悪魔公爵鷲頭獅子丸の場合

そう言って奴に呪いをかけたはずだったが、涼介から一向に悲鳴が上がってこないどころか、俺の呪いが効いている兆しもない。

どういうことだ?

「どうかされましたか? 熱心に、何をしておいでです?」

サランが声をかけてきた。

魔界の屋敷にある図書室で、俺は人間の足に、その小指を角にぶつける呪いのかけ方を探して、魔法書を広げ散らかしている。

「見るな!」

慌ててページの上に覆い被さった。

「おやおや、お勉強ですか?」

サランは俺が生まれた時から、専属で世話をしている火トカゲだ。

俺の言うことならなんでも聞くが、俺と父さんとなると、簡単に親父側につく。

今は人間の姿になっている俺に合わせて、サランも初老の男風な人間に姿を変えていた。

「人間に呪いをかける時は、魔界とは違って、慎重に呪文を唱えなければなりません。思いつきでいくつもの呪いを同時にかけても、上手くはいきませんよ」

紅茶のソーサーを手に、ゆっくりと笑ったサランは、それをテーブルに置いた。

「一つの呪いを、その効果をみながらゆっくりと、徐々に強い呪いにレベルを上げながら、長い時間をかけ締め上げるのが、効果的でございます」

そんなことは言われなくても分かっているが、涼介のことをサランに相談するということは、父さんにも筒抜けということだ。

こんなくだらない魔法、もちろん俺も知らないが、父さんやサランに聞くなんてことも、絶対にありえない。

「こ、これから人間界で、人間に呪いをかけてやろうと思っているんだ。誘惑には簡単に乗らないような奴らしくて、どうやって陥れようか、それを考えてるんだ」

サランは遠見の水晶に手をかざした。

そこに登校中の涼介の姿が映る。
「ふむ。この人間ですか、ウァプラさまの矢が刺さったのは」

サランの目が、じっと水晶の中の涼介を見つめる。

「なるほど。刺さっていますね」

「だろ?」

あの父さんの選んだ人間だ。

そう簡単に、一筋縄ではいかないということなんだろう。

「あまり私のようなものが口だしをすると、あの方のご機嫌を損ねるので、申し上げにくいのですが」

「なんだ」

サランはそっと微笑む。

「獅子丸さまがご苦労なさっていることは、ウァプラさまには内密にしておいてさしあげます」

「……本当だな」

「はい」

俺は疑いの目でサランを見上げる。

悪魔にとって裏切りなど挨拶のようなものだが、今は相談できる相手が他にいない。

小指の呪い、どうしよう。

「俺のかけた呪いが、効かないようなのだ」

「先ずは、頭に刺さったままの矢を抜きましょう。人間の目には見えぬものですが、あのように分かりやすい目印があれば、よからぬ連中もまた、呼び寄せるかもしれません」

涼介の後頭部には、確かに金の矢が刺さったままだ。

よからぬ連中? 

俺の頭にすぐに思い浮かぶのは、あの厄介な四人の兄たちだけだ。

「あの矢を抜けば、なにかが変わるのか?」

「さぁ。どうでしょう」

サランは分かっているような、分かっていないような口を利く。

「先ずは、あの矢を抜くことを一番にお考えなさいませ」

サランはティーセットをテーブルに残し、部屋を出ていく。

俺はため息をついた。

あの矢を抜く、か。

口で言うのはたやすいが、その手間を考えると、俺はその面倒くささにうんざりとして、もう一度ため息をついた。
学校の中というのは、どうでもいいくだらない人間であふれていて、悪魔の俺にとっても、居心地がいいのか悪いのかが分からない。

俺は教室で一人本を読む、涼介の前に陣取った。

「やぁ。何の本を読んでるんだ?」

「……お前も本に、興味があるのか?」

「ないね」

俺はそれを取り上げると、放り投げた。

「なに? 返してほしけりゃ契約しろって?」

「いや、違う」

俺は涼介にかけられた、呪いの痕跡を探した。

確かにそれはかけられているはずなのに、どうして作用しないのか。

父さんの矢の効力の方が、強すぎるせい?

