれる。
玲央奈はテーラードジャケットのポケットに入れた、赤い巾着袋のお守りをひと撫でする。『これがきっと玲央奈を守ってくれるから』と、母がくれた大切な形見。
(今日も助けてね、お母さん)
玲央奈は心の中でそう呟いて、道行く人から身を隠せそうな、ビルとビルの隙間に入り込んだ。
〝ソイツ〟はちゃんと追いかけてきている。
ピタリと足を止めて、玲央奈は振り向いてソイツと対峙した。
「クワセロ、クワセロ」
ノイズのような嫌な声。
浮遊しているのは、小振りな玲央奈の顔と同じサイズの緑の球体。
ソイツは大きなひとつ目玉に、裂けた口から不揃いな歯が覗いていて、ケタケタといやらしく笑っている。だがあやかしの中でも、見るからに弱そうな雑魚あやかしだ。
このくらいの相手では、もはや玲央奈は怯まない。
「あいにくだけど、私はあんたに喰われる気なんてこれっぽっちもないの。さっさとどっか行きなさい!」
ぎゅっと拳を握って、緑の球体にパンチを叩き込む。女性の細腕にしてはなかなか強烈な右ストレートだ。
それだけで球体は「きゅう」と鳴いてダウンし、玲央奈はふんっと肩まである黒髪を払った。そこで再度腕時計を見て、進んだ針に青ざめる。
「ああ、遅刻する! 急がなきゃ!」
そして玲央奈は何事もなかったかのように、会社を目指して駆けていった。
――玲央奈があやかしに狙われるようになったのは、忌まわしい十年前の肝試しの日からだ。
黒い塊に襲われている子供を庇い、気絶したあと、目を覚ませば玲央奈は自室のベッドの上にいた。山の中で倒れているところを、クラスメイトが見つけて家まで運んでくれたらしい。
自分の身に起きたはずのことなのに、そのときの記憶はだいぶ曖昧だった。
庇った子供の姿もろくに覚えていないが、見たこともないくらい綺麗な赤い瞳を持っていた気はする。だが、赤い瞳の子供などそこら辺にホイホイいるはずがなく、むしろそんな子は本当にいたのかさえ疑うほどだ。
だから玲央奈は最初、あの一連の出来事はすべて『夢』であったのだと脳内処理をした。
ただの夢。あるいは暗闇で見た幻覚。
こっそり肝試しになんて行ったことを、母親の玲香にしこたま怒られて、この話は終わりになるはずだった。
しかし無情にも……それらが夢でも幻覚でもないことは、すぐにわかった。
玲央奈の首の後ろには、まるで痣のように【呪】という青い文字が刻まれていたのだ。
そしてこの日を境に彼女は、それまではぼんやりとしか認識できなかったあやかしの存在が、明確に見えるようになった。それだけならまだしも、ソイツ等は玲央奈の命を喰らおうとしてくる。
恐ろしさに震える娘を、玲香はぎゅっと抱きしめた。
「私の可愛い玲央奈……あなたはあやかしに『呪い』を掛けられてしまったの。あの人に聞いたことがあるわ、強力なあやかしは人間を呪うことがあるって。この呪いが悪いあやかしばかりを引き寄せる。奴等にはあなたが『おいしそう』に見えてしまうのよ。だけど心配しないで。あなたのことは、お母さんが必ず守るから」
そう語った母の揺るがない意志を宿す眼差しを、玲央奈は一生忘れないだろう。
そして玲香は、赤い巾着袋のお守りを玲央奈に渡し、これを肌身離さず持つように言った。
「このお守りにはね、悪いあやかしを退ける効果があるの。元はあの人が私にくれたものだけど、玲央奈に譲るわ。大切にするのよ」
『あの人』というのは、玲央奈の父親のことだ。
父は玲央奈が生まれる前、玲香の腹にいる頃に交通事故で亡くなったという。玲香はひとりでも玲央奈を生み、女手ひとつで育て上げた。そのため当たり前だが、玲央奈には父との思い出などは一欠片もない。
だが玲香以上に、なぜか父はやたらとあやかしに造詣が深いことだけは、玲香を通して玲央奈もよくよく知っていた。
玲香に尋ねたことはなかったけど、玲香以上に特別な力でもあったのかもしれない。
「約束して。お守りは絶対に離さないって」
うん、と頷き、玲央奈は約束通り常にお守りを持ち歩いた。
そのおかげでしばらくは、あやかしたちは玲央奈に近付きもしなかったのだが……夫の元へ行くように、玲香が心疾患で四年前に他界してから、お守りの効果は徐々に薄れ始めた。元の持ち主である玲香がいなくなったことが原因だろう。
