ほっとしたら、トイレに行きたくなった。


「玲夜、ちょっとお手洗い行ってくる」

「一緒に行くか?」

「一人で大丈夫」


 男性にトイレの前で待たれるのはさすがに嫌なので断る。

 いつもは過保護すぎるほどなのに、この時はすんなりと引いた玲夜に僅かな引っかかりを覚えつつ席を立った。


 大広間を出て二階へ向かって歩き出す。
 何故か女子トイレは二階にしかないようで、最初に来た時に見た大きな階段を上がって二階へ。

 用事をすませて階段に向かって歩いていると、途中の廊下には花梨が。
 鉢合わせたというより、待ち伏せされていたように感じた。

 じっと睨むように見てくる花梨を無視して通り過ぎたが、後ろから腕を掴まれる。

 さすがに足を止めざるをえなくなり、振り返ると、目をつり上げる花梨の顔が目に映る。


「何か?」


 思っていたよりも冷めた声が出て、柚子は自分で自分に驚いた。
 とても、長年生活を共にした妹に向ける声ではなかった。
 それだけ、柚子の中で花梨は他人よりもさらに外の人になりつつあるのだろう。


「何って何!?こっちはお姉ちゃんのせいで大変なことになったのに、他人事みたいに平然として!悪いと思わないの!?」


 両親が狐月家からの援助が切られたと玲夜が言っていたのを思い出し、そのことだろうと柚子は見当を付けた。


「私は何もしてないわ」


 柚子の言う通り柚子は何もしていない。
 援助が切られたのは、両親と花梨の行いによる結果だ。

 まあ、柚子が鬼龍院の花嫁だったから、これほどに大事になったのは確かだが……。


「お姉ちゃんが早く戻ってこないからでしょう!あれだけ忠告してあげたのに。鬼龍院さんには恋人がいるんだから、そこにいたってお姉ちゃんが不幸になるだけなのに」

「まだ言ってるの、そのこと。それならもう解決したから。それはただの噂だって玲夜が言ってくれた」

「そんなことない。お姉ちゃんは騙されてるんだよ。ねっ、帰っておいでよ。お姉ちゃんが花嫁なはずないんだから」


 柚子は掴まれていた花梨の手を振り払い、花梨の正面に向き直る。

 もう揺れたりはしない。
 玲夜に想いを伝え、伝えられ。
 信じることぎできるようになった時から。


「花梨はどうしてそこまで私が花嫁であることを否定するの?」

「それはお姉ちゃんのためを思って……」

「私のため?そうじゃないでしょう?花梨はただ私が花梨と同じ立場……ううん。自分より上になるのが嫌なだけ。鬼龍院なんて地位の高い家の花嫁になるのが許せないのよ。私のためなんて言ってるけど、自分が優位に立ちたいだけじゃない。そんなに許せない?自分より下だと思ってた私が玲夜の花嫁になるのが」


 唇を噛み締める花梨の様子から、それが図星だということが分かる。


「私はもうあなた達のことは忘れる。だって今がとても幸せなの。私の現在にも未来にも、花梨もお父さんもお母さんもいらない」


 これは決意表明でもあった。
 これ以上、花梨や両親に生活を脅かされないように。
 心が揺れてしまわないように。


「そんなの許されない。お姉ちゃんのせいで家族がバラバラになって……。瑶太だって、これまでずっと優しくて私のお願いは何でも聞いてくれたのに、なんでか急にあれは駄目これは駄目って。お姉ちゃんが花嫁に選ばれてからおかしくなったの。お姉ちゃんさえ戻ってくれば家族皆また一緒に……」

「何言ってるの?その家族の中に私はいなかったじゃない。バラバラというなら、とっくに私の家族はいなかった。ううん、私の家族はお祖父ちゃんとお祖母ちゃんだけだった。思い通りにならなくなったからって私のせいにしないで」


 花梨がまだ何か言っていたが、柚子は背を向けて歩き出した。

 階段を下りようとした時、勢い良く肩を掴まれ柚子は驚いた。
 勢い良く振り向けば花梨が鬼の形相で柚子に掴みかかってくる。


「ちょっと、止めて!危ないでしょう!」

「お姉ちゃんのせいよ!お姉ちゃんが悪いのに!!」


 興奮した花梨の力は強く、引き離せない。
 揉み合いになり、花梨の手に髪を引っ張られたり、爪が頬をかすめ引っかき傷がつく。

 それでも必死に抵抗する柚子は、手を振り上げ、思いっ切り振り下ろすと、その手が花梨の頬を叩いた。

 途端に手を止めた花梨。
 二人共に髪も崩れ酷いことになっている。
 これで止まったかと気を抜いた瞬間……。

 花梨が力に任せ体当たりするはような勢いで柚子を押した。

 その直後、足場がなくなりふわりと体が浮く。

 階段から落ちたと気付いた時には柚子の体は落ちていく。
 手すりに掴まる余裕などなかった。

 落ちる!
 そう痛みを覚悟した柚子の視界を青い炎が包み込む。

 落ちる恐怖はなかった。
 この覚えのある柚子を包み込む温かさは、柚子に恐怖ではなく安堵を与えた。