「東先生が、この結界を解いてくれると、ありがたいんだけどな」
「それは無理だ」
倒れている俺を、表情のない顔で見下ろす。
「幸か不幸か、お前のいるお陰で、涼介の周りにヘタな低級妖魔の類いは寄ってこないが、学校となると話しは別だ。俺が結界を張っていないと、余計な邪魔が入る」
胸が苦しいのは、なんとかなる。
問題は、この強力な結界の方だ。
「涼介が死んだ時に、飛び出した魂を守ろうと思えば、こうするより仕方がない」
「……お前、やっぱ最低だな」
涼介の顔色が悪い。
バカな天使から、余計なことを聞いたせいだ。
「し、獅子丸さま……」
かすれた声が聞こえた。
スヱが階段を上ってくる。
倒れていた俺の腕を肩にかけると、スヱは立ち上がった。
アズラーイールは、驚きの声をあげる。
「お前、どうやってここに入ってきた!」
俺は息をするだけでも、今は精一杯だ。
「スヱさん!」
スヱは、荒い呼吸を整える。
「に、人間の死を……、一つ、受け入れたうえに、この結界のなかでは……、さすがの獅子丸さまでも、不利です。私も……長い時間は、持ちません。獅子丸さまを、連れて出ます」
スヱは、俺の体を持ちあげた。
従属として迎え入れた覚えはないが、まぁそういうことになってしまっているのだろう。
身に覚えはある。
スヱは外見を保つのが精一杯で、泥臭い腐臭を放ち、足元にはそのヘドロをまき散らしていた。
アズラーイールを見上げる。
ここで攻撃してくれば、俺は一旦、魔界に引き上げざるをえない。
「これで、あの天使の借りを返したつもりか」
「何の話しだ」
アズラーイールは、ため息をつく。
俺はスヱに引きずられるようにして、結界の外へ出た。
近くの公園のベンチに、なだれ込む。
ようやく結界の外に出た俺は、そこで呼吸を整えた。
「無茶過ぎます。いきなりあんな強力な結界の中に飛び込んで、涼介の命を救うだなんて。獅子丸さまは、本気であの魂を奪うつもりがあるのですか?」
スヱにそう言われて、俺は苦笑いするしかない。
確かに契約はしていないが、あの場で涼介が死んで、結界の中でアズラーイールと戦うことになったとしても、ここまでのダメージを受けることはなかったかもしれない。
俺は額の汗をぬぐった。
「俺は魂が欲しいんじゃない。契約が欲しいんだ」
「魂を確実に手に入れるための手段が、契約です!」
腕組みをして怒るスヱは、再び輝きを取り戻している。
あの結界のなかに入れるほどの力を、いつの間に手に入れたのだろう。
「お前も強くなったな」
そう言うと、スヱは恥ずかしげに縮こまった。
「全ては、獅子丸さまのお陰でございます」
ようやく体力を取り戻した俺は、ぐったりともたれかかっていた背を起こした。
「獅子丸!」
涼介が公園に現れる。
真っ直ぐに俺のところへやってきて、俺の手を握りしめた。
「なんだよ、まだ学校、終わってねーぞ」
「途中で抜けてきたんだ。すぐ戻る」
その言葉に、俺は思わず笑ってしまう。
涼介らしい返事だ。
「獅子丸、俺のために、無理をする必要はない。俺は……、俺は、ちゃんと自分で死ぬ覚悟が出来てる。アズラーイールが教えてくれたんだ。もうすぐ、寿命が尽きることを。そして、安らかな死を、約束することを」
あのクソ天使めが。
余計なことしかしやがらねぇ。
「そんな言葉を信じるな。死は誰にも平等に訪れるが、皆が同じ死などありえない」
「だけど俺の魂は、聖人として天国に復活する」
涼介の言葉に、俺は舌打ちした。
アズラーイールとの取り引きは、これか。
だから涼介は、俺の誘いに惑わされない。
「そして俺は、天使として蘇る。天界の住人となって、アズラーイールの元で、生と死の恐怖に苦しむ人たちの、癒やしとなるんだ」
涼介の目は、真っ直ぐに俺を見つめた。
「だから、獅子丸との契約は出来ない。俺の魂は、俺の死後、天界に行く。そこで俺は、俺の役目を果たしたいんだ。だから、獅子丸と一緒に、地獄へは行けない」
「涼介は、そんなアテにならない約束を信じるのか? 自分の死後の保証なんて、誰に出来る」
「だけどそれは、獅子丸だって同じだろ?」
「俺は嘘はつかない。お前の魂は、地獄で魔界の糧になる。俺と契約を交わせば、悪魔として蘇らせてやってもいい」
「アズラーイールと言ってることは、同じじゃないか」
「復讐をしょう、俺と一緒だ。悔しくはないのか? 自分の運命と、お前を捨てた両親と、今のこの世界を!」
そう言った俺の手から、涼介の手は離れた。
「それを俺は、ようやく乗り越えたんだ。獅子丸、俺のところに来るのが、少し遅かったよ」
涼介は、立ち上がった。
「自分の死が近いのを知って、ますますそう思う。獅子丸、お前が、どうして俺のところへ来たのか、ずっと考えていた。そして気がついたんだ。試されているのは、俺自身だってことに」
聖人としての証が、涼介の胸に輝く。
天使が祝福を与えるのは、気まぐれなんかじゃない。
涼介は聖人として認定されるべき、資質を持っているからだ。
「だから俺は、獅子丸との契約は出来ない。悪魔の誘惑に、負けるわけにはいかないんだ。俺は、俺と同じように苦しむ人たちを救いたい」
「地獄に来れば、俺がいる!」
「獅子丸、俺は、学校に戻るよ。たとえどんなに離ればなれになっても、俺たちはずっと、友達だ」
涼介の背中が、視界の向こうに消える。
あのクソ天使め、涼介をそそのかしているのは、お前たちの方じゃないか!
