「どうするか、考えてくれた?」
 やはり打ち合わせは口実で、本題は引き抜きの話だった。
最近は上村とのことがあって気が塞いでしまって、岩井田さんからの飲みの誘いも断わってばかりいた。そうこうしているうちに、タイムリミットが迫ってしまったんだろう。岩井田さんにいつものような余裕がないような気がして、思わず視線を逸らした。
 たとえ何度訊かれても、答えは決まっている。容態の安定しない母を抱えての転職は、私にはどうしても不安だった。
「岩井田さん、せっかく声をかけてくださったのにごめんなさい。やっぱり私……」
「どうしてもダメなの?」
 私が言い終わらないうちに、岩井田さんはもう一度念を押す。
「はい。母のことがある以上、やはりここを辞めるわけには……」
「……三谷さん、僕は!」
「い、岩井田さん!?」
 強い力で、右の手首を掴まれた。飲みかけのコーヒーの缶が、大きな音を立てて床に落ちる。
「君は、本当は誰のためにここにいるの? お母さんのためって言ってるけど、それは君の本心?」
「それは……どういう意味ですか?」
「君は、本当は……」
「岩井田さん……痛い。離して下さい!!」
「うわっ!」
 手首を圧迫する痛みに我慢できず、私は思いっきり腕を引いた。不意をつかれた岩井田さんがバランスを崩して、私に覆いかぶさってきた。
「やっ……」
「三谷さーん、ここですかあ?」
 突然壁の向こうから聞こえてきた声に、体が竦んだ。
「美奈子……」
 重なるようにベンチに倒れ込む私と岩井田さんの前に、なぜか外食部の美奈子が立っていた。私たちの姿を見て、言葉を失っている。
 私の顔の横に両手を突き、顔だけを美奈子に向け固まっている岩井田さんを押しのけると、私は今にも立ち去ろうとする美奈子の制服の裾を掴んだ。
「違うの美奈子!」
 美奈子は私の声に振り向くと、私と岩井田さんの顔を見比べるようにして、ひどく冷静な声で答えた。
「お取込み中、大変失礼いたしました。……出直します」
 そう言って私と岩井田さんに一礼すると、くるりと踵を返す。
「ちょっと、待ってったら! ねえ、美奈子!?」
 美奈子は必死で呼び止める私を振り返りもせずに、足早に去っていった。
「す、すみません三谷さん。大丈夫ですか?」
 岩井田さんは何とかベンチから立ち上がると、私に声をかけた。こんなところを女子社員に見られてしまって動揺しているのか、眼鏡がズレているのにも気付いていない。