「ちょっと、後ろ向いて」

「は?」

そう言うと涼介は、俺の方を向いたまま、体を後ろに引いた。

それでは、矢が抜けない。

「反対だよ、後ろ向けって」

「やだよ。何する気だ」

「ゴミがついてる」

そうやって手を伸ばそうとしたのに、涼介はそれを押しのけ、自分の髪を振り払った。

「自分で取るから、いいよ」

そうやって触れた手が、矢をますます深く押し込める。

面倒くさいやつだ。

どうやって引き抜こう。

俺がイライラしなから涼介を見ていると、彼はぼそりとつぶやいた。

「てゆーか、お前何しに戻って来た。俺はまだ足の小指、一回もぶつけてないぞ」

その言葉に、カチンと血が上る。

「創作魔法というのだ。そういうおまじない的な魔法は、いちいち材料を集めたうえで適切に処理し、そのうえでさらに儀式としての手順を踏まなくてはならない」

「なんだそれ」

「そういうものなんだよ」

「で?」

涼介の目は、悪魔のように冷ややかに微笑んだ。

「出来ないって?」

「出来ないんじゃない、面倒くさいだけだ」

涼介は返事の代わりに、「ふんっ!」盛大な鼻息を飛ばす。

「だからもういいって。悪魔ごっこがしたいだけなんだろ? つき合ってやるから、お前も早くその病気を治せ」

「病気?」

「妄想癖だよ。どうせアラブの豪邸で見た、日本のアニメかなんかに影響されちゃったんだろ?」

「アニメじゃない!」

「なに、どの作品みたの? 俺が知ってるやつ?」

涼介は立ち上がると、俺の投げ捨てた本を拾い上げた。

「ホント、うっとうしいんだけど、まぁ勘弁してやるよ。お前、友達いなさそうだし」

「友達?」

「え、いるの?」

俺は首を横にふる。

友達って、なんだ。

後で調べよう。
「これで本当に金もらったりなんかしたら、マジで違う話になっちゃうから、金はなしね。その代わり、俺もそれなりの相手しかしないけど、それでもいい?」

涼介は、少し伏し目がちにそう言った。

言いたいことは果てしなくあるが、これで契約がとれるなら、それでもいい。

俺は契約書を取り出す。

その紙とペンを前に、涼介はまたため息をついた。

「契約文化なのね。それは理解するけど、納得はできない」

「どういうことだ」

「義務にはしない」

「俺には義務なの!」

「義務じゃない、ふざけんな」

「ふざけてない!」

涼介は眉間にしわを寄せた額を、ゴツンと俺にぶつけた。

「オイ、コラ、いい加減にしろよ、この腐れ外道め」

「悪魔にとっちゃあ、最高のほめ言葉だな」

ぐりぐりと押しつけられる額に、俺も負けずに押し返す。

「ワケも分からず、保証人になるな、契約書にサインするなっていう、日本人の常識をしらんのか?」

「だから俺は、悪魔だっつってんだろーが」

「アラブの大富豪の設定はどうした?」

涼介の手が、俺の耳をつまみ引っ張りあげる。

「他に友達いないんだろ? だから適当な相手を選んで金で釣ろうってんだろうが。そういうの、みっともないからやめろ」

「そんなつもりはねぇよ!」

俺は涼介の耳を、同じようにひっぱりあげようとして、やめた。

「素直にそう言えば、考えてやらんこともないけどな。お前には無理だな」

「契約書が必要だ」

引っ張られてる耳が痛い。

だけど、俺にはそれを振り払うことが出来ない。

「その手を離せ」

涼介は、引っ張る手はそのままに、額を俺から離した。

そのままじっと俺を見ている。

「なんだよ。嫌なら抵抗すればいいじゃないか」

「やかましいわ」

涼介の目が、俺を見下ろす。

涼介の手が、もう片方の耳をつまんで引っ張った。

それを離したかと思うと、今度は頭に手を置き、ぐちゃぐちゃと髪をかき乱す。

俺は涼介にされるがまま、じっと耐えている。

「……。くだらねぇ」

涼介はため息をついて、手を離した。

乱れた髪を急いで直す。

つままれた耳が痛い。

「やっぱもう、お前とはしゃべんない。俺にも話しかけんな」

「なんでだよ!」

「うるせー、いま話しかけんなっつったろ」

涼介は机の下から教科書を取り出した。

「授業、始まるぞ」

チャイムが鳴る。

