涼介の、自転車をこぐスピードが加速した。
その全速力に、俺は必死でくらいつく。
こんなに速く走れるんだったら、さっきまでの自転車レースはなんだったんだ。
俺は奥歯を噛みしめ、足を動かす。
ようやく追いついたと思ったところで、涼介は急に向きを変えた。
「もういい、ついてくんな!」
俺は自転車を飛び降り、ハンドルを持ちあげそこから急転回させる。
遠ざかる涼介の背中を追いかけた。
「だったら、最初から誘うな!」
「やかましい! 俺だって、ちょっと後悔してんだ!」
曲がりくねった坂道を、山頂へ向かい登っていく。
俺は完全に息があがっていたが、涼介は平気なようだった。
その複雑に入り組んだ道を、迷うことなく進んでいく。
やがてその道は、ひらけた山頂へと出た。
見晴らしのいい高台に、突然切り開かれた場所。
涼介はそこに、自転車を停めた。
「帰りたかったら、別に帰ってもいいよ。本当に」
その独特な雰囲気の場所に、俺は口を閉ざした。
なるほど、涼介が行き先を告げるのをためらったわけが、分かった。
路線バスがやって来て、停留所に停まると、数人の客が降り、そこにまた数人が乗って出て行った。
俺は歩き始めた涼介の後を追いかける。
冷たい石が、規則正しく並んでいる。
よく手入れの行き届いたそこには、余分なものは何一つなくて、余計なものしか、必要とされていなかった。
涼介はその中を、真っ直ぐに歩いて行く。
やがてその石群を抜けると、林の中の一本の木の前で立ち止まった。
その木の周囲は丁寧な芝で覆われていて、縁を飾るように、色とりどりの花が添えられている。
「今日は、弟の命日なんだ」
涼介は、その背に背負っていたリュックから、いつも家に漂う香を焚いた。
手を合わせ、目を閉じる。
「こんなところに、俺を連れてくるな」
「そう言うと思ったから、黙ってたんだよ」
涼介は立ち上がり、何もない芝生の一点を見つめる。
「弟に、獅子丸を会わせたかったんだ」
ここは聖域だ。
ある意味、俺のような大悪魔が、立ち入っていい場所ではない。
狭い区画に無理矢理詰め込まれた、無数の死者たちの眠りを、妨げてしまったようだ。
10歳になるかならないかのような少年が、涼介の見つめる目の前に立っている。
「弟は、きっと獅子丸のことを、気に入ると思うよ」
「そうかな」
見えないということは、都合のいいもので、俺は口をつぐんだ。
なにも出来ない死者たちなどに、怖れることは何もない。
「だといいな」
涼介は静かに微笑む。
俺は弟から視線を外した。
騒ぎ出したその他大勢の霊魂を、ひとにらみして一喝し、黙らせておく。
成仏した霊でも、もう一度叶えたい願いは、いくらでもあるらしい。
「嫌われるのは、得意なんだ」
「なんのこと?」
「いや、なんでもない」
「ご飯を食べよう。ここの場所なら、食べられるだろ?」
公園のような一角だった。
大きな屋敷の、どこかの庭好きな主人が手を入れたような、自分の好みではないが、かといって悪趣味ともいいがたい、少し周囲とは浮いたような環境にあるテーブルとベンチ。
そんな街並みを見下ろす高台で、涼介は背負ってきた弁当を取り出した。
「マジか」
「ダメ?」
「いや。涼介がいいなら、それでいい」
「いつも、ここで食べてから帰るんだ」
俺が腰を下ろすと、弟はその隣に腰掛けた。
分かってはいたけど、転倒した衝撃で、弁当の中身はぐちゃぐちゃになっていた。
トントンと箱を叩き、偏った中身を整える。
「ま、味は変わらないからね」
俺の前に、涼介は今朝作ったばかりの弁当を置いた。
隣で弟が口を開く。
俺はそれに笑えたが、声と顔には出さずにおく。
悪いがお前につき合うつもりは一切ない。
背を弟にむけ、テーブルに肘をつきそこに頭を乗せた。
「腹が減った。さっさと食おう」
中身は卵焼きと、小さな赤いトマト。
小さなハンバーグとコロッケと、ミニカップゼリー。
「子供の弁当みたいだな」
そういうと、涼介は笑った。
「そうでもないと思うよ」
涼介は黙ってそれを食べ始めたが、俺はそれに箸をつけようかどうしようか、考える。
涼介は何も言わないが、また隣の弟が口を開いた。
俺はプラスチックの箸を手にとる。
「その弟は、この弁当が本当に好きだったのか?」
「さぁ、どうだろうね」
弟は感情を露わにする。
俺はこれ以上騒ぐと、永遠にこの世界から吹き飛ばすぞと脅す。
ふわりとした風が吹いた。
「俺の弟は、一佐は、すごく頭のいい子で、賢くて、俺なんかよりずっといい子で、母さんの連れ子だったから、血のつながりはなかったけど、好きだったよ」
そのよく出来た弟は、ギャアギャアとわめき散らし、暴れ、敵意をむき出しにして、涼介に襲いかかる。
