グレープフルーツを食べなさい

「店長がいいって言ってんだから、何も買い取る必要なかったんじゃないの?」
「私が全部落としたんだもん。そんなのダメよ」
「ホントにクソ真面目だよね。それにしても、会社じゃしっかりして見えるけど、先輩って案外抜けてるよね」
「うるさいわね! その話はもう止めにしてったら」
「相良たちに話したら、あいつら大喜びで言いふらすんじゃねえ?」
「いい加減にしないと、これ食べさせないわよ」
 面白がって、いつまでもからかうことを止めない上村に腹を立てた私は、揚げたてのエビフライの山を指差した。レモンの代わりにお皿に添えるのは、もちろんくし切りにしたグレープフルーツだ。
「わかったから、菜箸振り回すなって。でもどうすんですか、こんなにたくさんのグレープフルーツ」
「全部食べるわよ。食べるに決まってるでしょう?」
 冷蔵庫に入りきらなくて、スーパーの袋に入れたまま床に置いたたくさんのグレープフルーツを指差して、上村がまた小ばかにしたように笑う。
 結局私は、傷物になったグレープフルーツを全て買い取った。今日からしばらくは毎食グレープフルーツだ。大丈夫よ、こんなに美味しいんだもの。これくらい、別にどうってことない。
「俺がまた食べに来てあげますよ。なんなら毎日来てあげようか?」
「結構よ」
いつまでたってもクスクス笑いを止めない上村を、私は半ば本気で睨みつけた。
 そうよ、元はと言えばこうなったのは上村のせいじゃない。
上村がうちにグレープフルーツを持って来るようにならなければ、私だってあの棚の前で立ち止まったりしなかった。グレープフルーツなんて買おうと思わなければ、こんなにたくさんのグレープフルーツを傷物にしなくてすんだはず。
私は、思わず上村に八つ当たりしてしまいそうになるのをぐっと堪えた。
 でもさっきの事件のおかげで、先週からずっと続いていた上村との間の気まずい空気は消えていた。……私はむしろ、今日我が家にやって来たグレープフルーツたちに感謝するべきなのかもしれない。
                                  
「先輩ってコーヒー淹れるのもうまいよね。詳しいの?」
「全然。使ってるのも普通のコーヒーよ。スーパーで買えるやつ」
 食事を終え、二人で食後のコーヒーを飲んでいた。お腹が満たされて落ち着いたのか、上村の表情もリラックスしている。
「お茶もうまいし、コーヒーもうまい。満足にお茶一つ入れられない女子社員たちに、講習会でもしてあげれば?」
「どうして私が。上村だっておいしいお茶淹れられるじゃない。上村こそ講習会やれば? みんな喜んで参加するわよ」
「やだよ、面倒くさい」
「何よ、それ」
 自分が面倒くさいって思っていることを、どうして私にやれだなんて言うのだろう。あんまりな言い草に、つい吹き出してしまう。
「そういえばさ、上村ってどこでお茶の入れ方を習ったの? 女の子でもちゃんとした手順を知らない人も多いのに」
 実はずっと、不思議に思っていた。上村はお茶の入れ方だけでなく、急須や湯呑みを熱湯で温めるところから知っていた。一体誰に教わったのだろう。
「……母親が、そういうのうるさくて。家でやらされてただけですよ」
「へえ……そうなんだ」
 今初めて、上村から家族のことを話してくれた。それとなく話題を振ってみようか。――ご家族のこと、私にも話してくれるだろうか?
「上村のお母さんって厳しい方なの?」
「いえ、全然。普段は温厚なんだけど、躾となると厳しかったって感じかな。うちの母親あんまり家に居なくて、俺が家事を手伝うことが多かったから、どうせやるならちゃんと覚えろってとことん仕込まれた」
「いいお母さんじゃない」
「まあ……そうですね」
上村の表情が柔らかくなった。やっぱりお母さんのこと、好きだったんだな。
 ……これは、祥子さんに言われたことを話してみるチャンスなんじゃないだろうか?
余計なお節介だと言われるのも覚悟して、ついに私は声を出した。
「上村あのさ、上村のお母さんって亡くなってるのよね?」
「……は?」
「実は……この前、母の病院で祥子さんに会ったの。土井祥子さん、……上村の叔母さんなのよね?」
 再び祥子さんの名前が私の口から出たことに驚いたのか、上村はコーヒーカップを口に運びながら眉間にしわを寄せた。不機嫌さを隠そうともしない。
ほんの数秒で、それまでの和やかな雰囲気は一変してしまった。