どれだけにらみつけても、涼介は完全に俺を無視している。

その真横では、俺によって席を奪われている女が、困ったような顔で立っていた。

俺は舌打ちして立ち上がると、教室を出る。
授業中という時間だけは、人間どもは全て教室の中に収まるので、気分がよかった。

俺はようやく歩きやすくなった、殺風景な廊下を歩く。

仕切られた小部屋にぎゅうぎゅうに押し込められた人間どもは、まるで養豚場の豚みたいだ。

俺は絶対にこいつらの仲間にはなりたくないし、同じように扱われるつもりもない。

俺は人間じゃない。

次の休み時間まで、どうやって時間を潰そうかと考えていたら、目の前に一人の男子学生が立ちふさがった。

「お前か。生意気な転校生ってのは。ちょっと顔かせよ」

目と目が合う。

こいつからは、魔界の住人と似たような臭いがする。

「この俺に向かって顔をかせとは、どういうことだ。お前らごときに、いちいち呼び出される筋合いはない」

その瞬間、男は振り上げた拳を俺に向かって振り下ろした。

それをスッと避けてやったのに、男は飽きもせず殴りかかってくる。

あまりにもしつこいので、俺は次にこの男が足を置くであろう箇所に、先に自分の足を置いた。

「うわぁ!」

想定通り、滑って床に転げ落ちる。

「くそっ、つまんねぇことしやがって」

悪魔は人間に、直接物理的な接触をすることは出来ない。

人間の方から触れてくる分には触れられるのだが、悪魔の方から手を出しても、それには触れられない。

悪魔によって人間が殲滅されないように、この世界にかけられた天界からの呪いだ。

だから俺は、涼介にも、この男にも、自分から直接触れることは出来ない。

「そうだ。お前の望みを何か一つ叶えてやろう。その代わり、少し手伝ってくれないか」

「うるせぇ、誰がお前のいうことなんか聞くか!」

男の拳が、振り下ろされる。俺はそれを片腕で受け止めた。

「カネなら、いくらでも出そう」

動きが止まる。俺が見上げると、男はにやりと笑った。

「そうか、じゃあいいだろう」

そんな制約のおかげで、だから悪魔は、人間の魂を奪うために、こんな回りくどいことをしなければならない。

神に最もよく似た形に作られたという、特別に愛された生き物だ。

男は俺の胸ぐらをつかむと、強く引きあげる。

「じゃあとりあえず、10万払ってもらおうか」

彼の望み通り、俺はそれを鼻先に叩きつけた。

これが最も神によく似た生き物か。

笑わせる。

だから悪魔は皮肉もこめて、自らの姿も人の形に似せる。

つかんでいた制服を放すと、少年はあっけに取られたようにして、それを受け取った。
「こっちだ」

涼介のいる教室の前まで戻って、廊下からのぞき込む。

等間隔に並んだ人間どもは、驚いたようにこっちを振り返った。

「あいつだ。あいつをこの校舎の屋上までつれてこい。今すぐだ」

「え? あいつを今? 授業中だぞ」

涼介の目が、順番に男と俺を見比べる。

「今すぐと言ったら、今すぐだ」

教師が何かを叫んでいる。

俺はそれを無視して歩き出し、階段を上った。

屋上へと繋がる扉には、鍵がかかっている。

驚くほど単純な鍵だ。

それを破壊すると、俺は外に出た。

錆び付いたような扉を開けると、サッと外気が流れ込む。

長い間、誰も足を踏み入れていなかったであろうその場所は、水垢のような苔が所々にはりつき、ひび割れ黒ずんでいる。

周囲には高いフェンスが張り巡らされていたが、それもすっかりボロボロだ。

腰を下ろす場所さえないことに、俺はうんざりとする。

今度はあいつに、椅子を持ってこさせよう。

そう思っていた俺の目の前に、一匹の蝶が羽ばたいた。

手を伸ばすと、その黒く美しい蝶は、指先に留まる。

『魔界の王子に祝福を』

この辺りに潜む、下級妖魔の使いか。

ふっと笑うと、すぐにその蝶は飛び上がった。

「いずれ、役立つこともあるであろう」

なんとなく、父さんのマネをしてそう言ってみる。

俺ってやっぱかっこいい。

ちょっとだけ、偉くなった気分だ。

俺は満足して後ろを振り返った。

すぐにと言ったのに、本当にすぐにはやってこない。

これだから人間というのはアテにならないんだ。