俺は立ちあがった。
これ以上、あいつらの好きにはさせない。
「獅子丸さま!」
「スヱ、俺は本気で、あいつの魂を手に入れるぞ」
「はい!」
俺は奥歯をぐっと噛みしめた。
俺は、学校帰りの涼介を待ち構えている。
校門を出てくるその姿を、ようやく見つけた。
「おい、涼介! 俺と契約しろ!」
そう言うと、涼介はプッと吹きだした後で、すぐに笑い転げた。
「なにがおかしい!」
「だって、獅子丸が面白いんだもん」
「俺は真剣だ!」
「俺だって真剣だよ」
涼介は笑う。
「だから、獅子丸とはケンカしたくない。ずっと、仲良くしていたい。獅子丸が、獅子丸でいられますように」
涼介の手が、俺の手に触れようと伸びてきて、俺はそれを振り払う。
だけど俺からは触れられないそれは、するりとすり抜けて宙に浮いた。
涼介の手は、俺の腕にそっと触れる。
「意味が分からん。俺はいつだって、俺のままだ。俺との契約を交わそうとしないお前の言葉なんて、誰が信じられる?」
俺はぐっと、拳を握りしめる。
「何度でも言おう。俺はお前の魂を、魔界に持って帰る。俺にはそうしなければならない、理由と責務がある」
涼介は何も言わず、じっと俺を見ている。
その柔らかな視線に、俺の神経は逆なでされる。
「お前もそうやって、やっぱり俺をバカにするんだな。お前が俺と契約しないのは、結局俺が悪魔だからじゃないか。これが天使のアズラーイールとなら、簡単にサインしたんだろ」
「違う。それは違うよ、獅子丸」
「ふざけんな。お前のそんなあいまいな態度に、俺はもう、いい加減うんざりしてるんだ。もういい、十分だ。お前がその気なら、俺にだってやり方はある」
俺は呪文を唱え始める。
天使の祝福にも負けない、強力な呪いだ。
「俺はお前を助けた。分かるだろ? お前の命を、俺は救った。あの天使がお前を本当に助けるかどうか、自分の目で確かめるといい。その上でもう一度聞こう、お前が本当に契約を交わしたいのは、どちらなのかということを」
「俺は知ってるんだよ、獅子丸。それはお前が見せる幻覚で、本当ではないってことを」
俺は涼介に、呪いをかけた。
悪魔の呪いだ。
涼介の体は見る間に年老い、全身の皮膚はしわがれ、腰は曲がった。
やせ細り、立つ足がその体重を支えきれずに、震えている。
やがて全身の皮膚が真っ赤に腫れ上がったかと思うと、そこから体液が染み出し、ただれ始めた。
大量のウジが湧き、腐った肉はそげ落ちる。
涼介は、地に倒れこんだ。
髪は抜け、目も見えない。
まるで餓鬼だ。
耳だけは俺の声が聞こえるように、聴覚を残してある。
「この苦しみが、お前の命の尽きるまで、永遠に続くんだ。今すぐ解いて欲しければ、俺と契約を交わせ」
「もう残り短い命と知ったあとで、どうしてそんな誘惑に負けると思う?」
涼介は微笑んだ。その骨と皮だけになった醜い手で、俺を探し宙をさまよう。
「今の俺は、獅子丸の救った命だ。お前の好きにすればいい。ありがとう。感謝してるよ。君が来てくれたおかげで、俺の最期の数ヶ月は楽しかった。獅子丸、俺の怒りや憎しみ、苦しみ、悲しみを忘れさせてくれたのは、君が来てくれたからだ」
涼介の口から、どす黒い血がどっとあふれ出た。
それにむせて、咳き込んでいる。
「俺からは、魂は、あげられないけど、その代わりに、違う大切なものをあげる。それは多分、君が一番、本当に欲しいと思っているものだ」
涼介の魂に、再び黒い影が差した。
これは俺の呪いなんかじゃない。
本物の、魂の寿命だ。
「涼介!」
伸ばされた手を、俺はつかんだ。
それをつかめたのは、涼介自身が、俺を求めていたから。
「はは、ダメじゃないか。いつも言ってるだろ、キャラ守れって」
