悪魔公爵鷲頭獅子丸の場合

中に入ると、二階の涼介の部屋に、俺たちは腰を下ろした。

「なぁ、涼介」

俺は涼介と、話しをしなければならない。

今日彼が見せてくれたことに対する、返礼のようなものだ。

今その話をしなければ、俺はきっと後悔する。

「なに?」

かすれたような電灯の下で、涼介を見上げる。

俺は涼介のこと、ちょっとは気に入って……。

「おい」

俺は体を起こした。

涼介に触れようとして、その指先が頬をすり抜ける。

「なに、どうしたの?」

涼介は俺の手をつかんだ。

それを自分の頬に押し当てる。

俺はその顎を持ちあげた。

「お前、アズラーイールとの約束に、何を差し出した?」

「は? 何って、よく覚えてないんだよね」

悪魔との契約は書面に残るが、天使との約束は、全て口約束だ。

「弟が死んで、すごく悲しくて、その前にも色々あって、そんな時に、夢に天使が現れて、俺は誓ったんだ。もう誰も、泣かなくていいようにして下さいって」

その悲しみの全てを引き受けた涼介の顔に、いま違う種類の影がさしている。

「だから俺は、今が平穏で無事に過ごせることに、感謝してる。あの時の夢が、夢じゃなかったことに」

その手を振り払う。

俺は立ち上がった。

「急用が出来た。お前は大人しく寝てろ」

驚く涼介を残して、俺は空へ飛び上がった。

昼間より、風が強くなっている。

足元に広がる人間の灯りが、神の作りし天空の星よりも明るい。
「アズラーイール! 出て来い! 話しがある!」

俺の呼び声に、ゲートが開いた。

「二度とお前の顔など、見たくはなかったのだが」

出てきたばかりのアズラーイールの、その胸ぐらをつかむと、俺は思いっきりそれを引きずり上げた。

「おい、お前、涼介に、どういう条件で祝福を与えた」

「天使が与える祝福に、条件のようなものがあるわけないだろう。悪魔とはちがうんだ。無条件に祝福は与えられる」

「じゃあ、なぜだ」

アズラーイールは、俺の手を振り払った。

「だから俺は、その時が来るまで、涼介の平穏を守ってやるつもりだったんだ」

「お前がやったのか?」

「それは違う。神の定めし人の寿命に、何人たりとも手を加えることはできない。我々はそれを、知ることが出来るだけだ」

振り下ろした拳を、アズラーイールは受け止めた。

「俺に当たるな。涼介のことを思うなら、大人しくしておけ」

そう言い残して、エセ天使は姿を消した。

俺は足元に広がる光の海の中に、涼介の魂の灯りを見つめる。

その魂は、残り数日の命だった。
涼介はいつものように、同じ時間に起きて、同じように学校に行く準備を始める。

「なぁ、涼介。お前が死ぬまでにやってみたいことって、なんかある?」

俺がそう聞いたら、涼介は笑った。

「え、なんだろう。死んだら漫画の続きは読めないし、新作ゲームも出来なくなるから、まだ死ぬ気はないんだけど」

そう言って、日課となっている弟の遺影を前に、手を合わせる。

「これ以上、父さんと母さんも、悲しませたくないし」

涼介にとっての義弟が、どのようにこの世を去り、どうして一人で墓参りを続けているのか、どうして両親についていかなかったのか、それを聞くつもりはない。

そんなことは知らない。

俺は涼介が、死んだ猫を生き返らせろと言っていたことを、思いだしていた。

「世界一周とか、高級ホテルで豪遊するとか、カジノで遊びまくるとか」

「あー、そういうの、あんまり興味ないんだよね」

「どうして?」

「やったところで一瞬で終わるし、後に何にも残らないからね」

「銀行強盗とか、学校爆破とか」

「漫画かよ」

「やってみたいと思ったことは?」

「ないわけじゃないけどさ、もう行くよ」

制服に着替え、鞄を持った涼介は、俺に登校するように促す。

「いま一番やりたいことは?」

「学校に行くこと。できれば獅子丸と一緒に」

俺は立ち上がった。

涼介と一緒に外へ出る。

いつもの道をいつものように、並んで歩いた。
「学校が近いのがいいな」

「歩いて行けるようなところを選んだんだ。交通費かからないし」

「彼女とかは?」

「そういうのは、本当に好きな人ができてからでいい」

朝の通学時間帯は人通りが多くて、俺の存在に慣れた人間たちは、もう俺を見かけても、特に騒いだりなんかはしない。

「俺さ、悪魔なんだけど」

「うん、知ってるよ」

それが、何でもないことのように、涼介は言う。

「だからなに? だからって、悪いこととか、嫌なこととか、特別なことさえしなければ、普通にしてられるでしょ」

「俺は普通か?」

「それが嫌なの?」

涼介は俺の肩に手を置くと、耳元でささやく。

「普通が一番難しいんだぞ」

にやりと得意げに笑う涼介に、俺は舌打ちをする。

知ったような顔しやがって。

それじゃあ、俺がここにいる意味がないじゃないか。

アズラーイールが、また学校に結界を張っている。

俺は校門の前で立ち止まった。

「なんだよ、ここまで来て、入らないのかよ」

「入る気が失せた」

涼介はそんな俺をおいて、校内へと入っていく。

「お前も後から来いよ!」