俺は一つあくびをすると、そこに寝転がった。
どれくらい時間が経っていたのだろう。

チャイムが鳴って、急に校内が騒がしくなる。

気がつけば俺はいつの間にか眠っていて、日はすっかり西に傾き始めていた。

チッと舌をならす。

あの野郎、裏切りやがったな。

結局涼介を連れてなんて、来てないじゃないか。

ガチャリと扉が開く。

何かをわぁわぁと騒ぎながら、その人間はようやく涼介を俺の前に連れてきた。

「遅い」

「悪かったよ。だけど、さすがにさぁ! 授業中にいきなりってのは……」

「当たり前だろーが、バーカ!」

涼介が叫ぶ。

「なんでもテメーの思い通りになると思うなよ!」

俺は、ぎゃあぎゃあわめき続ける涼介を無視して、もう一人の人間をにらみつける。

さらに5万をポケットから取り出した。

「また頼む」

彼の目は、じっとそれを凝視していたが、やがてそこに手を伸ばした。

ちょろいな。

これが人間の普通だ。

俺から受け取った金を、自分の懐にねじ込む。

「おい!」

涼介はまた叫んだ。

「山下さん、そんなもんに手ぇ出してんじゃねぇよ!」

「うるせー。てめぇには関係ねぇだろ」

「お前もなんだ、マジシャンか、なんでそんなにカネ持ってんだよ、絶対ぇおかしいだろ。こんなことして、どうするつもりだ!」

そんな批難がましい目で俺をにらみつけても、俺は何一つ強制はしていない。

全てはこの人間の、自由意思だ。

「これが普通なんだよ。おい、お前。涼介の頭を押さえつけろ」

「え?」

俺にそう言われて、男はたじろんだ。

「追加のカネを受け取っただろう。動け」

「先輩、もうやめましょう。俺がここに来たのは、先輩に頼まれたからっすよ。そんなことを、先輩がする必要はない」

男が迷ったように、俺を振り返る。

「やれ」

「悪いな涼介、ちょっと大人しくしておいてくれ」

男の手伸びてくるのを、涼介は振り払った。

ギロリとにらみつける涼介に、男は手が出せないでいる。

「なんだよ、情けないな。それくらいのことも出来ないのか」

「だったら、お前が自分で俺を押さえつければいいだろう」

「ふん、誰がそんな汚い頭に触るもんか」

涼介の拳が、ぐっと握られた。

俺はそれを鼻で笑う。

そうだよ、怒れ。

そうすればお前は、俺に従わざるをえなくなる。

山下と呼ばれた男の手が、涼介に伸びた。

その拳で殴り返すのかと思ったら、山下の腕をとり床に組み伏せる。

痛がる男に、涼介はすぐに手を離した。

「何やってんだよ、さっさとしろ」

「獅子丸、お前の目的はなんだ。まずはそれをはっきりさせろ!」

「もうとっくに、お前には伝えてあるはずだ」

あごを動かし、男に指図する。

涼介の背後から抱きついた男は、簡単に前に投げ出された。

全く、役立たずとは、このことだ。

俺は仕方なく、涼介の足元の重力を変化させた。

突然身動き出来なくなった足に、涼介は慌てふためいている。

いま奴の両足は、強力に吸い付けられているはずだ。

人間に直接は触れられなくても、本当はさほど困りはしない。
俺の命令に従って、男は涼介の首に腕を回した。

今度ばかりはうまくいく。

ヘッドロックで固めた涼介の頭頂部を、山下は俺に差し出した。

「ほら、押さえ込んだぞ」

暴れたおす涼介を押さえ込むのに苦労していたが、問題はそこじゃない。

「そうじゃない、向きが違うだろ」

「向き?」

「後ろだ、後ろ!」

涼介が暴れるお陰で、矢はさらに深く食い込んでいる。

もう、本当に気が利かない。

「後ろって、どう後ろ向けんだよ!」

「頭の後ろ!」

「はぁ?」

男が腕を緩めた瞬間、涼介はそこから抜け出した。

「俺の後頭部がなんなんだよ!」

「こいつを押さえつけろ!」

「お前が素直に言うことを聞け!」

その言葉に、俺は立ち止まった。

「どういうことだ」

「これが俺とお前の問題なんだったら、先輩を巻き込むな」

「後ろを向け」

「足が動かない」

俺は魔法を解く。

動けるようになった涼介は、舌打ちの後で意外にも素直に後ろを向いた。

なんだよ、なんで今、俺の言うとおりにした?