だけど、所詮そんなことをしても無駄なのだ。
霊だって、生身の人間には触れられない。
「そうか。なぜ死んだ」
「……。それは、ちょっと言いたくない。病気、だったんた」
鼓膜が引き裂かれそうなほどの雄叫びを上げるから、俺は思わず笑ってしまう。
あぁ、この兄弟は、本当に兄弟だったんだな。
「仲はよかった?」
「それなりにね」
悪魔の俺にとって、罵詈雑言の類いは、聞いていてとても気分がいい。
「仕方ない。じゃあこの弁当を食ってやるか」
「そうしてくれると、弟もうれしいと思うよ」
さすがの霊魂も、俺に対しては無駄な攻撃をためらうらしい。
確かに、頭は悪くないようだ。
「涼介にとっては、どんな弟だった?」
「ん? そうだな、色々あったけど、かわいくて面白い弟だったよ」
弟からの記憶が、思念として俺に送られてくるのを、俺は完全にシャットダウンする。
醜い顔を歪ませるその姿を、涼介にも見せてやりたい。
「死んだら結局、何の意味もないな」
「だから俺は、生きてるのかもね」
外野が再びやかましく叫び始めたので、俺はもうここの霊魂どもをまとめて吹き飛ばした。
弟も、さすがにそれにはビビったらしい。
大人しく腰を下ろす。
「そりゃそうだ。生きてる方が勝ちだからな」
「生きてる方が勝ち、か。そんな風には、考えたことはなかったけどね」
涼介は食べ終えた弁当の蓋を閉じた。
「俺も、死のうと思ったことはあるよ。本気で。だけど出来なかったのは、勇気がなかったんだと思ってる」
俺は冷めたコーンクリームコロッケを、口に入れた。
「どうして?」
「なんでだろうね。地獄で弟と顔を合わすのが、嫌だったのかも」
涼介は笑う。
「どうして地獄へ行ったと思う? 天国じゃなくて」
「さぁね。そうだな、地獄じゃないかもね、きっと天国で、のんびり過ごしてるよ」
俺は涼介に手を伸ばした。
その手を涼介は、不思議そうにみていたが、すぐに気がつく。
「あぁ、なに? 俺に触りたいわけ?」
涼介の手が、俺に触れた。
俺はその手で、傷ついた涼介の手を見せる。
「わ、怪我してるの、気づかなかった」
俺はそこに、意識を集中する。
既に血は止まり、こびりついていた赤い血栓が出来ていた。
それがぽろりと剥がれ落ちると、すっかりきれいになった、傷跡もない涼介の肌が現れる。
「なんだよ、獅子丸は悪魔のくせに、治療も出来るの?」
「俺に出来ないことはない」
「はは、嘘つき」
「一緒に地獄へ行こうと言っている」
「それは遠慮するよ」
涼介は、静かに微笑んだ。
「俺はやっぱり、天国の方がいい」
涼介は笑う。
季節外れの冷たい風が吹いて、俺はくしゃみを一つした。
「さっさと食えよ。俺はもう食べ終わったぞ」
そう言ったあとで、涼介はぱっと顔を上げた。
「あれ、もしかして、あいつ地獄にいるの?」
「いや。なぜ地獄にいると思った」
涼介からの返事はない。
俺は、俺の隣を指差した。
「ここにいる」
その瞬間、弟は姿を消した。
涼介は肺の中の空気を全部吐いて、ため息をつく。
「なんだよ、聞いてたのか」
「もういなくなった」
「……。よかった」
厚い雲の切れ間から、日が差し込む。
外で食事をするには、ちょうどいい天気だ。
「俺のしゃべったこと、一佐に聞こえてた?」
「いや」
俺は首を横に振る。
「死者には、生者の声は届かない。生者にも、死者の声は届かない。世界を分かつ者同士は、その境界線は、越えられないんだよ」
適当な嘘をついたら、涼介はそれを信じた。
「そっか。残念だな」
「話しがしたかった?」
首を横に振る。
「いや、もういいんだ」
俺は黙って弁当の続きを食べた。
涼介は時々何かを話し、俺はそれに相づちをうつ。
とても静かで、特別な時間だったように思う。
邪魔をする奴らは、もういない。
俺は生まれて初めて、何かに遠慮したような気がした。
涼介の作った弁当はそれなりに美味しくて、だけどそれは、少し淋しい味がした。
「帰りも自転車か?」
「そうだよ」
涼介は、今日のような命日ではなくても、気が向けばここへ来ていたみたいだった。
それは彼にとっては気晴らしのようなもので、どんな時にでも、手作り弁当を持参したらしい。
俺は空を見上げた。
ここから見上げる空は、きっと涼介や他の奴らから見たら、また違う空なんだろうな。
「帰りは、ゆっくり帰ろう」
自分以外の、人の食べる弁当を作ったのは、初めてだったんだって。
俺たちは霊園を後にした。
行きには分からなかった道も、帰りなら分かる。
俺はのんびりと走る涼介の隣に並んでいた。
午後からはよりいっそう曇りがちな天気で、少しばかり肌寒い風が吹く。
「どっか、寄ってく?」