呪いが解ける。
涼介は、涼介に戻る。
「違う。俺の悪魔としての呪いのかけ方が未熟で、お前は祝福を受けているせいだ」
俺の手を握る涼介の力が、弱くなる。
その顔は、苦痛に歪んだ。
「また心臓か?」
その痛みを、もう一度俺にうつす。
こんなことをして、いつまでもごまかせるわけではないが、今この瞬間の死だけは、回避出来る。
動きの弱った涼介の心臓は、俺の体内で、静かに止まった。
機能を交換した俺の心臓は、涼介の消えそうな命を無理矢理支えている。
心臓の完全に止まった俺は、瞬間的に視界が闇に覆われる。
額に流れる汗をぬぐった。
「獅子丸さま」
その声に、俺は顔を上げた。
「獅子丸さまは、本当にこの人間の魂を手に入れたいと思っているのですか?」
スヱの顔は、怒りに歪んでいた。
「これが、悪魔公爵ウァプラさまの息子とは、本当になさけない」
スヱの体から、瘴気が走った。
とたんに、大きな雷が一つ、校舎に落ちる。
その力で、アズラーイールの張った結界は、かき消された。
「お前、いつの間にそんな力を!」
「人柱ですよ、山下を使いました」
「そんなことをすれば、あいつは今頃、意識を失って倒れているか、ヘタしたら、死んでるぞ!」
「や、山下さんが?」
涼介が、薄目を開けた。
「獅子丸さま、涼介にかける呪いは、そんな一般的な、魔界の教科書通りではいけません。これだから、本ばかり読んでいてはダメだと言われるのです」
スヱは、その両腕で魔方陣を組んだ。
「ご存じなかったでしょう? あなたがその男と遊んでいる間に、私が何をしていたのかを」
目の前に、山下が姿を現した。
目が、完全に死んでいる。
こいつは、スヱに憑依された、もはや抜け殻だ。
「呪いをかけるには、ちゃんとした素材を媒体に、その対象にとって有効な呪いをかけるのですよ、お坊ちゃま」
俺の意識と、涼介の意識がシンクロする。
涼介の頭の中に、過去の記憶が写し出された。
死んだはずの弟が、記憶の底から蘇る。
一佐はハサミを手に、涼介に襲いかかった。
それを何度も何度も、寝ていた涼介の胸に突き立てる。
起き上がった涼介は、弟一佐を突き飛ばした。
一佐はナイフを取り出す。
涼介は、胸に刺さったハサミを引き抜くと、それを弟の首元に突き刺した。
「やめろ! 違う、違うんだ!」
涼介が叫ぶ。
「何が違うっていうのよ。これがあの夜の、本当なんでしょ? あなたの記憶がどうかとか、真実だなんて、関係ないわ。私はあなたが苦しんでさえくれれば、それでいいんだもの」
一佐は涼介に襲いかかる。
一佐の手にしたナイフは、そこに現れた父を刺し、母親を刺し、自分自身を刺し殺した。
「さぁ、次はあなたの番よ」
一佐の亡霊が、立ち上がる。
銀のナイフを、涼介の上に振りかざした。
「やめろ」
俺はスヱの見せる幻覚を吹き飛ばす。
「獅子丸さま、獅子丸さまがその男の魂を要らないとおっしゃるのであれば、遠慮なく私がいただきます」
山下が、涼介の背後からつかみかかった。
「おい!」
それを引き離そうと、山下に伸ばした俺の手は、その体をすり抜ける。
「獅子丸さまのお相手は、私がいたします」
足元を、泥が覆い尽くす。
涼介は山下に引きずられるように、校舎に運ばれていく。
「お前、何をする気だ!」
「聖人の魂をいただくと、言いました」
くそっ。
俺は自分の体中にある、止まったままの涼介の心臓を動かした。
その鼓動はとても弱く、まともに動かせる状態ではない。
このまま無理にでも動かし続ければ、簡単に壊れてしまうだろう。
俺は引きずられていく涼介を振り返った。
だけど、ここで俺の心臓を涼介の体から外せば、確実にあいつは、死ぬ。
