上村に、嘘をついてしまった。岩井田さんからの引き抜きの件は、いくら上村でも話すわけにはいかない。
「嘘つくなよ。俺がここに来たとき9時過ぎてたよ。面会時間なら、とっくに終わってるだろ」
「えっ、と……」
あっさり嘘がばれてしまい、焦っていると。
「ココにいなきゃダメでしょ、先輩は」
「……え?」
 突然、背後から上村の腕が伸びてきた。顎を持ち上げ、上村は親指で下唇をさっと撫でる。すぐに私を解放すると、上村は親指の先をぺろりと舐めた。
「……すっぱ。先輩、つまみ食いしたでしょ」
「ちょ、ちょっと上村!」
 急に触れられて、心臓が音を立てた。赤面した私が睨みつけても、上村は何食わぬ顔でリビングに戻っていく。
 ……からかってるつもり? 冗談じゃない。
 動揺しているのを誤魔化したくて、必死で話題を探した。そういえば、昨日の電話のことを確認していなかった。上村は私が残したメモに気付いてくれただろうか。
「ねえ上村、昨日のメモ見てくれた?」
「なんのことですか?」
「私が受けた電話のメモがデスクに置いてあったでしょう。確か……土井さんって女性からだった」
「……ああ」
「ちゃんとコールバックしてくれた?」
「忘れてた」
 上村の返事はやけに素っ気無かった。今までこの部屋にかすかに漂っていた淡く甘い空気が、上村の一言で一気に消え去った気がした。
「仕事関係じゃないの? あ、ひょっとして私が連絡先を聞きそびれたから……」
「違う、あんたには関係ない」
 返って来た声の冷たさに、体がびくりと跳ねた。いつもの飄々とした感じも消え、感情を感じられない、無機質な声だった。
「……関係ないって、そんな言い方ないんじゃないの?」
「そうですね……すみません」
 すぐに冷静さを取り戻したのか、上村は素直に謝ってきた。気まずいのか、そのままソファーに座り込み、顔を上げようとしない。
「仕事のトラブルとかじゃないの? 私じゃ役に立てない?」
「大丈夫ですから、本当に」
 返事は頑なだった。気にはなるけれど、これ以上、私は触れない方がいいのだろう。黙り込んだままの上村に、今度は私が折れた。
「もういいわ、私もしつこかった。一緒にグレープフルーツ食べよう。私は上村とケンカしたいわけじゃないよ」
「それは、俺もそうだけど……」
 上村が、ふっと安堵のため息を漏らした。一体なにが癇に障ったのだろう。私にはわからない。
気持ちが落ち着いたのか、上村が抑制の効かなくなった自分を恥じているようにも見えた。