「このバカがなんか余計なことをしそうになったら、すぐに教えて下さいよ!」

ようやく矢の刺さった頭が、俺の前に差し出された。

そこにそっと手を伸ばすと、俺の手は涼介の後頭部を透過する。

「えっ? ちょっ、……なに?」

それを横でみていた男は、変な声をあげた。

「え? なに? 山下さん、コイツ何してんの?」

「いいから黙ってろ。ヘンに動くな」

俺は涼介の頭部に手を突っ込むと、ゆっくりとその矢を引き抜く。

「これでいい」

抜いた父さんの矢は、すぐに粉砕しておく。

こんな魔力の強い矢を人間界に放置しておけば、どんな面倒が起きるか分からない。

「お、お前、何者だ!」

カネで簡単に操れるような人間に、名乗る名前などない。

俺は涼介に向き直った。

「今日のところは、これでお終いにしておいてやる。俺から逃れられると思うなよ」

涼介と目が合う。

俺は、今度はその顔を直視することが出来なかった。

「テメー、おいコラ、ちょっと待て、話しが終わってねーぞ!」

俺は背を向けると、その場から姿を消した。
魔界の屋敷に戻った俺は、涼介のぶよぶよとした脳に触れた感触が、まだ残る手を見つめている。

俺はそれを、開いたり閉じたりしながら、じっと見ている。

あいつの脳に触れたことで、記憶の一部が知れた。

「おかえりなさいませ」

俺とサランしかいない広大な屋敷で、サランは俺を出迎える。

「矢は上手く抜けましたか?」

「あぁ、それはなんとか」

見上げると、サランはいつものようにそっと微笑む。

俺はその変わらぬ微笑みに、昔からずっと、癒やされもすれば、傷つきもしていたんだったな。

サランからは、何も読み取れない。

それがいいのか悪かったのかも、俺はいまだに判断できずにいる。

「父さんは?」

ふとそう言っておいてから、俺は自分で自分が恥ずかしくなった。

「……。この世界の、どこかにおいでですよ」

「いや、いいんだ」

父の気配など、探せばすぐに分かった。

いつも遠くから見ることは許されても、自分から話しかけることは許されない。

俺が近寄ろうとすれば、そばに控える魔物たちが立ちふさがった。

「少し、調べ物をしてから寝るよ」

「かしこまりました」

薄暗い廊下を、図書室に向かって歩く。

その部屋には魔界中から集められた魔道書が、部屋全体を埋め尽くす棚に、びっしりと詰め込まれていた。

俺は幼い時から、この部屋で一番多くの時間を過ごした。

嫌な事も辛いことも怒りさえも、ここに一人で立てこもってやり過ごした。

本のページを開けば、その間だけは何もかも忘れられた。

そういえば、涼介も本を読んでいたな。

俺はつい数時間前に、奴から取り上げて放り投げた本のことを思い出した。

何を読んでいたんだろう。

月明かりに照らされた、書架の一冊に目をとめる。

この魔法書のページを開けば、読みたい本の中身を簡単に写し出すことができる。

あの涼介が読んでいた本の中身も……。

俺はその背表紙に指をかけ、すぐに元に戻した。

人間の読むようなくだらない本など、俺が気にするまでもない。

ましてや攻略すべき対象である涼介に、同調してどうする。

あいつの読んでいた本を知ったところで、なんの役にも立たないだろう。

俺はアイツを支配するのだ。

「人間の心を操るもの」いま必要な能力は、これだ。

俺はそれに関する魔界の研究書数冊を手にとると、寝室へと引き上げる。

持ってきた数冊の本をベッドに投げ出すと、俺はそこにごろりと横になった。

人間界の空気は、ここより少し濁っていて、少し息苦しい。

にぎやかで騒がしくて、住み慣れたこの静かな屋敷とは、大違いだ。

どうして父さんは、人間なんかから俺を作る気になったんだろう。

ふとそんなことが、頭をよぎる。

いつもは考えないようにしていることを、つい考えてしまう。

俺は、悪魔なのに。