どれくらい時間が経っていたのだろう。
チャイムが鳴って、急に校内が騒がしくなる。
気がつけば俺はいつの間にか眠っていて、日はすっかり西に傾き始めていた。
チッと舌をならす。
あの野郎、裏切りやがったな。
結局涼介を連れてなんて、来てないじゃないか。
ガチャリと扉が開く。
何かをわぁわぁと騒ぎながら、その人間はようやく涼介を俺の前に連れてきた。
「遅い」
「悪かったよ。だけど、さすがにさぁ! 授業中にいきなりってのは……」
「当たり前だろーが、バーカ!」
涼介が叫ぶ。
「なんでもテメーの思い通りになると思うなよ!」
俺は、ぎゃあぎゃあわめき続ける涼介を無視して、もう一人の人間をにらみつける。
さらに5万をポケットから取り出した。
「また頼む」
彼の目は、じっとそれを凝視していたが、やがてそこに手を伸ばした。
ちょろいな。
これが人間の普通だ。
俺から受け取った金を、自分の懐にねじ込む。
「おい!」
涼介はまた叫んだ。
「山下さん、そんなもんに手ぇ出してんじゃねぇよ!」
「うるせー。てめぇには関係ねぇだろ」
「お前もなんだ、マジシャンか、なんでそんなにカネ持ってんだよ、絶対ぇおかしいだろ。こんなことして、どうするつもりだ!」
そんな批難がましい目で俺をにらみつけても、俺は何一つ強制はしていない。
全てはこの人間の、自由意思だ。
「これが普通なんだよ。おい、お前。涼介の頭を押さえつけろ」
「え?」
俺にそう言われて、男はたじろんだ。
「追加のカネを受け取っただろう。動け」
「先輩、もうやめましょう。俺がここに来たのは、先輩に頼まれたからっすよ。そんなことを、先輩がする必要はない」
男が迷ったように、俺を振り返る。
「やれ」
「悪いな涼介、ちょっと大人しくしておいてくれ」
男の手伸びてくるのを、涼介は振り払った。
ギロリとにらみつける涼介に、男は手が出せないでいる。
「なんだよ、情けないな。それくらいのことも出来ないのか」
「だったら、お前が自分で俺を押さえつければいいだろう」
「ふん、誰がそんな汚い頭に触るもんか」
涼介の拳が、ぐっと握られた。
俺はそれを鼻で笑う。
そうだよ、怒れ。
そうすればお前は、俺に従わざるをえなくなる。
山下と呼ばれた男の手が、涼介に伸びた。
その拳で殴り返すのかと思ったら、山下の腕をとり床に組み伏せる。
痛がる男に、涼介はすぐに手を離した。
「何やってんだよ、さっさとしろ」
「獅子丸、お前の目的はなんだ。まずはそれをはっきりさせろ!」
「もうとっくに、お前には伝えてあるはずだ」
あごを動かし、男に指図する。
涼介の背後から抱きついた男は、簡単に前に投げ出された。
全く、役立たずとは、このことだ。
俺は仕方なく、涼介の足元の重力を変化させた。
突然身動き出来なくなった足に、涼介は慌てふためいている。
いま奴の両足は、強力に吸い付けられているはずだ。
人間に直接は触れられなくても、本当はさほど困りはしない。
俺の命令に従って、男は涼介の首に腕を回した。
今度ばかりはうまくいく。
ヘッドロックで固めた涼介の頭頂部を、山下は俺に差し出した。
「ほら、押さえ込んだぞ」
暴れたおす涼介を押さえ込むのに苦労していたが、問題はそこじゃない。
「そうじゃない、向きが違うだろ」
「向き?」
「後ろだ、後ろ!」
涼介が暴れるお陰で、矢はさらに深く食い込んでいる。
もう、本当に気が利かない。
「後ろって、どう後ろ向けんだよ!」
「頭の後ろ!」
「はぁ?」
男が腕を緩めた瞬間、涼介はそこから抜け出した。
「俺の後頭部がなんなんだよ!」
「こいつを押さえつけろ!」
「お前が素直に言うことを聞け!」
その言葉に、俺は立ち止まった。
「どういうことだ」
「これが俺とお前の問題なんだったら、先輩を巻き込むな」
「後ろを向け」
「足が動かない」
俺は魔法を解く。
動けるようになった涼介は、舌打ちの後で意外にも素直に後ろを向いた。
なんだよ、なんで今、俺の言うとおりにした?
