「ねえ三谷さん、今夜ヒマ?」
 口元をファイルで覆い隠した岩井田さんが、オフィスの隅でコピー機を陣取る私に声を掛けてきた。
「え? 何ですか、いきなり……っていうか岩井田さん、何ですかそのファイル?」
「これ? 三谷さん口説いてるの、他の人にばれないようにね」
 岩井田さんの瞳が、眼鏡越しに細まるのが見えた。ああ、いつもの岩井田さんのジョークだ。
「そんなこと言って、また変な噂を立てられても知りませんよ」
「何、変な噂って?」
「聞きましたよ、この間飲料部の女の子に飲みに誘われてたって。その前は確か受付の女の子」
「えっ? なんでそんなこと三谷さんが知ってるの」
「女子社員のネットワークは凄いんですよ。聞きたくなくても、色んなところから耳に入ってくるんです」
「うわぁ怖いな、以後気をつけるよ」
 そう言って首を竦める岩井田さんに、また笑いがこぼれてしまう。
 岩井田さんは今ではすっかりオアシス部のムードメーカーだ。経験豊富で仕事もかなりできるのに、必要以上に肩肘張ったりしていない。会話にユーモアもあって、彼といると自然とみんな笑顔になれる。
後輩にも慕われているし、最近はオアシス部だけじゃなく他の部の女の子たちにも人気があるらしい。色んな場所で、彼の話題を耳にすることも多くなった。
 私自身、彼と一緒に組むようになって、だいぶ会社で笑顔が出るようになったと思う。組んだばかりの頃は、しょっちゅう『三谷さん、また肩に力入ってる!』だとか『そんな厳しい顔してたら、いい仕事出来ないよ』なんて言われたものだ。
そんな彼の口癖は『自分も楽しまなくちゃ、いい仕事は出来ない』だ。
「それで岩井田さん、私に何か御用ですか?」
 コピーし終えた紙の束を作業台の上で揃えながら、私は岩井田さんに尋ねた。
「なんだかつれないセリフだなあ」
「だって、岩井田さんの『口説く』は私の場合、仕事限定でしょう?」
「そんなこともないんだけどな……」
 岩井田さんはファイルを片手に頭を掻いている。そんな姿に、ついまた私は吹き出してしまう。
「今日はホントに仕事じゃないよ。たまには三谷さんと飲みに行きたいなーと思っただけ」
「えっ、そうなんですか?」
 少し、迷う。岩井田さんと飲み、と言ったらまた例の話になるだろう。
独立の話は、母のことを理由に何度かやんわりと断っているけれど、岩井田さんはなかなかにしつこかった。こうやって相手を不快にさせずに食い下がるところは、さすが営業だなと思う。
「どう? 三谷さんの好きそうな店、見つけたんだけどな」
「すみません、今日はやっぱり」
「用事あるんだ?」
「そんなところです」
「ああ残念。それじゃあ、お楽しみは次回に取って置くよ」
「はい、ごめんなさい」
 岩井田さんは、引き際も潔い。
「三谷さん」
 軽く頭を下げる私に、岩井田さんが呼びかける。
「俺、断ったから」
「……何をですか?」
「飲みには行ってないから。飲料部の子とも、受付の子とも。……じゃあね」
「はい……」
 なぜ私に、わざわざそんなことを?
女の子の飲みの誘いに応じたからといって、岩井田さんがそんなに軽い人間ではないということもわかっているつもりだし、今さら岩井田さんへの信頼も揺るがない。
 首を傾げる私に、微かな笑みを残して岩井田さんは去って行った。