父さんの放った矢に導かれるままに、俺はそこへ向かっていた。
撃たれた矢は、どこまでも虚空を駆け抜ける。
それを追いかけて、ここまでやってきた。
魔界のゲートを抜け、人間界へ突入する。
暮れかけた太陽が、大きく西に傾いていた。
修行中の身だ。
ある程度の不便は仕方がない。
眼下にどこまでも広がる人間の街に、俺はいささかうんざりしはじめていた。
こいつらの欲望のエネルギーは、計り知れない。
人間は信用のならない、恐ろしい生き物だと、悪魔たちですらそう罵る。
俺はこの人間界で、どこまで連れて行かれようとしているのか
そろそろ飛ぶのにも、飽きた。
そう思ったとたん、ついにその矢は失速し、吸い込まれるように一軒の家に消えた。
これが俺の、初めてのターゲットということか。
面倒くさいが、これを片付けないことには、家にもまともに帰れない。
「やぁ、どうも。こんにちは」
俺は二階の窓をすりぬけ、そこに侵入した。
小さな古びた一軒家だ。
同じような形の家が、ぴっちり並んでいる一角。
六畳一間程度の、狭い部屋に置かれた勉強机に、そいつは座ったまま、動けずにいた。
「驚いてくれてありがとう。悪いが俺も、さっさと用事を済ませて帰りたいんだ。素直にいうことを聞いてくれるか?」
男か。
驚いた顔であんぐりと大きな口を開け、完全に固まっている。
俺はそれに構わず続けた。
「これにサインしてくれれば、それでいい。俺とお前の、契約書だ」
悪魔の契約書を、彼の目の前に置く。
そいつは、ようやく頭だけをその方向に動かした。
見た目で怖がらせないようにと、この周辺に生息している人間の身体的特徴に合わせ、黒髪と黒目に変身し、さらに外見も、ほどよく整えたつもりだったのだが……。
俺は目の前の、十代と思われるまだ若い人間を見下ろした。
少し伸びすぎた真っ直ぐな明るめ髪に、細く小さな目。
背は俺より少し高いくらいで、体つきは悪くはない。
相手が男だったのなら、俺は男ではなく、女の姿で来ればよかったかなと、少し後悔する。
身長は……、まぁ、いいや。
そのあたりが、まだ気が利かないというか、手際の悪さを指摘されるところだ。
「男が嫌なら、女にでも変身しようか?」
「いや、そのままで結構」
ようやく口を開いたが、そいつはずっと視線を俺に合わせたまま、時折契約書をチラ見するくらいで、動こうとはしない。
俺はため息をついて、部屋の中を振り返った。
学生鞄らしきものを見つけて、中を探り始める。
生徒手帳を見つけた。
「山手台高校2年A組、樋口涼介か」
「勝手に人の物を見るな!」
「悪魔にそんな倫理観を求める方が、間違っているとは思わないか?」
俺は能力を使って、部屋中をひっくり返した。
漫画雑誌に参考書、性癖も趣味も、特に変わったことはない、ごくごく普通の平凡な男子高校生だ。
楽勝だな。
涼介は一瞬にして散らかされた部屋を見て、慌てたようだった。
「やめろ! どうしてそんなことをするんだ!」
「じゃあ、それにサインしてもらおうか」
俺は、机に置かれた契約書をもう一度指差した。
「お前は俺と契約し、何でも望みを叶えてもらう。俺はお前が死んだら、魂をもらう」
「魂をもらう?」
「そうだ」
「なんだよそれ、俺はもうすぐ、死ぬってこと?」
「いや、寿命に関する情報は、重要な個人情報にあたるので、いくら悪魔といえども、そう簡単には手に入らない」
「悪魔、個人情報」
「天界の奴らが管理してる。その情報が流出すれば、もうすぐ死ぬと分かってる奴を洗い出せるからな。手早く簡単に魂集めができるんだ」