笑顔で手を振って、校舎に消えるその背中に、俺はため息をつく。

「し、獅子丸さまぁぁ!」

涼介の姿が消えるタイミングを見計らったように、スヱが駆け寄ってきた。

「あ、あの、涼介って、涼介って……」

スヱの、茶色いふんわりとした巻き髪から、シャンプーの甘い匂いが漂う。

あのヘドロのような沼の臭いが、完全にかき消されていた。

「お前にも分かったのか」

「はい! と、いうことは、いよいよですね!」

そうだ。

だから俺は、契約を急がなければならない。
「くそ、この結界が邪魔だな」

「あの天使を、何とかして下さいよ」

「あぁ、もちろん、そうするつもりだ」

透視の能力で、校舎の中を探る。

階段を上る涼介の背中が見えた。

その涼介は、突然階段の途中にうずくまる。

周囲を歩く複数の生徒が、不安そうにその顔をのぞき込んだ。

涼介の魂に、墨を一滴垂らしたような、黒い影が差す。

「涼介!」

瞬間的にそこに移動しようとして、結界の壁に阻まれる。

俺は走り出した。

肌が灼ける。

手足が思うように動かせない。

どろりとした液体の中を、かき分けて進んでいるようだ。

校舎の階段を駆け上がる。

「涼介!」

「し、獅子丸……」

涼介の手が、俺の腕をつかんだ。

俺は、涼介の胸に手をあてる。

「心臓か!」

その痛みと苦しみを、我の元によこせ! 

そう命じた瞬間、俺の胸は締め付けられたように痛み、呼吸は困難になる。

おかしな汗が、全身から吹き出した。

「獅子丸!」

あまりの苦痛に、体が崩れ落ちる。

涼介の手が、俺の背中に触れた。

俺は自分の胸に手を突っ込むと、その荒れ狂う心臓をつかみ、取り押さえる。

「大丈夫だ、涼介。俺はそう簡単には、死なない」

呼吸を一つ。

自分の心臓くらい、自分でコントロールできないでどうする。

見上げるとそこには、アズラーイールが立っていた。
「東先生が、この結界を解いてくれると、ありがたいんだけどな」

「それは無理だ」

倒れている俺を、表情のない顔で見下ろす。

「幸か不幸か、お前のいるお陰で、涼介の周りにヘタな低級妖魔の類いは寄ってこないが、学校となると話しは別だ。俺が結界を張っていないと、余計な邪魔が入る」

胸が苦しいのは、なんとかなる。

問題は、この強力な結界の方だ。

「涼介が死んだ時に、飛び出した魂を守ろうと思えば、こうするより仕方がない」

「……お前、やっぱ最低だな」

涼介の顔色が悪い。

バカな天使から、余計なことを聞いたせいだ。

「し、獅子丸さま……」

かすれた声が聞こえた。

スヱが階段を上ってくる。

倒れていた俺の腕を肩にかけると、スヱは立ち上がった。

アズラーイールは、驚きの声をあげる。

「お前、どうやってここに入ってきた!」

俺は息をするだけでも、今は精一杯だ。

「スヱさん!」

スヱは、荒い呼吸を整える。

「に、人間の死を……、一つ、受け入れたうえに、この結界のなかでは……、さすがの獅子丸さまでも、不利です。私も……長い時間は、持ちません。獅子丸さまを、連れて出ます」

スヱは、俺の体を持ちあげた。

従属として迎え入れた覚えはないが、まぁそういうことになってしまっているのだろう。

身に覚えはある。

スヱは外見を保つのが精一杯で、泥臭い腐臭を放ち、足元にはそのヘドロをまき散らしていた。

アズラーイールを見上げる。

ここで攻撃してくれば、俺は一旦、魔界に引き上げざるをえない。

「これで、あの天使の借りを返したつもりか」

「何の話しだ」

アズラーイールは、ため息をつく。

俺はスヱに引きずられるようにして、結界の外へ出た。
近くの公園のベンチに、なだれ込む。

ようやく結界の外に出た俺は、そこで呼吸を整えた。

「無茶過ぎます。いきなりあんな強力な結界の中に飛び込んで、涼介の命を救うだなんて。獅子丸さまは、本気であの魂を奪うつもりがあるのですか?」

スヱにそう言われて、俺は苦笑いするしかない。

確かに契約はしていないが、あの場で涼介が死んで、結界の中でアズラーイールと戦うことになったとしても、ここまでのダメージを受けることはなかったかもしれない。

俺は額の汗をぬぐった。

「俺は魂が欲しいんじゃない。契約が欲しいんだ」

「魂を確実に手に入れるための手段が、契約です!」

腕組みをして怒るスヱは、再び輝きを取り戻している。

あの結界のなかに入れるほどの力を、いつの間に手に入れたのだろう。

「お前も強くなったな」

そう言うと、スヱは恥ずかしげに縮こまった。

「全ては、獅子丸さまのお陰でございます」

ようやく体力を取り戻した俺は、ぐったりともたれかかっていた背を起こした。

「獅子丸!」

涼介が公園に現れる。

真っ直ぐに俺のところへやってきて、俺の手を握りしめた。

「なんだよ、まだ学校、終わってねーぞ」

「途中で抜けてきたんだ。すぐ戻る」

その言葉に、俺は思わず笑ってしまう。

涼介らしい返事だ。

「獅子丸、俺のために、無理をする必要はない。俺は……、俺は、ちゃんと自分で死ぬ覚悟が出来てる。アズラーイールが教えてくれたんだ。もうすぐ、寿命が尽きることを。そして、安らかな死を、約束することを」