「先輩、祥子さんに会ったんだ……へえ」
 握っていたカップを静かにテーブルに置くと、上村は私を見て微笑んだ。
目が、笑っていない。上村の瞳の中に、静かな怒りの炎がちらついた気がした。
「それで、何か言われたんですか? あいつは親不孝者だから気をつけろとか?」
「違う、祥子さんがそんなこと言うわけないじゃない! 上村ならわかるでしょう?」
「それじゃあ、一体何なんですか。第一、祥子さんがどうして先輩のこと知ってんの」
「それは、祥子さんがたまたま病院で私と上村が一緒にいるところを見かけたらしくって。その、私のことを上村の恋人だと勘違いしたらしくて……」
 私がそう言った途端に、上村はきつく眉根を寄せた。
「……へえ、一回寝ただけで恋人気取り? 先輩も、案外つまんないね」
 吐き捨てるように、上村が言う。胸がズキリと痛んだ。決して期待をしていたわけじゃないけれど、今の私には、やはりきつい。
「違うよ。それは誤解だってちゃんと説明した」
「じゃあ、何? 二人して一体俺に何がしたいわけ?」
「……上村、お母さんが亡くなってることどうして私に言ってくれなかったの?」
「そんなの、別に自分から言いふらすようなことでもないだろ」
「それはっ、そうだけど……。気を遣ってくれたんじゃないの? 私の母が病気を抱えているから……」
 それは、一縷の望みだった。私に黙っていたのは上村なりの優しさだと、そう信じたかった。だけど、返ってきた上村の声も視線も全て、今まで感じたことがないほどに冷たいものだった。
「別に。俺そんなにいい奴じゃないよ。先輩は知ってると思ってたけど」
「そんな、上村本当は優しいじゃない。どうして隠そうとするの?」
「……あんたホントにおめでたいな。何? 寝たら俺に情でも湧いた?」
 上村の、私を蔑むような視線に背筋が粟立つ。どうしたら? どう言えば私は上村の心を開くことができる?
「……そんなんじゃないよ。でも上村も苦しんでるんじゃないの? 私、見てられないんだよ。祥子さんだってそう。祥子さん上村のこと本当に心配してるよ。家族と……直人くんとちゃんと仲直りして欲しいって。このままでいいはずないって」
「祥子さん、そんなことまであんたに話してんのか。……ったく、何考えてんだよ」
「なんとか二人に仲直りして欲しいんだよ。一度くらい話してみたら――」
「悪いけど」
 上村の低く搾り出すような声に息を飲んだ。表情は変わらないのに、上村の静かな怒りの感情が矢のように突き刺さってくる。
「二度と俺のことに首突っ込まないで、先輩」
「あ……」
 ああ、まただ。またあの夜と同じ。上村は振り返ることもなくこの部屋を去って行く。
「待って上村っ……ごめん、ごめんなさい……」
 最後の私の声が、上村に届いたかどうかはわからない。
大きな音を立てて玄関のドアが閉まり、私はまたこの一人の部屋に取り残された。
 たぶんもう二度と、上村がこの部屋に来ることはないだろう。
頑丈なドアに私と上村が永遠に隔てられたような気がして、胸が締め付けられる。
 その時、玄関ドアの前にうずくまる私の足先に何かが触れた。
キッチンの床にそのままにしていたグレープフルーツが、まるで私を追いかけるようにここまで転がってきていた。
 ……それは、まるで呪縛のようで。
ビニール袋から溢れて、床を埋め尽くすように転がるたくさんの黄色い果実から私は目を離すことができなかった。


 昨夜遅くに振り出した雨が、朝になっても降りやまない。
9月に入ったとはいえ、まだまだ暑い日が続いている。
こんな朝のバスは、湿気と人いきれで満ちていて最悪だ。ようやくバスから降りて、私は一息に外の空気を吸い込んだ。
 あれから、上村とは一言も言葉を交わしていない。
職場では目も合わさないし、上村が給湯室までお茶をせがみに来ることももうない。
もちろん、部屋まで押しかけてくることも。
 ――元の生活に戻っただけなのに。
毎日会社に通い、母の様子を見て、一人の家に帰る。そうやって、毎日を過ごしていたはずなのに。
上村の不在が、この胸にぽっかりと大きな穴を開けた。そしてその穴は、当分埋まりそうになかった。
「あ……」
 数メートル先に、紺色の傘を差して歩く背の高い後姿を見つけた。
広い肩、少しくせのある髪、傘を持つ大きな手。
一度は近付いたこの距離を、遠ざけたのは私自身だ。私が一番近くにいるのだと、なんの根拠もないのに自惚れていた。
一度開いてしまった距離は、たぶんもう縮まらない。
上村に追いついてしまわないように、私は歩くスピードを少し落した。

