急いで残りの仕事を片づけ、定時5分過ぎにはPCの電源を落した。
 今日は何を作ろうか。頭の中でこっそり今夜のメニューを組み立てて行く。私はいつの間に、上村と過ごす時間をこんなにも待ち望むようになっていたのだろう。
 会社からまず母の病院に行き、その帰りにスーパーに寄って夕食の材料を揃えることにした。八月の夜のはじまりは遅い。最寄のバス停でバスを降り、ようやく暗くなり始めた通りを歩いて目的の店を目指した。
 スーパーの自動ドアを抜けると、外との温度差に驚く。蒸し暑い中、早足で来たせいで体中に浮いていた汗が一気に冷えて、一瞬身震いがした。
 カートに買い物カゴを載せ、入り口側から順に歩いていく。サラダ用の野菜を選びながら陳列棚の間を歩いていると、ついそれを見つけてしまった。
フルーツコーナーの真ん中に、山のように積まれたグレープフルーツ。閉店まであまり時間がないというのに、たくさんの丸い果実で作られた綺麗なピラミッドはまだどこも崩れてはいない。
私は慎重に、その一番上に鎮座するグレープフルーツを一つ手に取った。
上村が部屋に来るたびに口にしていたから気づいていなかったけれど、よく考えてみたら、こうして自分で買うのは初めてだ。一つでも十分持ち重りのするそれを手のひらに乗せていると、今年の春に上村と再開してからの数ヶ月のことが次々と浮かんでくる。
「もう一つ、買っておこうかな」
 空いた方の手で、あと一つグレープフルーツを掴もうと手を伸ばすと、それまで完璧に保たれてきた果実の均衡が、脆くも崩れ去ってしまった。
「うそっ、どうしよう!」
 次々に、まるで雪崩でも起きたかのように一斉にグレープフルーツたちが床目掛けて転がり落ちていく。私は、手に持ったままだったグレープフルーツをカートに載せたカゴの中に押し込むと、慌てて床にしゃがみこみ、グレープフルーツを拾い集めた。
 一つ、また一つと拾い上げたものをカゴの中に入れていく。しかし、買い物カゴの容量なんて高が知れていて、あっという間に一杯になってしまった。みんな案外冷たくて、他の客たちは遠巻きに私を眺めているだけで、誰も手伝おうとしない。
「とりあえず、店員さん呼ばなきゃ」
 一人でやっていても埒が明かない。近くにいる誰かに店員を呼びに行ってもらおうと顔を上げた時だった。
「先輩? こんなところで何やってんの」
 突然、私の目の前にスーツ姿の男性が現れた。足からたどって見上げると、必死に笑いを堪えている上村が立っていた。
「見ればわかるでしょ。突っ立ってないで手伝って!!」
「はいはい、ホントに先輩は世話が焼けるね」
「悪かったわね」
 上村の軽口に、一人で焦っていた私も苦笑が漏れる。
 また上村に、助けられてしまった。
 いつまでも嫌味ったらしい笑みを浮かべる上村と一緒に、四方八方に散らばるグレープフルーツをなんとか一ヶ所にまとめた。遅れて、ようやくこの騒ぎに気づいた店長らしき男性がこちらに走ってくる。
「あー、これはまた派手にやっちゃいましたねえ。大丈夫です、お客様。あとはこちらでやっておきますので」
「そんなわけにはいきません。私、弁償します!」
「大丈夫ですよ。そんなに傷はついてないようですし」
「買います!」「いや、大丈夫!」と押し問答する私たちの隣で、ついに堪え切れなくなった上村が盛大に吹き出していた。