あんなことがあった後も、上村は相変らずだった。
これまで通り、時々ふらりとやって来てはご飯を食べて帰っていく。手土産にグレープフルーツを持ってくるのも変わらない。
 あの日私は、上村への想いを自覚した。
何を考えているのかわからない、でも人の痛みに敏感で、優しい。
上村がそうなのは、たぶんひどく傷ついたことがあるからだ。私には決して話してはくれないけれど。
そして私は、そんな上村のことをどうしても放っておけずにいる。
                                   
「三谷さんごめん、朝頼んだ資料できてる?」
「旭書店の分ですね。はい、できてます」
「よかった! じゃあ、行って来ます」
「がんばってくださいね、岩井田さん」
 慌しく外出する岩井田さんを、笑顔で見送った。
仕事は忙しさを増していた。オアシスタウンの開業が、正式に再来年の春に決まり、部内はますます活気づいている。
 岩井田さんがオフィスを出たのを確認して自席に戻ると、デスクの外線が鳴り響いた。私は一度呼吸を整えて、目の前の受話器を取った。
「はい、オアシスタウン事業部三谷でございます」
「あの……私、土井(どい)祥子(しょうこ)と申します。上村達哉に取り次いでいただきたいんですけど……」
 若い女性の声だった。会社名を名乗らないことを不思議に思った。
「申し訳ございません。ただいま上村は外出しております。戻り次第、折り返させましょうか?」
「そうですか……。それならば結構です。お忙しいところ、失礼しました」
「いえ」
 連絡先を聞く前に、電話は切られてしまった。仕方がないので、名前だけを書いた付箋を上村のデスクに張り付けておく。
「三谷さん」
 顔を上げると、入り口のドアから、さっき出て行ったはずの岩井田さんが顔を覗かせていた。
「あれ岩井田さん、忘れ物ですか?」
「そうじゃなくて……。いや、忘れ物って言ったらそうかな」
 ここまで走って戻ってきたのだろうか。少しだけ息が上がっている。
ふーっと息を吐くと、岩井田さんは黒いセルフレームの眼鏡のブリッジを持ち上げた。……ああこれは、ちょっとやっかいな頼み事をする時の岩井田さんの癖だ。
「仕事ですか?」
 私の問いに岩井田さんは周囲をさっとうかがうと、体をかがめて私の耳元に顔を寄せた。
「その……三谷さん、この後時間ありませんか」
「それは……就業時間内ですか?それとも……」
「就業時間外、です」
 私はデスクの上のカレンダーにさっと目を走らせた。今日は金曜日。ひょっとしたら上村が部屋に来るかもしれない。でも、私たちに確かな約束があるわけではない。
「わかりました。少し遅い時間なら……20時以降なら大丈夫です」
「良かった。また後で連絡入れますね」
 一体何なんだろう? 仕事の相談事だろうか。今のところ岩井田さんが抱えている仕事はスムーズに進んでいるはずだし、これといって思い当たることもない。
 「行って来ます」と手を振る岩井田さんをもう一度見送って、私は視線をパソコンの画面に戻した。