「三谷さん、今週の仕事の打ち合わせしたいんだけど、今時間いい?」
 オフィスに着き、パソコンを立ち上げた早々、岩井田さんに声をかけられた。
「はい、大丈夫です」
「ここだと落ち着かないから、ちょっと出ようか」
「……わかりました」
 岩井田さんが場所を変えて話をするなんて、珍しいことだ。彼と組んで3ヶ月近く経つけれど、そんなこと今までに一度もない。
また独立の話だろうか。話も進んでいるだろうし、岩井田さんも焦っているのかもしれない。
デスクの引き出しから手帳を取り出して、先にオアシス部を出た岩井田さんの後を追った。

 岩井田さんは自販機がある休憩コーナーのベンチに腰掛けて、私を待っていた。
「じゃあ、はじめようか」
「はい、お願いします」
 岩井田さんの予定を一つずつ手帳に書き込み、私が担当する書類を確認していく。今週は大きな商談もなく、比較的余裕がありそうだった。
「じゃあ今週もよろしくお願いします。三谷さん、ちょっとコーヒーでも飲もうか」
 岩井田さんは自販機で二つアイスコーヒーを買い、近くのベンチに腰掛けた。
「三谷さんもどうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
 岩井田さんは、私の分の缶のプルタブも開けて手渡してくれた。
彼の気遣い方は、さりげないのに隙がない。そりゃあ女の子に人気があるわけだ、と思ってしまう。
「それで三谷さん、例の話なんだけど……」
 岩井田さんはアイスコーヒーを一口飲むと、やはり独立の話を切り出した。

「どうするか、考えてくれた?」
 やはり打ち合わせは口実で、本題は引き抜きの話だった。
最近は上村とのことがあって気が塞いでしまって、岩井田さんからの飲みの誘いも断わってばかりいた。そうこうしているうちに、タイムリミットが迫ってしまったんだろう。岩井田さんにいつものような余裕がないような気がして、思わず視線を逸らした。
 たとえ何度訊かれても、答えは決まっている。容態の安定しない母を抱えての転職は、私にはどうしても不安だった。
「岩井田さん、せっかく声をかけてくださったのにごめんなさい。やっぱり私……」
「どうしてもダメなの?」
 私が言い終わらないうちに、岩井田さんはもう一度念を押す。
「はい。母のことがある以上、やはりここを辞めるわけには……」
「……三谷さん、僕は!」
「い、岩井田さん!?」
 強い力で、右の手首を掴まれた。飲みかけのコーヒーの缶が、大きな音を立てて床に落ちる。
「君は、本当は誰のためにここにいるの? お母さんのためって言ってるけど、それは君の本心?」
「それは……どういう意味ですか?」
「君は、本当は……」
「岩井田さん……痛い。離して下さい!!」
「うわっ!」
 手首を圧迫する痛みに我慢できず、私は思いっきり腕を引いた。不意をつかれた岩井田さんがバランスを崩して、私に覆いかぶさってきた。
「やっ……」
「三谷さーん、ここですかあ?」
 突然壁の向こうから聞こえてきた声に、体が竦んだ。
「美奈子……」
 重なるようにベンチに倒れ込む私と岩井田さんの前に、なぜか外食部の美奈子が立っていた。私たちの姿を見て、言葉を失っている。
 私の顔の横に両手を突き、顔だけを美奈子に向け固まっている岩井田さんを押しのけると、私は今にも立ち去ろうとする美奈子の制服の裾を掴んだ。
「違うの美奈子!」
 美奈子は私の声に振り向くと、私と岩井田さんの顔を見比べるようにして、ひどく冷静な声で答えた。
「お取込み中、大変失礼いたしました。……出直します」
 そう言って私と岩井田さんに一礼すると、くるりと踵を返す。
「ちょっと、待ってったら! ねえ、美奈子!?」
 美奈子は必死で呼び止める私を振り返りもせずに、足早に去っていった。
「す、すみません三谷さん。大丈夫ですか?」
 岩井田さんは何とかベンチから立ち上がると、私に声をかけた。こんなところを女子社員に見られてしまって動揺しているのか、眼鏡がズレているのにも気付いていない。