「このバカがなんか余計なことをしそうになったら、すぐに教えて下さいよ!」
ようやく矢の刺さった頭が、俺の前に差し出された。
そこにそっと手を伸ばすと、俺の手は涼介の後頭部を透過する。
「えっ? ちょっ、……なに?」
それを横でみていた男は、変な声をあげた。
「え? なに? 山下さん、コイツ何してんの?」
「いいから黙ってろ。ヘンに動くな」
俺は涼介の頭部に手を突っ込むと、ゆっくりとその矢を引き抜く。
「これでいい」
抜いた父さんの矢は、すぐに粉砕しておく。
こんな魔力の強い矢を人間界に放置しておけば、どんな面倒が起きるか分からない。
「お、お前、何者だ!」
カネで簡単に操れるような人間に、名乗る名前などない。
俺は涼介に向き直った。
「今日のところは、これでお終いにしておいてやる。俺から逃れられると思うなよ」
涼介と目が合う。
俺は、今度はその顔を直視することが出来なかった。
「テメー、おいコラ、ちょっと待て、話しが終わってねーぞ!」
俺は背を向けると、その場から姿を消した。
魔界の屋敷に戻った俺は、涼介のぶよぶよとした脳に触れた感触が、まだ残る手を見つめている。
俺はそれを、開いたり閉じたりしながら、じっと見ている。
あいつの脳に触れたことで、記憶の一部が知れた。
「おかえりなさいませ」
俺とサランしかいない広大な屋敷で、サランは俺を出迎える。
「矢は上手く抜けましたか?」
「あぁ、それはなんとか」
見上げると、サランはいつものようにそっと微笑む。
俺はその変わらぬ微笑みに、昔からずっと、癒やされもすれば、傷つきもしていたんだったな。
サランからは、何も読み取れない。
それがいいのか悪かったのかも、俺はいまだに判断できずにいる。
「父さんは?」
ふとそう言っておいてから、俺は自分で自分が恥ずかしくなった。
「……。この世界の、どこかにおいでですよ」
「いや、いいんだ」
父の気配など、探せばすぐに分かった。
いつも遠くから見ることは許されても、自分から話しかけることは許されない。
俺が近寄ろうとすれば、そばに控える魔物たちが立ちふさがった。
「少し、調べ物をしてから寝るよ」
「かしこまりました」
薄暗い廊下を、図書室に向かって歩く。
その部屋には魔界中から集められた魔道書が、部屋全体を埋め尽くす棚に、びっしりと詰め込まれていた。
俺は幼い時から、この部屋で一番多くの時間を過ごした。
嫌な事も辛いことも怒りさえも、ここに一人で立てこもってやり過ごした。
本のページを開けば、その間だけは何もかも忘れられた。
そういえば、涼介も本を読んでいたな。
俺はつい数時間前に、奴から取り上げて放り投げた本のことを思い出した。
何を読んでいたんだろう。
月明かりに照らされた、書架の一冊に目をとめる。
この魔法書のページを開けば、読みたい本の中身を簡単に写し出すことができる。
あの涼介が読んでいた本の中身も……。
俺はその背表紙に指をかけ、すぐに元に戻した。
人間の読むようなくだらない本など、俺が気にするまでもない。
ましてや攻略すべき対象である涼介に、同調してどうする。
あいつの読んでいた本を知ったところで、なんの役にも立たないだろう。
俺はアイツを支配するのだ。
「人間の心を操るもの」いま必要な能力は、これだ。
俺はそれに関する魔界の研究書数冊を手にとると、寝室へと引き上げる。
持ってきた数冊の本をベッドに投げ出すと、俺はそこにごろりと横になった。
人間界の空気は、ここより少し濁っていて、少し息苦しい。
にぎやかで騒がしくて、住み慣れたこの静かな屋敷とは、大違いだ。
どうして父さんは、人間なんかから俺を作る気になったんだろう。
ふとそんなことが、頭をよぎる。
いつもは考えないようにしていることを、つい考えてしまう。
俺は、悪魔なのに。
そうやって本のページを広げたまま、いつの間にか眠っていたらしい。
サランは俺が目覚めるタイミングを見計らったように、いつも出来たての朝食を運んでくる。
それはいつだって、間違えたことはない。
「お勉強は出来ましたか?」
俺はむくりと起き上がった。
悪魔が悪魔にそう言う時は、大概はイヤミか悪口だ。
俺以外の魔界の奴らが、研究者以外で本を読んでいるところなど、見たことはない。
それはサランも同じだった。
「まぁ、ちょっとはね。参考になったよ」
悪魔は頭では考えない。
自分の本能からくる衝動を全ての知識の源とし、そこに経験を加えていくだけだ。