「魂集め」
涼介は視線を契約書に戻した。
「悪い話しではないだろう。俺と契約を交わしたところで、お前は何の不自由もなく生活できる。いつ来るか分からない命日まで、全てが思い通りだ。なんなら、寿命だって半年くらいなら伸ばすこともできる」
涼介はため息をついて、腕組みした。
「お前、頭おかしいんじゃないか? どこぶつけた」
「おかしくはない。あまり慣れたような口をきくな」
「ひとんちにいきなり入ってきて、それはないだろう」
涼介の態度に、俺は口をつぐんだ。
魔界では俺に対して、こんな口のきき方をするような奴はいない。
「靴。まず靴を脱げ」
そう言われたので、素直に靴を脱ぐ。
「これはどうしたらいいんだ?」
「外に置く!」
俺は脱いだ靴を、二階の窓から屋根の上に置いた。
「これでいいのか? じゃ、契約してくれ」
「やだね」
立ち上がってみたら、結構背が高い。
しまった。
もうちょっと俺の身長を、高めに設定しておけばよかった。
「帰れ」
「サインしてくれれば帰る」
そうやって、じっとにらまれるように見下ろされても、動じるような俺ではない。
「俺と契約すれば、お前の望みは何でも叶う。なんなら寿命だって、半年くらいなら伸ばせる」
「半年……」
「そう。で、全てが思い通りだ。何でも叶えてやるぞ」
涼介は、ふっと視線を横に外した。
「で、その代償はどうなるんだ?」
は? コイツ、単なるバカではないようだ。
「別に。死んだら魂が地獄に落ちるというだけだ。落ちる魂の数だけ、魔界の力が増強される。いわば……、そうだな、人間界における太陽エネルギーを集めているようなものなんだ」
涼介は眉間にしわを寄せ、顔を上げた。
「太陽エネルギー、なんだそれ」
「魔界の、俺たち悪魔の力の糧となる」
彼は難しい顔をして首をひねった。
何を考えることがある。
「どうせ死んだら、人間はお終いだ。魂が天国に行こうと地獄に行こうと、肉体も精神も奪われているから、関係ない。何の苦痛もなければ、意思もない。要するに、死後それがどうなろうと、お前は全くの無関係ということだ。だったら生きている間に、この人間界で自由を謳歌し、思い通りに生きた方がよくないか?」
「まぁ、それはそうなんだけどな」
「お前は俺に命令して、何でも望みを叶えてもらう。寿命がきて死んだら、俺は生前、お前の望みを叶えてやったお礼として、魂をもらう。お前にかかる負担は何もない。ノーリスクハイリターンだ。迷うことなど、何もないだろう」
「なんか、よくある悪徳商法みたいな宣伝文句じゃねぇか」
「悪魔だからな。当たり前だ」
「だったら、やっぱ何か騙そうとしてるんじゃねぇか?」
「悪魔の契約を、下衆な人間どもと一緒にするな」
「悪魔なんだろ?」
「悪魔だよ」
「じゃ、いいです。お引き取りください」
「なんでだよ!」
突き返された未契約の書類を、俺はそう簡単に受け取るわけにはいかない。
「結構ですので、他をあたって下さい」
「いや、こんなおいしい話しを他にふる奴なんか、いねぇだろ」
「いらねぇっつってんだ。よそでやれ」
涼介は、契約書を突き返す。
「ほら、受け取れ、なんだよ、さっさと受け取れよ」
「あ、あぁ。うん。それはちょっと……」
本来なら、さっさとそうしたいところだが、親父の矢がコイツの頭に刺さっている以上、俺はコイツと契約を取らなければ、息子として、偉大なる悪魔公爵家の跡取り息子として、認められない。
「俺はお前と契約しなければならない理由があるんだ」
「やっぱ何か裏があるし!」