「本当にすみません。こんなことをするつもりなんてなかったんです。……軽率でした。彼女に誤解されたりしたら申し訳ない」
 必死に頭を下げる岩井田さんに、私は慌てて両手を振った。
「大丈夫です。これは……事故みたいなものですから。私こそ、ついびっくりして振り払ってしまって。お怪我はないですか?」
「僕は大丈夫」
 何度も頭を下げる岩井田さんをどうにか宥め、私たちはオアシス部へ戻った。おかげで今日一日、岩井田さんともギクシャクして過ごすはめになった。
 それにしても、とんでもないところを美奈子に見られてしまった。美奈子は、このことを言いふらすだろうか。
岩井田さんは女性社員たちから人気があるし、美奈子からすれば、これは私を追いつめる格好の材料のはずだ。
『あのお局が性懲りもなく、今度は岩井田さんに手を出した』とでも美奈子が触れ回れば、私は社内に大勢いる岩井田ファンの女の子を全て敵に回すだろう。そう考えただけで、気が滅入る。
 それに私には、もう一つ気になることがあった。
――美奈子は一体、何をしにここまで来たんだろう?
美奈子のいる外食事業部は5階でフロアも違うし、ここには外食部が用事で訪ねるような部署もない。
 でもあの時確かに、美奈子は私の名前を呼んだ。私に会うために、わざわざこんなところまで来たの? でも、今の部署にいる限り私と美奈子の仕事上の接点は何もないはず。
「まあ何か言いたいことがあるなら、また向こうから来るよね」
 こうして一人であれこれ悩んでても仕方がない。私はもう考えることを放棄して、デスクに積み上げられた書類に手を伸ばした。


 数日後の昼休み。美奈子の様子が気になった私は、響子をランチに誘ってみた。
場所はこの前と同じ。会社から少し離れた、裏通りにあるカフェだ。昔ながらのカフェで、メニューもそんなに多くないせいか、うちの社員と鉢合わせすることはあまりない。
 二人一緒に頼んだ日替わりランチを前に、私は響子に尋ねた。
「ねえ、そういえば最近美奈子ってどうなの?」
「えっ、美奈子ですか? うーん、どうって言われても……」
 響子のこの様子では、岩井田さんとの一件は耳に入っていないようだ。美奈子のことだから、と心配していたのだが、あれから噂が立つようなこともない。いつもなら、私が絡むことなら特に、面白おかしく話を盛って、一番に言い触らすはずなのに。
美奈子が、あの日のことを黙っているだなんて、私には不思議でならなかった。
「そうねぇ、仕事とかどうなの?」
 響子も聞いていないのなら、わざわざ私から言う必要もない。それとなく、話題を美奈子の仕事ぶりに持って行く。
「なんていうか……真面目ですねー。仕事もちゃんとやってるし。むしろ、美奈子のおかげで外食部が回ってるっていうか……」
「へえ、それって凄いことじゃない」
「何があったのかわかんないんですけど、私ちょっと美奈子のこと見直したかも。みんなが嫌がるような地味な入力作業とかも率先してやってるし」
 響子の言う事が本当なら、随分な変わりようだ。以前の美奈子なら、嫌いな作業は他の子に押し付けて、さっさと定時には帰っていた。美奈子にも何か心境の変化があったということだろうか。
「そっか、それならいいんだ」
「すみません三谷さん、いつまでも心配かけて。私がもうちょっとしっかりしてれば、三谷さんにまで余計な心配かけなくてすむのに」
「ちょ、ちょっと、響子まで一体どうしたの?」
 こんなことを言いだすなんて、今までの響子なら考えられなかった。
「んー、なんか悔しいんですよね。美奈子はもう野々村部長にも一目置かれてます。私なんて美奈子と同期なのに、いつまでたってもその他大勢を抜けられない……」
「響子……」
 これは、美奈子の頑張りが他の女子社員たちにまで影響を及ぼしてるということだ。それも、いい方の。
「響子なら大丈夫。今まで通り仕事はきっちりやって、そしてよく営業さんたちのこと見てみて。そうすれば、自然と彼らが私たちに求めてることがわかってくると思う。彼らが動きやすいように先回りしてあげればいいのよ」
「三谷さん、それが一番難しいんですよー」
「大丈夫だって。ほら、デザートごちそうしてあげるから元気出して」
「本当ですか!? じゃあ私、プリンアラモード頼む!」
 もうご機嫌が直ってる。響子って本当に単純だ。でもこんなところが無性にかわいいと思うんだけど。
無邪気に笑う響子を見ていると、なんだか私まで元気が出てきた気がする。
「私もデザート食べようかな。響子メニュー取っ――」
「はい三谷さん、メニュー。……どうかしたんですか?」
 カフェの大きなガラス窓の向こうに、上村がいた。
カフェの中に私がいることに気付いた上村と、一瞬だけ目が合う。でも、すぐに視線は逸らされた。上村の隣に、寄り添うようにして歩く女性がいる。
「あれぇ、あれって上村くんですよね。一緒の人、誰だろ?」
 響子はフロアが違うから、彼女のことを知らないのだ。