「獅子丸さまからいただいた力で、私自身も精進に励んでおりました」
スヱは、楽しそうに笑う。
「この辺りに巣くうケダモノの魂を喰い、死んだ人間の魂も奪いました。お陰で随分と、立派になったでしょう?」
スヱの飛ばす泥が、ムチのようにしなり、襲いかかってくる。
「あぁ、どうしましょう。こんな死に損ないのような状態の獅子丸さまにだったら、私にも勝てるのかしら」
スヱの体が、ふわりと宙に浮いた。
「そうしたら私は、悪魔公爵家の第一養女として、認められるのかしらあぁぁつっっ!」
泥の波が覆い被さる。
そんなことより、今は涼介の方が大事だ。
動かない心臓のせいで、息が苦しく体もだるい。
俺は重たい足を引きずって、校舎へ向かう。
「獅子丸さまは、随分とご自分に自信がおありなのですねぇ、そのうぬぼれは、どこからやってくるのでしょう」
泥の塊が飛んで来る。
それは俺の体に巻き付くと、足の動きを奪い、首を絞めた。
「邪魔だ」
波動の力で、まとわりついた泥を吹き飛ばす。
俺は次の一撃を、スヱに向かって飛ばした。
切り裂かれた空気の刃が、泥で出来た女の体を真っ二つに切り裂く。
それを見届けると、俺はもう一度校舎を振り返った。
涼介を引きずったまま、山下は校舎の屋上へと向かっている。
「さすがですわ、獅子丸さま」
俺の背後で、スヱの声がした。
二つになった体が、泥となってまた一つになる。
そこから姿を現したのは、巨大なムカデに姿を変えた、スヱだった。
「どうせなら、聖人の魂と一緒に、あなたの肉もいただきたいと思うのは、当然のことだと思いません?」
ムカデの大顎が、俺を狙って鋭い牙を打ち鳴らす。
その攻撃は飛び上がって避けたものの、そんな動きをしただけで、俺の胸に潰れそうなほどの痛みが走る。
くそっ、面倒なことになった。
俺は校舎に向かって走り出した。
「ここで敵に背を向けるとは、お父さまもがっかりなさいますよ!」
山下の後を追って、階段を駆け上がる。
背後からは、スヱが執拗に追いかけて来ていた。
宙を舞い、その巨大な体を校舎の壁に打ち付ける。
吐く息は猛毒の息で、そうでなくても息苦しい俺の呼吸を、さらに妨げる。
階段の踊り場で俺に追いついたムカデが、飛びかかってきた。
目標を外した大顎は、階段にその牙をめり込ませる。
その隙に上階へと向かおうとした俺に、刃のような尾が振り下ろされた。
「くそっ」
その刃先が、俺の頬をかすめた。
わずかに血がにじむ。
俺は魔方陣を描く。
もう一度波動の刃を、その堅い殻で覆われた額に叩きつけた。
ムカデとなったスヱの悲鳴が、空気を切り裂く。
俺はようやく屋上へとたどり着いた。
山下は、錆び付いたフェンスの一部に穴を開けていた。
その横で、息も絶え絶えな涼介が横たわっている。
「涼介!」
駆け寄ろうとした俺よりも素早く、山下は涼介を抱え込んだ。
涼介は背後から腕を首元に回され、苦しそうにその腕にしがみついている。
「やめろ、何をする気だ」
「ねぇ、山下さん」
涼介は、かすれる声を絞り出す。
「山下さん自身は、どう思ってたのかは知らない。知らないけど、俺は、俺はうれしかったんですよ。山下さんや、他の仲間たちが、俺を受け入れてくれたこと」
涼介の顔色が悪い。
山下の腕は、さらにそれを締め上げる。
「放課後、とか、学校が休みの日に、一緒に、ゲームしてくれたり、お菓子を分け合って食べたこと、あの時間は、俺にとっては、あの頃の唯一の救いでした」
涼介を抱えた山下は、その体を引きずってフェンスの穴へと向かう。
「山下、さん、たちが、いてくれなかったら、俺は、きっと、もっと早く、弟と、母さんを……」
山下の体が、涼介ごとフェンスから身を乗り出す。
「山下、やめろ!」