昨夜遅くに振り出した雨が、朝になっても降りやまない。
9月に入ったとはいえ、まだまだ暑い日が続いている。
こんな朝のバスは、湿気と人いきれで満ちていて最悪だ。ようやくバスから降りて、私は一息に外の空気を吸い込んだ。
 あれから、上村とは一言も言葉を交わしていない。
職場では目も合わさないし、上村が給湯室までお茶をせがみに来ることももうない。
もちろん、部屋まで押しかけてくることも。
 ――元の生活に戻っただけなのに。
毎日会社に通い、母の様子を見て、一人の家に帰る。そうやって、毎日を過ごしていたはずなのに。
上村の不在が、この胸にぽっかりと大きな穴を開けた。そしてその穴は、当分埋まりそうになかった。
「あ……」
 数メートル先に、紺色の傘を差して歩く背の高い後姿を見つけた。
広い肩、少しくせのある髪、傘を持つ大きな手。
一度は近付いたこの距離を、遠ざけたのは私自身だ。私が一番近くにいるのだと、なんの根拠もないのに自惚れていた。
一度開いてしまった距離は、たぶんもう縮まらない。
上村に追いついてしまわないように、私は歩くスピードを少し落した。

「三谷さん、今週の仕事の打ち合わせしたいんだけど、今時間いい?」
 オフィスに着き、パソコンを立ち上げた早々、岩井田さんに声をかけられた。
「はい、大丈夫です」
「ここだと落ち着かないから、ちょっと出ようか」
「……わかりました」
 岩井田さんが場所を変えて話をするなんて、珍しいことだ。彼と組んで3ヶ月近く経つけれど、そんなこと今までに一度もない。
また独立の話だろうか。話も進んでいるだろうし、岩井田さんも焦っているのかもしれない。
デスクの引き出しから手帳を取り出して、先にオアシス部を出た岩井田さんの後を追った。

 岩井田さんは自販機がある休憩コーナーのベンチに腰掛けて、私を待っていた。
「じゃあ、はじめようか」
「はい、お願いします」
 岩井田さんの予定を一つずつ手帳に書き込み、私が担当する書類を確認していく。今週は大きな商談もなく、比較的余裕がありそうだった。
「じゃあ今週もよろしくお願いします。三谷さん、ちょっとコーヒーでも飲もうか」
 岩井田さんは自販機で二つアイスコーヒーを買い、近くのベンチに腰掛けた。
「三谷さんもどうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
 岩井田さんは、私の分の缶のプルタブも開けて手渡してくれた。
彼の気遣い方は、さりげないのに隙がない。そりゃあ女の子に人気があるわけだ、と思ってしまう。
「それで三谷さん、例の話なんだけど……」
 岩井田さんはアイスコーヒーを一口飲むと、やはり独立の話を切り出した。