「ああ、あれはうちを担当しているコンサルの麻倉さんって人」
 何でもないことのように、彼女の名前を口にした。少しでも私が気にしている素振りをしてはいけない。
だって響子は、他人の恋愛沙汰が好きだから。
「それじゃあ、取引先の人ってことですか?」
「そう。今日あそことの打ち合わせ、予定に入ってたかな」
 それとなく仕事を匂わせてみる。でも、響子には通じなかった。
「でもあの女の人、やけに距離近くないですか?」
「そうかな」
 確かに、そういう風にも見える。まるで、仕事の合間に待ち合わせた恋人同士のようにも。
「やー、どうしよ。ちょっとワクワクしてきちゃいました、私」
「響子ダメよ、憶測でものを言ったりしたら」
 いつも先走る響子をたしなめた。響子に限って、言いふらすようなことはしないと思うけれど。
「もうっ、わかってますよー。確証もないこと言いふらしたりしませんって。
美奈子たちじゃあるまいし。そんなことより、三谷さんデザート決まりました?」
「あー、ごめん……やっぱり私はやめておくわ」
 あの光景を見た途端、デザートなんて食べる気分じゃなくなってしまった。
「えー、ホントですか? 私頼んじゃいますよ。すみません、店員さーん……」
 違う。響子がどうこうじゃない。
私が憶測のままにしておきたいんだ。
あの二人がどんな関係だろうと、今は真実は知りたくない。
 このカフェお手製のプリンが二つものったデザートにはしゃぐ響子を前に、私は一人憂鬱なため息をもらした。
                                  
 それまでは気にならなかったのに、ふとしたことをきっかけに気になって仕方がなくなることってある。
麻倉さんのことがそうだった。
 これまでだって、麻倉さんは打ち合わせでちょくちょくオアシス部に顔を出していた。
彼女はうちの担当なんだから、それは当たり前のこと。
私だって今までは彼女と顔を合わせれば、軽く会話も交わしてきた。
 でも、一度上村と一緒のところを見てしまってからは、彼女の一挙一動が気になって仕方がない。
 今日もあの扉の向こうのミーティング室に彼女がいる。
でも上村は、朝から商談に直行している。
二人一緒のところを見なくてすんで、正直私はホッとしていた。
「三谷さん、岩井田さんの帰社時間ってわかります?」
「あ、今日はね――」
 後輩に話しかけられて、ようやく意識が仕事に戻る。
こんな自分は嫌だ。こんなふうに人を窺ってばかりの自分は。
自分で蒔いた種なのに、息が詰まりそうだった。

「え、明日ですか?」
「うん、空いてないかな」
 定時後、どうしても今日中に確認してもらいたい書類があり、私はデスクでずっと岩井田さんの帰社を待っていた。
 金曜日の午後7時。もうオフィスには私と岩井田さんしかいない。
「この間のお詫びと言ったらあれだけど、食事でもどうかなと思って」
「そんな、お気遣いいただかなくても……」
「それに、明日は仕事の話は一切しない。約束するよ」
 それはつまり、引き抜きの話は無しで、純粋に食事を楽しもうということだ。
 最近は上村とのこともあって、何かと落ち込みがちだった。気分転換にはいいかもしれない。
「……そうですね、行きましょうか!」
「よかった! 前から行ってみたいと思ってた店があるんだ」
 私にも、気晴らしが必要なのかもしれない。岩井田さんとなら、楽しい時間を過ごせそうだと思った。
「楽しみにしてるよ」
「私も楽しみにしてます」
 岩井田さんに、笑顔に頷いた。