だから、本を読んだだけで何かを分かった気分になる人間のような俺を、やはりヒトから生まれた仔だと馬鹿にする。
ここでは本を読んだり書いたりするような奴らは、無能の証だ。
「それはよろしゅうございました」
それを唯一黙認しているのは、このサランだけだった。
サランは父さんに言われて人間の心臓をその腹に宿し、自分の体内で育ててからそれを吐き出した。
俺は父さんの狩った人間の心臓を元に、炎竜の腹で作られた悪魔だ。
サランは育てろと命じられたから、今でもそうしている。
「着替えたら、出かけてくる」
朝食のセットをテーブルに並べてから、立ち去るサランの背中に向かって、俺はそう言った。
温かな湯気がたちのぼるスープとサラダ、薄く切った肉が、扇状にきれいに並んでいる。
どこにも非の打ち所がない、完璧な朝食だ。
毎日メニューの変化はあっても、これだっていつもと変わらない風景で、サランはいつも淡々と、与えられた仕事をこなす。
俺はそれに手をつけないまま、部屋を後にした。
放課後の学校の廊下で、俺は涼介を待つ。
人混みの中から俺を見つけた涼介は、大きなため息をついた。
「ホントしつこいよね、お前も」
「それはこっちのセリフだ」
「ろくに学校にも来てないくせに」
歩き始めた涼介の隣に、俺は並ぶ。
「どこに行ってたんだよ」
「お前には関係ない」
「あっそ」
彼の横顔は、怒っているようにも見えた。
「なんで俺じゃなきゃダメなんだよ。せめてその理由を聞かせろ」
「だから、金の矢が刺さったからだって」
「俺は真面目に聞いてんだけど」
涼介は頭をボリボリと掻いた。
何を言っても信じてもらえないのは、悪魔の特性なのかもしれない。
「そうだ、涼介。友達はほしくないか? お前いっつも一人だろ。ちやほやしてくれる、優しい友達がいれば、それでよくないか? そういうの、いいだろ?」
涼介は深く長い息を吐いただけで、歩みを止めようとはしない。
「な、便利だろ? 気分いいし。たまんないよな。じゃあ、俺がなってやるよ。ちょうどいいだろ。悪魔の友達だなんて、他に持ってる奴、いないぞ?」
「それが契約内容か」
「友達の頼みなら、聞けるんじゃないのか」
「お前さ、もっと言い方とか、あんだろ。ちょっとは考えろよ」
「なにがだ」
友達がなんたらかんたらとか言い出したのは、涼介の方だ。
昨日の夜、人間研究の魔界書を読んだ。
人間と接する時には、友達のように親しく親切に接するのが、第一の手だと。
「悪かったよ。謝るから許してくれ。大体、いきなり現れてアレはなかったよな。俺はさぁ、実は初めてだったんだ。こうやって外の世界に出てくることも、誰かと『友達』になろうとすることも」
涼介の目が、俺を見下ろす。
話しは聞いているようだ。
どうすれば涼介の心が、俺の手に入るのだろう。
人間の心を操るもの。
「なんでも言うこと聞いてやるよ。涼介ってさ、ほら、すごく頑張ってるじゃないか。いつも一人で、誰も見てないところでもさ。そういうの、他の奴らは気づいてないみたいだけど、俺は知ってるよ。涼介のいいところとか、優しいところ」
再び背を向けて歩き出す。
足の動きは止まらない。
だけど、反論も拒否もない。
俺はそのまま続けた。
「俺は、涼介のそういうところがいいなって思ったんだ。だから、仲良くなりたかったっていうか、その、涼介自身にも、自分で自分のいいところは認めてやってほしいなって。気づいてほしいなって」
「ほとんど学校にも来てないくせに、知りもしない相手に向かって、よくそんなセリフが言えるな」
「だって、みんなそう言ってるよ、クラスの奴らはみんな、本当はいいヤツだって、言ってたんだ。そうやって、俺に教えてくれた」
涼介は笑った。
「どうせ嘘つくなら、もっとうまくつけよ」
「そんなことないって!」
「これ以上、俺の神経を逆なでしたら、本気で殴るぞ」
「俺は、涼介と友達になりたいだけなんだ」
ここで怒ってはいけない、と、書いてあった。
とにかく相手を持ちあげて、気分良くさせること。
上から押さえつける手段は、持ちあげが成功した後で、相手の出方によって、交互に順番を変えること。
「俺は、お前と仲良くなりたいんだよ、本当に。俺が心から、仲良くなりたいと思った人間は、そうめったにいない。珍しいくらい、貴重な存在なんだよ。涼介は」
「俺はなぁ!」
涼介がようやく振り返った。俺は真面目な顔をして言う。
「本気なんだよ。信じてくれ」