涼介はそれを俺の胸に押しつけると、追い払うように手を振った。
「もういいから帰って。お疲れさまでした。他に需要はあると思うので、そっちの方に行ってください」
「帰ってほしけりゃ契約しろ! それがお前の望みなら、契約後に俺はお前の目の前から姿を消す! 二度とここへは来ない!」
涼介は小さな金属板を取り出した。
その光る板の表面を指でなぞる。
「えぇっと、こういう場合は不法侵入で、警察に連絡すればいいのかなぁ」
「連絡するな!」
「じゃあ出て行け!」
大きな声を出すと、涼介は人間のくせにそれなりの迫力がある。
俺は一歩も引く気のない構えで、奴を見上げた。
「おい、どこの誰だか知らねぇが、いきなり窓から入ってきて、なんなんだよ、さっさと帰れよ」
くっそ。
どうしてこうも面倒な奴の頭に、矢が刺さってんだ。
その後頭部に突き刺さった金の矢が、何よりも憎らしい。
しかたない。
作戦をちゃんと練り直してから出直しだ。
「まぁいい。時間はたっぷりあるからな。俺はお前と契約するまでは、どうせ帰れないんだ。いずれお前の方から、サインさせてくれと懇願するようになるのは、分かっている」
「うるせー、お前なんか誰が信じられっかよ、さっさと帰れ」
「なんだと?」
いい加減、俺だって我慢の限界だ。
たかだか人間ごときに、こんなデカい態度をとられる筋合いはない。
「俺が大人しく頼んでいる間に、決着をつけといた方がいいぞ。じゃないと、お前は本当に大変な目にあうことになる」
俺は、悪魔だ。
しかも、ただの悪魔なんかじゃない。
強力な魔力を有する、魔界公爵の息子だ。
「お前が本当に信じられないというのなら、今からそれを見せてやろう」
空中に、魔方陣を描く。
さて、どんな魔法でこいつをビビらせてやろうか。
「はー、めんどくせぇのが来ちゃったなぁ」
涼介は頭をぼりぼりと掻いてから、机の上に広げてあった参考書を閉じると、トントンと机に打ち付けてから、本棚に戻した。
「あのさぁ、お祓いとかしてあげちゃったらいいわけ? なに、塩? とりあえず塩撒くとか?」
「撒くな!」
「あ、やっぱ塩苦手なんだ」
「違う!」
こいつは、俺を何だと思ってるんだ!
「悪魔に塩は通用しない!」
「あぁ、ゴメンゴメン、じゃ、にんにくか? いやぁ~悪いんだけどさぁ、今うちに生のにんにくないんだよね、日を改めてもらえないかな。そん時にはちゃんとつき合ってやっから」
「にんにくも無効!」
涼介の目が、冷たく俺をにらむ。
「あのさぁ、実は俺、本当は知らない人と遊ぶ趣味ないんだよね。ほら、君さ、悪魔なんでしょ、さっさと帰りなさいよ。あ、それとも、もしかして迷子?」
涼介の手が、俺の背中に触れた。
追い出そうとして、背中を押される。
初めて人間に触れられた感触が、服の上からでも伝わってきた。
「俺に触るな」
初めての感触に、ドキドキする。
涼介は、ぱっと手を離した。
「なに? 悪魔にも、パーソナルスペースとかあるわけ?」
「なにそれ」
俺はとっさにメモを取り出した。
「人間の生態について、勉強中なんだ」
「そこはキャラ守ろうよ」
書き留める俺を見ながら、涼介は大きなため息をつく。
「えっと、あのさぁ、もうすぐ夕飯の用意をしないといけないんだよね。迷惑なんで、帰ってもらえます?」
「だから、契約してくれれば帰るって」
俺はペンと契約書を突きつける。
涼介はなにも言わず、くるりと背を向けた。
そのまま部屋を出て、階段を下りる。
「おい、こら、どこへ行く!」
俺はあっけにとられたまま、後を追いかけた。