涼介がふいにそんなことを言ったのは、俺が確実にそれを断るという前提でのもとだったのだろう。
いつも誰かに何かを誘われても、ここではその全てを断ってきた俺だ。
何の感情も意味もなくただ発しただけのその音の羅列を、俺は逃しはしなかった。
「いいだろう、どこへ行く?」
「え、本当に?」
「お前が言い出したんだ。どこがいい? 俺はどこでもいい」
「お、俺も、どこでもいい」
「じゃあ、ついてこい」
俺は自転車のハンドルを急旋回させる。
もう家は目の前だった。
特にどこかと決めていたわけではなかったが、俺はヒトのエネルギーを嗅ぎとる。
「こっちだ」
住宅街から、繁華街に入り込む。
ごちゃごちゃとした看板が並ぶ裏路地の一角に、ゲームセンターがあった。
「ここに行こう」
「え? 獅子丸は、アーケードゲームがしたかったの?」
ガラスの扉が、自動で開く。
一歩そこへ踏み込むと、休日の午後とあってか、たくさんの人間であふれかえっていた。
狭い空間に押し込められた、むせかえるような息と、こびりついた古い体臭、煙草の臭いも混じる。
鳴り響く電子音が、ひしめきあっていた。
「本当に、ここなの?」
「悪いか」
「いや、別にいいけど」
ぐるりと周囲を見渡す。
同じ場所にたくさんの人間が集まっていても、みんなそれぞれが違う画面に向き合っていて、会話はない。
時折知り合い同士のような者が、ぼそぼそと挨拶のようなものを交わす程度だ。
ここには、涼介の古い思念が残っている。
「どうすればいいんだ?」
そう言うと、涼介はカウンターでコインを買った。
「これで、遊ぶんだよ。勝てば増える」
俺たちは真っ直ぐに並ぶゲーム機に、並んで座った。
その向かい側に座る対戦相手の顔は、機械の壁に阻まれて見えない。
初めてプレイするゲームだとか、そういうことは、関係ない。
顔も知らない相手と、本気で、遠慮なく戦う。
バトルの後は、挨拶を交わすのも礼儀らしい。
だけど、それは画面の中だけの話しで、リアルに顔は、合わせないんだって。
俺はボロ負けして、涼介は勝った。
「お前、案外強いんだな」
そう言うと、涼介は少しうつむき加減につぶやいた。
「ま、昔やってたからね」
長く続く機械の行列の、その端から一人の男が顔をのぞかせ、すぐに引っ込めた。
どうやら、負けた俺ではなく、勝った涼介の顔をのぞきに来たらしい。
「リアルで負けたら、すぐに発狂するくせに」
そうつぶやいた涼介を、俺は見上げる。
「お前、前にもそんなこと言ってなかったか?」
「そうだっけ」
涼介の座る画面に、対戦の申し込みが入る。
相手は、裏側にいる奴だ。
「獅子丸がやる?」
そう言われて、俺は首を横に振る。
涼介は、台の上に置いたコインを1枚、カシャリとそこへ落とした。
画面に向かって座り直すと、涼介は手元だけを動かして、淡々と相手を打ちのめしていく。
それは涼介にとって、単調な作業のようなものだった。
3回の勝負を圧勝で終えると、すぐに立ち上がった。
「もう出よう」
「え、でも、まだコイン残ってるよ」
「行くぞ」
涼介は残っていたコインをつかむと、それをポケットに突っ込んだ。
対戦相手の、20代後半と思われる男が涼介に駆け寄る。
男は涼介に何かを話しかけ、涼介は手を差し出した。
男は感動したようにガッツリとそれを握りしめたが、涼介はすぐに店を後にする。
店の外に出ると、新鮮な夜の空気が体に染みこんだ。
「楽しかった?」
そう聞いたのに、涼介からの返事はなかった。
自転車にまたがる。
「楽しかった?」
「楽しかったよ。ゲーセン来るのも、久しぶりだったし」
「お前が来たいかと思ったんだ」
「そんなことまで分かるんだ。やっぱ獅子丸は凄いね」
涼介は、目も合わさずにそんなことを言う。
本当は、ゲームとか対戦とか、ましてや勝負とか、そんなことはきっと、どうでもよかったんだろうな。
意味がないってことを、涼介も俺も、ちゃんと知っていた。
人の増え始めた繁華街の人混みを、俺たちは進んでゆく。
近くの大型商業施設に入って、そこのフードコートで夕食を食べた。
二人でテーブルを挟み、どうでもいいようなくだらない話しで盛り上がる。
涼介は笑い転げていて、俺も一緒に笑った。
油にまみれたジャガイモが、初めてうまいと思った。
「もうすぐ、あのゲーセンが潰れるって、聞いてたんだ」
ふいに涼介は言った。
「だから、最後に来られて、よかった」
俺は涼介のその言葉に、少し安心する。
「出来れば、行きたくなかった。だけど、行けてよかった」
あの場所は、涼介にとって、特別な場所だった。
あの霊園がそうであるように、あの喧噪も、その頃の涼介には、必要なものだった。
視界の隅に、男の影が入った。
山下だ。