翌日の土曜日は、午前中に母を見舞い、午後は家でゆっくりと過ごすことにした。
何をしていても、気がつけば頭の中で岩井田さんの言葉が回っていて、結局手を止めて考え込んでしまう。
それで私は、週末に残していた家事も持ち帰った仕事もいったん止めて、一人でよく考えてみることにした。
 実際、岩井田さんの話にはとても惹かれるものがあった。今まで裏方ばかりしてきた私が、あんなふうに率直に、しかも名指しで求められることなんて、今までほとんどなかったから。
 岩井田さんに応える自分も想像してみた。しかし最後にはどうしても、母の顔が頭を過ぎってしまう。
 新しい仕事を始めれば、慣れるまではきっとそちらにかかりきりになってしまうだろう。しかも岩井田さんは、私にこれまでのようなアシスタント業務だけを求めているわけではない。小さな会社だから、一人ひとりに与えられる仕事量だって、今の比ではないだろう。
だからといって、母のことを放っておくわけにはいかない。母との残りわずかな大事な時間を、これ以上削りたくはない。
 結局、私はここで諦めてしまうのだ。どう考えても、今優先すべきは母のことだ。でもこんなチャンス、もう二度とないんだろう……。
 淹れていた珈琲を飲むのも忘れ、一人堂々巡りを繰り返していると、コツコツと玄関のドアを叩く音がした。
「はい?」
「俺」
 ドアフォン越しに上村の声がする。ドアの鍵を外すと、スーツ姿の上村が入ってきた。
「あれ、今日仕事だったの?」
「そう」
 そう言って、いつものように無表情でスーパーの袋を渡す。
「ありがと。上村ほんとに好きね、グレープフルーツ。家でも食べてるの?」
「食べないよ。剥くの面倒くさいし」
 ネクタイを緩めながら、上村は勝手にリビングのソファーに腰を下ろす。その姿も、すっかりこの部屋に馴染んでしまった。
「面倒くさいから、私のところで食べてくのね」
 私はキッチンに向かい、包丁とまな板を取り出した。上村がこの部屋に来るようになった頃は、もらったグレープフルーツを半分に切ってスプーンで掬って食べていたけど、今では一房ずつ綺麗に切り分けられるようになった。
瑞々しい果肉の欠片を一つだけつまみ、上村に気付かれないようにこっそり口に含む。口の中一杯に、今はもう食べ慣れた酸味が広がった。
「先輩、昨日いなかった」
 いきなり後ろから声がして驚いた。慌てて口の中の果肉を飲み込む。
「昨日来たの? ……ごめん、病院から帰るの遅くなって」