今やお守りを持っていても、緑の球体のようなあやかしに絡まれることは、玲央奈にとっては日常茶飯事である。
自然と鍛えられ、あのくらいの弱いあやかしなら自力で退治できるようにもなったが、掛けられた呪いも変わらずそのままで、安寧とは程遠い。
それでも玲央奈は、持ち前の気丈さでどうにか己の平穏を維持していた。
「よかった、間に合った……」
会社に着いて自分のデスクに座り、玲央奈はようやく安堵の息をつけた。急いで来たためか、なんだかんだいつも通りの到着時間である。
明るい色のあふれる、開放的でおしゃれなオフィス。照明ひとつ取ってもデザインにこだわりが窺える。
玲央奈の勤め先は、地元では一番大手の総合インテリアメーカーだ。玲香亡き後も奨学金をもらい勉学に励んだ玲央奈は、四年制大学を卒業後、ここに営業事務として採用された。
「ふう……よし」
PCの電源を入れて、テキパキと業務に取り掛かる準備を始める。
なぜかこの建物内には、玲央奈を狙うあやかしは入って来ない。
会社のあるビルに近付くと、あやかしたちは怯えたように去っていくのだ。なにか奴等が怖がる理由がここにはあるらしい。なんにせよ、落ち着いて仕事ができるのはありがたかった。
とはいえ、いついかなるときも気は抜けないので、玲央奈の纏う空気は常に張りつめている。
顔も自然と無表情になり、職場での玲央奈は『仕事はできるけど近寄りがたい人物』といった立ち位置だ。
これは職場に限らず、玲央奈は呪いのせいで人との付き合いを制限せざるを得なかったため、友達も少なければ二十五にもなって恋愛経験はゼロ。
あやかしに襲われれば、友人と遊んでいる途中だろうと逃げなくてはいけなかったし、誘われて断り切れずに男性とふたりきりで出掛けたこともあるが、あやかしをバッグで殴ったつもりが、男性の顔にクリーンヒットさせていたこともあった。
振り返れば孤独を選ばざるを得ない、苦い経験ばかりだ。
『玲央奈はいいお相手はいないの? せっかく美人なのにもったいないわ!』とは、玲央奈をいつも心配してくれる従姉妹の言葉だったか。
(こっちは毎日あやかしとの戦いで、生き残るだけで精一杯だし。恋とか結婚とか二の次なのよね)
そんな熟練の兵士のようなことを考えていたら、不意に同僚の女性社員たちの黄色い声が耳に入る。
「天野主任、今日もカッコいい……! 朝から目の保養」
「本当に素敵よね。ルックスよし、頭よし、性格もよし。あれでまだ独身とか信じられない!」
「彼女もいないって本当かしら?」
「マジみたいよ。同じ職場で働けて超ラッキーよね」
「ああもう、主任と結婚したい」
彼女たちの熱烈な視線の先には、長い足を組んで椅子に腰かけ、書類に目を通す美丈夫がひとり。
天野清彦。二十九歳という若さで営業部の主任に就く、玲央奈の上司だ。
百八十六センチある長身に、バランスの取れた体躯。青みがかった光沢のある黒髪。切れ長の瞳が怜悧な印象を与える顔は、恐ろしいほど整っており、その完璧な造形はいっそ浮世離れしている。
仕事でも彼は隙がなく、激務だろうと迅速に終わらせて必ず定時に帰るため、ついた呼び名は『定時の鬼』。
それだけ容姿にも能力にも優れているなら、高慢にもなりそうなものだが、人当たりがよく人望も厚いというのだからできすぎである。女性人気はもちろんのこと、男性からも信頼や尊敬を集めていた。
しかしながら、白状すると……玲央奈は天野が苦手だった。
どうにも彼のすべてが胡散臭くて仕方がない。
(……それなのに、よく目が合うのよね。ああ、ほらまた)
チラッと見ただけなのに、天野と視線がバッチリかち合ってしまう。玲央奈は反射的に顔を逸らした。
苦手意識を抱いていることもあって、天野との関わりは仕事上の必要最低限な範囲に留めているし、プライベートの付き合いなんて皆無なはずなのに、なんなのだろう、いったい。
女性陣はまだ天野にきゃーきゃーと騒いでいる。
はあ、とため息をついて、玲央奈は切り替えて仕事に集中することにした。