「はぁ~いぃぃいぃぃ! じゃあ、あたしがお友達になってあげますぅぅ!」
突然、不安定に奇妙な高い声で、目の前にこの学校の制服を着た人間が現れた。
だけど、コイツは明らかに人間じゃない。
「お名前、なんていうのぉぉおぉ! あたしの名前はねぇ、なんて呼んでもいぃよぉぉっっ!」
女の姿をしているつもりだろうが、能力の低いせいで、まともな姿になっていない。
鼻をつく悪臭と共に、泥と腐った肉片の合間から、ひび割れた骨が見え隠れしている。
それでも必死で形状を保とうとしているのか、ドロドロと流れ落ちようとする肉体を、常に逆流させながら不器用に近づいてくる。
「な、なんだよコレ!」
その不気味な光景に、涼介は取り乱した。
慌てて逃げ出そうとする背中に、俺は腕を回す。
それにぶつかって、涼介は踏みとどまった。
「大丈夫だ。心配するな」
人間には触れられなくても、低級の地縛霊となれば、話しは別だ。
コイツは先日、黒蝶の使いを俺に送った、妖魔の類いだ。
「邪魔だ。消えろ」
右手をかざす。そこから出す軽い波動だけで、一発だ。
「えぇぇつっっ~! あたし、さっそく消されるんですかぁあぁぁ! こないだご挨拶したときに、役に立てるって、言ってくれたじゃないですかぁぁあぁぁ!」
女の足元が崩れ、両膝をつく。
ここまで来るのが精一杯だったのか、さらに片手を床についた。
「助けてくださいよぉぉおぉぉ! その、その人間のお坊ちゃんの光がまぶしすぎて、あたしにはもう無理なんですぅうぅぅっ!」
涼介を振り返った。
同時に目があう。
どういうことだ。
「うるさい。お前など、いらぬ」
この地縛霊に、もう一度手をかざした。
吹き飛ばそうとした瞬間、かざした俺の腕に手を触れたのは、涼介の方だった。
「待って。話しが聞きたい。助けてやれよ」
「それがお前の望みか?」
「俺たちは、友達、なんだろ?」
「え、そうなの?」
「違うのか」
その言葉に、俺は掲げていた手を下ろす。
涼介は、ほっとしたような顔をした。
その顔を見た瞬間、俺の体から、何かが抜けた。
「だからぁぁあぁあ! あたしには、もう無理ぃぃいぃっっ~!」
泥と肉片と骨が、溶けたように床一面に広がる。
俺は舌打ちをしてから、どうしようかと考えた。
そうだ。鼻クソで十分だろ。
俺はその場でほじくったそれを、低級妖魔に向かって投げてやる。
「あぁ! ありがとうございますぅう! だけどちょっと、たりませぇ~ん!」
俺の体の一部を受け取った妖魔は、溶けた泥の中から、人間の女の上半身だけを作りだした。
荒い呼吸を整える。
「もうちょっと、何とかなりませんかねぇえぇぇ!」
唾でも吐いてやろうかと思ったが、さっきの鼻クソを批難がましい目で見ている涼介が横にいるせいで、俺はもう一度考え始めた。
意外と面倒くさい。
「じゃ、じゃあ、髪の毛」
ぶちっと抜いたら、2本が抜けた。
それを投げてやると、妖魔の体は引きずった泥を再びまとい、ようやく人間の姿になる。
「あぁぁあ、ありがとうございますぅぅぅ! 髪の毛なら、長持ちしますぅう!」
泥の中から、この学校の制服を着た女が立ち上がった。
腰まで真っ直ぐに伸びた黒髪に、肌は泥のようにくすんだ灰色をしている。
「あぁあぁぁ! 魔界の王子さま、お目にかかれて光栄ですぅうぅっ!」
女は廊下に土下座でひれ伏した。
「あの、あの、なにかお役に立てることがあればとぉぉ、失礼とは思いながらも、はせ参じてみましたぁぁあ!」
「もういい、分かった。髪の毛2本で十分だろ。帰れ」
「はいぃ!」
「待って!」
涼介は、女を呼び止める。
その足を、一歩踏み出した。
それは、わずかに震えているようにも見えた。
「俺の、俺の光って、なに? どういうこと?」
妖魔は俺の顔色を窺うように、目を合わせる。
「話しが聞きたい。獅子丸」
涼介まで、俺を振り返る。
「お前が悪魔っていうのは、本当だったんだな」
俺は落胆と同時に、深いため息をつく。
なんだよ、まだそこからだったのかよ。
「そうだよ。やっと信じてくれた?」
「だったら、この、人? を、説得してくれ。光の、光の話しがしたい」
涼介は、じっとこの地縛霊である低級妖魔を見つめている。
こんな奴に、一体なんの興味があるっていうんだ。
「え、面倒くさい」
「獅子丸!」
「あぁ、分かったよ、仕方ない。涼介の言う通りにしてやれ」
悪魔の類いを扱うには、こんな低級妖怪といえども、人間には難しい。
俺たちは、学校近くのバーガーショップに移動した。