あのクソ天使めが。

余計なことしかしやがらねぇ。

「そんな言葉を信じるな。死は誰にも平等に訪れるが、皆が同じ死などありえない」

「だけど俺の魂は、聖人として天国に復活する」

涼介の言葉に、俺は舌打ちした。

アズラーイールとの取り引きは、これか。

だから涼介は、俺の誘いに惑わされない。
「そして俺は、天使として蘇る。天界の住人となって、アズラーイールの元で、生と死の恐怖に苦しむ人たちの、癒やしとなるんだ」

涼介の目は、真っ直ぐに俺を見つめた。

「だから、獅子丸との契約は出来ない。俺の魂は、俺の死後、天界に行く。そこで俺は、俺の役目を果たしたいんだ。だから、獅子丸と一緒に、地獄へは行けない」

「涼介は、そんなアテにならない約束を信じるのか? 自分の死後の保証なんて、誰に出来る」

「だけどそれは、獅子丸だって同じだろ?」

「俺は嘘はつかない。お前の魂は、地獄で魔界の糧になる。俺と契約を交わせば、悪魔として蘇らせてやってもいい」

「アズラーイールと言ってることは、同じじゃないか」

「復讐をしょう、俺と一緒だ。悔しくはないのか? 自分の運命と、お前を捨てた両親と、今のこの世界を!」

そう言った俺の手から、涼介の手は離れた。

「それを俺は、ようやく乗り越えたんだ。獅子丸、俺のところに来るのが、少し遅かったよ」

涼介は、立ち上がった。

「自分の死が近いのを知って、ますますそう思う。獅子丸、お前が、どうして俺のところへ来たのか、ずっと考えていた。そして気がついたんだ。試されているのは、俺自身だってことに」

聖人としての証が、涼介の胸に輝く。

天使が祝福を与えるのは、気まぐれなんかじゃない。

涼介は聖人として認定されるべき、資質を持っているからだ。

「だから俺は、獅子丸との契約は出来ない。悪魔の誘惑に、負けるわけにはいかないんだ。俺は、俺と同じように苦しむ人たちを救いたい」

「地獄に来れば、俺がいる!」

「獅子丸、俺は、学校に戻るよ。たとえどんなに離ればなれになっても、俺たちはずっと、友達だ」

涼介の背中が、視界の向こうに消える。

あのクソ天使め、涼介をそそのかしているのは、お前たちの方じゃないか!

俺は立ちあがった。

これ以上、あいつらの好きにはさせない。

「獅子丸さま!」

「スヱ、俺は本気で、あいつの魂を手に入れるぞ」

「はい!」

俺は奥歯をぐっと噛みしめた。
俺は、学校帰りの涼介を待ち構えている。

校門を出てくるその姿を、ようやく見つけた。

「おい、涼介! 俺と契約しろ!」

そう言うと、涼介はプッと吹きだした後で、すぐに笑い転げた。

「なにがおかしい!」

「だって、獅子丸が面白いんだもん」

「俺は真剣だ!」

「俺だって真剣だよ」

涼介は笑う。

「だから、獅子丸とはケンカしたくない。ずっと、仲良くしていたい。獅子丸が、獅子丸でいられますように」

涼介の手が、俺の手に触れようと伸びてきて、俺はそれを振り払う。

だけど俺からは触れられないそれは、するりとすり抜けて宙に浮いた。

涼介の手は、俺の腕にそっと触れる。

「意味が分からん。俺はいつだって、俺のままだ。俺との契約を交わそうとしないお前の言葉なんて、誰が信じられる?」

俺はぐっと、拳を握りしめる。

「何度でも言おう。俺はお前の魂を、魔界に持って帰る。俺にはそうしなければならない、理由と責務がある」

涼介は何も言わず、じっと俺を見ている。

その柔らかな視線に、俺の神経は逆なでされる。

「お前もそうやって、やっぱり俺をバカにするんだな。お前が俺と契約しないのは、結局俺が悪魔だからじゃないか。これが天使のアズラーイールとなら、簡単にサインしたんだろ」

「違う。それは違うよ、獅子丸」

「ふざけんな。お前のそんなあいまいな態度に、俺はもう、いい加減うんざりしてるんだ。もういい、十分だ。お前がその気なら、俺にだってやり方はある」

俺は呪文を唱え始める。

天使の祝福にも負けない、強力な呪いだ。